052話 「至福とはこういうことを言うのだろうな」
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「至福とはこういうことを言うのだろうな」
「そうですねぇ……」
キンキンの冷酒を嗜みながら恋人と戯れ湯に浸かる。
恐らく天国に極めて近いだろうとしみじみ噛み締める響に、綾としても全く同意するところだった。
今綾は、響を後ろから抱きしめる体勢になっている。
綾自身は一滴もお酒は飲めないが、まったりと身体を預ける響の、間違いなく自分だけしか見た事がない甘えた姿は酔いしれるほどの幸福を感じる。
普段からまったく威風堂々たる佇まいを崩すことのない響であるから、こういった気の抜けた姿というのはなんとなく特別感があった。
綾の手が、甘やかすように腹筋を撫でる。
へそをくりくり弄べば、響はちぅ、と綾の唇を吸った。
応えるように唇を重ね、くすくすと笑いをこぼす。
ほんの少し香る酒精に、綾の目がとろりと落ちた。
なんだかとても心地がよい。
好きな人と粘膜を触れ合わせることは、なんだか互いを取り込もうとしているみたいでいつだって気持ちがいいけれど、それとはなにか違うほわほわと暖かな心地よさがあった。
湯と共に揺蕩うように、触れる肌がふよふよとほころんでいく。
のしっ、と肩に顎を乗せる。
さらさら触れる髪ときりりとした頬。
なにかが、なんでも、してあげたい気持ちになる。
ふらりとさまよった視線が、湯面に浮かぶお盆に止まる。
手を伸ばせば、ついてきたお湯がざばあと楽しげに逃げていく。
波々揺れるお盆は、驚異的なバランス感覚でとっくりを支えていた。
雫を垂らしながら、つるりとした陶器に触れる。
冷や汗をかくそれを持ち上げてみれば、ちゃぽちゃぽと不満げに鳴いた。
とそこへ、当然に奉仕を受け取るつもりの響がお猪口を寄せる。
どうやら響はこれが欲しいらしい。
綾の手ずから与えられることを望んでいるらしい。
それなら当然、望まれるままに与えたくなる。
とっくりを傾ける。
だぽだぽとおちょこを満たす白濁の液。
表面張力を飛び越えて、温泉に飛び込んでいく雫。
「っと」
慌てて引っ込むおちょこ。
く、と触れた響の口の中に、入っていく。
―――先輩が、自分以外と口付けしている。
私は今ここにいるのに。
その唇も、喉も、唾液も、胃も、全部、私のものなのに。
ゆるゆると、綾の口角が上がる。
とぽとぽと冷酒を湯に注ぐとっくりが、とっぷんと落ちる。
まったく仕方がないなあと、綾は笑う。
響先輩はとっても悪い人だから、そんな見せつけるようなことをするのだ。
そんなところももちろん魅力的で、とっても愛らしくて、愛おしいけれど。
でもせっかくふたりきりでいるときに、全部が全部私のものでしかないこのときに、なんて。
ああ。
まったく、響先輩は悪い子だ。
「ふふ、あはは」
「っ、まさか柊よっ、んむっ」
―――これは響先輩なりの甘えだ。
私は悪いことしちゃうぞーと、見せつけてくる響先輩なりの、子供みたいなアピール。
普段は凛々しいくせに、いじめられるのが大好きな響先輩。
可愛いプライドのせいでそれを正直に言えないから、こうして遠回りに。
ああなんて、なんて可愛いんだろう!
「まっ、キスで酔うかおまっ、んぁっ、や、なんっ、ふくっ……」
―――そんな蕩けた思考と共に、綾は響と湯に溶ける。
■
ぐでぇ。
と、そんな音で表現できそうなくらいに脱力して寝っ転がる響。
脱力というか、あまりの疲弊に力が入らないとでも言った方が正しいかもしれない。
顔色だけは妙に艶やかではあったが、表情にもどこか疲労感が漂っている。
そんな響に膝枕を提供しながら、綾は響の髪を梳いている。
響と比べてまったくけろりとしているが、その表情はなんとも申し訳なさそうだった。
「ごめんなさい……」
「いやなに、あれは私のミスだ」
しょんぼりな綾に、気にするなと笑う響。
その声は酷く掠れ、反応を示していないだけでかなり喉が痛んでいることに綾は気がついていた。
理由など、考えるまでもない。
酔っている間の記憶がはっきりと残るタイプの綾は、散々に鳴く響の声を、姿をありありと思い出すことができる。
響自身、嫌がってはいなかった(というより、嫌がることを許さなかった)にせよ、さすがにこれはやりすぎだと、綾は反省する。
なにせ旅行はまだ始まったばかりなのだ。
にも関わらず、これほどまでに消耗させてしまうなど、向こう見ずにも程がある。
それもこれも、一杯やったあとの口付けなどという間接的摂取ですらあっさり酒に酔った綾の驚異的な酒の弱さと、それによる理性の喪失が原因だった。
もちろん綾も、そして数年の付き合いである響も綾の酒の弱さは十分に知っている。
その酒癖の悪さについても当然に。
ウィスキーボンボンなんかも絶対に口にしないレベルである。
しかしまさか、キスで、とは。
お風呂に入っていたから回りが早かったのか、それとも気化したアルコールを知らず知らず少しづつ摂取していたのか。
「まあ、この私に酔うというのは仕方のないことだろう。そんなことより柊、私は腹が減ったぞ」
「……そう、ですね」
声こそ痛々しいが、けろりと言ってのける響。
綾は少しぎこちなく頷いて、それからすぐに気を取り直す。
気にしない訳では、ないけれど。
せっかくのふたりきりの時間は、楽しい思い出の方が嬉しい。
そんな訳でふたりは、実は先程から放置されていた朝食にとりかかる。
土鍋の炊きたて白米と焼き魚、卵に漬物、小鉢の和え物におみおつけ。
シンプルに豪華な朝食といった品々は、美味しそうな湯気を立ててふたりを待っていた。
響を前に座らせ、その後ろから抱きしめるように綾が座る。
疲労を理由にご奉仕モードに入った響なので、当然のように綾がその口に食事を運ぶ。
綾も響の咀嚼中など隙を見ては食事を口に運ぶ。
たまに気まぐれを起こした響が綾に一口分運んで満悦したりしつつ、のんびりと食事を摂る。
そうしておなかいっぱいになる頃には、響はずいぶんと活力を取り戻していた。
「軽く休んだら腹ごなしに散歩にでも行くとするか」
「いいですね。景色よさそうですし」
「もう少し後なら雪でも降ったのだが」
「ふふ。私は結構好きですよ?これくらいの時期も」
「わびさびというやつだな。あいにく風流は解さんが」
そんな訳で、しばらくした後、ふたりは旅館探検に繰り出した。
広い建物というのは、それだけでなんだかわくわくする綾である。
響とのんびり語らいながら、旅館の設備を見て回る。
その途中、アクティビティルームを覗いてみたところで、響がそこにあった卓球台に目をつけた。
「やるぞ、柊」
「お手柔らかにお願いしますよ?」
ぽいっと投げ渡されるラケットを受け取り、綾は苦笑する。
なんともやる気満々といった様子の響の辞書には、手加減などという言葉は載っていない。
それどころか、妥協などという言葉すら載っていないらしかった。
「負けた方は今日一日隷属だ」
「あはは。いいですよ」
獰猛に笑う響に、綾はにっこりと笑う。
基本的に、綾はさして運動神経が良くはない。
一方の響は、初体験のスポーツでプロと勝負ができる程度の恐るべきセンスと運動神経の持ち主である。
つまり必然的に不利なのは綾で、こういった勝負のときは決まって綾が罰ゲームを受けるのだ。
だからといって負けるつもりはさらさらないのが、綾という人間だった。
穏やかな笑みの向こう、瞳の奥に煮えたぎる闘争心。
本気でやろうというときは、ついつい笑みを浮かべてしまうのが綾なのだ。
それを理解する響は、こうでなくてはと舌なめずりをした。
「全力で抗ってみせろ、柊」
「油断は禁物ですよ」
「はっ。上等だ」
軽いやり取りを経て、激闘が始まる。
運動神経と運動センスによる単純な強さでねじ伏せる響。
それに対して綾は、その常軌を逸した観察力による未来予知にも似た人読みで全ての動作に先んじてラケットを振るう。
明らかに動きが違うのに戦いが平行線を辿るという傍から見れば異常な一進一退の攻防。
とはいえ単純に、先読みしたところで打ち返せない流れを作ってやれば綾にアジャストする能力はなく、結局順当に響の勝利で幕を閉じた。
こうして、晴れて綾は響の奴隷となるのだった。
「とりあえず今日一日は私をご主人様と呼べ」
「はい、ご主人様」
「もうしばらく散歩するぞ柊」
「はいご主人様」
「くはっ。たまにはこういうのも悪くないな」
けらけらと笑う響は、なんとも楽しげである。
なんにせよ響が嬉しいならそれ以上のことはないと、綾は傅くように寄り添った。
■
《登場人物》
『柊綾』
・お酒を飲むと理性のタガがぶち外れるので精神テンションが幼少期に戻る。あの頃は若かったぜ、とか軽率に語れる黒歴史ではないので、そういうところもひっそりと心を抉ったり。まあなんにせよ目の前の大好きな人以上のものはないのだけれど。
『藤崎響』
・蟒蛇の化身が如く飲むくせに健康診断はいつもA。実は改造人間なのではないかともっぱらの噂。適度に上機嫌になるけど酩酊という感覚を知らない。飲むとむしろ性欲が減衰するので、本当に忙しいときは四六時中なにかしらのお酒を摂取していたりする。
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