3:龍の姫
今回の間違いは、単なる見落としや記述のし損ないばかりだったので、訂正箇所はすぐに把握できた。おかげで、昼食もおやつも食べ損ねることは無い。
しかし、アレクシアのすることは、当然ながらお勉強だけではない。そもそも、おやつ抜き食事抜きを免れても、実物現物が無ければ意味が無い。
なので、
「それじゃ買い出しお願い。何を買うかは紙に書いて、財布に入れてるから」
昼食後の茶を飲み切ったところで、鏡華は入り用品を入れる大きな背嚢と財布を渡してきた。
「何度も言うけど、言葉と浮揚機には気を付けるのよ。お釣りは誤魔化さないでね。それと……あら?」
世話焼きな母親ぶりを見せていた鏡華が、不意に座卓に目を向ける。
そこには、身なりの良い人類の紳士を小さくした幻影が浮かんでおり、誰に向けるでもなく語っている。
これも機械の一種で、遠く離れた音や情景を送受信する代物だという。今見ているのは、最近の時事や今後の情勢を、不特定多数の相手に伝える番組とのこと。
知らない単語もかなりあるので全容は分からないが、断片的に聞き取れる限りでは、あまり穏やかな話ではなさそうだ。
「ここ二、三日の間に、盗んだり無理やり奪い取ったりするって奴が現れてるらしいわ。しかも、まだ捕まってない上にウチの近くみたいね」
鏡華が、眉を顰めながら要約する。確かに、世話焼きな母親でなくても心配するような、物騒な話である。
「寄り道するな、とは言わないけど、ほどほどにね。遅くても夕方までには帰ってくるのよ。何かあったらすぐに連絡すること。ケータイは大丈夫?」
言われて、アレクシアは上着のポケットから板状の機械を取り出す。
表面に触れると、色とりどりの絵柄の幻影が、中空に浮かび上がる。
携帯情報送受端末──通称〝ケータイ〟と呼ばれる機械で、同じ機械を持つ者同士との会話を始め、様々な情報をこれ一つで送受信できる、陽出の技術の結晶である。
「ダイジョウブ」
アレクシアは、ケータイの動力が最大であることを確かめると、それをポケットにしまい直して、背嚢を背負った。
「それじゃ気を付けて」
鏡華の見送りを背にして母屋から出たアレクシアは、浮揚機の傍に置かれている〝自転車〟と呼ばれる乗り物に跨った。
足踏み板を漕いで前後に並ぶ二つの車輪を回して進むという仕組みで、よほど運動神経が無ければ小さな子供でもすぐに乗れるとの事。アレクシアも庭先で二、三度転びかけたものの、すぐに乗れるようになった。
「こんに、チ、ワ」
高桐邸を出てから走る間に、近所の住民達とすれ違う。
「はいこんにちわ~」
「お喋りも自転車も上手くなったね、アレクシアちゃん」
「今日もかわいいよ」
発音も区切りもかなり怪しいアレクシアの言葉に気にせず挨拶を返してきたのは、人類だけではない。
角が生えている者、翼をはばたかせて飛び回る者、耳が長い者、半身が人で獣であり虫であり──様々な種族が、当然のように通りや空中を行き交っている。
魔族達の隣近所で普通に生活し、魔族達と普通に挨拶し、魔族達と普通にすれ違い──二週間前までは、想像だって出来なかっただろう。
二週間という時間に付けるのが〝もう〟なのか〝まだ〟なのかはともかく、いちいち驚かなくなるには充分すぎる時間だった。
〝慣れる〟ではなく、〝諦める〟という意味でも。
それほどまでに──神聖帝国と陽出は、違いがあり過ぎた。
余りにも、格差があり過ぎた。
〝混沌の坩堝〟、〝国〟と呼ぶのもおこがましい穢れた野蛮人と魔族の群れと称されてきた陽出の文明と秩序は、神聖帝国の遥か先にある。
だからこそ、様々な疑問が湧いてくる。例えば、
(……どうして、こんな国が攻めてきた? そもそも、どうして今まで神聖帝国は無事だった?)
神聖帝国は、幾度となく陽出からの侵攻を受けている。終結やそこに至るまでの過程は様々だが、その戦端を開いてきたのは、全て陽出の方であった。
〝混沌の東地〟に住まう者は、果てなき欲望で動く穢れし野蛮である故に──ということだが、実態を比べれば、ともすれば神聖帝国の方が野蛮に思えるくらいだ。
(いえ、むしろ……これじゃまるで……)
などと──物思いに耽っていたものだから、前への注意が疎かになってしまった。
「っ!」
目の前に迫ってきた人影に、アレクシアは減速器を握り締めた。急減速は、しかし間に合わず、勢いのまま人影に突っ込み、
「何じゃ?」
相手が突き出した足が、自転車の前輪に触れると、嘘のように停まった。アレクシアを乗せたまま。
「親や教師に習わんかったか? 乗り物に乗る際は運転に集中せよ、と」
何やら説法らしいことを言っているが、アレクシアはそれどころではない。
「……っ!」
出かかった悲鳴は、しかし出ることは無かった。
目の前の魔族から発せられる強大すぎる魔力は、それだけでアレクシアを凍り付かせるには充分すぎた。
*****
銀色の髪、金色の瞳、猛々しい双角──人類の娘に近い、しかし人類の娘など足元にも及ばない優美な姿を持つ亜人。
だが、その優美な姿以上に、溢れ出る魔力の凄まじさは、〝亜人〟や〝魔族〟という括りを明らかに凌駕している。
神聖帝国においては、そのような存在をこう呼ぶ。
〝魔王〟と。
「何を呆けとる? 妾はこれでも、いつまでもこうしていられるほど、暇ではないぞ?」
そんな声がかかり、アレクシアはようやく我に返った。そして、亜人の娘の片足がいまだに自転車の前輪を支えたままだったことに気づいた。
「ゴ、ゴメンナ、サイ」
と、アレクシアは慌てて自転車から降りて、
「あ……っ」
足がもつれて尻をついてしまった。
「何じゃ、しっかりせんかい全く……」
呆れるように言いながら、亜人の娘は素早く自転車の支柱を立てて停めると、アレクシアの腕を取って引き起こした。
アレクシアはどうにか立ち上がるが、足の震えは止まらない。しかも、急な尿意を覚えたものだから、決壊しそうになるのを必死に押し留めなければならなかった。
「大事にならずに良かったのう」
そんなアレクシアの──特に膀胱の危機的状況を知ってか知らずか、娘は穏やかに微笑み、
「次からは気を付け……む?」
何かに気づいたのか、アレクシアを目を細めて見据える。
「な、何デショウ?」
「……そなた……ふ~む」
思わず身を竦ませるアレクシアを、相手は金色の瞳で捕らえたまま何やら思案し、
『神聖帝国の貴族……それも、指折りの大家のご令嬢とお見受けするが?』
「っ?」
娘が発したのは、二週間ぶりに聞く、流暢な帝国語だった。
「やはり、〝フローブランの迷子〟とは、そなたのことじゃったか」
アレクシアの驚きを見逃さず、亜人の娘は納得したように頷くと、恭しく頭を下げ、
「申し遅れた。この身は、皇龍が長──天凰が娘、燐耀と申す」
「コウリュウ……?」
「帝国語に訳すならば、〝龍の統率者〟とか〝龍の帝王〟というところかの」