5:異郷の歴史
広大な大陸は、二つの地に分けられる。
神の恵みがもたらす豊饒な大地が広がり、神聖帝国が統べる大陸南部。
邪悪な欲望によって不毛の大地と化した、魔族達が跋扈する大陸北部。
この二つを隔てるのが、通称〝大地の障壁〟と称される、大陸中央に鎮座する山岳地帯である。神の生み出した結界とも、古の大戦の爪痕とも言われ、その断崖絶壁は天を突かんばかり。その岩盤は厚く頑強で、割ることも、裂くことも、ましてや貫くことは不可能であった。例え龍や魔王と言えども。
双方を繋ぐ唯一の道は、中央に刻まれた僅かな切れ目──〝死の口〟と呼ばれる深く切り立った渓谷のみ。〝道〟と言っても、起伏の激しい荒れた岩場が続いており、通り抜けるだけでも膨大な労力を必要とする。
だが──それは紛れもない〝道〟。
北を荒らし尽くした魔族達は、恐れも疲れも知らず、過酷な道を通って侵攻してくるのだった。
尽きることのない欲望と、湧きあがる衝動の赴くままに。
故に──魔族は敵。
故に──人類と魔族の間にあるのは、憎悪のみ。
故に──滅ぼすか、滅ぼされるかのみ。
それが神聖帝国の歴史であり、言い回しこそ多少の違いはあれど、どの記録やどんな書物を開いても、要約すればこのような形に帰結していた。
陽出の歴史は、その真逆であった。
非力な人類は、知でもって。
無知な魔族は、力でもって。
手を取り合い、補い合い、共に歩み──そして築かれたのが、陽出という国だった。
当然ながら、その道は決して平坦ではなかった。建国から千年余りという長い時の中で、歴史に残るような大乱だけでも幾度となく起こり、名もない小競り合いはそれこそ数知れず。
理念、思想、価値観、生活環境、食性、体の構造──人類と魔族の違いを全て挙げようとしたら、時間がいくらあっても足りない。ましてや、一口に〝魔族〟といっても、その中で無数の種族が存在する。同じ人類でも、法力を持つ者と法力を持たない者が、存在するように。
魔族と人類の諍いはもとより、思想の違いから魔族同士、人類同士の衝突も、少なくなかった。
ある時は争い、ある時は理解を深め、ある者は離れ、ある者は手を取り合い──それがようやく平定し、今の状態に落ち着いたのが、約百五十年前。その後は、平穏平和を以て繁栄を築いてきた。
陽出の内側に限っては。
*****
「……第八次西洋防衛戦?」
辞書を使って拙い語彙を補いながら読み進める中、アレクシアはその記述に目を止める。
陽出における西洋とは、陽出を中心に据えた上での西側──つまり、大陸側であり、神聖帝国における東側、あるいは東洋のことを指す。
そして防衛戦とは──攻めてきた敵を防ぐための戦いである。
では、攻めてきた敵とは?
「……神聖、帝国……?」
アレクシアの知る歴史とは、はっきりした相違点。
侵略者──すなわち、攻めてきたのは〝混沌の東地〟の者共だったという歴史とは、全くの真逆。
侵略者は神聖帝国の方だったという歴史。
「そんな……」
バカな──否定を切っ掛けに、アレクシアの頭が一気に回転を始める。
まず、第八次西洋防衛戦とされている年号を、神聖帝国の年号に置き換えれば、十二年前の〝東部侵攻防衛戦〟とぴったりと重なる。
あの戦いは、〝混沌の東地〟から侵攻してきた魔族や野蛮人を迎え撃つための戦いだったはず。
アレクシアも、ついこの前まではそれを信じていた。
「……でも……」
否定の要素を探そうとすればするほど、かつて教えられたことが霞んでいく。
今は──陽出乃国という真実を知った後では、神聖帝国で伝え聞いたことに対して、むしろ疑問符が浮かんでいき、
そもそも──神聖帝国と陽出乃国との戦いとは、何だったのか?
その根本的な疑問に行きついた。そして、そんな根本的な事実も知らない、知らされていない事に、アレクシアは今更のように気づく。
それを解き明かすため、アレクシアは席から立ち上がり、
「──っ」
急に立ち上がったせいか、締まりも緩んだらしい。
一度自覚してしまうと、催しの勢いも急に加速した。
アレクシアは、急いで周囲を見回し、その案内を見つけて早足にそちらに向かった。
*****
アレクシアにとって、この陽出という半ば異世界と称しても良い異国での生活は、驚きの連続であった。
しかし──人生において、これほど驚かされたモノは無かっただろう。
「……」
未だに慣れないため、使うのは気が進まないのだが、生理現象に逆らって、しなくてもいい粗相するのはもっと嫌だ。
しかし、便利すぎるのも考えモノ──などと考えながらアレクシアが腰かけたのは、設置された便座である。
つまりここは、便所である。当たり前の、しかし極めて重要な設備である──それにしたって、便座に備えられたこの仕掛けは、良いのか悪いのか判断しかねる。
出したモノを水で流すのは、衛生面から良いことだ。用を足すと自動的に流れるのも、便利でよろしい。腰を下ろした便座が温かいのも、実に良心的だ。
しかし──便器ではなく、使った者の使った部分を洗う機能には、驚きを通り越してある種の衝撃を受けた。初めて使った時など、便所どころか近所中に響き渡る悲鳴を上げてしまい、お節介な隣人方に危うく通報されかかった。
今は、さすがに悲鳴こそ出すことは無くなったし、使った方が清潔であり〝後始末〟も楽ではあることは分かる。
しかし、
「~~~~~っ」
口を押さえ、気合を入れて我慢しながら、アレクシアは改めて思った。
つくづく、便利すぎるのも考えモノ──と。
ともあれ──危うく往来の場で粗相をせずに済んだアレクシアは、ひとまず安心して便所から出て、
「……あ」
まず目についたのは時計。
燐耀に薦められたこともあり、少しだけ見物のつもりだったが、〝少し〟の時間を大きく超えていた。拙い語彙を補うために、いちいち辞書を開いたのも時間がかかった一因だろう。
アレクシアは、弾かれたように図書館を飛びだした。
疑問を解消できなことや便利すぎる便所よりも、鏡華のお叱りの方が、よっぽど怖いのだ。