2:異郷の日常
混沌の東地──〝魔族〟とされる亜人や魔獣が蔓延り、跋扈し、それらが放つ瘴気によって魔に染められた野蛮な人類が闊歩する、その名の通りの混沌の地。
自分が今、そこに立っていることが嘘や冗談でないことは、はっきりと理解できる。
理屈ではなく、直感──あるいは、本能で。
落ちこぼれとは言え、アレクシアも法術を扱う。
故に──不可視の力や気配に対する感覚は鋭敏である。
その鋭敏な感覚が、人類の領域においてあってはならないはずの魔族の気配を捉えていた。
それも、一つや二つどころか十や二十では済まない──そもそも、数えるのが無意味なほどに。
あまりにも濃密すぎて、魔力だど気付けないほどに。
まるで、そこにいるのが当たり前とばかりに。
「……私をどうするつもり?」
緊張感が目を覚ましたときとは比較にならないほどに膨れ上がり、握られたソーマの手を思わず払いのけながら、三つめの質問を繰り返す。
「サッキも言ったケド、ソレハこっちの質問だ。神聖帝国のヤツが、陽出の民家にイキナリ現れて何をするツモリだ?」
ソーマは、警戒するような素振りを見せながら、アレクシアを上から下までたっぷりと眺め、
「……と、思ったケド、その様子ダト本当に何も知らないデやって来たミタイだな」
と、どこかつまらなそうに鼻を鳴らした。
「だから言ったじゃないのよ。心配することなんて何も無いって」
ソーマのそれよりも、より流暢な発音の帝国語が割り込む。横目でそちらを見れば、年かさの女がやってきた。
「キョーカ・タカギリよ。ソーマの母親で、ここの家主で……まあ、細かい話は後にしましょう。まず貴方……え~っと……そういえば、まだ貴方の名前を聞いてなかったわね?」
「……アレクシア」
一瞬迷うが、家名の方は伏せる。今や絶縁されて他人になってしまったとはいえ、〝敵地〟の只中で、正確な身分を明かすわけにはいかない。
「よろしく、アレクシアちゃん。まずは貴方の着替えと包帯の交換、朝ごはんはその後よ」
着替え、包帯──アレクシアは、今の自分の状態に気付いた。
薄手な上に水を吸ったせいで、着物はぴったりと体に張り付いた上に、薄らと透けていた。しかも、半ばはだけた状態で。
それはもう、扇情的な姿だった。
「~~~~っ!」
アレクシアは慌てて体を隠す──特に、ソーマの視線から。
「ま、まさか……」
顔を真っ赤にして、アレクシアはソーマを睨む。そんなアレクシアに、キョーカは苦笑し、
「ああ、安心して。くたばってた貴方の着替えと手当ては私で、ソーマは貴方を運ぶ以外は指一本も触れてないから……それにしても」
キョーカは、不意に悪戯っぽい笑み浮かべてアレクシアの体を見据え、
「なかなかどうしてご立派なモノお持ちだわね~。特にこの辺が~」
手を胸の辺りで抱えるような形にして見せる。何というか、この上なく厭らしい顔で。
一方、
「あ~そ~カイ。なら、今夜のオカズ(・・・)はソレで決マリだな。さ~メシだメシ~」
ソーマは、艶めかしい姿のアレクシアに一瞥くれただけで、すぐに興味を失ったように踵を返し、家の中に入っていった。
「……」
〝出来損ない〟と常日頃蔑まれてきたから、無視されることには慣れている。が、この時だけは、どういうわけだか釈然としなかった。それはもう、物凄く。
「ああいう子なのよ……」
アレクシアの肩に、キョーカは慰めるように手を置いた。
*****
「目が覚めたなら、次は精を付ける。口に合わなくても、しっかり食べときなさい。お残しは許しませんよ~」
などと言いつつ、キョーカが自信満々に出したのは、湯気の立つ鍋。とろみの強いスープに見えたが、よく見ると楕円状の柔らかい粒が入っていた。神聖帝国では馴染みが薄いが、米と呼ばれる穀物だ。
底の深い小鉢に掬って出されたそれを受け取ったものの、口にするかどうかアレクシアが迷っていると、
「毒も薬モ入ってナイ」
ソーマが、ズルズルと行儀悪く啜って見せた。同じ鍋から入れたものだから、とりあえずは大丈夫らしい。
注意深くスプーンで掬って口に含むと、絡んだスープと一緒にするりと喉を通っていく。神聖帝国の料理の味付けとは全く違うが、嫌いではない──のだが、どうにも味が薄い気がする。
「味の濃い神聖帝国の料理で育った人には、薄味すぎたかしら?」
アレクシアの表情で察したのか、キョーカがからかうように言った。
「でも、確かに薄めに味付けしてるわ。丸五日も寝てた上に弱った体じゃ、強い食べ物はむしろ毒よ」
「……五日? 私、そんなに眠っていたの?」
体の節々がやけに痛むと思っていたが、怪我のせいだけではなかったようだ。長い事眠った気はしていたが、まさかそこまでだったとは。
「体も心も弱っている時に、あんな強力な法具を使ったんだもの。しかも、貴方の法力を源泉にしてね。むしろ、よく死ななかったわね?」
「……法力量には(・・)自信があるから」
正確には──法力量だけ(・・)なら、だが。
「何でそんな人が、そんなボロボロで、片道切符の転移法具でこんなところに飛ばされてくるのかしらね? 神聖帝国の基準は、法力の強さこそが第一だって聞いてるけど?」
「それは……」
今となっては、隠す必要などない。けれど、いざ口にしようとして、腹の内に吐き気のような怖気を覚えて、出かかった言葉は掠れた。
「過ぎた話ハ、後にシヨウ」
相変わらずズルズルと行儀の悪い音を立てながら、ソーマは割り込んだ。
「それより、コレからどうスルンだ? コイツにしても、俺タチにしても、コノママってわけにはいかナイだろ?」
敵意や警戒こそ無いが、さりとて信用はしていない──ソーマの目は、そう言っていた。
当然である。事情や経緯はどうあれ、いきなり現れた敵対国の娘など厄介でしかない。
「……そうね」
アレクシアは、まだ中身の残っている小鉢を置き、
「この上なきご厚意、深く感謝いたします」
席を立って、粛々と会釈をした。神聖帝国の礼儀作法がここで通用するか否かは、この際考えないようにする。
「お世話になっておいて何のお礼も出来ませんが、私はこれで失礼いたしいます」
「そんなに焦って失礼することも無いわよ」
いつの間にか立ち上がったキョーカが、アレクシアの肩を押さえて強引に席に座らせた。
「どのみち、しばらくの間はここに居て貰うつもりだしね」
「でも、これ以上迷惑をかけるのは」
「なら、今ここを出て、その後どうなると思う?」
アレクシアの言葉を遮って、キョーカは言った。
「言っておくけど、貴方が魔力を感じ取れるように、法力を感じ取れる奴がゴロゴロしてるようなところよ。不用意に出ていけば、捕まるまで一時間とかからないでしょうね」
「それは……」
「まあ、法力がどうとか以前に」
キョーカは、アレクシアを上から下までじっくりと眺め、
「そんな着のみ着のままじゃね~」
着の身着のまま──アレクシアは改めて自分の姿を確かめる。
見るからに部屋着か寝間着と思しき服──〝ユカタ〟とかいうらしい──だけならまだしも、全身包帯を巻いた姿は、傍目には怪しいことこの上ない。
「退屈な入院生活に飽キテ脱走しテキタ不良患者ッテ感じダな」
ソーマが、何とも分かり易い感想を言ってきた。いずれにせよ、見るからに不審人物である。
「心配しなくても、ここにいるだけなら迷惑ってことは無いわよ。見ての通り、ウチの家は無駄に広いからね。なんだったら」
キョーカは、思わせぶりに悪戯っぽく微笑み、
「ソーマのお嫁になってくれてもいいわよ」
「え、えっと」
思わぬ言葉に、アレクシアは返す言葉を詰まらせる。助けを求めるようにソーマに目を向ければ、
「……最悪、それもアリといえばアリじゃナイか?」
と、思案顔で頷きながら、淡々と語っていく。
「コイツが神聖帝国から来たってことは、あまり知られるのはマズいから、偽装はヒツヨウ。デモ、〝嫁〟だとサスガニ怪しまれるカラ、迷子を拾って置いておく~ミタイナのが妥当で……何ダヨ?」
ソーマは話を切ると、怪訝そうにキョーカに訊ねた。キョーカの目は、ソーマの話を聞く間に、何とも言えないそれに変わっていた。
「本当に……どうしてこうなってしまったのかしらね」
キョーカの吐き出した深々とした嘆息は、失望と幻滅に満ちていた。
「良い年頃なのに……こっちも立派なモノを持ってるのに……本当に、どこで育て方を間違えたのか……」
頭を抱えてブツブツと嘆くキョーカの視線は、何故かソーマの下半身に向けられていた。
「……俺の性能は、後回しダ」
訝りながらもソーマは話を戻すと、アレクシアに目を受ける。
「とにかくダ……××××、×××××××××」
何事かを喋るソーマだが、アレクシアには理解できず、首をかしげるのみ。そんなアレクシアに、ソーマは肩を竦め、
「まずはお喋りからダナ。それとこっちの一般常識とか……この際、赤ん坊からやり直すつもりでヤレヨ。せいぜい頑張リナ」
「他人事みたいに言わないの。アンタもガッツリ頑張るのよ」
「……あ?」
「春休みが終わるまで丁度二週間。しっかり面倒見てあげなさい」
「はぁ?」
「ほら、二人とも早く食べちゃいなさい。今日は楽しいお出かけなんだから~」
有無を言わさぬ勢いで、キョーカは話を締め括った。