1:静謐なる朝
母屋から離れた建物──〝道場《ドージョー》〟という板張りの鍛錬場で、アレクシアは蒼真と対峙していた。
互いの得物は、〝竹刀〟と呼ばれる、竹という植物を加工した稽古用の剣。
「ふ──っ!」
先手はアレクシア──一気に間合いを詰め、短い裂帛の気勢でもって、竹刀を振りおろす。対して蒼真は、竹刀を中腰から振り上げる。
冷たく澄み切った朝の空気に、竹刀同士がぶつかる乾いた音が響き、
「っ?」
蒼真の竹刀が弾かれる。それが床に落ちるよりも先に、アレクシアは追い打ちを掛けるべく更に踏み込み、
「ぶぅっ?」
振り上げられたレイヤの左足が、アレクシアの顔面──正確には、鼻先にめり込んでいた。更に、
「だっ?」
弾き飛ばされたレイヤの竹刀が、思い出したようにアレクシアの頭に落ちてきた。
「~~~~~~~~っ」
膝をついた途端、鼻の奥から強烈な痛みが、遅れてやってきた。アレクシアの目の前に、いくつもの星が飛び交う。
そんなアレクシアをしり目に、蒼真は床に落ちた竹刀をつま先で跳ね上げ、
「お前は、どうも詰めが甘いっつうか、正直過ぎるんだよな~」
宙に跳ねた竹刀を器用に掴んだ。
「なまじ鍛えられてるから、余計にな」
鍛えられてる──事実、アレクシアは実戦剣術を学んでいる。それも、同年代の中では男相手でも負け知らずだった程の腕利きである。なので、異国の武術というのも興味が引かれた事もあり、揚々と朝稽古に臨んだ。
そして二週間──竹刀を当てるどころか掠めることすら、ただの一度も無かった。
蒼真は武芸達者な上に、非常に狡猾だった。
剣はもちろん、拳や蹴りだけでなく、投げ技やら固め技まで絶妙かつ柔軟に使ってくる。ともすれば、卑劣卑怯だの反則だのと謗られることまで、躊躇うことなく。
「け、剣ノ勝負で蹴りナンて」
「だから、剣の勝負じゃねえっつってんだろ」
飛び交う星に目を回しながらもアレクシアは抗議するが、蒼真は面倒そうに遮った。
「ウチでやってんのは、やったもん勝ちのガチンコで……て、この二週間、何度も何度も言っただろうが」
「そ、そんナふぐっ?」
言い返しかけて、何かが込み上げる感触と、鼻先から漏れ出そうな感触に、アレクシアは慌てて言葉ごと飲み込む。鉄臭い味と臭いに、思わず顔をしかめる。
「あ~あ~垂れてんぞったくっ」
蒼真は、早足に隅に置いてあった箱を持ってきて、中から引っ張り出した薄い紙をアレクシアの鼻先に押さえつける。が、間に合わず二、三滴落ちて、〝道着〟と呼ばれる鍛錬服の白い布地に、赤い点を描いた。
「二人とも、そろそろ……あらら~今日は鼻血ぶ~しちゃったのね~」
手拭いを持ってやってきた鏡華は、アレクシアの様を見るなり吹き出した。ちなみに、昨日は口の端を切り、その前は転ばされた拍子に額を擦りむいた。
「蒼真は今日から新学期でしょ。早く後片付け済ませなさい」
「あ~そうだったな……」
放られた手拭で汗を拭きながら、蒼真は竹刀を壁掛けに戻すと、隅に立てかけてある雑巾を手に取った。
「鼻血を撒かれたら面倒だ。今日の掃除はやっといてやるが、明日はお前がやれよな」
面倒そうな悪態を吐きながらも、蒼真はテキパキと掃除にかかる。
態度こそだらけているが、蒼真は腕は確かである。アレクシアと一緒にやるより、蒼真が一人でやった方が仕上がりが良いくらいには。
アレクシアは、一瞬迷ったものの結局蒼真に甘えることにして、鏡華と道場を後にした。
鼻血が垂れ落ちないよう、頭を仰向けにしつつ。
*****
朝の鍛錬の後は朝食──の前に風呂である。
最初に、汗や汚れを軽く落とす──風呂に入る際に望ましいとされる、手順だが礼儀だかを踏んでから、アレクシアは湯船につかり、
「いっ」
新しく出来た打ち身に、暖かい湯はやけに滲みた。それをしばらく堪えて、
「はふぅ~~~~~」
ようやく、ため込んだ諸々と共に、深々と吐き出す。この二週間で、そんな年寄りじみた習慣が、すっかり身についてしまった。
(……それにしても……)
アレクシアは、湯船に目を落とす。
風呂──もちろん、神聖帝国にもある。
一人用の小さなモノから、十人同時に両手両足を伸ばしても余るくらいの巨大なモノまで。
そして、大きさの分に比例して、かかる手間も増える。
神聖帝国の風呂とは、浴槽に満たした水を法術によって温める仕組みで、当然ながら術者の力量に左右される。規模が大きくなれば数人がかりで沸かす必要があり、特に皇族や高位貴族が使うような代物ともなれば、専属の係もいる程であった。
もちろん、一人で入る分には、本人の法力だけで充分なのだが、それでも手間がかかることは違いない。アレクシアの場合は、尚更だった。
「……それに比べて」
アレクシアは、壁に取り付けられている操作盤に目を向ける。
あれを指一本で操作すれば、あとは機械が全てやってくれるのだった。湯沸しはもちろん、必要な量を必要な分だけ浴槽に湯を張り、水温を維持し続ける作業まで。
機械とは便利なモノ──否、そんな便利な機械を作る陽出の文明が、恐ろしいほどに発達している。
(むしろ……神の加護と寵愛を受けた神聖帝国の方が……)
「早くしろ~、後がつかえてんだからよ~」
扉の向こうから蒼真に急かされて、アレクシアの思考は中断された。いつもなら、もう少しくらいは入っていられるはずなのだが。
「今日は……つうか、今日からはのんびり出来ねえんだ。幸せ気分のところ悪ぃが、もう上がってくれや~」
「ハ~イ」
残念ながら、至福の時間はお終いらしい。アレクシアは、いそいそと風呂場から出て、
「え」
扉を開ける音で気づいたか、蒼真が慌ただしく入りこんできた。
そして、丸裸で凍り付いたアレクシアなど見向きもせず、そもそも認識すらしてないかのように服を脱ぎ棄てて、
「おいボ~っとしてんなよ、さっさと出ろ出ろ」
と、アレクシアを押しのけて風呂場に入った。
悲鳴も文句を言う暇も無かった。
「……え~」
いや、蒼真がこういう奴だということは分かっている。似たようなことは、今まで何度かあったが、いつもこんな調子である。
しかし、何と言うか、
(なんなのよ、この……釈然としないというか納得いかないというか)
「ゴメンね、アレクシアちゃん」
悶々とするアレクシアの肩に、慈愛の笑みを浮かべた鏡華が優しく手を置いた。
「本当に、どうして、うちの子はこんな風になってしまったのかしらね~」
そして慈愛の笑みを浮かべたまま、静かに風呂場の扉を開けた。
「あ?」
湯を頭から被っていた蒼真は、怪訝そうな顔で振り返り──すぐに鏡華が、後ろ手で扉を閉めたため、そこからの詳しい事は分からない。
「ちょ、なんだよおい」
ちなみに──鏡華は、蒼真以上の達人である。
以前、手合わせをした時など、竹刀を弾き飛ばされるだけだけなら良い方で、気づいた時には、天井を仰ぐか床板を舐めていた。何をされたのかすら、分からないまま。
「いやせめて顔はやめぇえええええぎゃあああああああっ!」
蒼真の悲鳴と、その合間に聞こえる諸々の音が、全てを物語っていた。
この後──顔以外を痣と傷だらけれにした丸裸の蒼真が、鏡華に踏みつけられる形でアレクシアに土下座したのは、言うまでもない。