第1話 演目「婚約破棄」
『こんなにも、「舞台が整う」という表現に相応しい状況が他にあるでしょうか──』
ここは、王国の最盛期に大戦の勝利を祝って建てられた「春の離宮」。
一年の国家予算の数倍に匹敵する費用が掛けられたこの離宮は、当時の王国の強大さやその栄光を象徴する伝統的な建造物だ。
特に「華の広間」は、壁面の随所に金銀の装飾が施されており、高い天井には世界に数点しか存在しないと言われる豪華なシャンデリアが吊り下げられている。また、数年に一度は必ず張り替えられるという床は、ピカピカに磨かれた高級な木材で敷き詰められており、まるで大理石のように輝いていた。
そんな「華の広間」では、かつては国王の戴冠式すら行われたそうだ。戴冠式には他国から多くの外交使節団が参列したが、彼らは広間の豪華絢爛さ・荘厳さに圧倒されたという。
ここは離宮の広間でありながら、華のある儀式を行うには最適な場所だった。
◇ ◇ ◇
そんな由緒のある広間では、今、多数の貴族の子女達が祝宴を楽しんでいた。
それぞれが片手にグラスを持ち、テーブルに置かれた料理を楽しみ、何人かが集まって趣味の話や噂話に興じている。
今日は、王立貴族学園の卒業祝賀パーティだ。
十八歳を迎えた貴族の学生達が、学園の最終過程を無事に終え、国王から貴族籍を賜って、正式な貴族として巣立っていくのを祝う恒例の行事である。
卒業した男子学生は、王国中央政府の官僚になる者もいれば、自領に戻って、すぐに現当主の後を継ぐ者もいる。一方、女子学生は、幼少期に決められた婚約者の下に嫁いでいく者が多い。
公爵令嬢である私は、慣例に漏れず婚約者の下に嫁ぐ予定なのだが、懇意にしている伯爵令嬢から聞いた話によると、私の愛しの婚約者殿は、どうやらこの「整った舞台」で一波乱起こすつもりのようだった。
「グレスラー公爵家ユリア!」
私は名前を呼ばれて、広間中央に真っ直ぐに敷かれた赤絨毯の先を見た。
「そなたが名前を呼ばれた理由、私が言わずとも分かるな?」
ステージから私を睨みながら大声で叫ぶのは、私と同じ貴族学園の卒業生であり、この国の第一王子であるハインリヒだ。
私は振り返るようにして、身体をハインリヒの方へ向ける。
同時に、ただごとではない雰囲気を感じ取った令嬢達は私から離れ、私の周りだけがぽっかりと穴が空いたように人気がなくなった。
ハインリヒの隣には、ジールマン男爵令嬢ローゼマリーが寄り添うように立ち、二人の背後には上級貴族の令息達が四名ほど控えている。ハインリヒを含めてどの男性も容姿が良く、こちらから見ていると、ローゼマリーを囲んで守る親衛隊のようだ。
私は手に持っていたグラスを近くの給仕係に預けると、ハインリヒ達の正面に進み、赤絨毯の中央に立った。そして、お腹の前で両手を合わせ、軽くお辞儀をする。
「ハインリヒ殿下。申し訳ございません。私には、殿下が私の名前を大声でお呼びになった理由が全く分かりません」
私は顔を上げると、鋭い視線をハインリヒに向けた。殆どの貴族の令息・令嬢を背にしているため、彼らには私の反抗的な表情は分からない。
壇上に立つハインリヒは、片手で隣の伯爵令嬢ローゼマリーの肩を持って自らに引き寄せると、もう一方の手の人差し指を私に刺すように向けた。
「学園生活での其方のローゼマリーに対する嫌がらせの数々、私は許すことができぬ! 公爵家の人間として、恥を知れ!」
ハインリヒの言葉を受けて、彼の後方に控えていた上級貴族の令息達が前に進み出た。そして、書類を片手に、私がローゼマリーに行ったという嫌がらせの数々を読み上げていく。
それらは私にも身に覚えのあるものだったが、証言者の主観が非常に強かった。捏造されてはいなかったものの、ほとんどが大きく誇張されたものばかりだ。
とはいえ、「ローゼマリーを廊下で見かけても無視した」などは難癖だ。嫌がらせでもなんでもない。私は廊下ですれ違う全ての人間に挨拶をしなくてはならないのか? 私は思わず口を緩ませる。
「これらの証言から判断するに、其方は、国王を支える王妃となるには相応しくない! よって、ただ今を以て、私はそなたとの婚約を破棄する!」
ハインリヒの言葉に、会場がシンと静まり返る。そして、卒業祝賀パーティに集まった全ての貴族の子女達が、前方の私に視線を向けて息を呑んだ。
彼らはきっと、私がすすり泣き、「言われなき冤罪です!」と絶叫し、ハインリヒに婚約破棄を撤回するように懇願するのを期待しているに違いない。好奇心に満ちた数々の視線が、私の背中に向けられた。
私はお腹の前で上品に組んでいた手を解く。そして、視線を下げ、目を軽く閉じた。
「…………」
ただ沈黙だけが支配するその広間で、どれぐらいの時間が過ぎただろうか。
「はぁ~……」
私が大きく溜息を吐くと、後方の貴族の子女達からどよめく声が聞こえた。私はそれを気にもせず、顔を上げてハインリヒを睨んだ。
「ハインリヒ。あなたは、どれほどバカなのですか?」
低い声で発した私の言葉に、会場の空気が凍った。前方のハインリヒ達も、目を大きく見開く。
「きっ……貴様! 私の幼馴染とはいえ、王族に向かって無礼であろう! 私はこの国の第一王子であり、次期国王なのだぞ!」
私は二度目の大きな溜息を吐いた。そして、つかつかと赤絨毯を歩いていくと、ハインリヒとローゼマリーの目の前に立って、片手を腰に当てた。
「婚約破棄? このように多くの貴族の前で言うからには、それは国王陛下の承諾があって、お話されていると考えてよろしいのですね?」
「いっ……いや、父上にはこれから報告するところだ。しかし、父上の承諾がなんだというのだ? 私は真実の愛に目覚めたのだ! 私は王家が決めた婚約者ではなく、ローゼマリーと結婚したい!」
隣に立つローゼマリーがハインリヒに視線を向け、頬を赤く染めながら笑みを浮かべる。その小芝居に、私は思わずげんなりとした表情を浮かべた。
「くだらない……。そんな子供のような考えで、この場で婚約破棄を宣言したのですか?」
「そうだ!」
私は視線を、ハインリヒの後方に控える上級貴族の令息達に向ける。
「皆さんは将来のハインリヒの側近でしょう? 彼に助言してあげなかったのですか?」
令息達は互いに顔を見合わせる。私の質問の意図を掴みかねているようだ。
私はローゼマリーに視線を向けた。
「一応、ローゼマリーさんにもお聞きしますが、貴女のご両親はこの事実を知っておいでですか?」
「いいえ! これから話します! でも、お優しいお父様とお母様なら、きっと私を応援してくれます!」
私は額に手を当てて、呆れたように首を左右に振った。
私が背後の貴族の子女達に少しだけ目を向けると、多くの貴族令嬢達がローゼマリーに敵意ある視線を向けていた。一方で、貴族の令息達は、王子であるハインリヒに対して幻滅したような表情を見せる。
王子と下級貴族令嬢の身分差の結婚──。
それは下級貴族からすれば美談かもしれないが、実際に臣下として国王や王妃の側に仕える高位貴族達からすれば、あまりにも滑稽だ。ハインリヒとローゼマリーは、公開の場で、自身の無知や馬鹿さ加減を披露しているのだ。
会場にいる貴族達が一斉に、私に対処を懇願するような視線を向けた。
私は三度目の大きな溜息を吐くと、視線を再びハインリヒに向けた。
「ハインリヒ。今からでも遅くありません。私への『婚約破棄』を破棄しなさい」
「ユリア、なんだその言い方は? そなたは、そういう可愛げのないところがダメなんだ。私に対して、相応の態度で懇願するのが筋で……」
私はハインリヒが話している途中で口を挟む。
「あなたはまだ、私がどうしてあなたと婚約しているのか分からないのですか?」
私がハインリヒに問い掛けるも、彼は口を噤む。
私は隣のローゼマリーに視線を向けた。しかし、下級貴族の彼女には、皆目見当がつかないようだ。私は、後ろに控える令息達にも順番に視線を向けていく。
「私の問いに答えられる人なら誰でも構いません。この場で答えてください」
私がそう言うも、口を開く者は誰もいない。
私はハインリヒに視線を戻した。
「あなたに答えを教えて差し上げましょう。グレスラー公爵家は、この王国の全ての軍事部門を統括する貴族であり、王国領土の三分の一を実質的に支配している準王族です。あなたと私の婚約は、王太后様の意向に従って、王家がグレスラー公爵家を取り込もうとして実現したものなのです」
私がそう言うと、ハインリヒは顔を引き攣らせて絶句した。
さすがのハインリヒでも、私との婚約を破棄することの無謀さを理解できたのかもしれない。後方の上級貴族の令息達も、顔を青くして視線を下げた。
広間に沈黙が流れる。
「あの~、すみません。私には分からないのですが、どうしてそれがハインリヒ様が婚約を破棄できない理由になるのでしょうか?」
ローゼマリーが手を挙げながら発したその一言で、パーティ会場が再び凍り付いた。ハインリヒですら、ギョッとした表情でローゼマリーを見る。
ローゼマリーは胸の前で祈るように手を組んで、話を続けた。
「それって簡単に言うと、『愛のない婚姻』ということですよね? そんな本人達の意思を無視した婚姻では、夫婦が仲良くできるとは思えません。国王と王妃が仲良くなければ、国民も不幸だと思います。国のトップは、幸せな家庭を作るべきです」
倫理的には、ローゼマリーの言うことは正しい。しかし、それは「下級貴族や平民の結婚」の場合であって、王族や高位貴族はそうはいかないのだ。
ハインリヒはしどろもどろになりながらローゼマリーに状況を説明するが、彼女は納得しない。ローゼマリーとの婚約を優先するのか、それとも、私との婚約を復活させるのか、はっきりしない彼の態度に、彼女は徐々に苛立ちを見せ始めた。
しばらくして、彼は顔を青くしながら、最終的に私に視線を向けた。
私はその視線を受けて、四度目となる大きな溜息を吐く。
「……ハインリヒ。あなた、王子なのでしょう? あなたの先祖……いえ、王国の歴史を思い出して、解決方法をよく考えなさい」
「よく考えろと言われても……」
私はしばらく間を置いて、背後の貴族達を気にするようにしてから口を開いた。
「……こんな場所で言いたくないのだけれど、一体誰が、『国王は王妃を一人しか持ってはならない』と決めたのですか?」
ハインリヒは私の言葉を聞いて、ハッとした表情を浮かべた。
「私、もしくは、ローゼマリーさんを『第二王太子妃』にすれば良いでしょう? どうして婚約破棄を前提にするのですか? あなたは王子なのですから、側室だって持ち放題なのですよ?」
「あぁ、なるほど……」
すると、ローゼマリーが突っかかるように私達の会話に口を挟んできた。
「ちょっと! まだ結婚もしていないのに、もう第二王太子妃とか側室の話だなんて、はしたないです! ハインリヒ様も軽々しく納得しないでください! 私だけを愛してくれるのではなかったのですか? 私、ハインリヒ様に他の女の人がいるなんて嫌です!」
歴史ある離宮の大広間が、もはや大衆劇場と化している。
貴族令嬢達は、最初こそローゼマリーに敵意をあらわにしていたが、今はどちらかというと興味津々で私達のやり取りを見ていた。下級貴族の令嬢などは、小声でローゼマリーを応援し始める始末だ。
だが、私は見世物になるのはごめんだ。
「ハインリヒ。あとは、あなたが何とかしなさい。結論が出たら、後日書面で私に送ってください。……この国には第二王子や第三王子もいるのですから、あなたの判断次第では、次期国王にはなれませんよ?」
私が別の王子との婚約をほのめかすと、ハインリヒは慌てて、再度ローゼマリーの説得に入った。しかし、ローゼマリーは半分泣きながら、ハインリヒに向かって「イヤです!」と喚き続ける。
私は踵を返して二人を背にすると、赤絨毯をつかつかと歩いて、広間の出口に向かった。