22.勇気をちょうだい
髪を鷲づかみにされたメルは痛みに涙をにじませる。それでも、これ以上引っ張られないように自分で髪の根元をつかんで押さえた。
(ううっ……。ユリウス様も褒めてくれた自慢の髪なのに)
副隊長は何の遠慮もためらいもなく、握っているメルの毛先を自らの手に巻き付けるようにして引っ張った。
「おまえ、暴れるとこの髪を切り落とすぞ」
そう言って懐から短剣を取り出すと、メルの髪に刃を当てた。
「おまえは公爵閣下から寄こされた侍女だな?」
「……」
「答えろ!」
「……っ、そうよ」
力任せに髪を引っ張られ、メルは体勢を崩しながらも気力で踏ん張った。
「我々の話を聞いていたか?」
「知りません」
「なら、なぜ逃げた」
「……人気のない怪しい邸に連れてこられた挙句、警備隊がやってきたんです。何か事件が起こったんじゃないかと怖くなって逃げようとしただけです」
どうやらメルの口から自分たちの計画が漏れることを警戒しているらしい。メルはなんとか誤魔化そうとそれらしい理由を告げた。
「本当だろうな? 嘘をつけばこうだぞ」
副隊長をメルの髪に当てていた刃をわずかに動かし、髪を数本切り落としてみせた。メルは悔しさに唇を噛んだ。副隊長はそれを見てメルが怯えていると誤解したようだ。にやりと口角を上げた。
「我々の話を聞いたな?」
「本当に知りません。逆に聞きますけど、近衛隊長が待っていると言われて連れてこられたのに、その近衛隊長は一向に姿を現さず、怪しい邸には警備隊がやってきた。この状況で逃げない女性なんていると思います?」
「それは……」
メルのキレ気味の質問返しに、副隊長は口ごもる。それでも己の優位性を保とうとして「うるさい!」と一喝した。
「まあよい。怖いなら警備隊のところに連れて行ってやろう」
「けっこうです」
「なぜだ」
「何か事件があったから、この邸に来たのでしょう。わたしのことで警備隊のお仕事の邪魔をしたくありません」
「なに、そんなことは問題ない。女一人、保護してくれるさ」
副隊長に捕まるのもまずいが、警備隊に連れていかれるのもまずい。なにせメルのポケットには公爵が用意した毒入りの香水瓶と、皇太子を陥れるメッセージが入っているのだ。コレを処分する前に警備隊のところに行くわけにはいかなかった。
「どうした? なぜ動かない?」
「……髪を放してください。じゃないと歩きづらいです」
「ダメだ。おまえは怪しいからな。このまま警備隊の元へ行く」
どうあってもメルを警備隊に突き出したいらしい。メルと副隊長のにらみ合いが続いた。こうしている間に、警備隊がこちらに気付いて近づいてきても困る。
(どうしよう。どうやったら逃げ切れる?)
動こうとしないメルにしびれを切らした副隊長が声を張り上げる。
「無残な姿になりたくなければ言うことを聞け!」
短剣の存在を強調しながらメルを脅してくる。また髪が数本落ちていった。
(ユリウス様、助けて……!)
そう願ったとき、メルの脳裏にレイクルイーズでの日々が一瞬のうちに駆け巡った。
(そうだ……わたしは……)
100日後のプロポーズを夢見ていた頃。
メルは何もしなかった。二人の将来のことなのに、ユリウスにすべてを任せっきりで、メルはただ待っているだけだった。彼に任せて、彼を待っていれば幸せになれると思っていた。
でもその結果、ユリウスに負担を強いただけで終わってしまった。メルがもっと積極的に働きかけていたら未来は変わったかもしれないのに。
彼は湖の底ではなく、メルの隣にいたかもしれないのに。
メルは後悔した。そして気が付いたのだ。
待っているだけでは幸せにはなれないと。
メルは覚悟を決めて髪の根元をギュッと握り込んだ。
腰まである栗色の豊かな髪はかつてユリウスが褒めてくれたものだ。あれ以来ずっと欠かさずにお手入れをしている。その髪がメルの手元から副隊長の手元までピンと引っ張られていた。
(ユリウス様。わたしに勇気をちょうだいっ!)
メルは自分の髪を掴んだまま、一気にしゃがみこんだ。
ザクッ――。
副隊長が当てていた短剣にメルの髪が食い込み、バッサリと切れていく。
「なにっ」
切り落とされた髪を見ながらメルの胸がズクリと痛んだ。
(泣くのはまだよ)
これで副隊長からの拘束が解けたのだ。副隊長が唖然としている間にメルは身をひるがえした。走って走って走りぬく。
「あ……あっ、こら! 待て!」
メルの髪を掴み脅してはいても、メル自身がみずから髪を切り落とすとは思ってもみなかったのだろう。切り落とされたメルの髪をしばらく呆然と見ていた副隊長は逃げいていくメルに反応するまでに十数秒を要した。
髪が短くなり身軽になったが、だからといって足が速まるわけでもなく。追いかけてきた副隊長の手がメルの肩をつかもうと伸ばされる。
「はあっ……はぁっ……」
(せっかく髪まで切って逃げたのに……ここで捕まるのはイヤっ! わたしはレイクルイーズで幸せな余生を過ごすんだからーっ)
メルの息があがる。もっと速く足を動かしたいのに、逆にもつれてしまった。
「あっ」
足がもつれて前のめりになったところに、副隊長が手を伸ばしメルの腕をつかんだ。おかげで転ばずにすんだが、まったく喜べない。
「放してっ……え?」
メルが腕を振り払おうと力を入れた瞬間、なにかがメルの視界をかすめた。
トス――。
「うぅっ!」
副隊長の腕が突然はなれ、メルは勢い余って尻もちをついた。そのメルの目の前では副隊長が腕を押さえてうずくまっている。
「え? なんで……」
メルをつかんでいた副隊長の腕にテーブルナイフのように細身の銀に光るナイフが突き刺さっていた。副隊長自身が持っていた短剣はメルの足元に落ちている。メルはとっさに手を伸ばして短剣をつかむと、じりじりと後ろに下がりながら、辺りを見回した。
メルが逃げ出してきた邸の方向から人影が現れた。その姿が段々大きくなって近づいてくる。
「メル様ーっ!」
いつかメルが似合ってないと指摘してしまった黒髪を揺らし、険しい形相でこちらに駆けてくる姿。それは――。
「か……カイ……!」