17.公爵邸~依頼~
その後もメルはゼーバッハ公爵邸で侍女として仕えていた。
メルの状況に変化があったのは、公爵の自室から持ち出した手紙をカイに渡してからさらに5日後のことだった。
「ティナさん。公爵閣下が執務室に来るようにとの仰せです」
お昼の休憩が終わり、今から午後の仕事を始めようとしていたときだった。侍女の休憩室にいるメルをわざわざ家令が呼びに来たのだ。
「わ、わたしですか? 侍女頭ではなく?」
「はい。ティナ・アーベルさんを呼ぶようにと」
「ちなみにどのようなご用件で?」
「私にはわかりかねます」
ここで問答していても仕方のないことはメルにもわかっていたので、大人しく家令のうしろについていく。
(もしかして手紙を盗み出したことがバレた? それ以外にわたしが公爵に呼ばれる理由なんて考えられないんだけど?!)
公爵の執務室に一歩近づくこどにメルの身体から冷や汗が吹き出してくる。
(やばいーっ! どうする?! ここは知らぬ存ぜぬで通すしかないよね?)
メルはごくりとつばを飲み込む。そうだ。知らないと言い張ろう。メルが盗み出したという証拠はないはずだ。状況的にメルが怪しいだけで、たしかな証拠はないのだから大丈夫なはずだ。
(いや、でも公爵は邪魔だと思った皇太子を殺そうとするような人だよ? 怪しいって思われただけでもダメなんじゃ……。吐くまで拷問とかされないよね?)
どんどん不安になっていくメルの心情とは裏腹に、公爵の執務室が近づいてくる。メルは無意識に汗ばんだ両手を握り合わせた。
(ユリウス様……!)
困ったとき、心細いとき、いつも浮かんでくるのはユリウスだ。彼のブルーグリーンの瞳を思い出して必死に落ち着こうとする。
(そういえば、カイの瞳も光が当たるとブルーグリーンに見えたな)
こんなときにどうでもいいことを思い出してしまう。現実逃避している場合ではないのに。
(あ……そうだ! カイが言ってたじゃない。何かあったら3軒先の館に駆けこむようにって!)
そこにカイの仲間がいるはずだ。公爵に問い詰められても知らないと言い張って、それでも危なくなったら逃げよう。とにかく逃げよう。
なんともざっくりとした方針が決まったところで公爵の執務室の前に着いた。
家令に続いてメルも室内へと入る。なかには公爵が一人で座っていた。
「きみがティナ・アーベルかね」
「はい」
緊張がピークに達したメルは、一周回って冷静になっていた。
つるりとした頭に柔和に細められた目元。たっぷりとした胴回りが机につっかえている。小太りな金金満家。それがゼーバッハ公爵の見た目だった。
「我が邸に来てからひと月経ったそうだね。仕事には慣れたかな?」
「はい。侍女頭をはじめ、先輩方がよくしてくれますので」
「そうか、それはよかった」
人の良さそうな笑みを浮かべる公爵に、メルもひきつりそうな笑顔を返す。
(うわー。このたぬき爺め! 人を騙しなれてる感じが怖いわ!)
何も知らなければ本当に良い人に見える。公爵の外面の良さにメルは悪態をついた。
「今日はきみにお願いがあってね」
「お願いですか?」
「ああ。ある人物がきみを見初めたらしくてね。ぜひ一度会って食事でもどうかと言われているのだよ」
「はあ」
予想と違う方向の話に、メルは気の抜けた返事をしてしまった。
(あれ? 手紙を盗んだことがバレたんじゃないの?)
ひとまず安心したメルの様子を見て、公爵はメルが自分に惚れた人物がいると信じられなくてキョトンとしているのと勘違いしたらしい。勝手に説明を始めてくれた。
「我が家の晩餐会でね。先週だったかな。そのときに手伝いをしているきみを見て一目惚れしたらしい」
メルが何と相槌を打っていいかわからずにいたが、公爵はかまわず話し続ける。
「それで私に『ぜひ彼女と会う機会をください』と熱心に頼み込んでくるのでね。私の顔を立てると思って、一度でいいから会ってやってほしいのだよ」
「え……その方と一対一でお会いするのですか?」
なんとも胡散臭い話だ。メルは会いたいとも思わないが、さっくり断って公爵の不興を買うのも避けたい。会わずに済むよう、言葉を選びつつ返答をした。
「ああ。心配はいらない。こちらからも立会人をつけるし、彼はとても紳士的な方だからね」
「あの、でも公爵閣下の晩餐会に出席されるような方でしたら、ご貴族様なのでは? ただお会いするだけにしても、わたしとは到底釣り合いが取れません」
「大丈夫だよ。彼はそれもわかっていて、きみに会いたいと申し出ているのだからね」
ここまで言われては、使用人という立場のメルからは断ることはできない。公爵ももともとメルが断ることを想定してないのだろう。すでに会う段取りを立てていそうだ。
「わかりました。わたしでよければ、お会いさせていただきます」
「おお、それは良かった」
「それでお相手というのはどなたなのでしょう?」
肝心な相手をまだ聞いていない。もし公爵の仲間の一人だったらどうしよう。公爵の計画を探るチャンスかもしれないが、その場合はメルがハニートラップをしかけることになる。
(ムリ。それは絶対にムリ! 普通に会話をしてるだけでボロを出してくれたらいいんだけど)
「ああ、うっかりしていたな。お相手は近衛隊長をなさっているアルトマン様だ」
「近衛隊長?!」
驚きすぎてうっかり大きな声を出してしまった。
(そんなバカな?! 何かの間違いでしょう?)
「本当に近衛隊長がお相手なのですか?」
「ワハハ。きみが驚くのも無理はないな。近衛隊長といえば、武勲に優れ、容姿もこの上なく良い。貴族令嬢のあいだでも憧れだからな」
驚きを隠せないメルに、公爵がからかいを含んだ声をかける。憧れの存在の名が出てきて、メルが急に浮足立ったように見えたのだろう。
(いや、そういう驚きじゃないし! なんで近衛隊長が公爵家の晩餐会に来てるの? 近衛隊長は皇太子殿下の味方のはずでしょ?! どういうことなの……?)
「まあ、そういうことだから急いで準備をしてくれ。彼を待たせては悪いからね」
「え? これから会うんですか?」
今日いきなり会うなんて、そんな急な話があるだろうか。貴族ならこういう約束は何日も前から持ち掛けるはずだ。もともと交友がある親しい相手でもない限り、当日いきなり誘うのは失礼にあたるため、近衛隊長ほどの人なら避けそうなものだが。
(わたしが侍女だから、公爵が伝えるのを後回しにしていただけ? それとも本当に急に誘いが来たの?)
「ああ。彼も忙しい人だからね。今日の午後、急に任務が空いたとのことで、誘いが来たのだ。彼はきみが侍女だとわかっているから、服装は普段着でも大丈夫だ。馬車を出してあげるから準備が出来次第、急いで向かってくれたまえ」
上機嫌な公爵の一方的な話により、メルは今から近衛隊長と会うことになってしまった。
メルは個室にもどりワンピースに着替えながらも、どうして、なぜ、と疑問が止まらない。わけがわからないまま、公爵家が用意した馬車に乗り、近衛隊長が待っている場所へと向かった。