表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「天才」 第一部 青春  作者: ドライサーの小説の翻訳です
23/28

第23章

 

 春が終わりに近づく頃、ユージンはアンジェラに会いに戻るより、むしろこの夏はクリスティーナのバンガロー近くの山に登ろうと決めた。あの大切な人の記憶は、都会の生活のストレスと興奮にさらされて、少し薄れかけていた。アンジェラを思い出すのは相変わらず楽しいし、美しい思い出ばかりだったが、疑問が浮かび始めていた。ニューヨークの上流社会の人たちは、違うタイプで構成されていた。アンジェラは優しくてかわいかったが、そこになじむだろうか? 

 

 一方、ミリアム・フィンチは異なるものでもいいものを取り入れて折り合いをつけながらユージンの教育を続けた。彼女は学校と同じくらい優秀だった。ユージンは座って彼女の演劇の説明、本の評価、現代哲学の要約に耳を傾けた。まるで自分が成長している感じがした。彼女はとても大勢の人を知っていたから、これこれの大事なものを見るにはどこへ行けばいいかをユージンに教えることができた。びっくりするほどの有名人から、傾聴に値する人、新人の俳優まで、どういうわけか彼女はそういう人たちをすべて知っていた。

 

「ねえ、ユージン」彼女はユージンに会うと声を大にして言った。「『シグネット』のヘイドン・ボイドは見に行かなきゃだめ」とか「エルミナ・デミングの新しいダンスは必見よ」とか「ノードラーで展示されているウィンスロー・ホーマーの絵をご覧なさい」

 

 彼女は、なぜそれらを彼に見せたかったのか、それらが彼のためにどう役立つと考えたのか、をきちんと説明した。ユージンを天才だと考えていることを率直に認めて、彼がどんな新しいことをやっているのかを知りたいといつも力説した。彼の作品が何か世に出て気に入ると、すぐに言いにきた。ユージンはまるで彼女の部屋も彼女自身も自分のものである、彼女のすべて……考え方、友人、経験……が自分のものである、ように感じた。ユージンは彼女の足元に座ったり、彼女と一緒にどこかに行ったりして、そういう人たちを利用することができた。春が来ると、彼女は彼と一緒に散歩をして、彼の自然や人生についての意見を聞きたがった。

 

「あれはすばらしいわ!」と叫んで「ねえ、あれを詩に書いたらどう?」とか「あの絵を描いたらどう?」とせがんだ。

 

 ユージンは一度彼女に詩のいくつかを見せたことがあった。彼女はそれを書き写して傑作集と呼ぶ一冊にまとめた。そうやってユージンは彼女に甘やかされた。

 

 別の意味で、クリスティーナも同じようにすてきだった。彼女はユージンに、自分が彼のことをどれほど思っているか、彼をどうすてきだと思っているか、を話すのが好きだった。「あなたはとても大きくて賢いわね」クリスティーナは一度、彼の腕をつかんで、目を見つめながら、愛情を込めて言った。「あなたの髪の分け方も好きよ! いかにも画家って感じなのよね!」

 

「そうやって僕を甘やかすんだな」ユージンは答えた。「あなたがどれほどすてきだか僕にも言わせてください。あなたがどれほどすてきだか知りたいですか?」

 

「うーん」彼女は笑って、否定のつもりで首を振った。

 

「山へ行くまでお預けだ。いずれ話します」ユージンは唇で彼女の唇をふさぎ、息ができなくなるほど抱きしめた。

 

「まあ」クリスティーナは叫んだ。「すごいこと。あなたったら鋼のようね」

 

「そしてあなたは一輪の大きな赤いバラだ。キスしてよ!」

 

 ユージンはクリスティーナから音楽の世界と有名な音楽家についてすべてを学んだ。さまざまな種類の音楽、オペラ、交響曲、器楽曲に対する見識を深めた。さまざまな種類の作品、専門用語、声帯の奥義、トレーニングの方法を学んだ。同業者間の嫉妬や、音楽の最高権威がこれこれの作曲家や歌手についてどう考えているかを知った。オペラの世界で地位を築くことがどれほど難しいか、歌手同士が互いにどんな熾烈な戦いを繰り広げるか、世間がどんなにあっさり落ち目のスターを見放すか、を学んだ。クリスティーナが平気でそれをすべて受けとめたものだから、ユージンは彼女の勇気に惚れ込んだ。彼女はとても賢くて、とても気だてがよかった。

 

「優れた芸術家になるためには、たくさんのことを諦めないとならないわよ」ある日、クリスティーナはユージンに言った。「普通の生活と芸術は両立できないから」

 

「一体どういうことですか、クリッシー?」二人っきりだったので、ユージンは彼女の手を撫でながら尋ねた。

 

「まあ、まともな結婚なんてできないし、子供をもつどころじゃないし、社会的にはあまり恵まれないってことよ。そりゃ、結婚する人がいるのは知っているわ、でもね、それは間違いだって時々思うことがあるの。私が知っている歌手のほとんどは、結婚に縛られてあまり活躍していないのよ」

 

「あなたは結婚するつもりはないんですか?」ユージンは気になって尋ねた。

 

「わからないわ」彼が言おうとしていることを察しながら、クリスティーナは答えた。「それについては私だって考えたいのよ。女のアーティストって、とにかくあれだもの」ただあれだものと言って「最悪」だと指摘した。「女って考えなきゃならないことがたくさんあるのよ」

 

「たとえば?」

 

「うーん、世間がどう思うか、女の家族がどう思うか、すべてがどうなんだか、私だってわからないわ。アーティスト向けの新しい性別が要るわね……働き蜂にあるような」

 

 ユージンは微笑んだ。彼女が何を言いたいのかわかった。しかし、彼女がいつから、芸術の非凡な実績を愛する気持ちと対立するものとして、自分の純潔の問題を議論していたのか、ユージンは知らなかった。クリスティーナは、結婚で自分の芸術家人生を複雑にしたくないとほぼ心を決めていた。オペラの舞台で成功するのは、特に新人が海外で大きなチャンスをつかむとなると、ある種の関係がからんでくることをほとんど疑わなかった。例外もあるがあまり多くはなかった。自分の頭の中では、現在の道徳を守って純真無垢であり続けるべきなのかを疑問に思っていた。女の子は純潔のまま結婚するべきだと一般的には思われたが、これは必ずしも彼女に当てはまらなかった……芸術家気質にも当てはめるべきだろうか? 母親と家族は彼女を悩ませた。彼女は純潔だったが、若さと欲望は何度か彼女をつらい目に遭わせた。そして、それを強調したのがユージンだった。

 

「これは難しい問題ですね」彼女は最終的にどうするつもりだろう、と考えながらユージンはいたわるように言った。結婚に対するクリスティーナの態度が自分と彼女の関係に影響することをユージンは強く感じた。彼女は愛を犠牲にして芸術をとるのだろうか? 

 

「大問題よ」クリスティーナはそう言って、歌を歌いにピアノのところへ行った。

 

 この後しばらくユージンは、彼女が何か過激な一歩を踏み出そうと考えているのではないかと半ば疑った……どういうものなのかは、自分に対しても言いたくなかったが、彼は彼女の問題に強い関心を持っていた。この独特な思想の自由は、ユージンを驚かせた……彼の視野を広げた。姉のマートルだったら、こんなふうに結婚の話をする……するかしないかの話をする……女の子をどう思うだろう……シルヴィアならどう思うだろう、とユージンは考えた。大勢の女性がこうやって悩むのだろうか、と考えた。彼が知る女性のほとんどは彼よりもこの方面のことをもっと論理的に考えているようだった。かつてルビーに、不義の恋愛は間違っていると思わないかと尋ねて、彼女の答えを聞いたことを思い出した。「思わないわ。それを過ちだと考えた人がいても、そのことは当人にまでは及ばないもの」ここには別の考え方をする別の女の子がいた。

 

 二人は愛についてもっと話をした。クリスティーナはどうして僕に夏にフロリゼルに来てほしがるのだろう、とユージンは考えた。クリスティーナに限って考えているはずはない……まさか、彼女は徹底した保守派だ。彼女は僕とは結婚しないだろう……今のところは誰とも結婚するつもりはないだろう、とユージンは疑問を抱き始めた。彼女はただ一時的に愛されたいだけに違いない。

 

 五月が来た。それに伴いクリスティーナのコンサート活動とニューヨークでの声の勉強は終わった。冬の間はずっとニューヨークを出たり入ったりして……ピッツバーグ、バッファロー、シカゴ、セントポールまで出かけて行った。そして今、冬の重労働が終わり、フロリゼルに出発するまでの二、三週間、母親と一緒にヘイガースタウンに行って鳴りを潜めた。

 

「あなたもここにいらっしゃい」クリスティーナは六月の初めにユージンに手紙を書いた。「うちの庭では三日月が輝き、バラが咲いています。香りも、露も、とても甘美です! 窓のいくつかが芝生と同じ高さで開くので、私は歌を口ずさんでしまいます! 歌が尽きません!」

 

 ユージンは駆けつけようと思ったが、思いとどまった。二週間後に山に向かって出発するとクリスティーナが言って寄こしたからだった。彼はある雑誌のために急いで完成させなければならない絵をひと仕事かかえていた。だから、それが仕上がるまで待つことにした。

 

 六月下旬、ユージンはフロリゼルのあるペンシルベニア州南部のブルーリッジに行った。ユージンは最初、チャニング家のバンガローに滞在するように誘われると思ったが、近くのホテルに宿泊した方が彼にとって安全で良策だとクリスティーナが警告した。隣接する丘陵の斜面には一日五ドルから十ドルで宿泊できるホテルが数件あった。これはユージンには高かったが、行くことに決めた。彼はこのすばらしい人と一緒にいたかった……私たちが一緒に山にでもいたらよかったのに、と彼女が願った意味を確かめたかった。

 

 ユージンは約八百ドルの蓄えが貯蓄銀行にあったので、このちょっとした遠出のために三百ドルを引き出した。彼はクリスティーナに、彼女が好きなヴィヨンのとても立派な装丁の本と、新しい詩集を数冊持っていった。彼の最近の気分で選ばれたこのほとんどは悲しい詩だった。その美しさは完璧でもすべてが人生の虚無と悲しみを説いていた。

 

 この時ユージンは、来世など存在しない……漫然と動いている目的のない闇の力以外何も存在しない……という結論に達していた。以前は漠然と天国を信じ、地獄はあるかもしれないと思っていた。読書は彼を、論理と哲学のいくつかの主流の道といくつかの半端な脇道に導いた。今は手当たり次第に本を読み、かなり論理的に物事を考えた。彼はすでにスペンサーの『第一原理』に取り組んでいた。それは文字通り彼を根こそぎにして、漂流させた。そして、そこからマルクス・アウレリウス、エピクテトス、スピノザ、ショーペンハウアー……彼の私的な理論をすべてはぎ取り、人生とは本当は何なのかを考えさせた男たち……のもとへ戻ってきた。こういうものをいくつか読んだ後、力の作用や、物質の崩壊や、思考の形は雲の形と同じように安定性を持たない事実、を思索しながら長い時間、通りを歩いた。哲学が生まれては消え、政府が生まれては消え、人種が生まれては消えた。彼はかつてニューヨークの立派な自然史博物館に足を踏み入れて、先史時代の動物の巨大な骨格を見つけた……それらは、彼の時代をさかのぼること二百万年、三百万年、五百万年前に生息したと言われるものだった。ユージンはそれらを生み出した力と、それらが死滅するのを許した明らかな無関心に驚嘆した。自然はその種類を惜しみなく生み出し、何ものにもまったく執着しないようだった。ユージンは、自分は無であり、全然重要ではないただの貝殻、音、葉っぱに過ぎないという結論に達し、しばらくそれは彼の心を引き裂いたも同然だった。それは彼の利己主義を打ち砕き、知的なプライドをずたずたにしてしまいそうだった。彼は傷つき、ふさぎ込み、迷子のように呆然と歩き回った。しかし根気よく考え続けた。

 

 次はダーウィン、ハクスリー、ティンダル、ラボック……イギリスの思想家が続々と登場した。彼らは他の思想家の独自の結論を補強したが、自然の手法の美しさ、決まった手順、種類や発想の豊かさをユージンに示して、彼をかなり釘付けにした。ユージンは今でも本を読み、詩人であり、自然主義者であり、エッセイストだったが、ずっと気分は暗かった。人生は、目的もなく動く闇の力以外の何物でもなかった。

 

 ユージンがこの考えを自分の人生に適用したやり方は、特徴的で個性的だった。美はいっとき開花して永遠に消えてしまう、と考えるのは悲しいことに思えた。自分の人生が七十年しかなく、その後なくなる、と考えるのは恐ろしかった。自分とアンジェラは偶然知り合った……化学的親和性が高かった……それが二度と会うことがなくなるのだ。自分とクリスティーナ、自分とルビー……自分と相手が誰でも……二人が一緒にやっていける明るい時間は短くて、やがて大きな静寂が訪れ、消滅して、自分はもう存在しなくなるのだ。これを考えるのは苦痛だったが、ユージンに生きたい、この世にいる間は愛されたい、という熱意をますます募らせた。いつも自分を安全に閉じ込めてくれるすてきな女の子の腕さえあればいいのだが! 

 

 夜の長旅を終えてフロリゼルにたどり着くまで、ユージンはこんな気持ちだった。時々彼女自身がかなりの哲学者で思想家だったクリスティーナはさっそくそれに気がついた。彼女は、ユージンをドライブに連れ出そうと自分のかわいい小さな二輪の軽装馬車と一緒に車庫で待っていた。

 

 馬車は、柔らかくて、黄色い、埃だらけの道を走り出した。山の露はまだ大地に残っていて、砂埃は湿気を含んで重かったので飛んでいなかった。木々の緑の枝が二人の頭上で低く垂れ下がり、曲がるたびにすてきな景色が視界に入った。誰も見ていなかったので、ユージンは頭をひねってゆっくりと唇にキスをした。

 

「幸い、この馬はおとなしいわ。さもなきゃ事故にでも遭っちゃうわよ。何であなたはそんなにご機嫌斜めなのかしら?」クリスティーナは言った。

 

「僕は機嫌悪くなんてないよ……それとも悪いのかな? 最近いろいろなことを考えてるんだ……主にあなたのことだけど」

 

「私のせいで鬱いでるの?」

 

「見方によってはそうですね」

 

「一体どういうわけかしら?」クリスティーナは深刻な事態を想定して尋ねた。

 

「あなたがとても美しくて、とてもすばらしいというのに、人生がとても短いんだ」

 

「あなたが私を愛せるのはせいぜい五十年よ」クリスティーナはユージンの年齢を計算しながら笑った。「まあ、ユージン、子供みたいね!……ちょっと待って」少し黙って、馬を木陰に寄せながら付け加えた。「これを持ってて」手綱をユージンに渡しながら言った。ユージンが受け取ると、クリスティーナは彼の首に抱きついた。「さあ、お馬鹿さん」クリスティーナは叫んだ。「愛してる、愛してる、愛してるわ! あなたみたいな人は誰もいなかったわ。これで気が晴れたかしら?」クリスティーナは目をのぞき込んで微笑んだ。

 

「はい」ユージンは答えた。「しかしそれじゃ足らない。七十年じゃ足らないよ。今みたいな人生は永遠でも足らないな」

 

「今みたいな、か」クリスティーナはその言葉を繰り返して、それから手綱を取った。ユージンが感じたものを感じたのだ。あるべき姿を維持するためには持続的な若さと持続的な美しさが必要だった。しかもそれらはいつまでも続かない。

 


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ