2:一般常識(陽出の)
「ったく、朝っぱらから何でこんないちちっ」
痛みの呻き交じりにぶつくさと文句を言いながら、蒼真は朝食に手を付け、
「はいダメっ! やり直しっ!」
その手を、鏡華がすかさず叩き落とした。
「いつも言ってるでしょ。お行儀良く、よ。蒼真は、ただでさえ口も態度も悪いんだから」
「せめてお行儀だけでもよくしろ、だろ。はいはい、わ~っかりましたよ~っと」
蒼真は、両手を合わせて、食事に向かって頭を下げ、
「いただきます」
厳かに言うと、静かに食べ始めた。
食前に祈りと感謝を捧げるのは、神聖帝国でも同じだが、捧げる相手は全く違う。
神聖帝国においては、全能にして万物の創造主──すなわち神に対して。
一方、陽出においては、用意した者や食材を作った者、届けた者──すなわち、人類や魔物達に対して。
その思想もまた、ここに来てからアレクシアが驚かされたものの一つだ。けれど、いるかも怪しい存在に感謝するより、はっきりと存在している者達へ感謝した方が、今はしっくりしている自分がいた。
「ごちそうさん、と」
蒼真は静かに、しかし素早く朝食を平らげると、食べる前と同様に手を合わせて挨拶し、直後に席を立って手早く片づけを済ませ、自室に戻ってしばらくしてからまた出てきた。
ここまでで、僅か五分足らず──いつもの見慣れた野暮ったい部屋着は、取り澄ました儀礼的な服に打って変わっていた。
そのおかげか、いつもはだらしない蒼真の姿が、少しだけまともに見える──あくまで、少しだけ〟だが。
風呂場でのドタバタのせいか、しかめっ面な上にちょっと青ざめているせいで、折角のまともな装いが台無しになっている。
「×××……い、行ってらっシャイ、気ヲつケて」
玄関まで見送りに来たアレクシアは、出かかった帝国語を慌てて引っ込め、すぐに陽出語に言い直す。会話は生活の基本ということで、常に陽出語で話すように心がけているのだが、今のところは何かの拍子で帝国語が出てきてしまうのだった。
「……はい行ってきま~すっと」
蒼真は青い顔でのそのそとに出かけていった。足取りが微妙に怪しいが、大丈夫だろうか。
「大丈夫よ」
と、元凶の鏡華は、あっさりと言った。
「あのくらいでどうにかなるような、ヤワな鍛え方はしてないわよ。私もそうだし、私の旦那もね」
鏡華は居間の方──天井近くの縁に目を向ける。
そこには、初老に入りつつある男性──二年前に病没したという、鏡華の夫にして蒼真の実父の遺影が飾られていた。
「というわけで、ご心配なく。学校に着く頃には、ケロッとしてるでしょうね」
「ガッコウ……平民が学校に行くノ?」
「そりゃそうよ。あの子はまだ……て、神聖帝国じゃ、そのあたりの制度からして全然違うわけだから……う~ん……」
何やら思案顔すること約数秒──鏡華は、何か思いついたように手を叩き、
「よし。今日からは、そういう小難しい話も混ぜ込んで勉強してみましょうか」
*****
陽出乃国──大陸から東の海上に位置し、大小の諸島群を領土とする島国である。
小国ながら建国から約千年少々と、その歴史は長い。そして、周囲を海に囲まれているという地理もあり、神聖帝国を始めとする大陸諸国とは異なる文化や文明を築いてきた。
法力を持たぬ故の、機械という技術の発達。
強大な力を持つ魔族達との、共存共栄。
様々な種族達の力と知恵を織り交ぜ、複合させ、昇華させる。
そのための、公平平等対等を理念とした政治体制──すなわち、投票によって為政者を決め、為政者は民の意思を代表して政事を進めていく。
「……つまり」
教科書を口に出して読み進めていたアレクシアは、ふと顔を上げる。
「陽出デハ、〝身分〟や〝階級〟は、〝役職〟と同ジ?」
「大体そんな感じの認識で良いわ。で、さっきの話も含めて補足すると」
長方形の座卓を挟んで対面に座る鏡華は、別の本に目を走らせながら答える。
「誰でもどんな学校にも入れるし、どんな仕事にも就けるってわけ。甚だしい例じゃ、神聖帝国で言うところの平民や奴隷階級でも、政治の仕事に就けるってわけよ……さて」
鏡華は本を閉じると、座卓の下に手を突っ込み、
「恒例好評の抜き打ち試験と行きましょうか」
取り出したのは、びっしりと問題が書き連ねられた紙。もちろん、文字は陽出語である。
「制限時間は三十分。用意……始めっ」
宣言と同時に、時計をアレクシアの前に置いた。アレクシアは、急いでペンを取って問題に取り掛かる。
用意された本を声に出して読み、区切りの良いところで止め、読んだ範囲を素早く整理、不明な点や判然としない部分は鏡華の補足説明を受ける。
学問の指導としては、単純で典型的。が、それが楽かと言えば、そうは問屋が卸さないのが、高桐家の人々である。
子供向けの絵本に始まり、基本的な読み書きや算術を教えてから先は、鏡華達が自分からあれこれ言うことはない。進める上での区切りもアレクシア任せであり、補足説明もアレクシアの方から質問しない限りしてこない。つまり、細かい流れはアレクシア自身で考えなければならないということだ。
放任かとも思われるが、アレクシアの質問に対する答えは、的確で分かり易い。アレクシアの調子と理解度を、充分に把握している証拠だ。
そして、数日前から更に段階が上げられ、このような抜き打ちの試験を交えるようになった。
「残り五分~」
鏡華の宣告に、アレクシアはペンを動かす手を速める。
抜き打ち試験は、今回のように区切りの良い所で出してくることもあれば、読んでる途中でいきなり仕掛けてくることもある。そして問題の内容も、その時読んでいる本から出るとは限らず、数日前の内容が出ることもある。読み進めた場所から出題することもあれば、まだ進めていない箇所が出る場合もある。一番最初にやった試験など、むしろその方が多く、惨憺たる結果だった。
それを見た鏡華と蒼真は穏やかに、そして厳しく言った。
『確かに進め具合は任せたけど、それはダラダラやって良いという意味じゃないわ』
『そりゃお前……出来ねえんじゃなくて、怠けてるだけだからな』
それはもう、理不尽に思ったものだった。だが、二、三回繰り返せば、蒼真達の指摘が正しいことを嫌でも思い知った。
惨憺たる結果の主な理由は、実際に〝怠けている〟の範疇だったから。
『これでいいか』
『まあいいか』
そんな甘えを、鏡華も蒼真も決して見逃さない。なので、アレクシアも決して気を抜けないのだった。
そして、その甲斐はあった。
「デキタ」
「二七分と三十秒ちょい……やるようになったじゃないのよ」
と、感心したように頷くと、アレクシアの差し出した解答紙を確認していき、
「肝心の出来栄えは……今日は、〝もっと頑張りましょう〟かしら」
赤く彩られた解答紙を見せる。○が六割、△が三割強、×が少々というところ。
「いつも通り、間違えた所はきちんと直してね。出来るまでは、オヤツもゴハンも抜きよ」
優しく笑って言うが、鏡華も蒼真も本当にやる。
高を括って放置しようものなら、昼食はもちろん夕食も抜きにされる。ただのやり直しだと思って、手を抜くことは間違っても出来ないのだった。
空腹の辛さなど、神聖帝国の牢屋だけで、もう充分だった。