44.100日目(終)
「コンラッド様、お父様をよろしくね」
「はい」
レイクルイーズに泊まっていた父王が王都に戻る日が来た。
メルはユリウスの怪我が治るまではレイクルイーズに留まることにしたため、あとひと月は残るだろう。メルが王都に戻るときは、辺境伯もユリウスの披露を兼ねて一緒に戻るので、護衛は辺境伯に任せることになった。
そのため、もともと父王の近衛であるコンラッドは父王の護衛として帰ることになったのだった。
「メルティナ殿下……どうぞお幸せにお過ごしください」
「ありがとう」
メルは父王の馬車とコンラッドの姿が見えなくなるまで見送った。
それからのメルはユリウスと二人、べったりと過ごした……とはならなかった。
「正式に婚姻するまでは、同じ屋根の下で暮らすことはならん」
という父王の言いつけにより、ユリウスは辺境伯邸へと移されたのである。
メルは「安静にしてないとダメだから」とレイクルイーズに留まれるように父王に掛け合ったのだが、認められなかった。雪が積もり馬車を動かしづらくなる前のほうがいいと言われ、父王が発った3日後には移動することになってしまった。
ユリウスの傷に負担がないようにと屈強な辺境伯の騎士たちがユリウスを抱えあげる。そのまま馬車に乗せられる姿はさながら魔王の部下にさらわれる姫のようだ。あとでユリウスにその感想を伝えると「私だって鍛えているのに」と落ち込んでしまった。触れてはならない話題だったようだ。
それからメルは毎日ユリウスの元へ通った。ユリウスと一緒にレイクルイーズで過ごせなくなり寂しくもあるが、メルは意外とこの状況を楽しんでいた。
「あの頃と逆ね。今回はわたしがユリウス様のもとへ通うの。毎日わくわくしてるの」
「ふふっ、メル様らしい。私もあの頃はメル様のもとを訪ねるのが楽しみで仕方なかった。午前の訓練を終えると、慌てて身だしなみを整えていたのですよ」
メルの元を訪れるユリウス様の姿はいつも美しかったから、彼がそんなことをしているなんて思いもしなかった。訓練後は汗をかくから体を拭いたり、汚れた服を着替えたりと、約束の時間までにレイクルイーズに到着できるように慌ただしかったのだろう。当時のユリウスの見えない努力を想像して、メルは胸が温かくなる。
「そうなの? ユリウス様はなんでもスマートにこなしているように見えたから気が付かなかったわ。はやく会いたくてソワソワしてたのは私だけかと思ってた」
「昔も今も私はメル様に会えるのが楽しみでたまらないのですよ。今日も窓に張り付いてメル様が来るのを待ちわびていました」
臆面もなくメルに好意を伝えるユリウスに照れてしまい、メルは視線を泳がせながら別の話題を探した。
「そういえばカイから手紙が届いたの」
「カイ……皇帝陛下からですか?」
「ええ。上皇から話を聞いたみたい。わたしたちのことを祝福してくれる内容だったわ。ユリウス様にもよろしくと……いずれゆっくり話したいと書いてあったわ」
「そうですか」
ユリウスの眉間に力が入る。
ユリウスは兄であるカイにあまり良い感情を持っていないように見えた。同じ父親を持つのに、一方は皇太子として大切に育てられ、一方は影の仕事をさせられる。その違いにユリウスの胸は何度痛めつけられたのだろう。それを思うとメルの胸もまた痛んだ。
そんなメルに気づいたユリウスがふと表情を緩める。
「すみません。つい兄のことを思うと穏やかではいられなくなってしまうのです」
「うん」
メルはただ静かにうなずいた。ユリウスが胸にたまった思いを吐き出しやすいように。
「私と兄との待遇の違いを憂いたこともありましたが、それは彼のせいではないことはわかっていました。それに私にはメル様と一緒になる未来がある。それを支えにして生きてきました」
ユリウスがメルの手を取る。その温もりを確かめるように握ると、親指でメルの手の甲を優しくなでた。
「私が兄を許せなくなったのは、メル様をゼーバッハ公爵邸に行かせたと知ってからです。あの男は権力のために平気で人を殺すやつだ。そんな男の邸にメル様を行かせるなんて許せなかった」
ゼーバッハ公爵邸の地下に閉じ込められ、殺されそうだったユリウスは、ゼーバッハ公爵の危険性を誰よりも感じていた。だからこそ、いくら危険分子を排除するためとはいえ、メルを敵地に潜入させたカイを許せなかったのだ。
「その時期、私は他国へと派遣されていました。たまたま1週間だけ報告に戻ったら、あなたが留学していることを知ったのです。私はこっそりと帝国学院まで様子を伺いに行ったのですよ」
「そうだったの?」
「はい。でもメル様はいらっしゃらなかった。そこで調べたところ、ゼーバッハ公爵邸にいるとわかったときのあの恐怖は今でも忘れられません」
ユリウスは耐え切れないといった様子でメルを抱き寄せた。自分が殺されかけた男の邸にメルがいると知ったときのユリウスの恐怖が伝わってくる。メルを抱きしめる腕が震えていた。
「慌てて公爵邸に行けば、メル様は公爵邸の美術品を盗んで逃げたことになっていた。必死に行方を捜して見つけた時、あなたは髪を切られ剣を向けられていた。本当に息が止まるかと思った」
「あのとき、ユリウス様がナイフを投げて助けてくれたのよね。守ってくれてありがとう」
「いいえ……本当はそばに行って抱きしめたかった。そのまま安全な場所へ連れ去りたかった。でも自分の立場ではそれが許されず、兄が駆けつけているのもわかっていた」
ユリウスはさらにきつくメルを抱き込む。あの時出来なかった思いをここで晴らすようにきつくきつく抱きしめた。
「私はメル様を危険にさらす兄が、それでもあなたを欲しがるのを許せなかった。兄はメル様を手に入れるだけの力を持っていたから、メル様を盗られそうで怖かった。私が兄を嫌いなのはただの嫉妬なんです」
ユリウスの拘束が緩んだ。メルは手を伸ばしユリウスの頬を包む。
「わたしが好きなのはユリウス様よ。幼いころからずっと。ユリウス様だけなの」
メルはユリウスの顔を引き寄せて、その唇に熱を分け合った。二人の温度が同じになるまで唇を合わせる。ユリウスが安心できるまで、ずっとそうしていた。
「はあ。ユリウス様に会いたいわ」
メルがレイクルイーズにやってきて、ひと月が過ぎた。
ユリウスの怪我は順調に回復し、一緒に散歩へと出られるようになった。だが5日前から雪が降り続き、とうとう積もってしまった。
馬車での移動は難しくなるため、外出は必要最低限にするようにと言われている。そのせいでユリウスの元へ会いに行けなくなってしまったのだ。
ユリウスと自分のスヌードを仕上げてしまい、編み物にも飽きたメルはふらりと自室を出た。そして一階の部屋に入る。
(懐かしいわ……ここでずっとユリウス様を待っていたのよね)
6年前のメルはこの部屋でユリウスを待っていた。この部屋の窓からユリウスの姿を見つけてエントランスホールまで駆けて行ったのだ。そして、ユリウスの訃報を聞いたのもこの部屋だった。
ある意味、自室よりも思い出深い部屋かもしれない。
メルは窓辺に近寄り、そっと顔を窓に寄せる。ひんやりとした空気が窓越しに伝わってきて、メルの頬を冷やした。
こうしているとあの頃に戻った気分になる。瞳を閉じると、少年のユリウスが門を越えてこちらにやってくる姿がありありと浮かんだ。上下黒の服に身を包んだユリウスは、メルが編んだブルーグリーンのスヌードをしているのだ。邸についてメルに会うと、嬉しそうにブルーグリーンの瞳を細める。それが愛していると伝える代わりのサインだった。
窓辺で体が冷やされていくのに、メルの胸は温かなままだ。ユリウスが生きていたから。メルはきっとあの頃以上の幸せに包まれるだろう。
そっと瞳を開けて、窓の外を見る。今日は晴れていて風もなく、積もった雪がキラキラと輝いていた。
そこに黒い影がひとつ。
門からこちらに向かってきている。メルは目を瞬いた。
クリーム色の柔らかな金髪が光を受けてきらめいた。全身黒をまとっているが、首元だけは鮮やかなブルーのスヌードをつけていた。
「……ユリウス様?」
メルの視線の先には、先ほど想像した少年のユリウスではなく、大人になったユリウスがいた。こちらに向かって真っすぐに歩いてきている。
メルがつぶやいた瞬間、遠くにいる彼と目が合った。それと同時にメルは慌てて駆け出した。
(怪我が治ったばかりなのに雪道を歩いてくるなんて!)
なにか緊急事態があったのだろうか。メルはユリウスの元まで走る。ブーツに履き替える手間が惜しく、室内履きのまま外に飛び出した。足に触れる雪の冷たさを感じる余裕もない。雪のせいで走りにくくてもメルは一生懸命に足を動かした。
それに驚いたのはユリウスだ。あの頃のようにエントランスホールで自分を待ってくれると思っていたのだろう。メルが飛び出してきたときはかなり焦った表情をしていた。雪をものともせず走り始め、すぐにメルの元まで駆けつけると、そのまま抱き上げた。
「メル様っ! 靴は?!」
抱き上げられてスカートからのぞくのは雪にまみれた室内履きの足。ユリウスは邸内へと急いだ。
「ごめんなさい。ユリウス様を見つけたら、何かあったのかと気になって……」
「いいえ。メル様を驚かせようと秘密で来た私が悪いのです」
メルを抱き上げて現れたユリウスにケイトは目を丸くしたが、メルの雪まみれの足に気付くとあきれた顔をした。ケイトにはお湯を用意してもらい、メルは暖炉の焚かれた自室へとユリウスを案内した。
ユリウスはメルをいったんソファに下ろすと、暖炉の前に椅子を用意した。今度はそこにメルを座らせると、ユリウスはひざまずきメルの室内履きを脱がせる。そしてハンカチを取り出すとメルの足をそっと拭った。
「私の手で温めることができればいいのですが」
ユリウスの手でメルの足を包むが、彼も雪道を歩いてきたばかり。そこまで温かいわけではない。それでもメルの足をさすって温めようとしてくれる。メルは気恥ずかしいやら申し訳ないやらで固まってしまい「大丈夫だから」と小声で制止することしかできない。それはケイトが湯を持ってきてくれるまで続いた。
「ユリウス様。今日はどうしたの?」
メルの足が温まり、今はユリウスとソファに並んで座りながらお茶をいただいていた。
「あの日の続きをしようと思って来たのです」
「あの日の続き?」
「ええ。6年前の続きです」
そういうとユリウスは再びメルの前にひざまずいた。
「6年前、100日間メル様の元へ通ったら婚姻できる約束でしたね。ですが99日目でその約束は止まってしまった。だから100日目をやり直そうと思って今日来たのです」
6年前にまだ少女だったメルが待ち望んだ100日目のプロポーズ。それは叶わず涙で終わった。
だけどずっとユリウスを思って生きてきた。メルの瞳がじわりと潤む。
「だから今日は歩いてきたの? 100日目のやり直しだから」
「6年前もちょうど今と同じように雪が積もっていて、再現するにはちょうど良いかと」
「だから怪我が治ったばかりなのに、馬車も使わずに歩いてきたのね」
メルはソファから崩れ落ちるようにユリウスへと抱きついた。そのメルをユリウスはしっかりと抱きとめる。
「これからはずっとおそばにいます。あなたの幸せを何者からも守ります。どうかメル様と生涯を共にさせてください」
「うんっ……うん!」
メルは涙声になりながらも必死に答えた。
父王から婚姻を許されていたが、あらためてユリウスからプロポーズをされるとメルは胸がいっぱいになった。6年前に100日目を迎えられなかった少女のメルが、大人のメルの心の中で喜びに泣いている。6年間の孤独と胸の痛みが昇華されていくようだ。
「わたしもユリウス様の幸せを守るから。二人で幸せに過ごそうね」
涙目のままユリウスに微笑めば、メルの涙をユリウスがその唇でやさしく拭ってくれる。ユリウスの唇はそのままメルの頬をなで、約束を紡いだ唇へとたどりついた。
ユリウスとの口づけは何度しても胸が高鳴る。いつもは穏やかなユリウスがみせる情熱を感じてメルはさらに離れがたくなるのだ。
このままではメルの唇はまたぽってりと腫れてしまうかもしれない。ケイトに見つかり、生温い目で見られて恥ずかしい思いをするかもしれない。
それでもメルはユリウスから伝わる熱を逃したくなかった。
だって、お互いが望むときに触れ合えるのは、奇跡のようなものだから。
メルとユリウスの100日目は甘くて幸せなものになった。
完