第22章~第28章
第二十二章
ユージンの現状と、この二人の女性が彼の人生に登場しそれが彼にとって大きな存在になり始めたことがかかえる大きな問題点は、彼がお金を稼いでいないことだった。一年目は約千二百ドル稼ぐことができた。二年目は二千を少し上回った。三年目の今年はもう少し順調に進んでいた。しかし自分の周りで見たものや、人生で今知っていることを考慮して見ると、これは無に等しかった。ニューヨークは、彼がこれまで存在を知らなかった物質的なものが見せる壮観を見せてくれた。五番街を走る馬車、高級ホテルのディナー、絶え間なく新聞紙面を賑わす社交界の話題はユージンの頭脳をくらくらさせた。ユージンは、通りをぶらぶら歩き、立派に着飾った群衆を眺め、いたるところにある目を見張るものや洗練されたものを見て、自分は生きているのではなく、存在しているだけだという結論に達した。彼が最初に夢見ていた芸術は、栄誉へ続く道であるだけでなく富にも通じているように見えていた。今、自分の周囲を研究してみて、ユージンはそれが違うことに気がついた。芸術家は決して大金持ちではないことを学んだ。バルザックの小説『従妹ベット』を読んだことを思い出した。パリの裕福な家庭のひとつに、恩着せがましく娘との結婚を許されたある偉大な芸術家の話だった。しかし、これは娘にとってはひどい没落だと思われた。ユージンは芸術家になりたくてとても気分が高揚していたので、当時はこの考えを信じなかった。しかし、今ではそれが芸術家に対する世間の扱いを代表していることがわかり始めていた。アメリカにはとても人気があって、年収が一万から一万五千ドルと言われる人が少しいた……彼は特定の場合には虚飾だと考えた。いわゆる「四百人」で構成される、あの真の贅沢の世界の人たち……莫大な富と社会的地位を持つ人たち……は、どのくらい高い地位にいるのだろう、とユージンは自分に問いかけた。社交界にデビューする衣装に一万五千から二万五千ドルもかかると新聞で読んだことがあった。レストランのディナーに十五ドルから二十ドルを費やす男性にとって、それは大変なことではない、とも耳にした。彼が聞いた仕立て屋の請求額……オペラ座で宝石や高価な衣装を披露するドレスメーカーの言い値……は、芸術家の貧しいわずかな収入を無に等しく見せた。ミス・フィンチは、持ち前の機転と順応性で大勢の社交界の人たちの親交を得ていたので、知り合いの輪の中で自分が会った見応えのある人やふんぞり返った人の話を絶えず彼に話していた。ユージンが彼女をよく知るようになると、ミス・チャニングはいつも自分がつかんだこと……一晩で千ドルもらう大物の歌手やバイオリン奏者とか、成功したオペラのスターに要求されるべらぼうな金額……を話してくれた。ユージンは自分の微々たる収入を見て再び情けなくなり始め、シカゴで過ごした最初の日々のようにかなり落ち込んでしまった。何にしても、名声のない芸術に価値はなかった。これでは本当の生活はできなかった。みんなが認めるある種の精神的な開花をもたらしはするが、その当人は貧しく、病み、腹を空かせた、みすぼらしい天才なのかもしれない……実際にそうなる可能性があった。最近パリで死んだヴェルレーヌを見るがいい。
この感情の一因は、ニューヨークで贅沢の黄金時代が幕を開け、それを繰り返し見た影響がユージンに及んでいたからだった。これまでの五十年で莫大な富が蓄積され、現在この新しい大都市には、その価値が百万ドルから五千万ドル、場合によっては一億ドルという住民が何千人も住んでいた。大都市圏、特に五十九丁目より上のマンハッタン島は、雑草のように成長していた。すばらしいホテルが、いわゆる「白く明るい」地区のあちこちに建てられた。ちょうどその頃、新しいニーズを満たすために、首都の最初の組織的な試みが始まっていた。……あらゆる方面からニューヨークへと流れ込んでくる、新しい裕福な中産階級の人々を住まわせる、近代的で豪華な八階、十階、十二階建てのアパートである。西部でも、南部でも、北部でも金儲けは行なわれていて、儲けている人たちは余生を贅沢に暮らせる余裕ができたとたんに東部へ移動し、こういう高級マンションに住み、すばらしいホテルに群がり、豪華なレストランの常連客になり、この街に贅沢な雰囲気を与えていた。美術品や骨董品の店、敷物の店、壁掛け、家具、美術品の新しい物から古い物までを扱う装飾品の会社など、派手で物質的な生活の需要を満たすあらゆるものが、ものすごく繁栄し始めていた……絵画のディーラー、宝石の店、陶器やガラス製品の店など、生活を快適にして輝かせるもののすべてに及んだ。ユージンは街を歩いて、これを見て変化を感じ取り、この流れはもっと人口が増えて、もっと贅沢になり、もっと美しくなる方向に進んでいることに気がついた。彼の頭は「今」を生きることだけで精一杯だった。「今」は若く、「今」は元気で、「今」は鋭さがあった。数年後はそうではないかもしれない……七十年が与えられた寿命だというのにすでに二十五年が過ぎてしまった。もし一度もこういう贅沢を味わうことがなかったら、上流社会の仲間入りを許されなかったら、金持ちが今生きているような生き方を許されなかったら、どうしよう! そう思うとやりきれなかった。世界の懐から富と名声をもぎ取りたくてたまらなかった。人生は彼にも取り分を与えなければならない。もし与えなかったら、死ぬまで人生を呪うつもりだった。二十六歳に近づいたときに、そう感じた。
クリスティーナ・チャニングとの親交が彼に与えた影響は、とりわけこれを強調するものだった。彼女はユージンよりもそれほど年上ではなかった。同じ気質、同じ希望と大志を多分に持っていた。そして彼とほとんど同じくらいはっきりと出来事の流れを見極めていた。ニューヨークは贅沢の黄金時代を目撃するはずだった。すでに突入していた。どの野でも、特に音楽や舞台は、抜きん出た人たちが、一番目立つ贅沢の光景を分かち合う可能性が高かった。クリスティーナはそれを望んだ。彼女には自分がそうなる自信があった。ユージンと何度か話をしてみて、彼もそうなると思うようになった。彼はとても才能があって、とても鋭かった。
「あなたにはそういうところがあるわ」クリスティーナはユージンが二度目に来たときに言った。「あなたってとても支配的なのよ。あなたは自分が望むことはほとんど何でもできるって私に思わせてしまうの」
「いや、とんでもない」ユージンは否定した。「そんなにひどくはないですよ。僕だって欲しいものを手に入れるのに、人並みに大変な苦労をしますからね」
「あら、でもあなたはやりとげるわ。あなたにはアイデアがあるもの」
この二人が理解し合うのに時間はかからなかった。もちろん最初は限定的だったが、二人は互いにそれぞれの経歴を打ち明けた。クリスティーナはメリーランド州ヘイガースタウンで始まった自分の音楽の歴史を語り、ユージンはアレキサンドリアの若かりし日々に戻った。二人は自分たちが受けてきた親の管理の仕方の違いを話し合った。ユージンは彼女の父親の仕事が牡蠣の養殖であることを知り、自分がミシンの代理店の息子であることを打ち明けた。小さな町の影響や、若い頃の幻想や、やろうとしたさまざまなことについて話をした。クリスティーナは地元のメソジスト教会で歌い、かつては婦人向けの帽子屋になりたいと思い、彼女を自分の結婚相手にしようとした教師の手におちて、承諾寸前のところまでいったことがあった。何かが起きた……夏に出かけたか、その類のことをして、気が変わったのだ。
ある夜、彼女と一緒に劇場で夜を過ごして遅い夕食をとり、彼女の部屋で静かな夜を過ごそうとした三度目の訪問で、ユージンは彼女の手を取った。クリスティーナはピアノのそばに立ち、ユージンは彼女の頬と、好奇心旺盛な大きな目と、滑らかな丸みをおびた首と顎を見ていた。
「あなたは僕のことが好きですね」いつも二人の間で強く働いていた互いに引き合う力を除けばあまりにも唐突にユージンは言った。
鮮やかな血色が首と頬を染めたが、クリスティーナはためらうことなくうなずいた。
「あなたは僕にとって」ユージンは続けた。「言葉が何の値打ちもなくなるほどとても魅力的なんです。僕はあなたを描くことができます。あるいは、あなたはありのままのあなたを歌で僕に伝えることができます。しかしただの言葉ではそれはわからないでしょう。僕は以前にも恋をしたことがありますが、あなたのような人とはしたことがありません」
「あなたは恋をしているの?」クリスティーナは素朴に尋ねた。
「これは何なのでしょう?」ユージンは尋ねて、相手を引き寄せながら両腕を滑らせるようにして抱きついた。
クリスティーナはバラ色の頬をユージンの唇の近くに残したまま顔をそむけた。ユージンはそこへ、それから口と首にキスをした。彼女の顎を押さえて目をのぞき込んだ。
「気をつけてね」クリスティーナは言った。「母が入ってくるかもしれないわ」
「お母さんのことはいいから!」ユージンは笑った。
「母が見たら、あなたを絞首刑にしちゃうわよ。母は私がこんなことをするとは思ってないもの」
「だとすると、お母さんは我が子クリスティーナのことをあまりわかってないんだな」ユージンは答えた。
「母だってそのくらいのことはちゃんと知ってるわ」クリスティーナは楽しそうに打ち明けた。「ああ、せめて今、私たちが山にでもいたらよかったのに」と付け加えた。
「何っていう山だい」ユージンはもの好きにも尋ねた。
「ブルーリッジよ。フロリゼルにバンガローがあるの。今度の夏そこへ行くとき、あなたも来なきゃだめよ」
「そこへはお母さんも行くのかい?」ユージンは尋ねた。
「お父さんもよ」クリスティーナは笑った。
「じゃ、いとこのアニーも一緒だね」
「いいえ、行くのはジョージ兄さんよ」
「そんなバンガローはご免だな」ユージンはものすごく普及したスラングを使って答えた。
「あら、でもあの辺のことなら、私、詳しいのよ。すてきな散歩やドライブができるところがあるんだから」彼女はこれをお茶目に、素朴に、思わせぶりに言った。明るい顔が完璧に見える知性で輝いた。
「じゃあ……そういうことにしよう!」ユージンは微笑んだ。「そしてそれまでは……」
「ええ、それまで、あなたは待たなくちゃいけないわ。事情はおわかりよね」クリスティーナは奥の部屋に向かってうなずいた。そこでチャニング夫人が軽い頭痛で横になっていた。「母はあまり私を独りにしないのよ」
ユージンはクリスティーナをどう受けとめていいのかよくわからなかった。これまでにこういう態度に遭遇したことがなかった。とても豊かな才能や、実力とも関わりがある彼女の率直さは、むしろ彼を驚かせた。ユージンはこうなるとは予想しなかった……彼女が自分に愛を告白するとは思わなかった。バンガローやフロリゼルについて言った話し方で、彼女が何を言いたかったのかわからなかった。ユージンは喜んで、勝手にうぬぼれていい気になった。こんなに美しくて才能のある女性が愛を告白できたのなら、彼はきっとそれだけの人物であるに違いなかった。そして、彼女はもっと自由な状況を考えていた……一体どんな状況だろう?
ユージンはこのとき、この問題をあまり詳しく追求したくなかったし、クリスティーナは彼の追求を望まなかった……彼女は謎のままにしておきたかった。しかし、彼女の目には愛情と称賛の光が宿っていて、それが現状をとても誇らしく幸せだとユージンに感じさせた。
クリスティーナの言うとおりで、この状況では恋愛のチャンスはほとんどなかった。母親が四六時中、彼女と一緒にいたからだ。クリスティーナは交響楽団のコンサートに彼女が歌うのを聴き来るようユージンを誘った。最初はウォルドーフ・アストリアのすばらしい舞踏会場、二回目はカーネギーホールの立派な観客席、三回目はアリオン協会の特等席で、彼女がフットライトに向かって颯爽と歩き、立派なオーケストラが待機していて、聴衆が期待に胸を膨らませ、彼女自身が胸をそらせ自信満々でいるのを見るのは楽しかった……ほとんど傲慢だと思った。それでも美しかった。大観衆が拍手喝采を轟かせたとき、ユージンは彼女との甘美な思い出に浸っていた。
「昨夜、彼女は僕の首に抱きついたんだ。今夜行って二人っきりになったらキスしてくれるだろう。あそこに立ってお辞儀をして微笑んでいるあの美しい優れた人が愛しているのは、僕であって他の誰でもないんだ。もし僕がプロポーズしたら結婚してくれるだろう……もし僕に地位と財産があったらだが」
「僕に地位があったら……」ユージンは考えあぐんだ。自分がそうでないことを知っていたからだ。ユージンでは彼女と結婚できなかった。事実、彼女は彼の稼ぎがどれほど少ないかを知っているから彼を受け入れないだろう……それとも受け入れるだろうか? ユージンは気になった。
第二十三章
春が終わりに近づく頃、ユージンはアンジェラに会いに戻るより、むしろこの夏はクリスティーナのバンガロー近くの山に登ろうと決めた。あの大切な人の記憶は、都会の生活のストレスと興奮にさらされて、少し薄れかけていた。アンジェラを思い出すのは相変わらず楽しいし、美しい思い出ばかりだったが、疑問が浮かび始めていた。ニューヨークの上流社会の人たちは、違うタイプで構成されていた。アンジェラは優しくてかわいかったが、そこになじむだろうか?
一方、ミリアム・フィンチは異なるものでもいいものを取り入れて折り合いをつけながらユージンの教育を続けた。彼女は学校と同じくらい優秀だった。ユージンは座って彼女の演劇の説明、本の評価、現代哲学の要約に耳を傾けた。まるで自分が成長している感じがした。彼女はとても大勢の人を知っていたから、これこれの大事なものを見るにはどこへ行けばいいかをユージンに教えることができた。びっくりするほどの有名人から、傾聴に値する人、新人の俳優まで、どういうわけか彼女はそういう人たちをすべて知っていた。
「ねえ、ユージン」彼女はユージンに会うと声を大にして言った。「『シグネット』のヘイドン・ボイドは見に行かなきゃだめ」とか「エルミナ・デミングの新しいダンスは必見よ」とか「ノードラーで展示されているウィンスロー・ホーマーの絵をご覧なさい」
彼女は、なぜそれらを彼に見せたかったのか、それらが彼のためにどう役立つと考えたのか、をきちんと説明した。ユージンを天才だと考えていることを率直に認めて、彼がどんな新しいことをやっているのかを知りたいといつも力説した。彼の作品が何か世に出て気に入ると、すぐに言いにきた。ユージンはまるで彼女の部屋も彼女自身も自分のものである、彼女のすべて……考え方、友人、経験……が自分のものである、ように感じた。ユージンは彼女の足元に座ったり、彼女と一緒にどこかに行ったりして、そういう人たちを利用することができた。春が来ると、彼女は彼と一緒に散歩をして、彼の自然や人生についての意見を聞きたがった。
「あれはすばらしいわ!」と叫んで「ねえ、あれを詩に書いたらどう?」とか「あの絵を描いたらどう?」とせがんだ。
ユージンは一度彼女に詩のいくつかを見せたことがあった。彼女はそれを書き写して傑作集と呼ぶ一冊にまとめた。そうやってユージンは彼女に甘やかされた。
別の意味で、クリスティーナも同じようにすてきだった。彼女はユージンに、自分が彼のことをどれほど思っているか、彼をどうすてきだと思っているか、を話すのが好きだった。「あなたはとても大きくて賢いわね」クリスティーナは一度、彼の腕をつかんで、目を見つめながら、愛情を込めて言った。「あなたの髪の分け方も好きよ! いかにも画家って感じなのよね!」
「そうやって僕を甘やかすんだな」ユージンは答えた。「あなたがどれほどすてきだか僕にも言わせてください。あなたがどれほどすてきだか知りたいですか?」
「うーん」彼女は笑って、否定のつもりで首を振った。
「山へ行くまでお預けだ。いずれ話します」ユージンは唇で彼女の唇をふさぎ、息ができなくなるほど抱きしめた。
「まあ」クリスティーナは叫んだ。「すごいこと。あなたったら鋼のようね」
「そしてあなたは一輪の大きな赤いバラだ。キスしてよ!」
ユージンはクリスティーナから音楽の世界と有名な音楽家についてすべてを学んだ。さまざまな種類の音楽、オペラ、交響曲、器楽曲に対する見識を深めた。さまざまな種類の作品、専門用語、声帯の奥義、トレーニングの方法を学んだ。同業者間の嫉妬や、音楽の最高権威がこれこれの作曲家や歌手についてどう考えているかを知った。オペラの世界で地位を築くことがどれほど難しいか、歌手同士が互いにどんな熾烈な戦いを繰り広げるか、世間がどんなにあっさり落ち目のスターを見放すか、を学んだ。クリスティーナが平気でそれをすべて受けとめたものだから、ユージンは彼女の勇気に惚れ込んだ。彼女はとても賢くて、とても気だてがよかった。
「優れた芸術家になるためには、たくさんのことを諦めないとならないわよ」ある日、クリスティーナはユージンに言った。「普通の生活と芸術は両立できないから」
「一体どういうことですか、クリッシー?」二人っきりだったので、ユージンは彼女の手を撫でながら尋ねた。
「まあ、まともな結婚なんてできないし、子供をもつどころじゃないし、社会的にはあまり恵まれないってことよ。そりゃ、結婚する人がいるのは知っているわ、でもね、それは間違いだって時々思うことがあるの。私が知っている歌手のほとんどは、結婚に縛られてあまり活躍していないのよ」
「あなたは結婚するつもりはないんですか?」ユージンは気になって尋ねた。
「わからないわ」彼が言おうとしていることを察しながら、クリスティーナは答えた。「それについては私だって考えたいのよ。女のアーティストって、とにかくあれだもの」ただあれだものと言って「最悪」だと指摘した。「女って考えなきゃならないことがたくさんあるのよ」
「たとえば?」
「うーん、世間がどう思うか、女の家族がどう思うか、すべてがどうなんだか、私だってわからないわ。アーティスト向けの新しい性別が要るわね……働き蜂にあるような」
ユージンは微笑んだ。彼女が何を言いたいのかわかった。しかし、彼女がいつから、芸術の非凡な実績を愛する気持ちと対立するものとして、自分の純潔の問題を議論していたのか、ユージンは知らなかった。クリスティーナは、結婚で自分の芸術家人生を複雑にしたくないとほぼ心を決めていた。オペラの舞台で成功するのは、特に新人が海外で大きなチャンスをつかむとなると、ある種の関係がからんでくることをほとんど疑わなかった。例外もあるがあまり多くはなかった。自分の頭の中では、現在の道徳を守って純真無垢であり続けるべきなのかを疑問に思っていた。女の子は純潔のまま結婚するべきだと一般的には思われたが、これは必ずしも彼女に当てはまらなかった……芸術家気質にも当てはめるべきだろうか? 母親と家族は彼女を悩ませた。彼女は純潔だったが、若さと欲望は何度か彼女をつらい目に遭わせた。そして、それを強調したのがユージンだった。
「これは難しい問題ですね」彼女は最終的にどうするつもりだろう、と考えながらユージンはいたわるように言った。結婚に対するクリスティーナの態度が自分と彼女の関係に影響することをユージンは強く感じた。彼女は愛を犠牲にして芸術をとるのだろうか?
「大問題よ」クリスティーナはそう言って、歌を歌いにピアノのところへ行った。
この後しばらくユージンは、彼女が何か過激な一歩を踏み出そうと考えているのではないかと半ば疑った……どういうものなのかは、自分に対しても言いたくなかったが、彼は彼女の問題に強い関心を持っていた。この独特な思想の自由は、ユージンを驚かせた……彼の視野を広げた。姉のマートルだったら、こんなふうに結婚の話をする……するかしないかの話をする……女の子をどう思うだろう……シルヴィアならどう思うだろう、とユージンは考えた。大勢の女性がこうやって悩むのだろうか、と考えた。彼が知る女性のほとんどは彼よりもこの方面のことをもっと論理的に考えているようだった。かつてルビーに、不義の恋愛は間違っていると思わないかと尋ねて、彼女の答えを聞いたことを思い出した。「思わないわ。それを過ちだと考えた人がいても、そのことは当人にまでは及ばないもの」ここには別の考え方をする別の女の子がいた。
二人は愛についてもっと話をした。クリスティーナはどうして僕に夏にフロリゼルに来てほしがるのだろう、とユージンは考えた。クリスティーナに限って考えているはずはない……まさか、彼女は徹底した保守派だ。彼女は僕とは結婚しないだろう……今のところは誰とも結婚するつもりはないだろう、とユージンは疑問を抱き始めた。彼女はただ一時的に愛されたいだけに違いない。
五月が来た。それに伴いクリスティーナのコンサート活動とニューヨークでの声の勉強は終わった。冬の間はずっとニューヨークを出たり入ったりして……ピッツバーグ、バッファロー、シカゴ、セントポールまで出かけて行った。そして今、冬の重労働が終わり、フロリゼルに出発するまでの二、三週間、母親と一緒にヘイガースタウンに行って鳴りを潜めた。
「あなたもここにいらっしゃい」クリスティーナは六月の初めにユージンに手紙を書いた。「うちの庭では三日月が輝き、バラが咲いています。香りも、露も、とても甘美です! 窓のいくつかが芝生と同じ高さで開くので、私は歌を口ずさんでしまいます! 歌が尽きません!」
ユージンは駆けつけようと思ったが、思いとどまった。二週間後に山に向かって出発するとクリスティーナが言って寄こしたからだった。彼はある雑誌のために急いで完成させなければならない絵をひと仕事かかえていた。だから、それが仕上がるまで待つことにした。
六月下旬、ユージンはフロリゼルのあるペンシルベニア州南部のブルーリッジに行った。ユージンは最初、チャニング家のバンガローに滞在するように誘われると思ったが、近くのホテルに宿泊した方が彼にとって安全で良策だとクリスティーナが警告した。隣接する丘陵の斜面には一日五ドルから十ドルで宿泊できるホテルが数件あった。これはユージンには高かったが、行くことに決めた。彼はこのすばらしい人と一緒にいたかった……私たちが一緒に山にでもいたらよかったのに、と彼女が願った意味を確かめたかった。
ユージンは約八百ドルの蓄えが貯蓄銀行にあったので、このちょっとした遠出のために三百ドルを引き出した。彼はクリスティーナに、彼女が好きなヴィヨンのとても立派な装丁の本と、新しい詩集を数冊持っていった。彼の最近の気分で選ばれたこのほとんどは悲しい詩だった。その美しさは完璧でもすべてが人生の虚無と悲しみを説いていた。
この時ユージンは、来世など存在しない……漫然と動いている目的のない闇の力以外何も存在しない……という結論に達していた。以前は漠然と天国を信じ、地獄はあるかもしれないと思っていた。読書は彼を、論理と哲学のいくつかの主流の道といくつかの半端な脇道に導いた。今は手当たり次第に本を読み、かなり論理的に物事を考えた。彼はすでにスペンサーの『第一原理』に取り組んでいた。それは文字通り彼を根こそぎにして、漂流させた。そして、そこからマルクス・アウレリウス、エピクテトス、スピノザ、ショーペンハウアー……彼の私的な理論をすべてはぎ取り、人生とは本当は何なのかを考えさせた男たち……のもとへ戻ってきた。こういうものをいくつか読んだ後、力の作用や、物質の崩壊や、思考の形は雲の形と同じように安定性を持たない事実、を思索しながら長い時間、通りを歩いた。哲学が生まれては消え、政府が生まれては消え、人種が生まれては消えた。彼はかつてニューヨークの立派な自然史博物館に足を踏み入れて、先史時代の動物の巨大な骨格を見つけた……それらは、彼の時代をさかのぼること二百万年、三百万年、五百万年前に生息したと言われるものだった。ユージンはそれらを生み出した力と、それらが死滅するのを許した明らかな無関心に驚嘆した。自然はその種類を惜しみなく生み出し、何ものにもまったく執着しないようだった。ユージンは、自分は無であり、全然重要ではないただの貝殻、音、葉っぱに過ぎないという結論に達し、しばらくそれは彼の心を引き裂いたも同然だった。それは彼の利己主義を打ち砕き、知的なプライドをずたずたにしてしまいそうだった。彼は傷つき、ふさぎ込み、迷子のように呆然と歩き回った。しかし根気よく考え続けた。
次はダーウィン、ハクスリー、ティンダル、ラボック……イギリスの思想家が続々と登場した。彼らは他の思想家の独自の結論を補強したが、自然の手法の美しさ、決まった手順、種類や発想の豊かさをユージンに示して、彼をかなり釘付けにした。ユージンは今でも本を読み、詩人であり、自然主義者であり、エッセイストだったが、ずっと気分は暗かった。人生は、目的もなく動く闇の力以外の何物でもなかった。
ユージンがこの考えを自分の人生に適用したやり方は、特徴的で個性的だった。美はいっとき開花して永遠に消えてしまう、と考えるのは悲しいことに思えた。自分の人生が七十年しかなく、その後なくなる、と考えるのは恐ろしかった。自分とアンジェラは偶然知り合った……化学的親和性が高かった……それが二度と会うことがなくなるのだ。自分とクリスティーナ、自分とルビー……自分と相手が誰でも……二人が一緒にやっていける明るい時間は短くて、やがて大きな静寂が訪れ、消滅して、自分はもう存在しなくなるのだ。これを考えるのは苦痛だったが、ユージンに生きたい、この世にいる間は愛されたい、という熱意をますます募らせた。いつも自分を安全に閉じ込めてくれるすてきな女の子の腕さえあればいいのだが!
夜の長旅を終えてフロリゼルにたどり着くまで、ユージンはこんな気持ちだった。時々彼女自身がかなりの哲学者で思想家だったクリスティーナはさっそくそれに気がついた。彼女は、ユージンをドライブに連れ出そうと自分のかわいい小さな二輪の軽装馬車と一緒に車庫で待っていた。
馬車は、柔らかくて、黄色い、埃だらけの道を走り出した。山の露はまだ大地に残っていて、砂埃は湿気を含んで重かったので飛んでいなかった。木々の緑の枝が二人の頭上で低く垂れ下がり、曲がるたびにすてきな景色が視界に入った。誰も見ていなかったので、ユージンは頭をひねってゆっくりと唇にキスをした。
「幸い、この馬はおとなしいわ。さもなきゃ事故にでも遭っちゃうわよ。何であなたはそんなにご機嫌斜めなのかしら?」クリスティーナは言った。
「僕は機嫌悪くなんてないよ……それとも悪いのかな? 最近いろいろなことを考えてるんだ……主にあなたのことだけど」
「私のせいで鬱いでるの?」
「見方によってはそうですね」
「一体どういうわけかしら?」クリスティーナは深刻な事態を想定して尋ねた。
「あなたがとても美しくて、とてもすばらしいというのに、人生がとても短いんだ」
「あなたが私を愛せるのはせいぜい五十年よ」クリスティーナはユージンの年齢を計算しながら笑った。「まあ、ユージン、子供みたいね!……ちょっと待って」少し黙って、馬を木陰に寄せながら付け加えた。「これを持ってて」手綱をユージンに渡しながら言った。ユージンが受け取ると、クリスティーナは彼の首に抱きついた。「さあ、お馬鹿さん」クリスティーナは叫んだ。「愛してる、愛してる、愛してるわ! あなたみたいな人は誰もいなかったわ。これで気が晴れたかしら?」クリスティーナは目をのぞき込んで微笑んだ。
「はい」ユージンは答えた。「しかしそれじゃ足らない。七十年じゃ足らないよ。今みたいな人生は永遠でも足らないな」
「今みたいな、か」クリスティーナはその言葉を繰り返して、それから手綱を取った。ユージンが感じたものを感じたのだ。あるべき姿を維持するためには持続的な若さと持続的な美しさが必要だった。しかもそれらはいつまでも続かない。
第二十四章
山で過ごした日数はちょうど十七日だった。ユージンはクリスティーナと過ごした時間の中で、これまでに経験したことのない奇妙な精神の高揚に行き着いた。第一に、ユージンはクリスティーナのような容姿端麗、頭脳明晰、繊細な芸術感覚にあふれた若い女性を知らなかった。彼女は彼が言いたいことをすぐ正確に理解した。クリスティーナは自分自身の考えや感情をとてもわかりやすく彼に伝えた。生命の謎は彼の頭脳を考えさせたように彼女の頭脳にもたっぷりと考えさせた。クリスティーナは、人間の体や、その神秘的な感情や、意識的及び潜在意識的な活動と関連要素の微妙な問題について多くのことを考えた。情熱や欲望や生きる上で不可欠なものは、繊細な織物のように複雑で考え甲斐があった。彼女には座って自分の考えをまとめる時間がなかった。執筆したいわけではなかった……しかし自分の感情を通して、歌うことで、自分が感じた美しく哀れなものを表現した。彼女の若い血の中には、人生のどの局面も恐れない、あるいは彼女が自分自身を指して呼ぶそのちっぽけな物が消滅するときに自然がそれにもたらす結果も恐れない、勇気と強さがあったので、このときも上品でロマンチックな物悲しい気分で話すことができた。「時間と変化は私たち全員に降りかかるものよ」クリスティーナが言うとユージンは深刻にうなずいた。
ユージンが泊まったホテルは、これまでに知ったどこよりも見栄っ張りだった。彼はこれまでの人生でこれほど多くのお金を持ったことも、それを惜しまずに使う必要があると感じたこともなかった。彼が取った部屋は……クリスティーナの思惑もあって……最高の部屋だった。ユージンはクリスティーナの提案に従って何度か彼女と母親と兄をディナーに招待した。残りの家族はまだ到着していなかった。そのお返しに、彼はバンガローでの朝食、昼食、夕食に招待された。
クリスティーナはユージンが到着したときに、できるだけ多くの時間を彼と一緒に二人っきりですごす計画だと明かした。ハイヒルやボールドフェイスやチムニー……周囲の三つの山……まで遠征することを提案した。彼女は七マイル先、十マイル先、十五マイル先にあって、列車かドライブで行けて月明かりをあびて帰って来られるいいホテルを知っていた。雑木林や木立の中にある人里離れた場所を二、三か所選んでおいた。木々は草の小さな空き地に取って代わり、そこで二人はハンモックをつるして、詩集を散らかし、腰掛けて会話を楽しみ恋愛を満喫した。
雲ひとつない空の下、六月の天候の真っ只中、この交際の影響を受けて、ついにクリスティーナはある取り決めに屈し、まさか彼女とそうなろうとはユージンが夢にも思っていなかった関係に彼を引きずり込んだ。二人は求愛のあらゆる微妙な過程を少しずつこなして進んだ。二人は情熱と感情の本質について議論するようになった。この最も親密な関係には本質的な悪があると確信したが、無視できるものとして一掃した。最後にクリスティーナは率直に言った。
「私、結婚したくないの。私には向いてないよ……とにかく自分が完全に成功するまではしないわ。むしろ待つわよ……あなたを手に入れて独身でもいられたらいいんだけど」
「どうして僕に身を委ねたくなったんですか?」ユージンは気になって尋ねた。
「本当にそうしたいのかわからないけど、あなたの愛だけでいいのよ……もしあなたが満足するのなら。私が幸せにしたいのはあなたなんだもの。あなたが望むものは何でもあげたいわ」
「変わってるね」彼女の恋人は手で彼女の高い額をなでながら言った。「あなたって人がわからないな、クリスティーナ。あなたの考え方がわからない。どうしてそんなことをしなきゃならないの? 最悪の場合、あなたはすべてを失うのに」
「そんなことないわ」クリスティーナは微笑んだ。「そのときはあなたと結婚するもの」
「でも、僕のことを愛しているからって、僕の幸せを願うからって、こんな無茶をするのは!」ユージンは口ごもった。
「それもわからないのよ、あなた!」クリスティーナは言った。「ただするだけよ」
「でも、こういうことをする気なのに一緒に暮らしたがらないっていうんだから、僕にはわからないな」
クリスティーナは両手をユージンの顔にあてた。「私はあなたよりもあなたのことを理解してると思うわ。私はあなたが幸せな結婚をするとは思わない。私のことだっていつまでも愛さないかもしれないわ。私だっていつまでもあなたを愛さないかもしれないし。あなたは後悔することになるかもしれない。もし私たちが今、幸せになれれば、あなたはもうどうでもよくなるかもしれないわ。そのときにあなたは、私たちが幸せを知らなかったんだって考えながら、私は後悔しないだろうってことがわかるのよ」
「理屈ですね!」ユージンは叫んだ。「つまり、どうでもよくなっちゃうって言うんですか?」
「まあ、大事は大事よ、でも同じようにはいかないわ。わからないの、ユージン、たとえ私たちが別れたとしても、あなたが私の一番いい時代をともにしたと知ってるから私は満足だってことよ」
クリスティーナがこんな風に話すことが……こんな理屈を言うことが……ユージンには驚くべきことに思えた。何とも奇妙な、献身的な、運命論的な考え方だろう。若くて、美しい、才能ある女性は、本当にこんなふうになれるのだろうか? 地球上の誰かが知って、それを本当に信じる者がいるだろうか? ユージンは相手を見て悲しそうに首を振った。
「いい人生がずっと僕たちについて回るわけじゃないんだよね」ユージンはため息をついた。
「そうね、あなた」クリスティーナは答えた。「あなたは多くを望みすぎよ。あなたはそれが続くことを自分が望んでると思ってるけど、あなたは望んでないわ。それがなくなることを望んでるのよ。あなたは私とずっと一緒に暮らしたって満足しないわ、私にはそれがわかるの。神さまが与えるものをいただいて後悔しないことね。考えるのをよしなさい。あなたならできるわ」
ユージンは彼女を腕に抱き寄せた。ユージンは何度も彼女にキスをした。クリスティーナに抱かれてこれまでに知ったすべての愛を忘れてしまった。彼女は喜んで、うれしそうにユージンに身を委ねて、幸せだわと何度も繰り返して言った。
「あなたが私にとってどれだけすてきなのかがわかりさえすれば、驚かないわよ」クリスティーナは説明した。
クリスティーナは自分がこれまでに知り合った最もすばらしい存在だとユージンは判断した。これほど無私の愛を自分にさらけ出た女性はこれまでいなかった。ユージンがこれまで知った女性の中で、これほど単刀直入に自分の望むものに向かう勇気と識見を持つ女性はいなかった。彼女のような実力をもつ一人の芸術家が、一人の美しい女性が、自分は愛のために操を犠牲にすべきだろうか、従来型の結婚は自分の芸術にとっていいことだろうか、自分たちが若い今のうちに彼を自分のものにすべきだろうか、それとも慣例に屈して青春をやり過ごすべきだろうか、と冷静に論じるのを聞くことは、ユージンの未だに束縛されている魂にとって十分衝撃だった。結局のところ、彼は個人の自由を欲しいのと、知的には疑問で精神的な例外であったにもかかわらず、ジョサム・ブルー夫妻に維持された家庭と、普通の健康で従順な子どもたちというその結果に、今でも深い敬意を抱いていた。自然は間違いなく、長い一連の困難と実験を通じてこの基準に到達し、それを簡単に放棄するつもりはなかった。果たしてそれを完全に捨てる必要があるだろうか? クリスティーナが今しているように、女性が一時的に彼を受け入れてやがて離れる世界をユージンは見たかったのだろうか? ここでの経験はユージンを考えさせ、彼の理論や考えを宙に放り投げ、これまで彼が築いてきたすべての概念をめちゃめちゃにした。ホテルの立派なベランダに座って、性と人生の複雑な問題で頭を悩ませ、この答えは何だろう、どうして自分は他の男性のように一人の女性と誠実に向き合って幸せになれないのだろう、と何度も考えた。果たしてそうだろうか、自分にはできないのだろうか、と考えた。そのときは、自分にもできるかもしれないように思えた。彼は自分で自分をあまりよく理解していないことを知っていた。未だに自分を……自分の性向と可能性を……全然把握していなかった。
この幸せな状況下で過ごした日々はユージンに深い印象を与えた。人生がふとしたはずみでたどり着けるその完璧さに衝撃を受けた。一様に丸みをおび、緑に覆われた、穏やかな、この静かな丘は、彼の魂に安らぎを与えた。ある日ユージンとクリスティーナは、二千フィート登って、谷を覆うように突き出し、彼の目には神の国とも大地の力とも映るものを見下ろす岩棚にたどり着いた。……広大な緑地と細分化された畑、小さなコテージの集落と町、遠くの丘まで仲良し兄弟のようにそびえ立つ大きな丘が見えた。
「あの庭にいる男の人を見て」優に一マイル離れたところにある田舎のコテージが庭代わりにしている軒先の空き地で、薪割りをしている小さな点を指さしながら、クリスティーナは言った。
「どこですか?」ユージンは尋ねた。
「あの赤い納屋があるところ、ちょうどあの木立のこっち側だけど……わからない? ほら、あの畑の牛がいるところよ」
「牛なんか見えませんね」
「まあ、ユージンったら、目が悪いの?」
「ああ、見えました」ユージンはそう答えて彼女の指を握りしめた。「あの人、ゴキブリに見えますね?」
「ほんとね」クリスティーナは笑った。
「大地はこんなに広いのに、僕らはこんなにちっぽけなんだ。希望と野心……頭脳と神経のすべての機能……を持つあの点の人を考えて、どんな神さまが気にかけるのか教えてください。神さまはどんなふうに気にかけるんですか、クリスティーナ?」
「神さまっていうのは、特定の点をあまり気にかけないのよ、あなた。神さまは人間もしくは人間という種族の概念を全体として気にかければいいの。私にだってわからないわよ、あなた。私が知っているのは、自分が今幸せだってことくらいだもの」
「僕もです」ユージンは繰り返した。
それでも二人はこの問題、生命の起源の問題……その理由……を掘り下げた。途方もない退屈な地球の一生や、さまざまな時期に荒れ狂ったと思われる誕生と滅亡の大嵐を巡る二人の議論は続いた。
「私たちじゃ答えは出せいないわよ、ユージンさん」クリスティーナは笑った。「家に帰った方がいいかもしれないわ。かわいそうに大事な母が、娘のクリスティーナはどこにいるのか心配しているでしょうから。私があなたにぞっこんなのは母も気がついていると思うの。何人の男性が私を好きになろうと母は気にしないわ。でも私が強い好意の兆候を少しでも示そうものなら、母は心配し始めるのよ」
「好意を持った人はたくさんいたんですか?」ユージンは尋ねた。
「いないわよ、野暮なこと聞かないで。それがどんな違いを生むの? ねえ、ユージン、それがどんな違いを生むのかしら? 今私はあなたを愛してるのよ」
「それでどんな違いが出るのか僕にはわからない」ユージンは答えた。「ただ過去の経験を考えて胸が痛むだけだ。なぜかはわからないけど。痛むんだ」
クリスティーナは考え込むように顔をそむけた。
「とにかく、あなたほどの人は誰もいなかったわ。それで十分じゃないかしら? それで伝わらない?」
「ええ、伝わります。ええ、伝わりますよ。許してください。もう嘆きません」
「そう願いたいわ」クリスティーナは言った。「あなたは自分だけじゃなく私まで傷つけたんだから」
立派なベランダのどこかに座って、夜のダンスの準備で柱の間の空間に、柔らかく光る中国製の提灯を紐でつるして飾るのを眺めた夜もあった。ユージンは夏を過ごしに来る男女の到着を眺めるのが大好きだった。来るとき、女性はとても薄い白のガウンに白のスリッパを履いて柔らかい草の上を歩き、男性は白いズックやフランネルを着て、楽しそうにおしゃべりをしていた。クリスティーナは白いリネンかローンやレースで美しく着飾り、こういう催しに母親と兄同伴でやってきた。ユージンはその芸術性が完成するまでダンスを練習しなかったことを悔やみながらも我を忘れた。今は踊れるといっても、彼女の兄やワックスのかかった床で見た大勢の男性のようにはいかなかった。これは辛かった。彼は時々、愛する人とすてきな夜を過ごした後、そのすべての美しさを夢見ながら、独りで座っていた。星々が、ところ構わず種をまく人の気前のいい手で投げられた巨万の富のダイヤモンドの種のようだった。丘が黒く高くぼんやりと見えた。どこも平和で静かだった。
「どうして人生はいつもこんな調子じゃいけないんだろう?」ユージンは問いかけて、それから、すべての不変の美がそうであるように、人生もしばらくすると朽ちるのだ、と自分の哲学から答えを出した。魂が求めるのは平穏ではなく活動だ。少し活動して平穏があり、それからまた活動する。そうでなくてはならない。ユージンはそれを理解した。
ニューヨークに立つ直前にクリスティーナはユージンに言った。
「じゃあ、次に会うときは、私はニューヨークのミス・チャニングで、あなたはウィトラさんよ。私たちはここでずっと一緒だったことを忘れたも同然になるの。私たちは見たものを見て、したことをしたんだとほとんど信じられなくなるの」
「ねえ、クリスティーナ、あなたはまるですべてが終わったかのような口ぶりだよ。そんなことはないよね?」
「ニューヨークじゃ、こんなことはできないわ」クリスティーナはため息をついた。「私には時間がないし、あなたは仕事をしなくちゃならないでしょ」
声の調子に最後通告の響きがあった。
「ねえ、クリスティーナ、そんなこと言わないでくれよ。僕にはそんな考え方はできない。お願いだよ」
「だめよ」クリスティーナは言った。「じゃあね。私が戻るまで待っててね」
ユージンは彼女に何度も別れのキスをして、ドアのところでもう一度抱きしめた。
「僕を捨てるの?」ユージンは尋ねた。
「違うわ、あなたが私を捨てるの。でも忘れないでね、あなた! わからないかしら? あなたはすべてを手に入れたのよ。私をあなたの森の精にして。あとはいつもどおりよ」
ユージンはいずれ自分が経験しそうなことはすべて経験したと知ったので、心に痛みを感じながらホテルに戻った。クリスティーナは彼とひと夏を過ごした。彼女はユージンに自分のすべてを与えてしまい、今度は自由に働きたいと思った。ユージンにはそれが理解できなかったが、そうであることを知っていた。
第二十五章
山ですてきなひと時を過ごした後に、真夏の灼熱の都会へ戻るのは、かなり気が滅入ることである。ユージンの心の中には、丘の静けさ、渓流のきらめきとせせらぎ、青天の大空を滑空する鷹やノスリや鷲の急上昇と静止する姿があった。しばらくは孤独と不調を感じて、仕事と実生活全般から離れていた。クリスティーナからの手紙やメモの形をした最近の幸せの痕跡は少ししかなかった。しかしユージンは別れ際に自分を悩ませた終わりの予感で頭がいっぱいだった。
ユージンはアンジェラに手紙を書かなくてはならなかった。出かけている間、彼は全然彼女のことを考えていなかった。少なくとも三日か四日おきに手紙を書くのが習慣だった。最近の手紙はあまり情熱的ではなかったが、ちゃんと頻度は保っていた。アンジェラは、ユージンは気が変わりかけているのかもしれない、と感じ始めていたが、この突然の中断……丸三週間……は、ユージンは病気に違いない、と彼女に思わせた。ユージンの手紙は、二人が一緒に経験した楽しいことや、二人が待ちわびている幸せを思い出させるものが着実に減って、都会の生活の特色や特徴とか彼が達成したいことへの言及が増える傾向があった。アンジェラは、ユージンが名誉と二人の生活費を得るためにしている特別な努力を理由にして、この多くを大目に見る傾向があった。しかし、何か重大なことが起こったのでなければ、この三週間の沈黙を説明するのは難しかった。
ユージンはこれを理解していた。病気を理由にこれを説明しようとして、もう回復してだいぶ気分がよくなった、と伝えた。しかし、届いた彼の説明には誠意のない空虚な響きがあった。アンジェラは真実はどうなっているのだろうと思った。すべての芸術家が送ると思われているあのゆるんだ生活の誘惑にユージンは負けたのだろうか? 時間はどんどん過ぎていくのに、二人が散々話し合った結婚式の明確な日取りを彼が決めようとしないので、アンジェラは気になり心配だった。
アンジェラの立場の問題は、その遅れが自分の人生の大事なことのほぼすべてに関係があることだった。彼女はユージンよりも五歳年上だった。十八歳から二十二歳の娘特有の若さと快活さに満ちたあの雰囲気をとっくになくしていた。乙女の肉体がバラのように咲き誇り、豊かで新しくみずみずしい人生のすがすがしさと特色がある、その後の短い年月は過ぎていた。その先にあるのは、一段と険しく、抜け目なく、美しくないものへとひたすら向かう衰退だった。人によって、その衰退はゆっくりで、若さの香りが何年も残り、仕立て屋、薬剤師、宝石商の技術がほんの少しだけ必要とされる。そうでない人は進行が早い。どう工夫を凝らしても、休みのない、勢いづいた、満たされない魂の荒廃はとまらない。時には技術が衰えの遅さと組み合わさって、ほぼ永遠の魅力と、体の愛らしさと一致する心の愛らしさと、その両方を補うセンスと機転を持つ女性を作り上げる。アンジェラは幸い衰えるのが遅くて、愛らしい想像力と感情を持っていたが、落ち着きのない不安な心の性質も持っていた。もし愛の理想がかなり手の届かないところへ行ってしまったと彼女が考えたときに、家庭生活の優しい雰囲気と、ユージンの幸せだか不幸だかの介入によってそれが保たれていなかったら、彼女の顔にはすでにオールドミスの兆候が現れていただろう。アンジェラは世の中に出て、自己啓発や興味のために何かの自分の道を歩もうと意気込む、新しいタイプの女性ではなかった。むしろ彼女は、世話を焼いたり愛したりできる男性を誰かひとり求める家庭的な女性だった。ユージンとの幸せというアンジェラの夢はすばらしく美しいものだったので、今ではその夢を失う危険と、単調で低い賃金の田舎暮らしを仕方なく続けなければならない可能性が、心を苦しめていた。
一方で夏が過ぎると、ユージンは何気なく女性とのつき合いを増やしていった。マクヒューとスマイトは夏の間、故郷に帰っていた。ある日、ユージンは編集室でノルマ・ホイットモアに出会って孤独から解放された。彼女は暗く、鋭敏な、気難しい気分屋だが、前任者たちと同じように優秀な物書きの編集者で、ユージンのことを好きになった。彼女はそこの新聞のアートディレクターのヤンス・ヤンセンにユージンに紹介されて、軽い冗談を交わした後、自分のオフィスを見せると申し出た。
ノルマは自分のデスクがある縦六フィート横八フィートほどの小さな部屋に彼を案内した。やせていて顔色が悪く、年齢は自分と同じか年上で、利発で快活な女性だ、とユージンは思った。手は細くて形がよくて芸術的だったので彼の注意を引いた。目は独特の輝きを放ち、ゆったりとした服が優雅に体を包むように覆っていた。ノルマは彼の作品を知って評価していたので会話が弾み、ユージンはアパートに招待された。ユージンは無意識に思索する目でノルマを見た。
クリスティーナは街にいなかったが、彼女を思い出すと、昔の献身的な気持ちでアンジェラに手紙を書けなかった。それでもユージンはまだアンジェラを魅力的だと考えた。もっと定期的に手紙を書くべきだ、今すぐ戻ってアンジェラと結婚するべきだ、と思った。節約して暮せば、ひと間のアパートで彼女を養えるくらいの生活水準に近づきつつあった。しかし本当はそうしたくなかった。
ユージンはアンジェラと知り合ってもう三年だった。最後に会ってから丸一年半が経過していた。去年の彼の手紙は二人についての話題が少なくなって、それ以外の話題が増えていた。今までどおりのラブレターは難しいとわかりかけていた。しかしユージンは、それが何を意味するかを認識することを……自分の感情を注意深く観察することを……自分に許さなかった。そんなことをしたらユージンは、アンジェラとは結婚できないと判断して、婚約を解消してほしいと頼む苦渋の選択をせざるを得なかっただろう。ユージンはそんなことをしたくなかった。アンジェラのなくなっていく若さと彼に対する紛れもない愛情が不憫であり、彼女の時間をあまりにもたくさん奪って彼女にプロポーズしたかもしれない他のすべての人たちを排除させてしまったことに不公平感を覚え、自分が捨てられたことを家族に説明しなければならない彼女の立場の残酷さを申し訳なく思い、その代わりとして話し合った。ユージンはどんな人の感情も傷つけるのが嫌だった。ユージンは、自分を通して苦しむことになった人の悲しみを意識したくなかったし、彼らをうまく我慢させて、意識しないこともできなかった。優しすぎる心の持ち主だった。ユージンはアンジェラに指輪を渡し、待ってほしいと頼み、主張や欲望を綴ったくどい手紙を書き、アンジェラに誓いを立てていた。三年も経った今になって、彼女の魅力的な家族……高齢のジョーサム、母親、兄弟姉妹……の前で彼女を辱めることは、残酷な仕打ちに思えた。ユージンはそれを考えたくなかった。
病的で、情熱的で、心配性なアンジェラは、災いが遠くにぼんやりと現れるのを見逃さなかった。彼女はユージンを熱烈に愛していた。彼女が生まれ持った鬱積した炎は、二人の熱情を表に出す許可証を長年待っていた。それを与えることができるのは結婚だけだった。ユージンは、その態度と人間性の魅力と、雰囲気の一部の官能的特徴と、性の結びつきを語る巧みさと優雅さによって、アンジェラを駆り立て、彼女の夢の完璧な実現を期待させた。アンジェラは今では純潔を犠牲にすることさえ厭わないほど、その実現を熱望していた。自分とユージンとの間にあったある重大な出来事の記憶がアンジェラを苦しめた。ここで彼の愛情が冷めて終わるのなら、いっそのことあの時身を委ねておいた方がよかった、と感じた。身を守ろうとしなければよかった。もしかしたら子供ができたかもしれないし、彼は同情と義務感から自分に誠実な態度をとったかもしれない。少なくとも女性の有終の美を飾って、恋人と熱烈に結ばれ、最悪の場合は死んだかもしれない。
アンジェラは、自宅近くの静かな小さい湖と、空を映す鏡のようなそのガラスの水面と、夢やぶれた自分がその砂の湖底に横たわって、色あせた髪が水のあてのない動きに拡散されて、目が意識の終焉に封印されて、手が組まれている様子、を思い浮かべた。彼女の空想力は大胆さを超越した。そんなことをするつもりはなかったろうが、その夢を見ることはできた。それが一段と激しく彼女を苦しめた。
時間が経ってもユージンの熱情は復活しなかったので、この愛の問題はさらに悩ましいものになった。アンジェラはユージンを取り戻すために、自分に何ができるだろうと真剣に考え始めた。前回の訪問の際にユージンがアンジェラに対して激しい欲望をあらわにして、彼の愛をとても熱烈な言葉で表現したので、会えないことと都市生活の興奮が一時的に彼女の記憶を薄れさせることがあっても、ユージンはまだ自分を愛しているに違いないとアンジェラは確信した。アンジェラはユージンと一緒に見たコミックオペラのセリフ「会えないことは、恋人たちが悲観を育む暗室である」を思い出した。これはそのいい例に思えた。もしアンジェラが彼を呼び戻すことができたら、もしユージンが再び彼女のそばにいることができたら、彼の昔の情熱は勢いづくだろう。そしてそのときにアンジェラは彼に自分を奪わせる何らかの方法を見つけるつもりだった。この時点ではどうすればいいのかはっきりとは思いつかなかったが、捨て身でかかるという多少漠然とした考えが、すでにアンジェラの脳裏でぼんやりと不穏な動きをしていた。
実家のつらい、ある意味で心が折れる状況が、ある程度この考えの支えになった。妹のマリエッタは、蜂が花の蜜を求めるように熱心に愛情を求めるたくさんの求婚者に囲まれていた。男性たちがすでに自分を年配のお目付け役として見ているのがアンジェラにはわかった。父親と母親は、娘が仕事に励む姿を見て、こんなにいい娘が適切な理解を得られずに苦しまなければならないことを悲しんだ。アンジェラは自分の感情を隠すことができなかったし、娘の不幸は時々両親も見てとることができた。両親がそう見ていることはアンジェラにもわかった。時々ユージンの様子を尋ねる兄弟姉妹に、彼は大丈夫だと説明しなければならないことが、もうじき迎えに来ると決して言えないことが、辛かった。
最初マリエッタは姉のことが羨ましかった。ユージンを自分のものにしたいと考えたが、アンジェラの年齢と彼女がそれほど求められていない事実を考えただけで自重してしまった。今、ユージンが明らかに姉をないがしろにしていること、少なくとも限度を超えて先延ばしにしていること、をとても気の毒に思った。かつて結婚適齢期になる前にアンジェラに言ったことがあった。「私は男性に優しくするわ。姉さんは冷たすぎよ。そんなんじゃ絶対結婚できないわ」アンジェラはそれは「冷たすぎる」のが問題ではなく、出会うタイプのほとんどが最初から見劣りしてしまうせいだと気づいていた。それに普通の男性はアンジェラに夢中にならなかった。アンジェラは彼らと一緒にいても楽しめなかった。アンジェラを激しく揺さぶるにはユージンのような炎が必要だった。いったんそれを知ると他の人では我慢できなかった。マリエッタもそのことに気づいていた。この三年のせいでアンジェラは他の男性たち、とりわけ彼女にとってとても魅力的だった誠実なヴィクター・ディーンとの関係を断ってしまった。アンジェラが完全に無視されずにすんだのは、彼女の外見と感情の若さを保つロマンスの精神があったからだ。
捨てられるかもしれないと不安を心に抱きながらアンジェラは、手紙の中で会いに戻ってくるべきだとほのめかしたり、身を立てるのが難しいからといってあまり長く結婚を先延ばしする必要はないと希望を述べたりし始めた。小さな家ひとつあれば一緒に幸せになれる、また会える日をとても心待ちにしている、と繰り返した。ユージンは自分が何をしたいのかを自問し始めた。
これまでに出会ったどの女性よりもアンジェラが情熱の面でユージンにとって魅力的だった事実は、この場合アンジェラに有利に働いて救いになった。アンジェラがとる態度には、ユージンが他の場所で見つけた何よりも到来する喜びを強く深く連想させる特徴があった。ユージンはアンジェラと一緒に過ごしたすばらしい日々を……彼女自身から彼女を救ってくれとユージンに頼んだあの大事な一夜を……鮮明に覚えていた。その時アンジェラが囲まれていた季節の美しさのすべて、彼女の家族の魅力、花の香りや木陰は、今でもつい昨日のことのように新鮮にユージンの心に残っている彼女の明るさを演出するのに役立った。今、このロマンスを完成させることなく……完璧な花を咲かせることなく……捨てることが彼にできるだろうか?
この時期ユージンには交際中の女性がいなかった。ミリアム・フィンチはあまりにも保守的で頭が切れすぎたし、ノルマ・ホイットモアには魅力が足りなかった。あちこちで出会った他の魅力的な女性の見本のような人たちにも、ユージンは惹かれず、相手もユージンに惹かれなかった。ユージンは精神的に孤独だった。彼にとってこれは常にとても恋に陥りやすい状態だった。アンジェラとは終わった、と踏ん切りをつけることができなかった。
たまたま、あるとき姉の恋愛を見守っていたマリエッタが、姉を助けてあげようという結論に至った。アンジェラは明らかに心の疲れを隠していた。それが彼女の心の平穏と優しい性格に影を落としていた。姉の不幸が妹をとても悲しませた。ユージンをめぐって二人の愛が衝突したかもしれない事実があったにもかかわらず、マリエッタは姉を心から愛していた。そして一度優しい言葉で手紙を書いて事情を伝えようと考えた。マリエッタは、ユージンが善良で親切で、アンジェラを愛していて、多分姉が言うようにちゃんと結婚できる十分な資金が持てるまで先延ばしにしているのかもしれない、もしここで適切な言葉がかけられれば、いつまでも幻の財産を追いかけたりしないで、二人が年をとって結婚の甘い夢がさめるまで待つよりも、まだ若いうちにアンジェラを娶った方がいい、とわかってくれるだろうと思った。マリエッタは、アンジェラが本当はどんなに優しいかを思い描きながら、時間をかけてこれを考え、最終的に奮起して次のような手紙を書いて送った。
拝啓 ユージン様
私から手紙を受け取ってさぞ驚かれたことでしょう。この件に関してはどなたにも口外しないと約束していただきたいのです。特にアンジェラには絶対に知らせないでください。ユージンさん、私はもうずいぶん長いこと姉を見てきて、姉が幸せでないことを知っています。姉は必死にあなたを愛しています。手紙がすぐに来ないときは落ち込んでいるのがわかりますし、あなたと一緒にここにいたがっているのがいやでもわかります。ユージンさん、どうしてアンジェラと結婚しないのですか? 姉は今、美人で魅力的です。美しいだけでなくいい人です。立派な家も贅沢も待ち望んでいません……ユージンさん、私はアンジェラがあなたを愛しているのを知っていますが、女性は人を愛するとき、そんなものを欲しがりません。姉には、あなたが後で与えるかもしれない立派な家やすてきな物よりも、若くて人生を楽しめる今のあなたが必要なのです。実は、ユージンさん、私はこのことを姉には全然話していません……一言もです……もし私があなたに手紙を書いたと姉が考えたら、傷つくのがわかりますから。姉は決して私を許さないでしょう。でも仕方ありません。姉が悲しみに暮れて思いを募らせる姿は見るに耐えません。事情を知ればあなたはきっと迎えに来るはずです。私があなたに手紙を書いたことは、どうかこの先も口外しないでください。よほどのことがない限り、私には手紙を書かないでください。むしろ書かないでください。そしてこの手紙は破り捨ててください。でも、すぐに姉を迎えに来てください、ユージンさん、お願いします。姉はあなたを求めています。すばらしい女性ですから、理想的なすばらしい奥さんになるでしょう。私たちはみんな、父も母もみんなが姉を愛しています。私の出過ぎたまねをお許しください。そうせずにいられないのです。
かしこ
マリエッタ
ユージンはこの手紙を受け取ってびっくり仰天した。また、自分とアンジェラとマリエッタとすべての状況に心を痛めた。この状況の悲劇は、おそらくこの個人的な観点からと同様に、劇的な観点からもユージンに訴えかけた。黄色い髪をした古風な顔立ちの小さなアンジェラ。彼女が望んだとおりに、ある意味では彼が本当に望んだとおりに、二人が一緒になれないのは残念だった。アンジェラは美しい……それは間違いなかった。非凡な知性こそないが、どんな女性の魅力にも匹敵する魅力があった。感情的という意味ではミリアム・フィンチやクリスティーナ・チャニングよりもずっと感情的だった。彼女は感じたものを論理的に考えることができなかった……それだけだった。ただそれらを感じるだけだった。ユージンにはアンジェラの苦悩のすべての面が目に浮かんだ……両親がとりそうな態度、両親に見られているときのアンジェラ自身の感情、友人たちが不思議がる様子が目に浮かんだ。屈辱だったに違いない……残酷な状況だった。戻った方がいいかもしれない。アンジェラとなら一緒に幸せになれる。ひと間のアパートで生活すればいい。間違いなくすべてはうまくいくだろう。心を鬼にして行かない方がいいだろうか? ユージンはこれについて考えるのが嫌だった。
いずれにせよ、マリエッタには返事を出さず、願いどおりに手紙をビリビリに引きちぎった。「アンジェラが知れば、きっと惨めな思いをするだろう」ユージンは考えた。
その一方でアンジェラは考えていた。考えた末に、もしも恋人が戻ってきたら、自分を連れて行かざるを得ないと感じるように、体を委ねた方がいいかもしれない、という結論に達した。どう語義を広げても、アンジェラは人生を論理的に考える人ではなかった。アンジェラの物事に対する判断は、この時期の方がこの後の時期よりも混乱していた。この種の小細工がどれほど愚かしいか、まったくわかっていなかった。ユージンを愛し、自分のものにしなければならないと感じ、彼を失うくらいならいっそ死んでしまいたい気分になり、最後の手段としてそんな小細工しか思いつかなかった。もしユージンが拒めば、アンジェラには覚悟があった……湖だ。アンジェラは、最高の瞬間に愛が絶望と交差するこのおもしろくない世界から去るつもりだった。このすべてを忘れるつもりだった。行く手に安息と静寂があれば、それだけで十分だった。
年は春に向かって進んだ。哀れを誘う言葉が繰り返されたこの手紙のせいで、ユージンは戻らなければならないと感じるようになった。マリエッタの手紙はユージンの心をつかんだ。アンジェラの思いつめた態度が、何か絶望的なことが起こりそうだとユージンに感じさせた。ユージンは冷酷な態度で、もうあなたに会うつもりはない、と座って手紙を書けなかった。ブラックウッドの印象はあまりにも新鮮に彼の心の中にあった……アンジェラが住む世界の夏の香りと緑の美しさがあった。四月になってユージンは、六月にまたうかがいます、と手紙を書いた。アンジェラはうれしくて我を忘れてしまった。
この結論をユージンに出させた要因の一つに、クリスティーナ・チャニングがその年にヨーロッパから帰ってこない事実があった。冬に何度か手紙を書きはしたが、とても用心深かった。何気なく読んだ程度では、彼女の言葉から二人の間にこれまでに何かがあったことは読み取れなかった。もちろんユージンはもっと熱烈な手紙を書いた。しかしクリスティーナは彼の熱望の言葉を無視することに決めて、今後彼が彼女の多くを知ることはない、と徐々に感じさせていた。二人はいい友人になるつもりだったが、必ずしも恋人や、最終的に夫婦になるつもりはなかった。ユージンにとってとても重要に思えることを、彼女がとても冷静に受け止められることに苛立ちを覚えた。彼女が彼を悠然と捨てられることを思うとユージンのプライドは傷ついた。終いには腹が立ってきた。するとその時アンジェラの誠実さがはるかに鮮明に浮かび上がった。彼をそんなふうに扱わない女性がいた。彼女は本当に彼を愛していた。彼女は誠実で忠実だった。こうして、約束の旅はかなり魅力的に見え始めた。ユージンは六月までに会いたくてたまらなくなっていた。
第二十六章
六月の美しい晴天に恵まれて、ユージンは再びブラックウッドに向けて旅立った。変な気分だった。アンジェラと再会したい一方で、もしかしたら自分は過ちを犯しているのかもしれないという思いがあるからだった。運命という考えが、頭をよぎり始めていた。彼女を娶るように定められていたのかもしれない! それにしても、これ以上に馬鹿げたことがあるだろうか? 彼は決めることができたのに、わざわざそこに戻ることに決めてしまったのだ……彼が決めたのだろうか? ユージンは自分の情熱が自分を引き寄せていることを自ら認めた……実際、情熱を除いた愛情に何か大きなものがあるとは確認できなかった。欲望! 二人を引き寄せたのは、それだけだったのではないだろうか? それを上回る何かの小さな個性の魅力がありはしたが欲望が基調だった。肉体的な魅力が十分に強ければ、二人を結びつけるのはそれで十分ではないだろうか? もっと多くのものが本当に必要だろうか? これは若さと熱意と経験不足に基づく考え方だったが、そのときは彼をつなぎとめるのに……彼をなだめるのに……十分だった。ユージンは、ミリアム・フィンチやノルマ・ホイットモアに惹かれたものによってアンジェラに惹かれたのではなかったし、クリスティーナ・チャニングのすばらしい芸術性も存在しなかった。それでも彼は進んでいた。
冬が過ぎた頃ノルマ・ホイットモアへの関心が大きく高まった。ユージンはこの女性の中に、これまで出会ったどれよりも幅が広くて、洗練された知性を見出した。文学や芸術の優れたものに対する彼女の好みは、彼がこれまでに知っていた誰の好みにも劣らないほどすばらしくて、それでいて個性的だった。彼女は文学の中の印象的で写実的な小説や、ユージンが代表するような土から生まれたばかりの芸術に駆け寄った。彼がやろうとしていることがどれほど大きくて新しいかを理解できる彼女の感覚はとても励みになった。そして彼がそれを実践していることを街中のすべての友人に触れ回ってくれた。彼女は二人の異なる画商のところにまで行って、彼女には完全にすばらしい絵に思えるものを彼らはどうして見ていないのですか、と尋ねるほどだった。
「だって、その斬新さには目を見張るものがあるわ」ノルマは五番街の有力画商の一人エバーハート・ザンを相手に語った。彼女は複写用に絵を借りに行ったことがあったので彼を知っていた。
「ウィトラ! ウィトラ!」男は保守的なドイツ人がやるように顎をこすりながら言った。「私は彼の作品を見た覚えがないな」
「そりゃあ、見た覚えはありませんわ」ノルマは粘り強く答えた。「言っておきますが、彼は新人です。ここに来てあまり日がたっていません。先月の何週目かの〈トゥルース〉があれば……どれだったか忘れましたけど……グリーリースクエアの絵をご覧になれます。そうすれば私が言いたいことがわかりますわ」
「ウィトラ! ウィトラ!」オウムが音を記憶に定着させるように、ザンは繰り返した。「いつかここに来て私に会うよう彼に伝えてください。彼の作品をいくつか見たいものだ」
「そうしますわ」ノルマは愛想よく言った。ノルマはユージンを行かせたがったが、ユージンは個展を開く前にたくさんの作品を仕上げておきたかった。ユージンはかなり大がかりなシリーズでもないのに、印象を悪くするリスクを冒したくなかった。そのときは風景画のコレクションが完成していなかった。それに、もっと重要な画商を念頭に置いていた。
ユージンとノルマはこの頃にはもう、兄と妹、いや、二人の仲のいい男友達のような関係になっていた。彼女の部屋に入るときには、滑るようにウエストに腕を回して、自由に手を握り、腕や肩を軽く叩いた。ユージンには強い好感しかなかったが、ノルマには燃えるような愛情が生まれたかもしれない。しかし彼の優しい兄のような態度は、脈がないことをノルマに確信させた。ユージンは他の女友達のことを彼女に話したことはなかった。もしアンジェラと結婚したとしたら、ノルマとミリアム・フィンチはアンジェラとの結婚をどう受けとめるだろうと西部に向かう間に考えていた。クリスティーナ・チャニングのことは考えたくなかった……本当は彼女のことを考える勇気があまりなかった。あの経験から、美しいものを失う感覚がユージンに生まれた……ちょっと思い出しても痛みを伴った。
六月のシカゴはユージンには少し憂鬱だった。生活は慌ただしく、アートスクール、デイリー・グローブ社のビル、ルビーが生活していた街や家などの過去の経験が一瞬よみがえった。都市に近づいたとたん(前回と同じように)ルビーのことが気になって、どうしても様子を見に行きたくなった。それからグローブ社を訪れたがマシューズはいなくなっていた。温和で陽気なジェリーは最近フィラデルフィアへ引っ越して、フィラデルフィアのノース・アメリカン社に就職し、独り取り残されたハウは以前にも増して、気難しく、つまらない人間になった。もちろん、ゴールドファーブの姿はなく、ユージンは居心地が悪かった。寂しさを感じたので、ブラックウッド行きの列車に乗れたのがうれしかった。昔を思い出して心に痛みを感じ、人生は無意味で、奇妙な、哀れを誘うものの寄せ集めだと感じながら、この街を離れた。
「思えば年をとったものだ」ユージンは考えた。「自分にとってこれと同じ現実だったものが、ただの思い出に過ぎなくなるとはな」
ユージンがブラックウッドに到着するまでの時間は、アンジェラにってものすごい精神的ストレスのひと時だった。彼女は今、ユージンがかつてと同じように本当に自分を愛しているのかどうかを知ることになった。彼の存在の喜びを感じて、彼の態度の微妙な影響を感じることになった。自分がユージンをつなぎとめられるかどうかを知ることになった。マリエッタはユージンが来ると聞いて、自分の手紙がこれに何か関係したとかなり得意がったが、姉がこの好機をうまく活用しないのではないかと心配だった。アンジェラが最高に見えるよう気にかけて、姉が着るものや、やるといいゲーム(前回ユージンが滞在してから、家庭の娯楽にテニスやクロッケーが導入されていた)、行くといい場所を提案した。アンジェラはあまり器用ではない……自分の魅力の見せ方があまり上手ではない……とマリエッタは確信していた。アンジェラが正しい服装をして最高の自分を見せれば、ユージンは彼女にとても強い感情を抱くようになるかもしれない。ユージンが到着したらマリエッタ自身はできる限り出しゃばらないようにして、姿を見られるときには服装や外観を精々見劣りさせて現れるつもりだった。意識的な努力をしなくても彼女は完璧な美人になったし、心を打ちくだく名人だった。
「私の持っている珊瑚の首飾りを知ってるでしょ、エンジェルフェイス」ユージンが到着する十日くらい前のある朝、マリエッタはアンジェラに尋ねた。「それをつけて、私の淡い茶色のリネンのドレスと、あなたの淡い茶色の靴に合わせて、いつかユージンに見せるのよ。そういうものを着れば、あなたは魅力的に見えるわ。彼だってあなたに惚れちゃうわよ。新しい馬車でブラックウッドまで行って彼に会えばいいじゃない? これで決まり、あなたが会わなきゃだめなんだから」
「でも、そんな気分じゃないわ、ベイビエッテ」アンジェラは答えた。この第一印象は心配だった。彼を追いかけているように見せたくなかった。ベイビエッテは子供の頃にマリエッタにつけられたあだ名で返上されずじまいだった。
「あら、まあ、エンジェルフェイス、引っ込み思案はよくないわ! あなたほど内気な人はいないわよ。そんなの何でもないことでしょ。ちょっとだけ気の利いた扱いをすれば、向こうはもっとあなたを好きになるわ。今度こそするでしょ?」
「無理よ」アンジェラは答えた。「私にはそんなまねはできないわ。まずは彼をここに来させてからよ。それから午後、どこかに連れ出すわ」
「まあ、エンジェルフェイスたら! でも、とにかく、彼が来たら、あの小さなバラの花柄のハウスドレスを着て、髪に緑の葉のリースをつけなきゃだめよ」
「私は、そういうことは何もしたくないわ、ベイビエッテ」アンジェラは声高に言った。
「だめよ、しなくちゃ」妹は答えた。「ねえ、今度ばかりは私の言うとおりにしないとだめよ。あのドレスを着れば美しく見えるし、リースをつければ完璧よ」
「あのドレスは違うわ。すてきなのはわかるけど。リースはいいわね」
この無意味な慎み方にマリエッタはひどく腹を立てた。
「ねえ、アンジェラ」マリエッタは叫んだ。「そういう馬鹿なまねはやめなさい。あなたは私よりも年が上だけど、男性にかけては私の方が少しばかり詳しいのよ。あなたは彼に好きになってもらいたくないの? もっと大胆にならなきゃだめよ……お願いだから! 多くの女の子はそれ以上のことをやるわよ」
マリエッタは姉の腰のあたりをつかんで目をのぞき込んだ。「今、着なきゃだめなのよ」マリエッタは最後に付け加えた。そしてアンジェラはマリエッタが、どんな手段を使ってもいいから全力でユージンを誘惑して、最終的にプロポーズさせて、明確な日取りを決めさせるか、あるいは彼に同行させてニューヨークへ連れ帰らせたがっていることを理解した。
他にも話があってその中で、湖への旅行、白いテニスウェアとシューズ姿のアンジェラと一緒にするテニス、催されるかもしれないカントリーダンス……七マイルくらい離れた農家の新しい納屋で開かれるという噂があった……が提案された。アンジェラは、若さ、明るさ、活動的、ユージンを魅了するだろうと彼女が直感的にわかるものを見せるべきだ、とマリエッタはむきになった。
ついにユージンが来た。正午にブラックウッドに到着した。アンジェラは散々ゴネたくせにお洒落に着飾って、マリエッタに言われたとおりの外見でユージンと対面した。ユージンに自立した印象を与えたかったが、彼がベルトのついたコーデュロイの旅行用スーツを着て、イギリス製のグレーの旅行帽をかぶり、最新デザインの緑色の革の鞄を持って列車を降りてくる姿を見て、心から不安になった。今のユージンはとても世俗的で経験も豊富だった。その態度から、彼にとってこの田舎はほとんど意味がないか、まったくないことがわかった。彼は存分に世界を味わっていた。
アンジェラは駅のプラットホームのはずれに止めた馬車の中にいた。すぐにユージンと目が合ったので手を振った。ユージンは足早に進んだ。
「やあ、アンジェラ」と叫んだ。「来てくれたんだね。何てすてきなんだ!」ユージンはじろじろ見ながら彼女の横で跳び上がった。その探るような視線をアンジェラは感じることができた。最初の好印象の後に、自分の新しい世界と彼女の世界との違いを感じて、ユージンは少し落ち込んだ。アンジェラの方が少し年上なのは間違いなかった。三年間、待ち望んで、恋しがり、心配したのに、それを表に出すなというには無理がある。それに、アンジェラは繊細で、優しくて、心が通い、感情が豊かだった。ユージンはこのすべてを感じた。アンジェラのことと、自分のことも思ってユージンは少し胸が痛かった。
「どう、元気でやってた?」ユージンは尋ねた。二人は村の圏内にいたので、うかつに感情を表に出せなかった。静かな田舎道に出るまでは、何事にも改まった態度で臨まねばならなかった。
「ええ、相変わらずよ、ユージン、会いたかったわ」
アンジェラは彼の目を見つめた。ユージンは彼女が自分の近くにいるときに彼女を支配したあの感情的な力の衝撃を感じた。彼女の持つ不思議な作用は、彼の共感の普段眠っている力を燃え上がらせる何かがあった。アンジェラは本当の気持ちを隠そうとした……浮かれて張り切っているところを見せようとしても、目でばれてしまった。アンジェラを見て今彼の中で何かが目覚めた……感動と欲望が合わさった感覚だった。
「また田舎に来られてとてもうれしいよ」アンジェラに御者をさせていたので、ユージンは彼女の手を押さえながら言った。「都会の後で、きみや緑の野原を見るとなおさらだね!」ユージンは小さな平屋建てのコテージを見回した。どの家にも小さな芝生と、数本の木と、地境のこぎれいな柵があった。ニューヨークやシカゴの後だと、こういう村には風情があった。
「きみはこれまでと同じように僕を愛してるかい?」
アンジェラはうなずいた。父親、母親、兄弟、姉妹の近況を尋ねているうちに、黄色い一本道にたどり着いた。ユージンは人目がないのを確認してアンジェラにそっと腕を回して頭を自分の方に引き寄せた。
「もう大丈夫だね」ユージンは言った。
アンジェラはユージンの欲望の強さを感じたが、彼の最初の求愛を特徴づけたように思えたあの敬愛の雰囲気は確認できなかった。彼が変わってしまったのは事実だった! 変わらずにはいられなかった。都会が彼女の重要性を低下させてしまった。人生が自分をそう扱うのかと思うとアンジェラはつらかった。しかし、ユージンを取り戻せるかもしれない……いずれにせよ、彼を引きとめられるかもしれなかった。
二人は同じ名前をもつ小さな湖が近くにあるオコーネーという小さな十字路の集落に向かった。そこはブルー家に接していて、ブルー家の者はよく「自宅」扱いで口にした。途中でユージンは、彼女の末の弟デイビッドが今はウエストポイントの士官候補生で立派に活躍していることを知った。サミュエルはグレート・ノーザン鉄道の西部貨物担当者になっていて出世街道まっしぐらだった。ベンジャミンは法律の勉強を終えて、ラシーンで開業していた。政治に関心があって州議会に立候補するつもりだった。マリエッタは相変わらず陽気で気ままな女の子で、大勢の気をもむ求婚者の中から相手を選ぶ気はまったくなかった。ユージンは自分に宛てたマリエッタの手紙のことを考えた……会ったときにマリエッタは彼の目をのぞき込んで彼女の思いを確かめようとするだろうか。
「ああ、マリエッタね」ユージンが彼女の近況を尋ねるとアンジェラは答えた。「相変わらず危なっかしいわ。すべての男性を自分に振り向かせようとしているんだもの」
ユージンは微笑んだ。マリエッタのことを考えるといつも楽しくなった。自分が会いに来た相手がアンジェラではなくてマリエッタならよかったのにと一瞬願った。
マリエッタはこのことでも親切であると同時に抜け目がなかった。ユージンに会ったときの彼女の態度は、わざと無関心で、甘い顔や陽気な態度とはほど遠かった。マリエッタにとってユージンは魅力的だったので、同時に本物の胸の痛みを味わった。もし相手がアンジェラ以外の誰かだったら、自分はどんな服装をして、どれくらい早く彼といちゃいちゃしていただろう、と考えた。そうすればユージンの愛はこの自分によって勝ち取られただろう。自分ならそれを手に入れられる気がした。マリエッタはどんな男性も虜にできる能力に絶対の自信を持っていた。ユージンは喜んで自分のものにしたい男性だった。そういうわけで、マリエッタはユージンとは関わらないようにしながら、あちこちで彼を盗み見て、果たしてアンジェラは彼を射止めるだろうかと思いを巡らせた。マリエッタはアンジェラのことがとても心配だった。絶対に姉の邪魔はしない、と自分に言い聞かせた。
ユージンはブルー家で前回と同じように心から歓迎された。一時間もすると三年前の感覚がすっかりよみがえった。この広々とした野原、この古い家と美しい芝生、このすべてが最も心に響く感覚を呼び覚ますのに役立った。ユージンがブルー夫人とマリエッタに挨拶したあと、ワウキシャから来たマリエッタのボーイフレンドが現れた。マリエッタはアンジェラと一緒にテニスの試合をするよう彼を説得した。彼がどうやって断ったかは知らないが、彼女は自分を入れて四人でやろうとユージンを誘った。
アンジェラはテニスウエアに着替えた。ユージンは彼女の魅力に目を丸くした。コートの上ではとても魅力的で、敏捷で、顔を赤らめ、笑っていた。笑うときに、きれいに並んだ小さな白い歯を見せる魅力的な笑い方をした。興味の感情を彼女は完全に呼びさましてくれた……とても可憐で、か弱く見えた。その後、暗い静かな客間で会ったとき、ユージンは昔の熱情に満ちた状態で彼女を胸に抱き寄せた。アンジェラは急速な気持ちの変化を感じた。マリエッタの言うとおりだった。ユージンは陽気で色彩の豊かなものが大好きだった。自宅への帰り道では絶望していたが、これでかなり期待できるようになった。
ユージンは何事にも中途半端な気持ちで取り組むことはほとんどなかった。少しでも関心がかき立てられると、とことん関心を持った。ユージンは、状況の魅力に身を委ねるあまり、そうではないのに自分はそうなんだと最終的に信じるようになった。こうして今、彼はアンジェラとマリエッタが望んだようにこの状況を受け入れて、アンジェラをいくらか昔の見方で見始めていた。ユージンは彼の判断を修正してしまう影響力に囲まれていたので、ニューヨークの自分のアパートでなら見えていたであろうものを見落としていた。アンジェラは彼にとって若くはなかった。彼女の考え方は進歩的ではなかった。彼女が魅力的であることに疑いの余地はなかったが、彼の気軽な人生の受け入れ方をアンジェラに理解させることはできなかった。彼女はユージンの本当の気質を何も知らなかったし、ユージンも彼女に話さなかった。ユージンは一見、一途なロメオの役を演じていた。だから女性の視点からは、考えるのにいい相手だった。ユージンは自分でも内心、自分が移り気だとわかり始めていたが、それでも自分ではそれを認めたがらなかった。
六月の完璧な夕暮れの後は星の夜だった。五時にジョーサム老人が畑から帰ってきた。相変わらず威厳のある家長らしい存在だった。彼はユージンを高く評価していたので、心のこもった握手を交わしてユージンを迎えた。「時々月刊誌であなたの作品を拝見しています」ジョーサムは言った。「すばらしいですね。湖の近くにあなたにとても会いたがっている若い牧師がいるんです。あなたの作品は何でもほしがるので、アンジェラが見終わったらすぐにいつも私が本を送り届けているんですよ」
ジョーサムは本と雑誌という言葉を同じ意味合いで使った。実際にはそうでなかったが、彼にとってそんなことは木の葉よりも大したことではないような口ぶりだった。作物や季節の移り変わりを考えるのに慣れた思考には、形や種類がいろいろと交錯するすべての生命は、通り過ぎる影のように思えた。人間でさえ、舞い落ちる木の葉のようなものだった。
ユージンは磁石にくっつくようにジョーサム老人に引き寄せられた。ジョーサムの考え方はユージンの好きなタイプであり、アンジェラは父親の放った光のおかげで得をした。父親がこれほどすばらしければ、娘は平均以上の女性に違いない。これほどの男が非凡な子供たちを生まずにいるはずはなかった。
二人きりにされて、アンジェラとユージンが古い基準で古い関係を復活させずにいられるはずがなかった。一度目でそこまでやってしまったのだから、もう一度、さらにもっと先へ進みたがるのは自然なことだった。夕食後に、密着して体のラインがわかる生地の柔らかいイブニングドレスで着飾ったアンジェラが部屋から彼の方を向いたとき……着付けを手伝ったマリエッタの求めに応じて胸元がやや深かったので……ユージンはアンジェラの気が動転していることに気がついた。彼自身が取り乱していた。どうしたらいいのか……どこまで自分を信じていいのか……わからなかった。ユージンは肉体的な情熱を相手にするとき、いつも悩まされた。時としてそれは荒れ狂うライオンだったからだ。まるで麻薬か眠気を誘発するガスのように彼を負かしてしまうようだった。彼が心の中で自分をコントロールしようと決意しても、すぐに逃げなければ希望はないし、逃げることはできないようだった。だらだらと続けて折り合いをつけようとしても、すぐにそれが勝ち、彼はそれの命令に盲目的に、なすすべもなく従い、本性を露呈して破滅といってもいいところに向うのだった。
今夜、アンジェラが戻ってきたとき、ユージンはこれが何を意味するのだろうと訝しそうに考えていた。相手をするべきだろうか? 彼は彼女と結婚するつもりだったのだろうか? 彼は逃げられるだろうか? 二人は座って話をしたが、すぐにユージンがアンジェラを自分の方に引き寄せた。これは昔からある話だった……徐々に感情が高まっていた。今やアンジェラは、極度の待ち焦がれと待ちくたびれたせいで、考えるすべての感覚を失っていた。そしてユージンは……
「もし何かあれば私は出ていかないとならないのよ、ユージン」アンジェラはユージンが無謀にも自分を彼の部屋に連れ込んだときに言った。「ここにはいられないもの」
「話さなくていい」ユージンは言った。「僕のところへ来ればいいんだから」
「それ、本気で言ってるの、ユージン?」アンジェラは問いただした。
「ここできみを抱いているのと同じくらい確かだよ」ユージンは答えた。
深夜にアンジェラは自分が最も堕落した生き物であると感じながら、おびえた迷いと疑念の目をあげた。二つの映像が交互に、振り子の反復運動のように、頭の中にあらわれた。ひとつは、ユージンがよくアンジェラに説明したような、婚礼の祭壇やすてきなニューヨークのひと間のアパートに、二人に会いに来た友人たちを合成したもの。もうひとつは、自分がそこに青白く静かに横たわっているオコーネー湖の静かな青い水の映像だった。そうだ、もし彼が今結婚してくれなかったら死のう。生きていても仕方がない。彼に強制するつもりはなかった。ある夜、手遅れになって、すべての希望がなくなったとき……露見が間近になったとき……抜け出そう……そして、翌日家族が自分を見つけるのだ。
マリエッタはさぞかし泣くだろう。そして、老父ジョーサム……彼女にはその姿が見えた。しかしジョーサムが事の真相を知ることはないだろう。そして、母親も。「ああ、天におられる神さま」アンジェラは思った。「生きるって大変です! どれくらいひどいことになるかしら」
第二十七章
顔つきにも言葉にもそれらしい様子はなかったのに、ユージンにはこの夜以降のこの家の雰囲気が非難に満ちているように思えた。朝、目がさめて、半開きのシャッター越しに外の緑の世界を見たとき、ユージンは爽快感と後ろめたさを覚えた。こういう家庭に足を踏み入れて、彼がしたような恥知らずなことをするのは残酷だった。結局、哲学があるにせよないにせよ、正直で、まっすぐで、自分の道徳観と黄金律を守ることにおいて誠実なジョーサムのような立派な老市民は、当人が心から敬愛する人物から、もっと立派な扱いを受ける資格がなかったのだろうか? ジョーサムはユージンにとても親切だった。二人が共に交わす会話は、とても好意的で共感できていた。ユージンは、ジョーサムが自分を正直者だと信じてくれていると感じた。ユージンは自分がそう見えることを知っていた。率直で、温厚で、思いやりがあり、誰のことも非難したがらなかった……しかしこの女性問題が……それが彼の弱点だった。全世界がそうなのではなかっただろうか? 人間の品位と健全性は、正しい道徳的な行為にかかっているのではないだろうか? 世の中は、家庭がどう運営されるかにかかっているのではないだろうか? 両親がその人の前で立派でなかったら、どうしたら人は立派になれるのだろうか? 不埒な関係を持った人たちがあちこちに押し寄せたら、世界の子どもたちはどうなることを期待できるのだろうか? 姉のマートルを例にすると……姉がこんなふうに盗み取られるのを彼は望んだだろうか? こう問われても彼は、自分が何を望んでいて、あるいは何を容認するつもりなのか、を答える準備ができていなかった。他の若い女性と同様に、マートルも自由に行動する人だった。彼女は自分の好きなようにする行動することができた。これはユージンにとって必ずしも気分がいい話ではなかったかもしれない……しかし彼はこのほどけない結び目をほどこうとして、この問題からあの問題へと堂々巡りした。ひとつは、彼が足を踏み入れたとき、この家庭は円満で清らかに見えた。それが今は少し汚れてしまった。しかも彼のせいだった! それとも汚れていたのだろうか? 彼の心は常にこの質問を問い続けていた。もはや彼が真実として実際に受け入れているものは何もなかった。この問題やあの問題の疑問を問いかけながら、一つの輪の中をぐるぐる回っていた。真実なのか? 真実なのか? 真実なのか? そしてその間ずっと、明らかにどこにもたどり着いていなかった。この人生ってやつは彼を困惑させた。時々恥じ入らせることもあった。この行為は彼を恥じ入らせた。そして、恥じることが間違っているかいないかを自分に問いかけた。おそらく彼はただの愚か者だった。人生は生きるために作られたのであって悩むために作られたのではないのではないだろうか? 彼の情熱も欲望も彼が作り出したわけではなかった。
シャッターを開けると、明るい日が差した。外は緑一色だった。花が咲き誇り、木立ちが涼しくて気持ちのいい木陰を作り、小鳥がさえずり、ミツバチがブンブン飛んでいた。ライラックの香りがした。「神さま」ユージンは両腕を頭上に投げ出して叫んだ。「人生は何てすてきなんだ! 何て美しいんだろう! ああ!」花とイボタノキの香りがする空気を深く吸い込んだ。ずっとこんな風に暮らせたらなあ……永遠にいつまでも。
ユージンは冷水を浴びてスボンジで体をぬぐい、折り襟のついた柔らかい普段着のシャツを着て、黒の流れるようなネクタイをしめ、清潔で爽やかな格好で現れた。アンジェラがそこにいて彼に挨拶した。顔は青ざめていたが、悲しみのせいでものすごく優しく見えた。
「ほらほら」ユージンは彼女の顎に触りながら言った。「そんな顔しないで!」
「うちの者には頭痛がすると言ってあるの」アンジェラは言った。「だってそうなんだもの。わかるでしょ?」
「きみが頭をかかえるのはわかるよ」ユージンは笑った。「でも、すべて大丈夫だからね……全然平気だよ。ほら、すてきな一日じゃないか!」
「すてきよね」アンジェラはしょんぼりと答えた。
「元気を出して」ユージンは励ました。「心配いらないよ。すべては順調にいってるからね」ユージンは窓のところに歩いて行って外を眺めた。
「すぐに朝食の支度をするわ」アンジェラはそう言って、彼の手を押さえて、その場を離れた。
ユージンはハンモックのところに行った。今は自分の周囲の緑の世界を目にして、とても気持ちいいくらい満足してうれしかったので、再びすべてが順調だと感じた。どこにでも存在する自然の活発な咲き誇る力は、人間が陥りやすい罪悪や堕落を感じさせなかった。とりわけお互いの愛情が支配するところであったこともあって、すべてが若さと愛の中で正当化されるのをユージンは感じた。どうして自分がアンジェラを奪ってはいけないのだろう? どうして我々二人が一緒にいてはいけないのだろう? ユージンはアンジェラに呼ばれて朝食の席について、彼女が出した食事をおいしそうに食べた。ユージンは征服した者の気楽な馴れ馴れしさと慈悲深さを感じ、一方のアンジェラは、危険な航海に乗り出した者の恐怖と不安を感じた。彼女は出航した……どこへ向かうのだろう? どの港に上陸するのだろう? 湖だろうか、それともユージンのアトリエだろうか? 彼女は生きて幸せになるのだろうか、それとも死んで暗黒の定かでないものに直面するのだろうか? 一部の説教者が唱えるような地獄は実在するのだろうか? 詩人が描くような失われた魂の暗いたまり場はあるのだろうか? アンジェラはユージンがとても美しいと感じたこの同じ世界の顔をのぞき込んだ。その美しさは危険を予感して震えた。
そして、この生活はまだ何日も続いた。あれほど恐れていたのに、ひとたび味わわれたこの禁断の果実は甘美で魅力的だった。アンジェラはユージンに近づけなかった。ユージンも彼女に近づけなかった。しかしこの感情の高ぶりは戻ってきた。
日中は怖くてたまらなかった。なのに星が出て、さわやかな風が吹き、欲望を駆り立てる夜が来ると、彼女の恐怖でさえ二人の邪魔はできなかった。ユージンは飽くことを知らず、アンジェラは待ち焦がれていた。ほんの少し触れただけで火がつきそうだった。アンジェラは屈しないと言いつつ屈服した。
ブルー家の者は、もちろん、幸いなことに、何が起きているのかを知らなかった。この空気が何か目に見える形で自分の行動を記録しないことが、最初のうちアンジェラにはとても驚くべきことに思えた。アンジェラにはユージンの求愛が共同正犯だとわかっていたので、こうして二人きりになれることにはそれほど驚かなかったが、何かの不吉な影響によって自分の堕落が暴露されないことには不思議な感じがした……偶発的に何か悪いことが起きそうな気がした。何かが起こる……アンジェラはこれを恐れた。彼女には自分の願望や必要なことに向き合う勇気がなかった。
ユージンは一応完全に征服したことにより、熱が冷めて、多少は抑制されたが、週末までに帰る準備ができなかった。甘くて美しい蜜月が終わってしまうので、帰るのが残念だった……人目を忍んだせいか、かえってすばらしさが増して心を奪われた……それでも彼は、義務と責任の鎖に自分を縛り付けてしまったことに気がつき始めていた。アンジェラは最初から捨て身でユージンの慈悲と廉恥心にかけていた。そして結婚の約束を迫った……せかすのではなく、人を罠にかける人がするように、そうしなければ自分の人生が最悪の形で終わらなければならないことを説明した。ユージンはアンジェラの顔を見て、そうなりそうなことがわかった。自分の思い通りにやって、アンジェラの感情と欲求の深さを測った今は、彼女の人柄に前よりも高い評価を下していた。アンジェラの方がユージンより年上だったにもかかわらず、ここには彼をとらえた若さと美しさの息吹があった。アンジェラの体はこの上なくすばらしかった。人生と愛に対する彼女の感情は傷つきやすくて美しかった。ユージンは、自分自身を傷つけずにアンジェラの至福の夢をかなえてやれたらいいのに、と願った。
ユージンの訪問が終わりに近づいてきた頃、アンジェラがシカゴに行くと決まったことが判明した。買い出しがあったのだ。アンジェラが行くことを母親が望み、ユージンと一緒に行くことが決まった。これは別れをしやすくして、話をする時間をさらに二人に提供した。いつもの段取りだと叔母の所に泊まることになっていて、今回もそこに行くつもりだった。
途中でアンジェラは何度も、ユージンが将来的に彼女のことをどう考えるつもりなのか、終わったことが彼の目に映る彼女の価値を低下させることはないかどうか、を問いかけた。ユージンはそうなるとは思わなかった。一度アンジェラは悲しそうにユージンに言った……「今の私を救えるのは死か結婚だけなのよ」
「どういうこと?」ユージンは尋ねた。アンジェラの黄色い頭が彼の肩を枕にして、ダークブルーの目が悲しそうに彼の目をのぞき込んだ。
「もしあなたが結婚してくれなかったら、私は自殺しなきゃならないわ。だって家にはいられないもの」
ユージンは、美しい肉体と、豊かな柔らかい髪を持つアンジェラが、死んで完全に色褪せてしまったところを考えた。
「まさか、そんなことしないよね?」ユージンは信じられないとばかりに尋ねた。
「いいえ、やるわよ」アンジェラは悲しそうに言った。「そうしなきゃならないのよ、私、やるわ」
「落ち着くんだ、エンジェルフェイス」ユージンは頼んだ。「きみがそんなことをする事態にはならないよ。する必要がないじゃないか。僕はきみと結婚するんだよ……どうしてきみがそんなことをするんだい?」
「あらゆる事態を考えたからよ」アンジェラは悶々と続けた。「あの小さな湖を知ってるでしょ。私、身投げするのよ」
「やめてくれよ、アンジェラ」ユージンは頼んだ。「そんな話をしないでくれ。怖いじゃないか。きみがそんなことをする必要はないだろ」
緑色の土手と黄色い砂浜がある小さなオコーニー湖の水の下にいるアンジェラを想像した。彼女のすべての愛が、すべての情熱が、行き着く先がそこなのか! アンジェラの死が頭に浮かんだ。ユージンはそんなことを考えることに耐えられなかった。考えるだけで怖かった。こういう悲劇は時折、すべての哀れな詳細が説得力を持って発表されて新聞に掲載されたりするが、自分の人生にこんなことがあってはならなかった。ユージンはアンジェラと結婚するつもりだった。やはり、アンジェラはすてきだった。結婚しなくてはならないだろう。そろそろその覚悟を決めた方がいい。いつ頃にしたらいいか、ユージンは考え始めた。アンジェラは家族の手前、秘密の結婚ではなく、たとえ家族が式に出席できなくても、少なくともあったことがわかる結婚を望んだ。アンジェラは東部に来たがっていた……これは準備できるかもしれなかった。しかし二人は結婚しなくてはならなかった。ユージンは彼女の保守的な考えの根深さを痛感していたので、別の選択肢を提案する気は起こらなかった。アンジェラは同意しないだろうし、そのことで彼を軽蔑するだろう。アンジェラは死ぬしかないと信じているようだった。
ある晩……アンジェラがブラックウッドに帰らなければならず、悲しみにくれて列車に乗った彼女を見送った最後の晩に、ユージンは暗い気分でジャクソンパークへ行った。かつてそこで彼は月明かりで美しい湖を見たことがあった。ユージンがそこに到着したとき、湖の水はまだ、薄紫、桃色、銀を連想させる美しい色でほんのりと覆われていた。そのときは六月二十一日に近かった。東西に広がる木々は真っ暗だった。空が最後の赤々としたオレンジ色を見せてくれた。いい香りだ……暖かい六月の香りだった。砂利や小石が足の下でざくざくと小さな音をたてる静かな小道を歩きながら、今、彼はこのすばらしい栄光の一週間について考えた。人生は何てドラマチックなのだろう。何とロマンに満ちているのだろう。アンジェラのこの愛は何て美しいのだろう。若さは彼と共にあった……愛もである。彼は美しさに満ちたもっとすごい日々を送ることになるのだろうか、それともつまづいて、無為に時間を過ごしたり、奔放な生活の中で自分の実体を浪費するのだろうか? これは奔放な生活だろうか? 彼の行いは悪い結果を生むのだろうか? 結婚してからも、本当にアンジェラを愛するのだろうか? 二人は幸せになるのだろうか?
こうしてユージンはこの静かな湖のほとりに立って、水面を観察し、反射する光のすばらしさに驚嘆し、非の打ち所のない自然の美しさに芸術家の喜びを感じ、そのすべてを愛、死、挫折、名声にからませたり、織り込んだりしていた。もし彼が冷酷だったら、アンジェラが見つかるならこういう湖だろう、と考えるくらいロマンチックな場所だった。今降りかかっているのと同じような暗闇によって、彼女の明るい夢がすべて沈められるのだ。それはロマンスとしてなら美しいだろう。ドーデやバルザックのような偉大な芸術家が、そこからすばらしい物語を生み出すのをユージンは想像できた。芸術ではそれはある種のロマンチックな表現の題材でさえあった。哀れなアンジェラ! もし彼が肖像画の巨匠だったらアンジェラを描いただろう。豊かな髪を首から胸にかけて垂らした彼女の裸体画での扱い方を考えた。これは美しくなるだろう。彼女と結婚すべきだろうか? すべきだ、結果はわからないが、しなくてはならない。間違いかもしれないが……
ユージンは銀色と薄紫と鉛のような灰色の湖の色褪せていく水面を見つめた。頭上ではすでに鮮やかな星が一つ輝いていた。もしアンジェラが本当にこの静かな湖の下にいたら、彼女はどうなるのだ? 彼はどうだろう? これはあまりにも絶望的で、あまりにも嘆かわしい事態になる。だめだ、アンジェラと結婚しなければならない。ユージンはこのような気持ちで人生の痛みを胸に抱えながら都会に戻った。このような気持ちで、ホテルから旅行鞄を受け取り、ニューヨーク行きの夜行列車をさがした。ルビーも、ミリアムも、クリスティーナも、いったん忘れられた。アンジェラにとっては生か死か、ユージンにとっては将来の心の平和か良心の呵責か、を意味する愛のドラマに巻き込まれた。結果がどうなるかは予測できなかったが、アンジェラとは結婚しなくてはならないと感じた……いつになるかはわからなかった。状況がそれを決めるのだろう。現在の状況からすると、すぐそうなるに違いない。アトリエを探し、スマイトとマクヒューに立ち退きを告げ、自分とアンジェラがちゃんと暮らしていけるように、芸術への野心をもっと高める特別な努力をしなければならない。ユージンは自分の芸術家生活を熱く語ってきたので、いざそれを実際に見せる必要が迫った今、何を見せたらいいのか悩んだ。アトリエは魅力的でなければならなかった。友だちだって紹介する必要があるだろう。ニューヨークへの帰り道にずっとこのことを考えた……スマイト、マクヒュー、ミリアム、ノルマ、ホイーラー、クリスティーナ……やがてニューヨークに戻ってきて自分が結婚したことを知ったら、クリスティーナはどう思うだろう? アンジェラとこの人たちの間に違いがあることだけは疑問の余地がなかった。それは何というか……勇気の問題だった……もっと大きな魂、もっと大胆、もっと強い意識かもしれない何かだった。そういう人たちがアンジェラを見たら、彼らはユージンが間違いを犯したと思うだろうか、ユージンを愚か者と見下すだろうか? マクヒューは女の子とつき合っているが違うタイプだった……知的で洗練されていた。考えても考えても、ユージンは毎回同じ結論に戻った。アンジェラと結婚しなければならない。逃れる道はなかった。そうしなければならないだろう。
第二十八章
ウェイヴァリー・パレスにあるスマイトとマクヒューとウィトラのアトリエは、来る十月のすばらしいイベントにかかわっていた。都会でさえ、葉っぱが黄色くなって落ち始める時期は、冬の前触れの灰色の陰気な日々に増幅された憂鬱な気分を運び、突風に吹き回された紙くずや藁や木の切れっぱしが通りを吹き抜けるので、屋外にいるのが嫌になる。寒さと嵐とろくに持ち物がない人々が難儀する恐れがあるのは、すでに明らかだった。だらだら夏を過ごして、再び働こうとする人たちに共通する心機一転した活気もあるようだった。店頭取引、市場取引、物々交換、競売は好調だった。芸術界、社交界、製造業界、法曹界、医学会、金融界、文壇などの専門的な世界は、行動と必達の気運で沸き立っていた。冬の不安に心を痛める街全体に、やる気と活気の雰囲気があった。
ユージンはこの雰囲気の中で、自分を取り巻く人生の特色を作り出している諸々の要素をかなり明確に理解した上で、自分に課した課題に取り組んでいた。アンジェラと別れてから、過去二年間頭の中で温め続けてきた展覧会向けの作品を完成させなければならないという結論にたどり着いた。彼には目覚ましい印象を与える手段が他に何もなかった……それを自分でわかっていた。ユージンは戻ってさまざまな経験をした。アンジェラから、自分には何か問題があるのを確信していると言われた経験があった。心の底からそう感じている印象を受けたが、後で起こる悪いことを興奮と高ぶった感情で想像したに過ぎず、実際には何の根拠もなかった。いろいろ経験したにもかかわらず、ユージンはまだ知るべき問題をちゃんとわかっていなかった。勇気がなくて、自分がわかっていたかどうかを尋ねるのを先延ばししたのだろう。次に、この危機に直面してアンジェラと結婚することを明言した。アンジェラの苦境を見て、すぐにでもした方がいいと考えた。取り組んでいる絵の何枚かを描き、デッサンにかけるお金を少し手に入れ、住むのに適した場所を見つけるための時間が欲しかった。市内の各地でいろいろな部屋を見たが、自分の好みというか財布に合ったものはまだ全然見つかっていなかった。適切な照明、浴室、手頃な寝室、キッチンに使えそうな目立たない小部屋のある物件を見つけるのは難しかった。家賃は高くて、月に五十ドルから百二十五ドル、百五十ドルが値幅だった。有閑階級向けに建てられている新しい部屋がいくつかあったが、そこだと年間三千から四千ドルかかることがわかった。この先、自分は自分の絵でそういう高みにまで到達するのだろうかと考えた。
また、アンジェラと自分の部屋を手に入れても家具の問題があった。ユージンがスマイトやマクヒューと共有した部屋は多少飯場じみたところがあった。作業部屋にはカーペットも敷物もなかった。三人の個々の部屋をましなものにした二つの折りたたみベッドと簡易ベッドは前の住人のものだった……頑丈だがみすぼらしかった。いろいろな絵と、イーゼル三台と、それぞれの一つのタンスを除くと、相応の家財道具は何もなかった。女が週に二回、掃除と洗濯とベッドを整えにやって来た。
ユージンの判断では、アンジェラと一緒に生活するには多くのものが、もっと重要なものが、必要だった。ユージンが考えた部屋のイメージは、ミリアム・フィンチやノルマ・ホイットモアが今住んでいるようなところだった。ひとつの時代の家具……古いフランドルか植民地時代風、ヘップルホワイトかチペンデールかシェラトン、骨董屋や中古品の店を訪ねて回って時々見かけるようなもの……にするべきだった。時間がとれればそろえられるかもしれない。アンジェラはこういうものを何も知らないとユージンは思った。余裕があったら、敷物、つづれ織りの壁掛け、真鍮やピューターや銅やいぶし銀の小物があってもいい。いつか荒い仕上げのクルミかチーク材の十字架に吊るされた真鍮か石膏のキリスト像を手に入れて、それを聖堂でするように吊るすかどこかの片隅に立て、その前に煙をあげてロウをたらす巨大なロウソクが立つ立派な燭台を二つ置こうと思った。これが暗い部屋で灯ると、キリストの輪郭がその背後の影の中でちらちら揺れて、部屋に望ましい雰囲気を与えるだろうが、彼が夢見た用具をそろえたら二千ドル近くかかっただろう。
もちろん、この時期に考えられることではなかった。ユージンはわずかな現金しか持っていなかった。ワシントンスクエアの南側にあるアトリエの話を聞いたときは、手頃な場所を見つけるのは難しいとアンジェラに手紙を書いているところだった。文筆を生業としていたその部屋のオーナーは冬の間、部屋を空けるつもりだった。ユージンの理解では、立派な家具がそろっていて、部屋代で貸してもられることになっていた。オーナーは翌年の秋に戻るまで自分の代わりに住んで部屋を管理する人を求めていた。ユージンは急いで下見に行き、立地、窓から見た広場のながめ、家具の美しさを確かめて、ここに住みたいと思った。これならアンジェラをニューヨークに呼んでも大丈夫だった。ここなら彼女に最初から好印象を与えられるだろう。彼がこれまでに見たことがあったすべての充実したアトリエと同じで、ここには、書籍、絵画、彫像が少し、銅とわずかばかりの銀の道具があった。緑色に染められ、鱗に見える小さな鏡を散りばめた大きな漁網が、間仕切りとしてアトリエ部分と奥の小部屋との間に吊るされていた。黒いクルミ材のピアノがあった。ミッション、フランドル、十六世紀のベニス、十七世紀のイギリスなどのはんぱな家具がいろいろあったにもかかわらず、見た目に一体感があって使い勝手のよさが一致していた。寝室が一つ、浴室が一つ、キッチンとして使える小さく仕切った部屋が一つあった。自分の絵を数枚賢く置き換えれば、ここが自分たち夫婦にとっての完璧な住居になるとわかった。家賃は五十ドル。ユージンはそのリスクを負うことに決めた。
これを借りるところまで来てしまい……この物件の出現により、半ば観念して結婚せざるを得ない気持ちにさせられた……ユージンは十月に結婚することに決めた。アンジェラにニューヨークかバッファローに来てもらえばいい……彼女はナイアガラの滝を見たことがなかった……そしてそこで結婚すればいい。彼女は最近、ウェストポイントにいる兄を訪ねると話していた。それからここに来て落ち着けばいいのだ。ユージンはこうしなければならないと判断して、その旨をアンジェラへの手紙に書いた。スマイトとマクヒューに近々結婚するかもしれないと漠然とほのめかした。
ユージンは同居人の画家たちにとても人気があったので、これは彼らにも大きな打撃だった。彼はいつも気に入った相手に冗談を言う癖があった。「今朝のスマイトの額に浮かんだ気高い覚悟を見てみろ」とか「マクヒュー、この怠け者の愚図め、這い出て食いっぷちを稼げよ」と起きるのが早いか楽しそうに言った。
マクヒューの鼻も目も耳も気持ちよさそうに毛布に埋もれていた。
「このへぼ芸術家どもときたら」ユージンはやれやれとため息をついた。「そういう奴らは大成しないぞ。一日に藁がひと山と茹でたジャガイモが二個もあればたくさんだ」
「なあ、やめろってば」マクヒューは不平を言った。
「全くだ、全くだ」どこからかスマイトの声が聞こえてきた。
「僕がいなかったら」ユージンは続けた。「ここはどうなってしまうかわからないな。画家になろうとしている農民や漁師はいくらでもいるんだぞ」
「それとクリーニング屋のワゴンの運転手もな、そいつを忘れるなよ」マクヒューは起き上がってしゃくしゃの頭をかきながら付け加えた。ユージンは自分の経験をいくつか話したことがあった。「アメリカン・スチーム・ランドリー社による真の芸術の世界への貢献も忘れるな」
「きみたちには知っておいてもらいたいんだが、襟とカフスは芸術的でも」ユージンはすかさずわざと偉ぶって断言した。「鋤と魚は駄作だからな」
他の発言よりも本当に気の利いた誰かの発言が全員を笑わせると、時にはこの「じゃれ合い」が休まずに十五分も続くことがあった。作業は朝食後に始まって、普通は三人が一緒にとりかかり、やむを得ない約束とか息抜きや昼食などの時間を除いて午後五時まで途切れず続いた。
彼らはもう二年も一緒に働いていた。互いが信頼性できて、礼儀正しく、親切で、寛容であることを経験によって学んでいた。批評は自由に、惜しまずに、心から役立ちたい一心でなされた。灰色のどんより曇った日や雨や晴天の散歩といった楽しい外出や、ニーアイランド、ファーロッカウェー、劇場、美術展、さまざまな国の奇妙奇天烈なレストラン巡りが、いつも楽しい仲間意識の中で企てられた。道徳や、彼らのそれぞれの能力や、傾向や特徴に関する冗談は、すべて善意でやりとりされた。あるときはジョセフ・スマイトが、ユージンとマクヒューから一斉にぼろくそに非難され、またあるときはユージンかマクヒューが犠牲者になり、他の二人が力を合わせて勢いづくこともあった。芸術、文学、人物、人生の局面、哲学が順番に議論された。ジェリー・マシューズの時と同じようにユージンはこの二人から新しいことを……ジョセフ・スマイトからは漁師の暮らしや海の特徴を、マクヒューからは西部の大自然や精神を……を学んだ。毎年でも毎日でも三人の気持ちを新しく切り替えたり楽しませたりするような、経験と思い出をそれぞれが無尽蔵に蓄えているようだった。芸術では何が価値があって不朽なのか、という彼らの心の奥底にある確信がすべて表面に出る、展示会や売り出し中の美術品コレクションを下見で散策するときが、彼らの最高のときだった。三人とも評判そのものを受け入れず、それが名声をもたらすかどうかに関係なく、個人の実力を重視した。彼らはいつだってここではあまり知られていない天才の作品を知っていて、お互いにそういう才能を称え合っていた。こうやって、モネ、ドガ、マネ、リベラ、モンティセリが代わる代わる品評や称賛の対象になった。
九月の末にかけて、ユージンがもうじききみたちとお別れかもしれないと言い出したとき、二人は口を揃えて反対して嘆いた。ジョセフ・スマイトはその時に海の絵に取り組んでいた。ゴールドコーストの交易船の虫食いデッキと、上半身裸で壊れた舵輪を操る西海岸の黒人と、果てしない海を表す遠方のたくさんの青黒い起伏の間で、適切な色の調和をとろうと最善を尽くしていた。
「何だって!」ユージンが冗談を言っていると思ったので、スマイトは疑ってかかった。マクヒューのところにも来ていたように、西部のどこかから差し出されて毎週ここに配達される定期的な手紙があった。これはもう当たり前のことになっていて、全然思い当たる節がないようだった。「お前、結婚するのか? 一体どういうわけで結婚したくなったんだ? こいつはいい見本になるな! 僕が行って奥さんにそう言ってやる」
「よろしくな」ユージンは答えた。「本当だよ、結婚するかもしれないんだ」ユージンはスマイトが勝手に冗談だと思い込んだのを面白がった。
「冗談はよせって」マクヒューがイーゼル越しに声をかけた。彼は田舎の辺鄙な風景画、田舎の郵便局の前にたむろする農民たちを描いていた。「まさかこの共同生活を解消したくなったんじゃないよな?」二人ともユージンのことが好きだった。ユージンがインスピレーションを与え、頼り甲斐があって、いつだって精力的で、明らかに楽観的だと気づいていた。
「僕だって共同生活をやめたくはないさ。でも、僕にだって結婚する権利はあるんじゃないか?」
「僕は神に誓って反対票を投じる!」スマイトは力強く言った。「僕がうんと言わない限りここから出ていくなよ。ピーター、こんな話に賛成かい?」
「まさか、しないよ」マクヒューは答えた。「もしも僕たちにそんなまねをしようっていうのなら奥の手を出すさ。僕が断固抗議してやる。相手の女性は誰なんだい、ユージン?」
「僕が知っている人だよね」スマイトは言った。「かなり定期的に二十六丁目に通ってたっけな」ジョセフはユージンが自分とマクヒューに紹介したミリアム・フィンチを念頭に置いていた。
「そんなんじゃないよ、きっと」マクヒューはその可能性があるのかを確かめようとユージンを見ながら尋ねた。
「すべて本当なんだってば」ユージンは答えた。「……神さまが裁くようにね。僕はもうすぐここを出て行くつもりだ」
「本気で言っているんじゃないよな、ウィトラ?」ジョセフは真面目に問いただした。
「僕は本気で言っているよ、ジョー」ユージンは静かに言った。十六作目になるニューヨークの風景画……巨大な操車場に並んで入ってくる三両の蒸気機関車……の見せ方を考えていた。煙と靄、放置された有蓋貨車の薄汚れた赤と青と黄色と緑が美しく見えた……ありのままの現実の迫力と美しさだった。
「すぐにかい?」同じくらい静かにマクヒューが尋ねた。彼は、消えゆく喜びの感覚と共に訪れるあの物悲しさを感じていた。
「多分、十月中だ」ユージンは答えた。
「ちぇ、嫌なこと聞いちまったな」スマイトが口を挟んだ。
スマイトは筆を置いて窓の方へ歩いて行った。マクヒューはあまり極端な態度を出さずに瞑想的に作業を続けた。
「きみはいつこの結論を出したんだい、ウィトラ?」しばらくして尋ねた。
「ああ、長いことずっと考えていたんだ、ピーター」ユージンは答えた。「余裕があれば、本当はもっと早く結婚すべきだった。ここの事情はわかっているよ。さもなきゃ急にこんな話を持ち出したりはしなかった。きみたちが他の同居人を見つけるまでここの僕の分の家賃は僕がもつよ」
「家賃なんかどうだっていい」スマイトは言った。「他の人なんかいらないんだ、そうだろう、ピーター? もともといなかったんだからな」
スマイトは四角い顎をこすりながら、まるで大惨事に直面したかのように相棒をじっと見つめていた。
「そんな話をしたって仕方ないだろう」ピーターは言った。「僕らが家賃の心配をしてるんじゃないことはわかってるだろ。きみが誰と結婚するつもりなのか僕らにも教えてくれないか? 僕らの知っている人かい?」
「知らない人だ」ユージンは答えた。「ウィスコンシンの人だからね。手紙をくれる人だよ。アンジェラ・ブルーっていう名前なんだ」
「では、アンジェラ・ブルーに乾杯しよう」スマイトは気を取り直して、自分の絵筆を台からとって、かざしながら言った。「ユージン・ウィトラ夫人に乾杯だ。ノヴァスコシア流に言うと、彼女が決して嵐に船を向けたり、錨をからませたりすることがないように、だ」
「そうだな」マクヒューはスマイトの聞き分けのいい態度を見習ってつけ加えた。「つい感情的になっちまった。実際に結婚するのはいつになるんだい、ユージン?」
「うん、正確な日取りは決めてないんだ。十一月一日頃かな。二人ともこのことは口外しないでほしいんだ。説明してまわるのはごめんだからね」
「僕らはしゃべったりしないよ、絶対に。いったい、どうして僕たちに考える時間をくれなかったんだい? お前さんは煮え切らないからな」
彼は責めるようにユージンの肋骨を小突いた。
「僕よりも残念に思ってる者はいないよ」ユージンは言った。「僕だってここを離れるのは嫌なんだ。だけどお互いの交流がなくなるわけじゃない。僕はまだこの近所にいるんだから」
「どこに住むつもりなんだい? この街なのかい?」まだ少ししょんぼりしているマクヒューが尋ねた。
「そうだよ。このワシントン・スクエアさ。ウィーヴァーが話していたあのデクスターのアトリエを覚えてるかい? 六十一番街の三階にあるやつなんだが? そこなんだよ」
「本当かよ!」スマイトは叫んだ。「すぐそこじゃないか。あんなのをどうやって手に入れたんだ?」
ユージンは説明した。
「いやぁ、全く運のいい奴だな」マクヒューは言った。「あれなら奥さんも気に入るはずだ。たまに散歩する画家にちょうどいい憩いの場になるよな?」
「農民はお断り、船乗りはお断り、へぼ芸術家はお断り……立入禁止だ!」ユージンは大げさに宣言した。
「何だとお前」スマイトは言った。「ウィトラ夫人が僕らを見たら……」
「ニューヨークなんかに来なければよかったと思うさ」ユージンが口を挟んだ。
「最初に僕たちに会っていればよかったと思うさ」マクヒューは言った。