13.公爵邸
ゼーバッハ公爵邸。
仕事中は一つにまとめている髪をおろし、丁寧に梳いていく。扉一つ分しかない小さなクローゼットから水色のワンピースを取り出した。シンプルな形だが、襟元についているレース飾りが今できる最大限のオシャレだ。
(今から出れば十分間に合うわよね)
与えられた個室から出ると、使用人用の門に向かった。
「あら、ティナさん。今日がお休みだったのね。またカフェへ?」
「はい。唯一の楽しみですから」
「楽しんできて」
「ありがとうございます」
途中で会った先輩侍女に挨拶をして、ティナは目的のカフェを目指して歩いた。
(「ティナ」という呼び方にやっと違和感がなくなってきたわ)
メルがティナ・アーベルという偽名で公爵邸に潜入してから早2週間が過ぎていた。
カイに協力すると申し出てから数日後、メルに提案されたのは公爵邸へ侍女として潜入するという話だった。
以前から公爵邸は侍女の募集をしていたのだが、募集条件が特殊で今まで人が集まらなかったらしい。
「特殊な条件?」
「ええ。公爵家に仕える侍女の条件は、独身であること。恋人を作らないこと。恋をしないこと。この3つです」
「なにそれ? なぜそんな変わった条件なの?」
女性が一人で生きていくにはまだまだ厳しい世の中だ。結婚する気も恋人を作る気もない女性というのはほとんどいないのではないだろうか。
「表向きは、むかし仕えていた侍女が恋人にせがまれて公爵家の金品を横領したから、という理由のようです。侍女本人というより、侍女に取り入ろうとする男を警戒しているようですね。本音は侍女が皇太子派の男にたぶらかされて公爵家の情報を漏らすことを警戒しているのでしょうが」
「なるほどねぇ。それでわたしが独身主義者のふりをして潜入すればいいのね?」
第二皇妃の実家でもある公爵家だ。身元調査はしっかりされるだろうが、そのあたりは大丈夫なのだろうか。
「メル様には、旧公爵家に仕えていたティナ・アーベルという侍女になっていただきます」
メルの人物設定はこうだ。
3代前の皇帝の兄弟で、臣籍降下したロイター公爵という方がいた。当然その方はもう亡くなっていて、一人息子が跡を継いだのだが。新しいロイター公爵は芸術家肌の人間で、あちこち放浪の旅をしていて、旅先で亡くなったのが半年前のこと。跡継ぎはおらず、爵位は返上された。
メルはそのロイター公爵家に仕えていた架空の侍女という設定だ。皇太子がロイター公爵家からの紹介状を用意してくれたので、まず身元を疑われることはないはずだ。
ロイター公爵の家令は高齢で亡くなっており、侍女頭もやはり高齢で田舎に帰っている。メル扮するティナ・アーベルについて問い合わせようにも問い合わせ先がないので、身元がバレる心配はないだろう。
メルはあいだに何人か紹介者をはさみ、ゼーバッハ公爵家の侍女として採用された。カイの言う通り、ロイター公爵家の紹介状をもっていたことが効いたらしい。
爵位返上後から今まではどう過ごしていたのかと面接で聞かれたときには焦ったが「お世話になった侍女頭を田舎まで送っていっていた」ととっさに話したら、ゼーバッハ公爵家の侍女頭から気に入られてしまった。懇意にしている男性がいないこと、今後も男性と親しく付き合わないことを念押しされ、めでたく採用となったのである。
それから2週間、いきなり公爵付きの侍女になれるはずもなく、メルの主な仕事は邸内の掃除だった。慣れない仕事に四苦八苦したものの、新入りのメルに侍女仲間たちは親切でなんとかやってこられた。皇太子暗殺計画を練っている公爵の邸とは思えないくらいの穏やかさだった。
(週に1回の休みはきちんともらえるし、お給料もいいし。生涯独身の条件さえ合えば、意外と働きやすい職場なのよね)
そんなことを考えながら20分ほど歩くと、目当てのカフェに着いた。すぐに店員から予約していた席へと案内される。通路と席の間に置いてある背の高い観葉植物が目隠しの代わりになっていて、隣席の客の姿が気にならない仕様になっていた。
「こちらのお席へどうぞ」
店員から案内されたのは、店の最奥。インテリアと観葉植物に隠れてわからないようになっているが、実はこのスペースだけ個室だった。
「あ、もう来てたのね。お待たせしてごめんなさい」
「いえ。少し早めに抜け出せただけですから」
個室で待っていたのはカイだ。公爵邸に潜入してから週に一度、こうしてカイに定例報告を行うことになっていた。
「メル様、なにか危険なことはありませんでしたか?」
「うん、大丈夫よ。今はまだゼーバッハ公爵に近づくことすらできないんだから」
開口一番にメルの心配をしてくるカイに笑いながら、メルは近況報告をした。
「週に1~2度は晩餐会をやってるわね。呼ぶ人数は3人前後だから小規模なんだけど、毎回お客様の顔ぶれが違うの。先輩侍女にさりげなく聞いてみたけど、貴族から商人まで幅広く声をかけているみたい」
「おそらく誰が自分の仲間かを悟らせないように隠れ蓑として関係ない人たちも招待しているのでしょう」
公爵邸に潜入したメルの役目は、公爵の仲間を見つけることだ。ゼーバッハ公爵が頻繁に晩餐会を開いているのは皇太子サイドも知っているが、多種多様な客を招待しているため誰が仲間なのか判別できないでいた。メルはメモしておいた招待客のリストをカイに渡す。
「給仕はベテランの侍女がやるから、食事中の会話まではわからないのよね。まさかシガールームに盗み聞きに行くわけにもいかないし」
「絶対にやめてくださいね」
メルならやりかねないと思われたのか、カイに真剣に止められた。メルは肩をすくめて応えるにとどめ、公爵邸で働いた感想を伝える。
「やっぱり人手が足りてないみたい。新入りだけど邸内のあちこちに仕事で行かされるもの。まあ主なことは掃除だけど。公爵本人の部屋と執務室以外はどの部屋にも入っていいからって言われてるし」
「ずいぶんと信頼されているようですね」
「うん。面接で侍女頭に気に入られたからね。でも、もともと外部からの侵入を警戒するのに力を割いているみたいなの。門とか庭とか屋敷の周りは警備員が何人も配置されているけど、邸内を巡回してるのは見たことないし」
公爵邸の外の警備は強固だが、それに比べて邸内は最低限の使用人で仕事をまわしている感じだ。使用人の待遇は良いし、結婚で仕事を辞める者もいないので、ベテラン勢がそろっており、それで少ない人数でもやっていけているようだ。
「こうして会う以外にも私がメル様と接触できる機会があると安心なのですが、警備状況をみると厳しいですね」
「無理にわたしの様子を見に来ようとしなくていいからね。来週までにまた晩餐会があるし、公爵が親密にしてそうな相手がいないか見ておくわ」
「お願いします。ですが、メル様こそ無理をして探ろうとしないでくださいね」
「わかったわ」
「絶対ですよ。メル様を危険な場所に送り込んだ私が言うのもおかしな話ですが、ご自身の安全が第一です。もし少しでも危機を感じたら、公爵邸より3軒先の館に逃げ込んでください。こちらの仲間を一人待機させていますから」
カイに何度も無理はするなと念を押される。もちろん無謀なことをするつもりはないが、そんなに心配されるのは子どもの頃以来で、なんだかくすぐったい。口元がニヤけてしまったせいだろうか。
「絶対ですよ?!」
最後はカイのこめかみをヒクつかせてしまった。
「ぜ、善処します」
こうしてメルの休日は終わり、また明日から侍女として働くべく公爵邸へと戻った。