第9章~第16章
第九章
入学初日以降アートスクールで続いていた日々は、ユージンに多くの新しいものを見せてくれた。ユージンは今ようやく、画家が人類社会の一般大衆と違っている理由を理解した、あるいは理解したと思った。貧しい地域を集金しながら歩いて回る昼の時間が終わってからだと、このアートスクールの雰囲気は何だかとても新鮮で、ユージン・ウィトラは自分がそこに属していることがなかなか信じられなかった。みんな非凡な青年だった。とにかくその中の何人かはそうだった。優れた画家に生まれついていなかったとしても、彼らにはまだ想像力……画家の夢……があった。ユージンは徐々に学んだが、彼らは西部や南部の全域、シカゴ、セントルイス……カンザス、ネブラスカ、アイオワ……テキサス、カリフォルニア、ミネソタから来ていた。カナダ北西部のサスカチュワンから来た者もいれば、当時のニューメキシコ地方から来た者もいた。青年の名前がギルだったので、みんなは彼をアメリカドクトカゲと呼んだ……「G」の発音が違っても全く気にしなかった。ミネソタから来た青年は農家の倅で、来年の春から夏にかけて帰省して、畑を耕し、種をまき、収穫をすると語った。またある青年はカンザスシティの大富豪の息子だった。
デッサンの技巧は最初からユージンに関心を抱かせた。人体に生じる明暗を自分があまりよく理解していなかったことを一夜目に学んだ。描いたものに丸みや質感を全然出せなかった。
「一番暗い影は、常に明るい光の一番近いところにありますからね」水曜日の夜、インストラクターが肩越しにのぞき込んで簡潔に述べた。「あなたはすべてをメリハリのない均一な色合いにしている」確かにそのとおりだった。
「あなたは建築家ではないレンガ職人が家を建て始めるように、この絵を描いているんです。設計図も持たずにレンガを積んでいるわけですよ。設計図はどうなっているんですか?」その声の主は肩越しにのぞいているボイル先生だった。
ユージンは顔を上げた。彼は頭部だけを描き始めていた。
「設計図ですよ! 設計図!」インストラクターは両手を使って奇妙な動きをしながら言った。その手はポーズの輪郭をひとつの動きで描写した。「まずは大まかな線を描く。細かい部分は後でいいんです」
ユージンはすぐに飲み込んだ。
またある時には、インストラクターは彼が女性の胸を描く様子を見ていた。ユージンはぎこちなくそれを描いていた……曲線の美しさがあまりなかった。
「そこは丸いでしょ! 丸いんです! いいですね!」ボイルは声を荒らげた。「もし四角く見えるのでしたら、そう言ってください」
これはユージンのユーモアのセンスをくすぐった。顔から火が出るほど赤面したが、笑わずにはいられなかった。学ぶことがたくさんあることを知った。
この男が言ったのを聞いた中で一番残酷だった言葉は、かなりずんぐりむっくりしているが真面目な青年に向けられたものだった。「君に絵は描けないよ」ボイルは乱暴に言った。「私のアドバイスを受け入れて家に帰りたまえ。君なら荷馬車の運転の方が稼げるよ」
クラス中が縮み上がった。この男は見るに耐えないほど無駄なことに容赦がなかった。誰かが自分の時間を無駄にしていると考えるのが彼には不快だった。彼はビジネスマンがビジネスを選ぶように絵を選んだ。向かない者、愚か者、落ちこぼれに割く時間はなかった。彼は自分のクラスの者に、絵は努力の賜物だと知ってもらいたかった。
芸術の重要性についてのこの残酷な主張とは別に、人生にはそれほど厳しくなく、ある意味ではもっと魅力的な別の側面があった。夜間コースでは、モデルが二十五分のポーズをとる間に、約四、五分の休憩時間があった。学生はその間、雑談したり、パイプに再び火をつけたり、やりたいことをした。時々、他のクラスの学生が少しの間立ち寄ることがあった。
しかしユージンが驚いたのは、モデルの娘が学生と自由に接し、学生がモデルと自由に接していることだった。最初の数週間が過ぎた頃、前の年にここにいた学生の数名が、モデルが座る台に上がってモデルの娘としゃべっているのを目撃した。彼女は小さなピンクの薄いベールを肩や腰の周りに巻いていたが、それが彼女の態度の思わせぶりなところを抑えるどころか強調していた。
「なあ、あんなものじゃ、お前の目の前のものを隠しきれないよな」ユージンの隣の席の青年が言った。
「そうだよね」ユージンは笑った。「あれじゃぎりぎりもいいところだ」
男子たちが座って、笑って、この娘と一緒になって冗談を言うと、娘は笑って、色っぽい仕草でお返しした。ユージンは、彼女が自分を描いた学生のデッサンの何枚かを学生の肩越しに見て回るところや、他の学生たちと差し向かいで……それも落ち着いた態度で……立っているところを見かけた。ユージンは、これがいつも自分の中に呼び起こす強い欲望を、鎮め、隠した。こういうものは表に出すべきものではなかったからだ。一度、ある学生が持ってきた数枚の写真を見ていると、彼女がやって来て肩越しにのぞいた。通りに咲くこの小さな花は、体に薄いスカーフを優雅にまとい、唇と頬を赤く染めていた。あまりに近寄ったものだから、ユージンの肩と腕にその柔らかい肉体がもたれかかった。強い電流が走ったように彼を緊張させたが、ユージンは何の反応も示さず、それがごくありふれたことであるように装った。そこにピアノがあって、授業の合間に学生が歌ったり演奏したりするので、彼女が来てピアノの椅子に座り、誰かが、あるいは三、四人が歌うのに合わせて演奏することが何度かあった。どういうわけか、すべてのことの中でこういうことが、彼には最も感覚に響き……最も東洋的に思えた。これはユージンを興奮させた。ユージンは自分の意志とは関係なく、歯がカチカチ鳴るのを感じた。彼女がポーズを取ると彼の情熱はおさまった。このときに、彼女の美しさの冷たい審美的価値が最も高くなったからだ。彼を動揺させたのはその付随物に過ぎなかった。
こういう障害を乗り越えて、ユージンはデッサンのうまい画家として、芸術家として徐々に成長を見せていた。彼は人物を描くのが好きだった。風景や建物のもっと変化に富んだ輪郭を描くように速くはいかなかったが、人間の姿に……特に女性の姿に……印象的になり始めていた素敵な官能的な感じを加えることができた。かつてボイルが「そこは丸いでしょ」言ったレベルを乗り越え、インストラクターの注意を引く線を描いた。
「あなたは物を全体的にとらえるようになっていますね」ある日ボイルが静かに言った。ユージンは満足しながら感動した。また違う水曜日にボイルは言った……「少し慎重にね、きみ、少し慎重にだ。あそこには性が存在しますね。その人物にはありません。もしきみにその気があるのなら、やがて立派な壁画家になれるな」ボイルは続けた。「きみには美的センスがある」ユージンの髪の根元がゾクゾクした。芸術がわかり始めていた。この男が彼の才能を認めたのだ。彼は確かに自分の中に芸術を持っていた。
ある晩、掲示板に貼り出されたポスターに大事なことが載っていた。「芸術家のみなさん! 注目してください! 食事会! 食事会! 十一月十六日。 会場 ソフロニ。 参加希望者は全員、指導係に名前を申し出てください」
これについてユージンは何も聞いたことがなかったが、他のクラスの一つが言い出したものだと判断した。指導係に話をしたところ、七十五セントしかかからないと教わった。学生がそうしたければ女の子を連れて来ても構わなかった。ほとんどがそうするのだろう。ユージンは参加することにした。しかし、女の子をどこで見つけようか? ソフロニはロウワー・ラーク・ストリートにあるイタリアン・レストランだった。そこはイタリア人の下宿街に近かったから、もともとはイタリア系労働者の食堂として始まった。店は必ずしも民家っぽくない古い家にあった。奥の庭に飾り気のない木のテーブルが並んでいた。夏場に使うベンチも置いてあった。その後ここは客を雨から守るためにカビの生えたテントの布で覆われた。さらにその後、これがガラスになって冬場に使われた。店は清潔で、料理はおいしかった。報道と芸術の世界で頑張っているベテランがここを見つけ、徐々にソフロニ氏は自分が上客を相手にしていると認識するようになった。こういう人たちと挨拶を交わし、彼らのためにちょっと人の目につかない場所を取っておくようになった。最後はディナーで彼らの小さなグループをもてなした……原価スレスレの値段しか請求しなかった……そしてソフロニは売り出した。学生から学生へと評判が伝わった。ソフロニは、冬でもディナーで百人をもてなせるように、庭に屋根をつけた。一食七十五セントのディナーに数種類のワインと酒を出すことができた。おかげでソフロニは人気があった。
このディナーは他のいくつかのクラスが金を出して出来たものだった。見かけない者や新メンバーが現れると「ごちそう! ごちそう!」と叫ぶのがクラスの習慣だった。これを受けて、犠牲者というか新メンバーは、ビール基金への寄付として二ドル出すことになっていた。お金が出なければ……見かけない者は放り出されるか、馬鹿げたいたずらをされた……金が出れば夜の実習は終わりだった。すぐに金が集められて、サンドイッチやチーズと一緒にビール樽が取り寄せられた。飲酒、歌、ピアノの演奏、冗談が続いた。ユージンがびっくり仰天したのは、一度、学生の一人が……オマハ出身の、大柄で、気だてのいい、大酒飲みの男子が……ヌードのモデルを自分の肩まで持ち上げて、首にまたがらせ、激しく上下に動かしなから部屋の中をまわったことだった……その間、女の子は彼の黒髪を引っ張り、他の学生たちは後に続いてはやし立てていた。夜の写生の授業を受けていた隣りの教室の女子学生の数名が、手を止めて、仕切り部屋に空けられていた六つの小さな穴から覗き込んだ。女の子を連れ回していたショーウォーターの姿が、覗いていた女子学生たちの度肝を抜いたので、このニュースはすぐに校内に広まった。この悪ふざけは学長の知るところとなり、翌日問題の学生は退学させられた。しかしどんちゃん騒ぎはあった……その印象は残った。
こういう飲み会は他にもあって、ユージンは飲むよう勧められて、ほんの少し飲んだ。ビールは口に合わなかった。煙草も吸おうとしたが受けつけなかった。こういうどんちゃん騒ぎを見ただけでも、緊張して酔えることが時々あった。そういうときは頭が冴えて、動きが軽くなり、すぐに気の利いたことが言えた。こういう席の一つで、モデルの一人が彼に言った。「あなたって思ったよりすてきね。すごく真面目な人だと想像してたのよ」
「いやあ、そんなんじゃない」ユージンは言った。「ほんのたまにだよ。あなたは僕のこと知らないんだ」
ユージンは女のウエストに手をかけたが女は彼を押しのけた。ユージンはこのとき踊りたかった。この時ならこの場で彼女を部屋中で振り回せたかもしれないと思った。すぐにできるようになろうと決めた。
ディナーに連れていく女の子の問題がユージンを悩ませた。マーガレット以外に誰も知らなかったし、彼女がダンスをするのか知らなかった。そうだ、ブラックウッドのミス・ブルーがいた……この街に来る約束をしたときに会った女性だが……こういうことにからめて彼女を考えるのは不適切だ、とユージンは思った。自分が目撃した光景を彼女が見たらどう思うだろうと考えた。
ある日、学生室にいたときに、たまたまケニーに会った。入学した夜にポーズをとるのを見た女の子だった。ユージンは彼女の魅力を覚えていた。何しろ彼がこれまでに見た初めてのヌードモデルであり、かわいかったからだ。ポーズを取っていたときに彼のそばに来て立ったのも彼女だった。それ以来彼女を見なかった。彼女の方はユージンを気に入っていた。しかしユージンは少しとっつきにくそうで、最初は少し平凡に見えた。近頃はゆるい流れるようなネクタイをしめ、お似合いの柔らかくて丸い帽子をかぶるようになった。髪をだらしなく後ろに回して、テンプル・ボイル先生の自尊心の強い感じを真似た。この男はユージンにとって神のような存在だった……強くて成功していた。ああなりたかった!
この娘は、自分がよくなったと思った変化に気がついた。今の彼はとてもすてきだ、肌が白くて、目が澄んでいて、頭の切れる人だ、と思った。
彼を見るときはヌードのデッサンを見ているふりをした。
「しばらくですね?」ユージンはひとりぼっちだったのと、他に女の子を知らなかったこともあって、微笑みながら思い切って声をかけた。
彼女は明るく振り向いて問いかけに答えた。口元に笑みを浮かべて優しい目でユージンと向き合った。
「しばらく見かけませんでしたね」ユージンは言った。「今はここに戻ってるんですか?」
「今週はね」彼女は言った。「私、アトリエの仕事をしているのよ。他で仕事をもらえるんなら学校の仕事なんかしないわ」
「てっきり好きでやってるんだと思いましたよ!」ユージンは彼女の楽しげな態度を思い出しながら答えた。
「まあ、別に嫌いじゃないけど。アトリエの仕事の方がいいってだけよ」
「あなたがいなくて寂しかったですよ」ユージンは言った。「他の人たちはそんなによくなかったですからね」
「お世辞じゃないの」彼女は笑って、黒い目をキラキラさせながら彼の目をのぞき込んだ。
「お世辞じゃないですよ」と答えてからユージンは期待して尋ねた。「十六日の夕食会には行くんですか?」
「行くかもね」彼女は言った。「まだ決めてないのよ。状況次第ね」
「何のですか?」
「私の気分と誘ってくれる相手次第よ」
「それじゃ何も悩むことはなかったわけだ」ユージンは言った。「女の子が見つかれば僕は行くんだけどな」ユージンは、彼女を誘うところまでたどりつこうと大変な努力をしながら話を続けた。彼女はユージンの意図を理解した。
「それで?」と笑った。
「僕と一緒に行きませんか?」こうして図々しさに助けられてユージンは思い切って尋ねた。
「いいわよ!」彼女は彼のことが好きだったから言った。
「よかった!」ユージンは叫んだ。「どこに住んでるんですか? 住所を知りたいな」ユージンは鉛筆を探した。
彼女は西五十七丁目の番地を教えた。
ユージンは集金の仕事をしていたからその近所を知っていた。サウスサイドのはずれの粗末な木造の住宅街だった。その近所のすごい迷路のような商業地や、舗装されていない通りや、ぬかるんだ草地が見通しよく広がっていたのを思い出した。厩肥と石炭置き場に咲いたこの小さな花がモデルであることは、何だかぴったりしているようにユージンには思えた。
「必ずお連れします」ユージンは笑った。「忘れないでくださいね、ミス……」
「ルビーでいいわよ」彼女はさえぎった。「ルビー・ケニー」
「かわいい名前だね?」ユージンは言った。「いい響きだ。日曜日にうかがって、現地を確認しても構わない?」
「ええ、どうぞ」ルビーは名前についての彼の感想に気をよくして答えた。「日曜日なら大体いつも家にいるわ。もしよかったら、今度の日曜日の午後にでも来たら」
「そうします」ユージンは言った。
ユージンはとても浮き浮きした気分で彼女と一緒に歩いて通りに出た。
第十章
ルビー・ケニーは年をとったアイルランド人労働者の養子だった。仲たがいした夫婦が、四歳のときに事実上彼女を捨てたときに、妻がその夫婦から彼女を引き取ったのだった。ルビーは明るくて、気立てがよく、世の中の社会的な仕組みを全然知らない、ただの単純でちっぽけな少女だった。冒険に対する情熱はあるのに、冒険の行く末がどうなるかを事前に指摘する、救いになる洞察力をまったく備えていなかった。デパートのレジ係として人生を始めたが十五歳で身を持ち崩した。彼女が幸運だったのは、かなり格上の、有能な、保身家のタイプの男を引きつけたことだった。それに彼女が完全に乱れたわけでなく、強く好きになった相手に尽くしていたとか、一、二回は本気の愛情もあって、彼女を雰囲気の犠牲者同然にしたじゃれ合い期間の後で結果的に終わっただけなのが恋人だったというのも幸いした。養父母は知性的な指導を一切しなかった。養父母はルビーのことが好きだったのと、ルビーの方が養父母よりも聡明だったので、彼女のルール、彼女の行動の説明、彼女の好みに従った。養父母がちょっとでも反対すればルビーは笑いとばして、近所がどう考えようが自分は気にしないと常に反抗した。
ユージンが出かけて行ったのと、その後続いた交際は、彼がこれまでに始めたこの性質の他の関係すべてと同じだった。彼は美しいものを美しいものとして崇拝した。そして自分が憧れるある種の精神と心を決して逃さなかった。彼は女性に、美しさのほかに、気立ての良さと思いやりを求めた。批判や冷遇は避け、感性、頭の回転の速さ、優れた発想のいずれかで自分に勝る相手は恋人に選ばなかった。
この頃の彼は、簡素なもの、簡素な家、簡素な環境、簡素な生活の平凡な雰囲気が好きだった。ひと際エレガントで堂々としたものには気圧された。彼が目にした大邸宅、大きな商業施設、偉大で重要な人物は、人工的で冷たいものに思えた。彼は小さな人たちが好きだった……知られていないが、その雰囲気が優しくて親切な人たちが好きだった。もし背景としてそういうものを備えた女性的な美しさを見つけることができたら、彼は幸せであり、もしそのそばに落ち着けたら、心が休まった。彼がだんだんルビーに引きつけられているのは、この雰囲気に支配されたからだ。
ユージンが立ち寄った日曜日は雨で、彼女が住む地域はことのほか寂しかった。家と家の間の空き地で、あたりをきょろきょろ見回せば、茶色く枯れた草地に水溜まりがあるのが見えた。ユージンは巨大迷路のような黒い煤けた線路を渡った。そこには蒸気機関車や車両がたくさんあった。このシーンが作り出す絵を想像した……灰色の湿った空気の中に煙と蒸気の雲を放り上げている大きな黒い蒸気機関車、雨に濡れて色が斑だが素敵な車両が作り上げる大きな迷路。夜はこの巨大な操車場内のポイント切替機の表示灯が花のように咲いた。ユージンは目のように燃える真っ黄色、赤、緑、青が大好きだった。ここには彼を大きく感動させるものがあった。この未熟な花のような少女が、こういうものの近くに住んでいることが何だかうれしかった。
家の入口に着いてベルを鳴らすと、老いてよぼよぼのアイルランド系アメリカ人に挨拶された。ユージンには知能のレベルがかなり低そうに見えた……立派な踏切番にならなれそうなタイプの男だった。ありふれた、目立った特徴の服を着ていた。長いこと着ていて自然に体のラインが出てしまったような服だった。指には、吹かしていた短いパイプがあった。
「ケニーさんはご在宅ですか?」ユージンは尋ねた。
「いるよ」男は言った。「入りな。連れてきてやるよ」男は典型的な労働者の家の居間を突っ切って奥の部屋に戻った。誰かが部屋中をほぼすべて赤にしたのだ……大きなシルクのジェードのランプ、家族のアルバム、絨毯、赤い花模様の壁紙。
待っている間にアルバムを開いて彼女の親類と思しき人たち……どれも平凡な人たち……事務員、セールスマン、商店主……を見た。やがてルビーが現れた。ユージンの目が輝いた。ルビーには若さのきびきびしたところがあった……まだ十九歳にもなっていなかった……それが彼の想像力をかき立てた。首と他の部分に赤いビロードをあしらった黒のカシミアのドレスを着ていた。男子がするように、ゆるい赤のネクタイをしていた。明るく快活そうで、手を差し出した。
「ここまで来るの、結構大変だった?」ルビーは尋ねた。
ユージンは首を振った。「この辺は結構くわしいんだ。平日はこの辺で集金しているからね。〈みんなの家具社〉で働いているんだよ」
「まあ、それはよかったわ」ルビーはユージンが正直なのを面白がって言った。「てっきり、ここを見つけるのに一苦労すると思ってたのよ。お天気もかなり悪いでしょ?」
ユージンはそれを認めたが、見てきた列車の線路について一言言った。「描けるものならああいうものを描きたいな。とてもでっかくてすばらしいからね」
ユージンは窓のところへ行って近所の景色を眺めた。
ルビーは関心を持って彼を見つめた。彼の動きは彼女にとって心地よかった。彼と一緒にいると落ち着いた……まるで彼のことが大好きになりかけているかのようだった。とても話しやすい相手だった。クラス、彼女のアトリエでの仕事、彼の仕事、この地域、彼との一致点を彼女に与えるものがあった。
「シカゴには大きなアトリエがたくさんあるの?」二人がようやくルビーの仕事の話にまでたどりつくとユージンが尋ねた。この街の芸術家がどんなものなのかをユージンは知りたかった。
「ないわね、あんまり……少なくともいいところはね。自分が絵を描けると思ってる人は大勢いるわ」
「大物というと誰ですか?」ユージンは尋ねた。
「さあ、私の知識は画家の受け売りだもの。ローズなんかはなかなかいいわよね。バイアム・ジョーンズは風俗画に関してはかなりいいってみんなが言うわ。ウォルター・ロウは優れた肖像画家だし、マンソン・スティールもそうね。そして、えーと……アーサー・ビッグズがいるわ……あの人はもっぱら風景画ね。私は彼がアトリエにいる姿を見たことがないもの。あとはフィンリー・ウッド、彼も肖像画家ね。そしてウィルソン・ブルックス、彼も人物をやるわね……ああ、わかんないわ。だって大勢いるもの」
ユージンは聞き惚れた。この芸術談議は彼が都会にきてから耳にしたものよりも人物に関する具体的な情報が多かった。この娘はこういうことを知っているのだ。活動の中にいるのだ。このさまざまな人たちとこの娘はどんな関係なのだろう、とユージンは考えた。
しばらくして立ち上がり、再び窓の外を眺めた。ルビーも後に続いた。「この辺はあまりいいところじゃないわ」ルビーは説明した。「でも、パパとママはここの暮らしを気に入ってる。パパの職場に近いのよ」
「僕が玄関で会ったのがお父さんだったの?」
「本当の両親じゃないのよ」ルビーは説明した。「私は養子なの。私にとっては実の両親も同然よ、だって確かにひとかたならぬ恩を受けているんですもの」
「絵のモデルはそういつまでもやれないよ」ユージンは相手の年齢を考えながら思うところを言った。
「そうね、やり始めてまだ一年だけど」
展示会の事務員になったいきさつや、別の少女と日曜新聞の記事を見て思いついたいきさつを語った。地元の写生教室よりも前に一度、ヌードでポーズをとるモデルの絵が、〈トリビューン〉紙に掲載されたことがあった。これがルビーの目にとまって、自分たちもポーズをとってみた方がいいのではないだろうか、と別の少女と相談した。彼女の友人も、彼女と同じように、まだポーズをとっていた。夕食会にも参加することになっていた。
ユージンは聞き惚れた。シカゴ川のグース島や、小さな荒れ果てたあばら屋とか、居住用のひっくり返された船体の絵に自分がどう心を惹かれるのかを思い出した。その話と、自分がどういうふうにやって来たか、を語ったところ、それがルビーの空想力を刺激した。彼は感傷的だけどすてきだとルビーは思った……このとき彼も大きかった。そして彼女ははるかに小さかった。
「演奏とかは」ユージンは尋ねた。「するの?」
「うん、ちょっとだけね。でも、うちにはピアノがないから、よそのスタジオで練習して、自分で覚えたものを学んだの」
「ダンスはするの?」ユージンは尋ねた。
「ええ、するわよ」ルビーは答えた。
「僕も踊れたらいいんだけどな」ユージンは残念そうに言った。
「踊ればいいじゃない? 簡単よ。あなたならすぐに覚えられるわよ。私が一回のレッスンで教えられるわ」
「じゃ、お願いします」ユージンは言葉巧みに言った。
「難しくないわよ」彼から離れながらルビーは続けた。「ステップを見せてあげるわ。いつもワルツから始めるのよ」
ルビーはスカートを持ち上げて小さな足を露出させて、やることと、そのやり方を説明した。ユージンは独りでやってみたがうまくできなかった。するとルビーが、彼の腕を自分にまわすように誘導して、自分の手を彼の手に置いた。「さあ、私について来て」と言った。
自分の腕の中でルビーを発見してとれもうれしかった! ルビーは明らかに急いでレッスンを終えようとはしなかった。ステップを説明し、中断しては訂正し、自分のミスと相手のミスを笑いながら、実に辛抱強くユージンと一緒に練習した。「様になってきてるわよ」数回繰り返したあとでルビーは言った。
二人は何度も互いの目をのぞき込んだ。ユージンが微笑めばルビーも素直に微笑み返した。ユージンは、ルビーが肩越しに眺めながらアトリエで自分のそばに立った時のことを考えた。もし彼に勇気があったら、やってみれば、きっとこの堅苦しい溝はすぐ埋められたかもしれない。ユージンは彼女を少し引き寄せた。練習が終わっても彼女を放さなかった。
「僕にすごく優しいんだね」ユージンは努力して言った。
「そんなんじゃないわ、ただ気がいいだけよ」ルビーは体を振りほどこうともしないで笑った。
ユージンはいつものように感情的に緊張した。
ルビーは、彼の偉そうに見える雰囲気がかなり好きだった。それは、彼女が知る男たちにありがちなものよりも強い、違うものだった。
「僕のこと好きですか?」ユージンは相手を見ながら尋ねた。
ルビーは彼の顔と髪と目を観察した。
「わからないわ」と静かに答えた。
「本当にわからない?」
まるでからかうようにユージンを見ながら一呼吸置いて、それから冷静になって、廊下の入口の方に目をそむけた。
「そうね、好きだと思うわ」ルビーは言った。
ユージンは両腕で彼女を抱き寄せた。「きみはお人形さんみたいにかわいいね」そう言って彼女を赤いソファーに運んだ。ルビーは雨の降る午後の残り時間をユージンの腕に抱かれて安らぎと彼のキスを楽しんで過ごした。ユージンは新しい変わったタイプの青年だった。
第十一章
ユージンの熱心な誘いに応じてアンジェラ・ブルーが初めて秋にシカゴを訪れたのはその少し前のことだった。アンジェラは特別な努力をしてやって来た。特に欲望がからむとユージンがどんな考えにも付け加えることができるある種の胸を打つ表現に誘われたのだった。ユージンには絵を描く技術に加えて物を書く才能もあった……組み立て方とか解釈という点では成長はとても遅かったが、説得力はすでに強かった。人、家、馬、犬、風景など何でも上手に描けただけでなく文章で表すことができた。おまけに感動的な優しさや哀愁を投影させることができた。街の風景や、自分を取り巻く個人的な雰囲気を最も魅力的な形で描写することができた。書く時間はほとんどなかったが、自分が何をしているのか、それをどのようにやっているのかをこの女性に伝えるために、ここでそれを利用した。彼が活動している世界の特性や、どちらかというとかなり遠回しに伝えた彼という人間の特異性にアンジェラは魅了された。それとは対照的に、彼女自身の小さな世界はとてもみすぼらしく見え始めた。
アートスクールが始まった直後にアンジェラは現れた。ユージンは招待を受けてノースサイドにある彼女の叔母の家に出向いた。静かな脇道にある、すてきな、感じのいい、レンガ造りの家で、中流階級の平穏で心地よい雰囲気を全て備えていた。ユージンは、自分の目に甘く保守的な雰囲気に映ったものに感動した……アンジェラのようなかれんで上品な娘にぴったりの家だった。その近所がたまたま彼の仕事の方角にあったので、ユージンは土曜日の早朝に表敬訪問した。
アンジェラはユージンのために演奏してくれた……ユージンがこれまでに知っていた誰よりも上手だった。ユージンにはそれが立派な特技に思えた。アンジェラの気質は、感情の起伏が激しい音楽や、言葉では言い表せない甘美な歌や楽器の曲に惹かれた。ユージンが滞在した三十分の間に何曲か演奏してくれた。ユージンは新たな喜びを感じながら、とても簡素で密着したデザインのドレスを着た小柄で均整のとれた肉体と、ウエストのずっと下まで垂れた二つの大きな三つ編みの髪に注目した。アンジェラは『ファウスト』のマルグリットをほんの少しユージンに思い出させた。
輝かしい気分で意気揚々と、最高の服装で、夕方改めて出向いた。ユージンは自分の芸術の将来は開けていると思った。アンジェラと恋に落ちるだろうと確信していたので、再会できて幸せだった。アンジェラは強い共感を感じさせる態度だったので、それが彼を魅了した。アンジェラはこの青年に親切に接したかった……彼に自分を好いてもらいたかった……だから雰囲気はよかった。
その夜ユージンは彼女をシカゴのオペラハウスへ連れて行った。そこでは豪華な出し物が上演されていた。このファンタジーは、舞台美術の美しさ、衣装とかわいい少女たちのショーの華やかさ、ユーモアのくだらなさ、愛の歌の甘美さで、ユージンとアンジェラの二人を虜にした。どちらも長いこと劇場に足を運んでいなかった。二人とも存在のこのすばらしい解釈では意見が一致した。アレキサンドリアでちょっと知り合った後だけに、一緒にいられるのは楽しかった。これは二人の再会に重要な意味を与えた。
終演後にユージンは押し寄せる人混みをかき分けてアンジェラをノース・デヴィジョン・ストリート鉄道まで案内した……彼が来てからケーブルが敷設された……二人は一緒に見たものの美しさとユーモアを語り合った。次の日にまた訪ねる許しを求めた。午後遅く一緒に、セントラル・ミュージックホールの夜の出し物で講話をしている有名な伝道師の話を聞きに行こうと提案した。
アンジェラはユージンが上手に誘ってくれるのでうれしかった。彼女は彼と一緒にいたかった。これはいい口実になった。二人は早くから出かけてそれを楽しんだ。ユージンは、若さと、美しさと、命じる力の表現として、この説教を気に入った。こういう口の達者な人になりたいと思ったので、アンジェラにそう言った。ユージンはどんどん彼女に自分のことを打ち明けた。アンジェラは、彼の人生に対する旺盛な関心と、選択力に感銘を受け、ユージンは注目される人物になる運命にある、と感じた。
その後も何度も会った。十一月上旬とクリスマス前にアンジェラは再びやって来た。ユージンはさっそく彼女の髪のメッシュに夢中になっていた。ユージンは十一月にルビーと会って、精神的な根拠を欠いたいっときの関係を築いた……当時はそう言っていた……それなのに、陰では優先度の高いもっと重要なものとしてアンジェラと交際を続けた。アンジェラはルビーよりも純粋だった。考え方や音楽に表現されたように、彼女には確かに感情のもっと深い脈動が存在した。さらにアンジェラは、どこか彼自身と似た田舎の家庭生活、魅力のある素朴な田舎町、善良な人々を代表していた。なぜ彼女と別れなければならないのだろう、自分が触れたこの別世界について彼女にも何かを知らせなければならないのだろうか? ユージンはそうするべきだとは思わなかった。彼はアンジェラを失うのが怖かった。彼女ならどんな男性にとっても理想の妻になるのがわかっていた。アンジェラは十二月に再びやって来た。ユージンは彼女にプロポーズしかけていた……彼女になれなれしくしたり、あまり急速に接近しすぎてはいけない。アンジェラは彼に愛情や結婚の神聖さを感じさせた。そしてユージンは一月にプロポーズした。
この画家は、分類不可能な微妙な感情の混合物だった。このとき、ユージンの性格のすべての側面を満足させられる女性など一人もいなかった。ユージンにとって美しさは重要だった。若くて、多感で、ある程度気持ちが通じる、美しい女の子なら誰でもしばらくは彼を魅了してつなぎとめただろう。彼が愛したのは美しさであって、人生設計ではなかった。彼の関心事は、画家としてキャリアであって、家族を築くことではなかった。少女時代……若さの美しさ……は芸術的だった。だからユージンはそれを強く求めた。
アンジェラの精神面と感情面の造りはしっかりしていた。子供の頃から結婚は定めだと信じることを学んでいた。一生をかけて一つの愛情を貫くものだと信じ込んでいた。それを見つけたら、それの助けにならない他の関係はすべて終わりだった。子供はあればあったでいいし、なければないでいい、とにかく結婚は永遠なのだ。そして、幸せな結婚をしなかったとしても、残ったいいもののために、耐え忍ぶのが義務なのだ。そういう共同生活ではひどい目に遭うかもしれないが、それを壊すことは危険で不名誉なことだった。それにこれ以上耐えられなくなったら、人生は失敗だった。
もちろんユージンは自分が何を軽率に扱っているのかわかっていなかった。自分が築き上げている関係の性質をまったく考えていなかった。やみくもにこの娘を理想の相手だと夢見て、最終的に結婚するのを楽しみにしていた。それがいつになるかは見当がつかなかった。クリスマスに給料はあがったが週十八ドルしか収入がなかったからだ。しかし妥当な時間内にできるだろうと思った。
一方、ルビーのところへ行ったことは必然的結果をもたらした。状況が状況だけにそれは仕方がないように思えた。ルビーは若く、冒険を愛する気持ちがあふれていて、男性の若さと強さに憧れていた。青白い顔で、そこに少し憂いを帯びていて、性的魅力があり、美をこよなく愛するユージンは、ルビーには魅力だった。抑えられない情熱はおそらく最初から最大で、この娘は人を愛することができたので、すぐにそれは愛情と混同された。ルビーは優しくて、気立てがよくて、どう見ても人生をわかっていなかった。ユージンは、彼女がこれまで見た中で最もドラマチックな想像力の持ち主だった。ルビーはユージンに養父母の性格を語り、二人がどれほど単純で、自分が好きなように振り回せるかを話した。二人ともルビーがヌードモデルをしていることを知らなかった。今は親密ではないが、特定の画家と特別親しかったことをユージンに打ち明けた。過去の関係を認めたが終わったことだと断言した。ユージンはこれを本当は信じなかった。ルビーは自分のアプローチに応じたのと同じ精神で、他のアプローチにも応じているのではないかと疑った。これは彼を嫉妬させた。ユージンはすぐにルビーがモデルでなければいいのに思った。ユージンがそう言うとルビーは笑った。ユージンがそうくるのがルビーにはわかっていた。これは彼が彼女に本物の明確な関心を持っている最初の証拠だった。
このときからルビーと一緒に過ごすすてきな昼と夜が続いた。ディナー・パーティーの前にルビーはユージンを日曜日の朝食に招いた。養父母は出払っていて、家はルビーにまかされていた。ルビーはユージンに朝食を作りたかった……自分に料理ができること彼に見せたいのが主な動機だった……このときは斬新だった。彼が九時に到着するまで待って作業を始めた。こぎれいで、小さな、薄紫色の、体にぴったりの部屋着と、フリルのついた白いエプロンで身なりを整え、テーブルの準備をして、ビスケットを作り、強いワインで腎臓のシチューを調理し、コーヒーを入れたりして、仕事にかかった。
ユージンは大喜びした。ルビーを追い回しては抱きついたりキスをして作業を遅らせた。ルビーが鼻に小麦粉を着けたのを、ユージンが唇で払いのけた。
ルビーがお得意のとても楽しいちょっとしたダンスを披露したのはこのときだった……木靴のダンスで、頻繁にすばやくかかとをカチカチ鳴らして、駆け足で横に移動するものだった。ルビーはスカートを足首の少し上でまとめて、足を軽やかに動かしてややこしい動きをやり通した。ユージンは感心して我を忘れた。こういう女の子には会ったことがないと内心で思った……ポーズをとるのも、演奏も、踊りもとても上手で、おまけにとても若いときている。彼女なら一緒に暮らすには楽しい相手になるだろうと思い、それが実現できるだけの金が今あればいいのにと願った。この舞い上がったときや、他のときに、彼女となら結婚してもいいかもしれないと考えた。
ディナー・パーティーの夜、ユージンはルビーをソフロニの店に連れて行った。前を一列で横切っている大きな黒い革のボタンのついた、真っ赤なドレスで着ているのを見て驚いた。赤いストッキングと靴を履き、髪に赤いカーネーションをさしていた。ボディスは襟ぐりが深くて袖が短かった。ぼおっとしてしまうほど美しく見えたのでユージンはそう言った。ルビーは笑った。ルビーが事前に、そうしなければならないと彼に警告していたので、二人は辻馬車で行った。片道で二ドルかかったが、必要経費ということで無駄遣いを許した。うまくやっていくのは難しいとユージンに強く考えさせ始めていたのは、こういう小さな出来事だった。
このディナー・パーティーを企画したのは、昼と夜の絵画クラスの学生たちだった。参加者は二百人を越え全員が若かった。絵画クラスの女子学生や、絵のモデルや、同伴者として連れて来られたいろいろな思惑と事情を抱えたガールフレンドの寄せ集めだった。大きなダイニング・ルームは、皿の鳴る音、冗談を叫ぶ声、歌声、挨拶の交換で、とても騒がしかった。ユージンは自分のクラス以外に知り合いは少なかったが、人付き合いのいい印象を与え、ひとりぼっちでも仲間はずれでもないように見せるには十分だった。
ルビーはもともとみんなに知られて、好かれているようだった。衣装が少し大胆なせいで、人目についた。いろいろな方向から「よお、ルーブ!」と声がかかった。名前のルビーを馴れ馴れしく変えていた。
ユージンはこれに驚いた……少しショックだった。彼が知らないいろいろな男子がやって来てはルビーに話しかけ、身近な噂話を交換していた。十数分のうちに十数回声をかけられてユージンから離れた。ルビーが会場の反対側で六人の学生に囲まれて談笑しているのが見えた。これはユージンを嫉妬させた。
夜が深まるにつれて、各人の相手に対する態度や、みんなのみんなに対する態度が、だんだん打ち解けてきた。食事が終わると、片方の端が片付けられて、出し物をする人用の支度部屋として、隅っこが緑色のついたてで仕切られた。ユージンは、大きな拍手で呼ばれた学生のひとりが、アイルランドの一人芝居をするために緑色の頬髯をつけ、しかもそれを観客の前で直すのを目撃した。別の若者は大きな詩の巻物を持っているふりをした……叙事詩だ……それを読むには一晩かかりそうに見えるほどびっしり巻かれていた。観衆は不満の声を上げた。見事なさばき方で片手をあげて場を静め、外側の端を持ったまま巻物を落として、読み始めた。悪い詩ではなかった。しかし面白かったのは本当に短くて二十行もないことだった。紙の残りの部分は観衆を欺くための走り書きで埋まっていた。これは大きな拍手をわき起こした。歌……『リーハイ渓谷下り』……を歌った二年生がいた。クラスで批評と絵画を担当するテンプル・ボイルと他のインストラクターのものまねをした者がいた。これは大盛況だった。最後に「デズモンド! デズモンド!」……女の名字……という観衆の盛んなかけ声をうけて、モデルの一人が緑色の布の仕切りの後ろにまわった。そして少ししてから、黒と銀のスパンコールのついたスペインのダンサーのミニスカートをはいてカスタネットを持って、再び現れた。親しい学生がマンドリンを持ち込んでいて『ラ・パロマ』が踊られた。
こういう演目の間中、ユージンはろくにルビーと一緒にいられなかった。ルビーは引っ張りだこだった。他の女の子がダンスを終えようとしていたところへ「ねえ、ルーブ! きみもやったらどうだい?」と声がかかるのが聞こえた。ルビーの踊りを見物したい他の者が「やれよ、ルビー!」と声をかけた。会場の残りもほぼ思考停止のまま囃し立てた。ルビーを囲んでいた数人の男子たちが彼女をダンス・スペースの方へ押し始めた。ユージンが気づかないうちに、ルビーは誰かの腕に抱えられて、悪ふざけでグループからグループへと渡されていた。群衆が歓声を上げた。しかし、ユージンはルビーと親密になっていたので、この馴れ馴れしさにいらいらした。ルビーが自分のものではなくアートスクールの学生全体のものに見えた。おまけにルビーは笑っていた。人のいない空間に降ろされると、ルビーはユージンのためにしたように、スカートをたくし上げて踊った。学生が大挙して間近に迫った。彼女を見るためには近づかねばならなかった。ルビーはそこで、ユージンを気にせず、陽気に木靴のダンスを踊っていた。ルビーが踊るのをやめると、さらに大胆な若者が三、四人で彼女の手や腕をつかみ、何か別のことをしろと囃し立てた。ある者がテーブルの上を片付け、他の者がルビーを抱き上げてその上に乗せた。ルビーはさらにまた別のダンスを踊った。「なあ、ケニー、お前にその赤いドレスが必要かよ?」と叫ぶ声がした。これが彼の一時的な恋人だった。
午前四時にルビーがようやく帰る気になったときというか、他の連中がルビーを帰すことに同意させられたときには、ユージンが一緒だったことをほとんど覚えていなかった。二人の学生が自分を家まで送る特権を奪い合っているときに、ユージンが待っているのが見えた。
「だめよ」彼を見ながらルビーは叫んだ。「私には連れがいるの。もう行くんだから。じゃあね」そう言ってユージンの方へ来た。ユージンは体が凍る思いと疎外感を味わった。
「行こうか?」ルビーは尋ねた。
ユージンは暗い面持ちで、非難がましく、うなずいた。
第十二章
ユージンは関心は、その冬にかなり上達したヌードからデッサンに移って、服をまとった人が使われるイラストのクラスの授業に切り替わった。ここで彼は初めて、今の雑誌で主流になっている表現手段の淡彩画に挑戦し、しばらくすると作品の出来栄えが称賛された。しかし毎回ではなかった。厳しい批評をした方がもっと地道に努力するだろうと感じたインストラクターが、最高の作品のいくつかも鼻先であしらったからだ。しかしユージンは自分の運命を信じた。絶望のどん底に沈んだ後でも自信に満ちた高みにのぼるつもりだった。
〈みんなの家具社〉での仕事がかなり退屈な苦行になりかけていた。ある水曜日の午後、イラストのクラスでインストラクターをしているヴィンセント・ビーアスが、肩越しにのぞき込んで言った。「きみの腕前ならすぐに少しは稼げるようになるはずだ、ウィトラ」
「そう思いますか?」ユージンは質問した。
「かなりいいよ。ここの新聞のどこかにきみのような人の居場所があるはずだ……おそらく夕刊紙だがね。これまでに当たってみたことはあるかい?」
「初めてこの街に来たときにやりましたが、求人がありませんでした。むしろ今は、なくてよかったと思ってます。どうせ長くは居させなかったと思います」
「きみはペンとインクを使って描くのがうまいね?」
「最初はそれが一番好きだと思いました」
「それじゃ、新聞社はきみを使えるはずだ。だが、私だったらそこに長く居るつもりはないな。きみはニューヨークに行って雑誌のイラストの分野に乗り出すべきだ……ここには何もないからね。しかし今のうちに少し新聞の仕事をしてみても害にはなるまい」
そのうちの一紙に就職できればずっと夜のクラスを続けられることがわかったので、ユージンは夕刊紙に当たってみることにした。長い夜の授業をイラストのクラスに当てて、時々夜休んで写生の勉強をすることができた。これならうまくいくだろう。ユージンは数日間、仕事の後の一時間を使い、ペン画の見本を持参して求人の問い合わせを行った。会った担当者の数名は、彼が見せなくてはならなかったものを見て気に入ったが、空きはすぐには見つからなかった。いくらかでも励ましてくれた会社はたった一社しかなかった。しかも最低の一社だった。そこの編集長は、近いうちに人手が必要になるかもしれないと言った。もしユージンが三、四週間後に出直して来れば話が可能だった。給料は大したことなかった……駆け出しは二十五ドルだった。
ユージンはこれを大きなチャンスだと思った。三週間後に戻って実際に働き口を確保したとき、これでうまく成功への道に乗った、と感じた。たまたま西と北の光が差し込む四階の奥の小部屋に机を与えられた。二人のうち年長者の『部長』は、めかし屋の芸術家気取りで、名前はホーレス・ハウだった。
ここの仕事は、ペンとインクだけでなくチョークのプロセス乾板があるという点で変わっていた。これはチョークの堆積物で覆われた亜鉛板に、先端の尖った鋼で、絵を描く方式で、簡単に複写できる図柄が残された。ユージンはこれを使ったことがなく、『部長』に教えてもらわねばならなかったがすぐに覚えた。乾板の表面を引っ掻くときに、絶えずチョークを吹き飛ばし続けなければならず、時々粉塵が鼻の穴に入ることがあったので、肺がしんどいと感じた。ユージンはこの作業が多くないことを心から望んだが、他の二人に……彼が新入りだから……やらされたおかげで、最初のうちはかなり割を食った。ユージンがこれを疑ったのはしばらくしてからだが、その頃には仲間たちとも仲良くなり始めていた。物事はそれほど悪くなかった。
この二人はユージンの人生で大きな役割を果さなかったが、彼にシカゴの新聞業界の事情と人物を紹介した。このことは彼の視野を広げて、有益な視点を提供した。二人のうち年長者の『部長』は、めかし屋の芸術家気取りで、名前はホーレス・ハウだった。もう一人のエレミヤ・マシューズ、略してジェリーはチビでデブだった。丸くて、陽気で、ニコニコ顔で、硬い黒髪が豊富だった。噛みタバコが大好きで、服は少しよれよれだが、熱心で、思いやりがあって、気立てがよかった。熱中していることがいくつかあって、一つはおいしい食べ物、もう一つは東洋の骨董品、三つ目は考古学だとユージンは気がついた。世の中で起こっているすべてのことに敏感で、社会的、道徳的、宗教的な偏見がまったくなかった。自分の仕事が好きで、仕事中に口笛を吹いたり話をしたりした。ユージンは最初から彼に密かな好意を抱いた。
自分は本当に文章が書ける、とユージンが最初に自覚したのはこの新聞社で働くようになってからだった。それは、最初に考えていた分野だった新聞の仕事で何でもやれるという考えを放棄したために偶然生じたものだった。ここでは地元向けの安っぽい日曜版の特集記事の需要が大きかった。挿絵用に渡されたこういう記事のいくつかを読んでいて、自分の方がはるかにうまくやれる、との結論に達した。
「あの」ユージンはマシューズに尋ねた。「ここでは誰が記事を書くんですか?」彼は日曜版に目を通していた。
「うん、担当の記者だな……やりたきゃ誰でもいいんだ。よそから買ってるのもあると思う。コラム一つに四ドル払うだけさ」
会社は自分にも払うだろうかとユージンは思ったが、払おうが払うまいが、記事を書きたかった。もしかしたら署名させてくれるかもしれない。ユージンは署名された記事をいくつか見かけた。こういうことをやれる自信があると申し出たところ、自分が物書きであるハウはこれに難色を示した。彼は記事と絵の担当だった。ハウの反対は、チャンスがあったら挑戦しようと決心したユージンを怒らせた。ユージンはシカゴ川について書きたかった。自分ならその挿絵も効果的に描けると思った。グース島は数年前にこの島について読んだ解説書があり、日曜日に散歩したり恋人たちを眺めたりするのが好きな街の公園は素朴で美しかった。いろいろあったが、食指が動き、感覚に訴える絵だったので、自分も挑戦したかった。シカゴ川を題材にしてイラストを駆使して何かいいものがやれそうだ、と親しくなっていた日曜版編集長のミッチェル・ゴールドファーブに提案した。
「やってみろ、腕試しだ」この御仁は声を大にして言った。元気で、たくましい、三十一歳くらいの若いアメリカ人は、誰かが背中に冷水を浴びでもしたら聞こえるような、息をのむような笑い方をした。「うちはそういうものすべてを必要としている。きみは記事を書けるかい?」
「少し練習すれば書けるかもしれないと思う時があります」
「やればいい」相手はちょっとした無料の原稿を思い浮かべて続けた。「腕試しだ。お前ならいいものが作れるかもしれない。文章が絵と同程度なら大丈夫だって。うちは、担当の社員に金を払わないが、記事には名前を載せられるんだ」
ユージンにはそれで十分だった。さっそく腕を試した。彼の芸術作品はすでに仲間内で評判になり始めていた。荒削りで、大胆で、鋭く、そこにはちょっぴり魂がこもっていた。ハウはすでに密かに嫉妬し、マシューズは称賛を惜しまなかった。ゴールドファーブに励まされて、ユージンは日曜日の午後、シカゴ川の支流をたどって、そのすばらしさと特色に注目し、最後にスケッチした。その後でシカゴ図書館に行き、川の歴史を調べた……その交通の奇妙な点を詳しく記した政府系技術者たちの報告書に偶然出くわした。彼はその美しさと小ささについて記事も称賛も書かなかったが、それがそんなところに存在するとは信じる者が少なかった美しさを見つけていた。ゴールドファーブはそれを読んで妙に驚いた。ユージンにこんなことができるとは思っていなかったのだ。
ユージンの文章の魅力は、色彩と詩情で頭がいっぱいでありながら、論理と事実への欲求があり、それが彼の書いたものに安定感を与えていた。物事の歴史を知ることや、人生の今の局面についてコメントすることが好きだった。公園でも、グース島でも、ブライドウェルでも、思いついたことを何でも書いた。
しかし、彼の本当の情熱は芸術に向いていた。これは彼にとって少し簡単な手段だった……手っ取り早かった。ある物を言葉で伝えてから実際に描くことができる、と考えると時々ぞくぞくすることがあった。すばらしい特権に思えた。ありふれたものをドラマチックにしていると考えるのが大好きだった。彼にとってはすべてがドラマチックだった……往来を行く荷馬車、高層ビル、街灯……何もかもすべてがそうだった。
その間もデッサンは軽視されず、より一層強さを増したようだった。
「お前の素質がどんなだかはわからないが、ウィトラ、気になるな」ある日マシューズがユージンに言った。「だけど、一味違うんだよな。ほら、どうしてあの煙突の上に鳥を飛ばすんだい?」
「さあ、わかりませんけど」ユージンは答えた。「僕がそんなふうに感じるだけです。鳩がそうやって飛んでいるのを見たことがありますから」
「すべてが見事だよなあ」マシューズは答えた。「それに、たくさんのものをうまく扱うよ。ここじゃこれほどのことをする奴にはお目にかからないからな」
マシューズはアメリカのことを言っていた。この二人の絵の担当者は自分たちをペンとインクとイラスト全般の専門家だと考えていた。〈ユーゲント〉、〈ジンプリチシムス〉、〈ピックミーアップ〉や、急進的なヨーロッパの美術誌を購読していて、スタンラン、シェレ、ミュシャや、フランスでポスターを手掛ける新進気鋭の若手一派を全て知っていた。こういう活動家やこういう作品の話を聞いてユージンは驚いた。自分に自信がつき始めた……自分を何者かとして考え始めた。
ユージンはこの知識を得る一方で……誰が誰で、何が、なぜ、そうなのかを探求する一方で、アンジェラ・ブルーとの関係を継続して理にかなった結論にたどりついた……彼女と婚約した。ディナー・パーティー以降も切れずに続いたルビー・ケニーとの関係があったにも関わらず、それでもユージンはアンジェラを手に入れなければならないと感じた。彼女がステラ以降のどの女の子よりも抵抗を示したことや、とても純真で、素朴で、心優しそうに見えたのが一因だった。それにとてもすてきだった。野暮ったい仕立てのどんな粗末なものでも隠せない美しい体型をしていた。髪はすばらしいほど豊かで、大きな魅力のある水のように澄んだ青い目をしていた。唇と頬は色鮮やかで、歩き方に自然な品があり、ダンスができてピアノが弾けた。ユージンはアンジェラを見てしばらくしてから、彼女は自分がこれまでに見たどの女の子よりも美しい……彼女の方が生き生きとして、感情豊かで、優しい……という結論に達した。ユージンが彼女の手を握ろう、キスをしよう、両腕で抱きしめようとしても、アンジェラは慎重に、用心深く、それでいて半分屈したような態度で相手をかわした。アンジェラはユージンにプロポーズしてほしかった。しかしそれは彼を罠にはめようと思ったからではなく、伝統的な価値観の良心が、こういうことは明確な婚約をしていない場合は正しくないと彼女に告げたからであり、まずは婚約をしたかった。アンジェラはすでにユージンに恋をしていた。彼が求めたとき、その両腕の中に我が身を投げ出して抱かれたくてたまらなかったが、自分を抑えて待ち続けた。ある晩、アンジェラがピアノの前で座っていたときに、ユージンはついに両腕で抱きつき、しっかり抱き締め、唇を頬に押し当てた。
アンジェラは必死に立ち上がった。「だめよ、こんなことしちゃ」と言った。「よくないことよ。あなたにこんなことさせるわけにはいかないわ」
「でも、僕はきみを愛してる」ユージンはそう叫んで彼女を追いかけた。「きみと結婚したい。僕を受け入れてくれるかい、アンジェラ? 僕のものになってくれますか?」
アンジェラは憧れの目で相手を見た。まんまと自分がユージンを自分の思惑通りに動かしたのがわかった……この人慣れしない、社会経験の不足な、芸術家を。アンジェラはその場で身を委ねたかったが、何かが踏みとどまらせた。
「この場で返事をするわけにはいかないわ」アンジェラは言った。「両親に話したいの。だってまだ両親には何も打ち明けていないんですもの。あなたのことで両親の意見を聞きたいわ。それから今度いつ来るかをお伝えします」
「ああ、アンジェラ」ユージンはせがんだ。
「お願いだから時間をください、ウィトラさん」アンジェラも頼んだ。アンジェラはまだ彼をユージンと呼んだことがなかった。「二、三週間したらまた来ます。よく考えたいの。その方がいいわ」
ユージンは欲望を抑えて待った。しかしそれが、アンジェラは彼にとって世界でただ一人の女性である、という幻想に一層拍車をかけて拘束力を持たせてしまった。アンジェラはどの女性よりもユージンに、感覚の高ぶりを隠さなければいけない……もっと高潔な態度を装わなければいけない……という気分にさせた。ユージンは自分を偽って、これが精神的な関係であると信じ込もうとした。しかしどこをめくってみても、アンジェラの美貌、肉体的な魅力、情熱への燃えるような感覚があった。アンジェラは、慣習や、半分宗教的な人生観に縛られて、まだ眠っていた。目覚めてくれたなら! ユージンは目を閉じて夢見るのだった。
第十三章
二週間後、アンジェラは婚約する覚悟をして戻って来た。ユージンはそれを受け入れたい一心で待っていた。ユージンは、シカゴ・ミルウォーキー・セントポール鉄道駅の煙たい大屋根の下で彼女を出迎えて、キンスレーの店に案内してディナーを振る舞い、花束を渡し、あらかじめ準備しておいた指輪を贈る計画を立てていた。七十五ドルもする、貯金をすべて使い果たすほどの指輪だった。しかし、アンジェラは状況の劇的な性格を気にしすぎて、自分が願うとおりに見える叔母の家の客間以外の場所では会えなかった。アンジェラは早く帰らなければならないと書いていた。ユージンが土曜日の夕方八時に到着したとき、アンジェラは自分が最もロマンチックに見えるドレス、アレキサンドリアで彼女が彼に初めて会ったときに着ていたドレスを着ていた。アンジェラは、ユージンが花束を持ってくるか半信半疑だったので何もつけていなかった。ユージンがピンクのバラを持ってきたので、それをコサージュにつけた。アンジェラはバラ色の若さと細さを絵にしたような女性で、彼がちなんで名前をつけた人物……アーサー王の宮廷の美女エレイン……に似てなくもなかった。黄色い髪は大きくまとめられて首のあたりに色っぽくかかり、頬はその時の高揚感からバラ色に染まり、唇は潤い、目が輝いていた。ユージンが入ってくるとアンジェラはとても明るく歓迎した。
アンジェラの姿を見てユージンは我を忘れた。彼はどんなロマンチックな状況でも、いつも動じなかった。その思いつきの美しさ……愛としての愛の美しさ。青春の喜びが、歌のようにユージンの心を満たし、彼を緊張させ、興奮させ、熱狂させた。
「よく来たね、アンジェラ!」そう言ってユージンは相手の手を握ったままでいようとした。「で、どうなんですか?」
「まあ、そう急かさないでよ」アンジェラは答えた。「まずはあなたとお話がしたいわ。何か弾くわね」
「いらないよ」アンジェラがピアノの方へ戻って行くのを追いかけながらユージンは言った。「僕は知りたいんだ。知らなくちゃならない。待てないよ」
「決心がつかないのよ」アンジェラははぐらかすように言い訳した。「考えたいの。演奏させてよ」
「いや、だめだ」ユージンは食い下がった。
「それでも演奏させてちょうだい」
アンジェラは相手を無視して、一気に曲を弾き始めた。その間、ユージンが自分の上に浮かんでいるのを意識した……強く感じた。終盤にかけて、曲の暗示を受けてアンジェラが一層感情的に反応しやすくなると、ユージンは以前一度やったように滑らせるように両腕を回したが、アンジェラはまたもや身を振りほどき、滑るようにして片隅に行き、向き合って立った。ユージンは彼女の紅潮した顔も、揺れる髪も、ウエストで斜めになっているバラも好きだった。
「さあ、きみが話す番だよ」そう言ってアンジェラの前に立った。「僕を受け入れるかい?」
まるで疑うように、親しくなるのを恐れるかのように、アンジェラは頭を下げた。ユージンは片方の膝をついて、目をのぞき込んだ。顔を上げながらウエストに手をかけ、「受け入れるかい?」と尋ねた。
アンジェラは黒くてふさふさの彼の柔らかい髪と、滑らかで青白い額と、黒い目と、均整のとれた顎を見た。ドラマチックに身を委ねたかった。これは十分にドラマチックだった。アンジェラは彼の頭に両手を置いて、かがんで、目を見つめた。髪が前に落ちて顔にかかった。「私を大事にしてくれますか?」アンジェラは目を見つめながら尋ねた。
「するよ、するとも」ユージンは明言した。「わかってるだろ。だって僕はきみをとっても愛しているんだから」
アンジェラは彼の頭を後ろに倒して唇を重ねた。そこには炎と苦悩があった。アンジェラは彼を抱きしめた。するとユージンは彼女の頬、唇、目、首筋にたっぷりキスしながら立ち上がった。
「ああ!」と叫んだ。「きみは何てすばらしいんだ!」
その表情がアンジェラに衝撃を与えた。
「いけないわ」と言った。
「仕方ないだろう。きみがとても美しいんだから!」
この世辞は許した。
この後にも燃えるひとときがあった。二人が必死に抱き合ったひとときがあり、ユージンが彼女を両腕で抱きしめたひとときがあり、彼が将来の夢をささやいたひとときがあった。ユージンは買っておいた指輪をとってアンジェラの指にはめた。ユージンは偉大な画家になるつもりだった。アンジェラは画家の花嫁になるつもりだった。ユージンは彼女の美しい顔や、髪や、姿を描くつもりだった。もし恋愛のシーンを描きたくなったら、ユージンは今二人が共に送りつつあるこのシーンを描くだろう。二人は午前一時まで語り明かした。それからアンジェラは、彼に帰るよう求めたが、ユージンは帰ろうとしなかった。帰ったのは二時だった。朝早く迎えに来て、彼女を教会に連れて行くだけのためにだった。
この後ユージンはかなり驚くほど独創的で多感な時期を迎えた。その中で彼は文学的、芸術的なものを理解し、アンジェラとの結婚が自分にとってどのような意味を持つかを夢見るようになった。このときにユージンは変なことに気がつき、それが彼を物事の理解へと導いていた。宗教では、教義はある面で異常な要求をする。道徳では、人間の強情さは底知れない。事実、私たちの社会組織には、世界の中に世界がある。本当は基本的には、実際には、誰も何もはっきりと明確には理解していない。ユージンはマシューズから哲学を……カント、ヘーゲル、ショーペンハウアーを……彼らが信じていることを……うっすらぼんやりと学んだ。ハウと付き合うようになって、ピェール・ロティ、トーマス・ハーディ、メーテルリンク、トルストイといった新しい雰囲気を表現する現在の作家の話を聞いた。ユージンはけっして読書家ではなかった……生きるのに必死だった……しかし会話からたくさんのことを学び、話すことが好きだった。やればほぼ何でもやれると思い始めた……詩を書くことも、脚本を書くことも、物語を書くことも、絵やイラストも描けるはずだ。よく自分のことを将軍や、演説家や、政治家だと想像した……どれか一つのものになりきれたらどんなにすばらしいだろうと考えていた。時々歩きながら空想して作った名演説の一節を諳んじることがあった。ユージンの取り柄は、働くことが本当に大好きなことと、やれることに打ち込めることだった。彼は与えられた仕事を怠けようとか、責任逃れをしようとしなかった。
夜の授業を終えてからユージンは時々ルビーの家に出かけ、十一時までについた。静かに入れるように玄関のドアは開けたままにしておくように彼女と取り決めができていた。正面の部屋から離れた小さな部屋で、ルビーが赤いシルクのガウンを着て、小さな黒髪の子供のように丸くなって眠っている姿を見つけたのも一度ではなかった。ルビーはユージンが自分の芸術的な素質を気に入っていることを知っていたから、変わったものや珍しいものを取り入れてそれらを満足させようと努力した。ベッド脇の小さなテーブルの赤いシェードの下にロウソクを置いて、読書していたふりを装い、本はいつも、ユージンが来た時にそれが目につくように、掛布団の片隅に放り出されていた。ユージンは無言で立ち入り、うたた寝しているルビーを両腕で抱き起こし、唇にキスして目覚めさせ、抱いて居間に運び、愛撫したり熱い胸の内をささやいた。アンジェラに愛を告白しておきながら、こうしてルビーに入れ込むのをやめなかった。ユージンはこの二人が大きな妨げであることを全くわかっていなかった。ユージンは自分がアンジェラを愛していると思った。ルビーのことは好きであり、優しい人だと思った。こんなにも小さくて、無思慮なので、ユージンは時々彼女を気の毒に思うことがあった。最後は誰が彼女と結婚するのだろう? 彼女はどうなってしまうのだろう?
こんな態度だったから、ユージンは、すぐに彼のために何でもするようになったこの娘を迷わした。ルビーは、ちっぽけなアパートでいいから二人が一緒に……二人っきりで……暮らせたらどんなにすばらしいだろう、と夢を夢見た。ユージンのためなら絵のモデルをやめて家事に専念するつもりだった。ユージンは、ひょっとしたらそういうことだってあるかもしれないと想像しながら……多分そうなることはないと十分承知しているくせに……ルビーにそういう話をした。ユージンはアンジェラを妻に迎えたかった。しかし、もしお金があれば……何とかして……ルビーと一緒に別の場所も確保していいかもしれないと考えた。アンジェラがこれをどう思おうが構わなかった……知られないようにするだけだった。ユージンはどちらにも他の相手について何も言わなかった。しかし、もし二人が知ったら、お互いに相手のことをどう思うだろうかと思うことは何度かあった。お金、お金、それがあればおさまるのだ。ユージンはお金がなかったから、今は誰とも……アンジェラともルビーとも他の誰とも……結婚できなかった。最初の務めは、経済的な立場を築いて、どんな女の子とも真剣に話ができるようにすることだと考えた。これが、アンジェラが自分に期待するものだとユージンは知っていた。もしルビーまで望むなら、これは彼が手に入れなくてはならないものだった。
この職場がうんざりし始めるときが来た。ユージンは自分の人生がいかに制限されているかを理解し始める段階に来ていた。マシューズとハウは、給料がいい分、ユージンよりも良い生活を送ることができた。彼らは深夜の夕食、観劇会、テンダーロイン地区(まだこの名前は知られていなかった)へと繰り出した。彼らには日没後に、自由奔放な者にとって独特な魅力をもつ市内の一画を冷やかすだけの時間があった……シカゴ川の一画なら波止場、サウスクラーク・ストリートなら賭博街、新聞関係者からなる組織のホワイトチャペル・クラブ、文人や新聞制作でも実力者がよく行くその他の場所へ行った。ユージンは、第一に内省的で思慮深い気質のせいで、第二に彼の美意識がこういう場所の下品で安っぽいと思う多くのものを受け付けないせいで、第三に自分には先立つものがないと考えたせいで、こういう娯楽にはほとんど参加しなかった。ユージンは教室で課題に取り組む間もこういう話題を耳にした……いつもその翌日だった……話は参加者の話術の力で誇張され、より華やかに面白くなっていた。ユージンは卑しい低俗な女性と下品な振る舞いが嫌いだったが、自分では、望んだところで間近で見ることさえ許されないと感じた。飲んで騒ぐにはお金がかかるが、ユージンにはお金がなかった。
おそらく、ユージンの若さと、彼の持つある種の世慣れていない、力量不足的な雰囲気のせいで、雇い主たちは彼に対してお金の問題を考慮する気にならなかった。彼らはユージンが少ない給料で働き、気にしないと考えているようだった。本当は、同じ期間中一緒に働いた人の誰よりもその値打ちがあったのに、昇給の気配もなくここで六か月ずるずる過ごすしかなかった。彼は個人的に自分の主張を押し通す人ではなかった。しかし、仕事は相変わらず効果的だったが、落ち着かなくなり、過労で少しつらくなり、どうしても仕事から解放されたくなった。
アンジェラ、画家としてのキャリア、生まれつきの落ち着きのなさ、自分がなれるかもしれないものが決まりかけてきたこと、が大きな動機だったが、シカゴを離れようと彼の決意を固めさせたのは、雇用側のこの無関心だった。アンジェラは、将来の平和の夢としてユージンから離れなかった。もしアンジェラと結婚して落ちつくことができれば、幸せになるだろう。ルビーにはすっかり飽きてしまい、今では別れてもいいと思った。ルビーはどうせ大して気にしないだろう。ルビーの気持ちはそれほど深いものではなかった。それでもルビーが気にかけてくれることは知っていた。あまり定期的にルビーの家に行かなくなり、ルビーが画家たちの世界でしたことに本当に無関心になり始めた時には、自分が恥ずかしいと感じ始めてもいた。ユージンはそれが残酷な仕打ちだと知っていた。ユージンは、自分が一緒にいてあげないときのルビーの態度から、ルビーが傷ついていることも、自分が冷めていることをルビーが知っていることもわかった。
「日曜日の夜は来るのかしら?」一度ルビーは寂しそうに尋ねた。
「無理だな」ユージンは謝った。「仕事があるんだ」
「そうね、あなたは働かなくちゃいけないものね。そうしてください。私の方はかまいませんから」
「ねえ、ルビー、そんな言い方はないだろう。僕はずっとここにはいられないんだ」
「事情はわかってるわ、ユージン」ルビーは答えた。「あなたはもうどうでもいいのよね。どうぞ、私にお構いなく」
「ねえ、ルビー、そんな言い方をしないでくれよ」とユージンは言うが、彼がいなくなるとルビーは窓辺に佇んでみすぼらしい近所を眺めて、悲しそうにため息をついた。ルビーにとってユージンは、これまで会った誰よりも大切な人だったが、彼女は泣くタイプの女の子ではなかった。
「あの人は私と別れようとしている」と思っただけだった。「別れるつもりなんだわ」
ゴールドファーブはずっとユージンを見てきて、彼に興味を持ち、才能があると気づいていた。もっと大手の新聞のもっと好条件の日曜版編集者のポストに就くために間もなく辞めるつもりだった。その彼が、ユージンは時間を無駄にしている、そう言ってやるべきだ、と考えた。
「きみはここでもっと大きな新聞社に就職するすべきだと思うよ、ウィトラ」ある土曜日の午後、仕事が片付くとゴールドファーブが彼に言った。「きみはこの新聞社にいてもどうにもならないよ。ここは大して大手じゃないからね。きみは大きな新聞社に就職すべきだよ。〈トリビューン〉はどうだ……さもなきゃニューヨークに行ってみるとか? きみは雑誌の仕事をするべきだと思うな」
ユージンは話に聞き入った。「そのことは僕もずっと考えてきました」ユージンは言った。「ニューヨークに行こうと思ってます。向うの方がうまくいくでしょうから」
「私ならどちらか一方をやるね。こんな場所に長居しすぎると、きみには害になるぞ」
ユージンは耳の中で鳴り止まない転職という考えを抱えたまま席に戻った。行こう。所持金が百五十か二百ドルになるまでお金を貯めて、それから東部で運試しをしよう。ルビーとアンジェラは置いていこう。自分の中で漠然と告白しただけだが、アンジェラとはほんのいっとき、ルビーとは永遠の別れになるだろう。いくらかお金を稼いだら戻ってきて、ブラックウッド出身の夢のような相手と結婚しよう。すでにユージンの想像力豊かな心は、アンジェラが純白のドレスを着て自分の隣にいる小さな田舎の教会のロマンチックな結婚式に向かっていた。それからニューヨークに彼女を連れて帰る……すでにユージン・ウィトラは東部では有名人になっているのだ。すでに彼の頭の中には、東部の大都市の魅力、りっぱな邸宅、富、名声があった。パリやロンドンに行くまでもない、彼が知るすごい世界だ。すぐそこへ行くのだ。そこにはどんなものがあるのだろう? どのくらいすごいのだろうか? いつ頃になるだろう?
ユージンは夢に浸った。
第十四章
いったん、このニューヨークに行きが自分のキャリアには必要なステップとして頭の中で固まってしまうと、それを実行するのに問題はなかった。アンジェラに指輪を渡してから、貯蓄銀行にはすでに六十ドルの蓄えがあり、できるだけ早くそれを三倍にして、それから出発しようと決心した。スタートを切るまでの少しの間、生活するのに必要なものがあれば十分だ、と思った。雑誌に絵が売れなければ、新聞社に就職すればいい。とにかく、生きていけるという自信を感じた。ハウとマシューズにもうじき東部へ行くつもりだと伝えて、二人それぞれの胸の中にそれぞれの特徴に合った感情を呼び起こした。最初から妬んでいたハウは、ユージンが新聞社からいなくなるのを喜んだが、決断の先にある輝かしいキャリアを悔しがった。今、ハウはユージンが何か突拍子もないことをするのではないかと半ば疑っていた……彼の作風は型にはまらなかった……奇想天外だった。マシューズはユージンのために喜び、少し我が身を嘆いた。ユージンの勇気と、情熱と、才能が自分にもあったらなあ、と思った。
「向こうへ行けばお前は成功するよ」ハウが妬むとわかっていたから彼が部屋にいない午後を見計らって、マシューズはユージンに言った。「素質があるからな。お前がここで仕上げた仕事の数々が、立派な招待状になるってもんだ。俺も行けたらいいんだがな」
「行ったらいいじゃないですか?」ユージンは言ってみた。
「誰がだよ? 俺がか? 俺が行ってどんないいことがあるんだ? まだ準備もできてないっていうのに。俺にはああいうのは描けないからな。いつか行くかもしれないが」
「あなただって立派な仕事をしていると思います」ユージンは大甘で言った。ユージンはそれが優れた芸術だと本当は信じていなかったが、立派な新聞の挿絵ではあった。
「よせよ、そんな心にもないことを言いなさんな、ウィトラ」マシューズは答えた。「自分の力量は自分でわかってるんだ」
ユージンは黙った。
「あっちに行ったら」マシューズは続けた。「たまには手紙くれよ。お前がどう成長していくのか知りたいからな」
「きっと書きますよ」ユージンは自分の決断が引き起こしたこの関心に気を良くして答えた。「きっとね」しかし一度も書かなかった。
ユージンはルビーとアンジェラという調整するのがあまり簡単ではない二つの問題をかかえていた。片方は、相手のどうすることもできない希望のなさに対する、同情、哀れみ、悲しみだった。ルビーはとても優しくてすてきだったが、精神的にも感情的にもユージンに見合う大きさではなかった。そうしたいからといって、ユージンは果たしてルビーと暮らしていけただろうか? ルビーをアンジェラのような女の子の代わりにできただろうか? ユージンにできただろうか? それに、もうユージンはアンジェラを巻き込んでしまった。婚約者として彼を受け入れると伝えにアンジェラが戻ってから、二人の間でいくつかの場面が展開され、その中では感情の新しい基準がユージンのために設けられていた。とても素朴で無邪気に見えたこの娘は、時々激しい炎をあげて燃えることがあった。ユージンがアンジェラのすてきな髪をほどき、重みのある房を手ですくと、その目に火が灯った。「ライン川の乙女」ユージンは言った。「小さなローレライ! きみは髪の房で若い恋人を捕えようと待ちかまえている人魚みたいだ。きみがマルグリットで、僕がファウストだね。きみはオランダのグレチェンだ。僕は、編んだときのこのすばらしい髪が大好きだ。ああ、アンジェラ、きみは完璧な人だ! いずれきみの絵を描くよ。僕がきみを有名にするからね」
アンジェラはこれに感激した。ユージンがあおる炎の中で激しく燃えた。アンジェラは、唇を重ねて長い熱烈なキスをして、ユージンの膝の上に座り、相手の首に髪をからませて、シルクの糸を顔に浴びせるかのようにその髪で顔をこすった。この反応を見てユージンは興奮し、狂ったようにキスをした。彼の大胆さがほんの少し出た時点で、アンジェラが目に抵抗ではなく自衛の色を浮かべて、この抱擁から抜け出していなかったら、彼はもっとずっと支配的になっていただろう。アンジェラは彼の愛情をもっとよく考えたいと言った。ユージンはアンジェラの抱く理想に妨げられて自分を抑えようとした。やりたいことができないとわかったので、何とか思いとどまった。こういう大胆なことをすれば彼女の愛を終わらせてしまう。こうやって二人は愛しながら戦った。
ユージンが実際に出発したのは、アンジェラとの婚約後の秋だった。夏中考え事をしながら流れに身を任せていた。ルビーとはどんどん遠ざかる一方だった。会いに行こうと最後まで思っていたのに、結局別れを告げずに出発した。
アンジェラと別れることになったとき、ユージンはすっかり意気消沈してしまった。本当は自分がニューヨークに行きたかったのではなく、運命に引き寄せられたのだと今になって思った。西部にいたのではユージンにはお金がなかった。彼のそこでの稼ぎでは、二人は生活できなかった。だから行かねばならなかった。そうすると彼女を失わねばならなかった。まさに悲劇の様相を呈していた。
出発の前の土曜日と日曜日にアンジェラが叔母の家にやって来た。そこでユージンは憂鬱な気分で彼女と床を歩き、彼女と一緒にいられなくなるまでの時間を数えながら、成功して彼女を迎えに戻る日を想像した。アンジェラは、これから起こるかもしれない出来事に一抹の不安があった。都会へ行ったきり二度と戻ってこなかった画家の物語を読んだことがあった。ユージンはそういうすばらしい人に見えた。アンジェラではつなぎとめておけないかもしれない。それでも彼は約束したし、アンジェラを熱烈に愛していた……そこに疑問の余地はなかった。ユージンの目にはあの確固とした、情熱的で、あこがれの表情があった……永遠の不滅の愛でなかったら、あれは一体何だったのだろう? 人生はアンジェラにすばらしい宝物をくれた……すばらしい愛と、画家の恋人だ。
「行ってらっしゃい、ユージン!」アンジェラは最後に、悲劇、まるでメロドラマのように泣いた。ユージンの顔を両手でつつんだ。「待ってます。あなたは何も心配しなくていいのよ。あなたの準備ができたとき、私はここにいますから。ただ、早めにね……いいかしら?」
「そうするよ!」ユージンはキスをしながら明言した。「そうだろう? 僕を見てごらん。わからないかい?」
「わかります! わかりますとも! はい!」アンジェラは叫んだ。「もちろん、わかります。はい! はい!」
後は情熱的な抱擁だった。そして二人は離れ離れになった。ユージンは人生の機微と悲劇を考えながら出発した。鮮やかな十月の星々が悲しみに追い打ちをかけた。すばらしい世界だったが、時々耐えるのがつらかった。それでも我慢のしがいはあった。おそらく彼を待っている幸福と安寧があった。ユージンとアンジェラは、互いの仲間に囲まれて、互いに抱き合って、互いにキスを交わしながら生きて、それを見つけるのだろう。きっとそうなるに違いない。世界中がそれを信じた……ステラ、マーガレット、ルビー、アンジェラに続いて彼さえも。彼さえも信じた。
彼をニューヨークに運ぶ列車には、とても瞑想的な青年が乗っていた。列車が街の大きな鉄道操車場を抜けて、民家のみすぼらしい裏庭、踏切、大きな工場と穀物倉庫を通過する間に、ユージンはその昔初めて都会に出てきたときのことを考えた。すっかり変わってしまった! あの頃の彼はとても青臭い未熟者だった。それから報道画家になり、記事が書けるようになり、女性と話ができるようになり、世の中の仕組みを少し知った。貯金がなかったのは事実だが、アートスクールを卒業し、アンジェラにダイヤモンドの指輪を贈り、この二百ドルを持って、この国の一流の大都市を偵察しようと乗り出すところだった。五十七丁目を通り過ぎようとしていた。ルビーのところへ行くときによく通った近所だと気がついた。ユージンはルビーに別れの挨拶をしなかった。遠くにありふれた木造の二世帯住宅が建ち並んでいて、そのうちの一つにルビーが養父母と一緒に住んでいた。哀れで小さなルビー! ユージンを好きだったのに。残念なことだ。しかし彼はどうすればよかっただろう? ユージンはルビーが大切ではなかった。そう思うと本当につらかったので、それからは思い出さないようにした。世の中のこういう悲劇は、考えたところで癒しようがないのだ。
列車はインディアナ州北部の平坦な原野に突入した。小さな田舎町がちらちら見えて通り過ぎるときにユージンは、アレキサンドリアと、どうやってそこを引き払って出て来たかを考えた。ジョナス・ライルやジョン・サマーズはどうしているだろう? 春に結婚するとマートルが手紙をくれた。彼女が遅らせていたのは、ただ遅らせたかったからだけなのだ。ユージンは時々、マートルは少し自分に似ていて気分屋だ、と思うことがあった。彼は短期間の訪問以外、アレキサンドリアには絶対に帰らない自信があったが、それでも、父親と母親、故郷のことを考えるのは楽しかった。彼の父親ときたら! 本当の世の中をろくに知らないのだ!
ピッツバーグを通過するときにユージンは、大きな山々が暗闇で崇高冷厳に頭をもたげ、コークス炉の大行列が赤い炎の舌を燃やしているのを初めて見た。人が働いていたり、眠っている町が次から次へと現れるのを見た。アメリカは何てすばらしい国なんだ! ここで画家になったらすばらしいことだ! 人が何百万もいるのに、こういうもの……夜のコークス炉のような単純でドラマチックなもの……を描こうという大きな画家の声はなかった。それさえできたら! もし全米を揺るがすことさえできたら、ユージンの名前はフランスのドレか、ロシアのヴェレシチャーギンの名前のようになるだろう。もし彼が自分の作品に火を、彼が感じた火を、灯すことさえできたら!
しばらくして寝台にもぐり込み、真っ暗な夜と星空をながめ、憧れを抱き、やがて眠り込んだ。再び目を覚ましたときには、列車はすでにフィラデルフィアを通過していた。朝だ。列車は猛スピードで平らな草原を横断しトレントンへ向かっていた。ユージンは起きて、トレントン、ニューブランズウィック、メタチェン、エリザベスの町並みを眺めながら、身支度を整えた。どうやらこの地方はイリノイのように平らだ。ニューアークを越えると大草原に出た。潮の香りがした。この向こうは海だった。パッセーク川とハッケンサック川があった。これは潮の影響を受ける川で、水辺に小型船と石炭やレンガを積んだはしけが係留されていた。制動係が「ジャージー市」と叫び始めたとき、何か大きな興奮がユージンを襲った。駅の巨大な屋根に乗り入れたときは少し心細くなった。彼はニューヨークで天涯孤独だった。ここは豊かで、冷たく、厳しいところだった。どうすればここで成功するのだろう? ゲートを通り抜けて、フェリー・ボートを隠している低いアーチまで歩いた。次の瞬間目の前に、地平線、湾、ハドソン川、自由の女神像、フェリー、蒸気船、定期船があった。全てが激しい雨の灰色のもやの中にあった。タグボートと定期船が大きな汽笛を悲しそうに鳴らしていた。実物を目にしなかったら絶対に想像できないものだった。激しい波になって押し寄せる本物の塩水が立てる音が音楽のように彼に語りかけ、魂を高揚させた。これは、この海ってやつは、何てすばらしいのだろう……そこには船があり、鯨がいて、大きな謎があった。ニューヨークは何てすばらしいのだろう。海に接し、海に囲まれたこの国の大都市。こっちには海があり、あっちには大きな波止場があり、世界中の港をまたにかける船が停泊していた。ユージンはそれらを……海に突き出ている長い桟橋に係留された大きな灰色と黒の巨大な船体を……見た。汽笛や打ち寄せる水の音を聞き、旋回しているカモメを眺め、人の多さをしみじみと受けとめた。ここにはジェイ・グールド、ラッセル・セージ、ヴァンダービルト家、モーガンがいた……皆この地で健在だった。ウォール街、五番街、マディソン・スクエア、ブロードウェイ……彼は評判を聞いてこれらを知っていた。彼はここでどうするのだろう……どうやって暮らすのだろう? この街は他の人にしたように、やがて彼のことも称賛するだろうか? ユージンは目を見開き、心を開いて、熱く計り知れない感謝の気持ちを抱いた。いよいよ、彼も参加するのだ、挑戦するのだ。ユージンにならできるかもしれない……多分、おそらく。しかし彼は孤独を感じた。柔らかい腕が彼を安全に守ってくれるアンジェラと一緒にいられるところへ帰りたかった。頬や髪に彼女の手の感触を味わいたいと思った。それなら孤軍奮闘の必要はなくなるのだ。しかし今、彼はひとりぼっちだった。街が彼のまわりで海のような轟音をあげていた。ユージンはその中に入って闘わねばならなかった。
第十五章
ニューヨークの道も方角も知らないユージンは、デスブロス・ストリートのフェリーに乗って、ウェスト・ストリートに入り、波止場の入口を見つめながら、その奇妙な大通りに沿って歩いた。マンハッタン島はこの方角からだとユージンには少しみすぼらしく見えた。しかし、島はおそらく島自体が優れているのではなく、島をすばらしいものにしている別のものがあるに違いない、と考えた。その後、島の堅固さ、密集した家並み、尽きることのない人の流れ、交通渋滞などを見て、まとまった人数がいるだけである種のすごさを生むのだと気づいた。これがこの島の第一印象だった。その他にも、古い近隣によくある建物の粗末さ、特定の地域の通りの狭さ、百年は雨ざらしだったと思しきレンガや石のみすぼらしさがあり、そういうものがユージンの好奇心を掻き立てたり、気鬱にさせたりした。ユージンは外部の環境に簡単に影響された。
ぶらつきながら、住みたいと思える場所や、庭か木のある家を探し続けた。やがてロウアー七番街で家が並んでいるのを見つけた。正面に鉄のバルコニーがずらりと並ぶ様子が魅力的だった。ユージンはここで、ある家の四ドルの部屋を当たってみた。今はこれでいいと思った。これはどこのホテルよりも安かった。大家は、一つの個性としてはユージンにほとんど印象を残さず、下宿人の世話はさぞかし退屈なんだと思わせただけの、黒尽くめのみすぼらしい女だった。部屋自体は何でもないありふれたものだったが、ユージンの前には新しい世界があった。彼の関心はすべてその外にあった。ユージンはこの街を見たかった。手荷物を預けてトランクを取り寄せ、自分にとって有益なことを見聞きするために街に出た。
彼は健全な精神で、この街との最初の関係を築いた。しばらくは、どうするかを考えないようにして、積極的にあちこちをくまなく歩いた。初日はブロードウェイを市庁舎まで行って、同じ日の夜、ブロードウェイを十四丁目から四十二丁目まで行ってみた。すぐに、三番街とバワリー街、五番街とリバーサイド・ドライブの名所、イースト・リバー、バッテリー・パーク、セントラル・パーク、ロウアー・イースト・サイドの見どころに精通した。さっそく大都市の生活の驚きの数々を探求した……ブロードウェイはディナーと劇場の時間に人がごった返し、ショッピング街は午前も午後もすごい人混みで、五番街とセントラル・パークは馬車だらけの驚異の世界だった。シカゴでは富と栄華に驚いたが、ここは息をつく間も与えなかった。明らかに、地位ははるかに固定的で、とても明確でわかりやすかった。ここでは、庶民と、富豪の子孫とを切り離す大きな隔たりを直感的に感じた。これはユージンを凍った葉っぱのように丸めて、魂のそのものを鈍らせ、社会的な尺度で見た地位をはっきりと認識させた。ユージンは自分をかなり高く評価してここまで来たが、見ているうちに日々自分がボロボロになっていくのを感じた。自分は何者なのか? 芸術とは何なのか? この街が求めるものは何なのか? 服装、食事、社交、乗馬など、他にももっとずっと面白いものがあった。島のロウアーエリアは、恐ろしくなるほど冷酷な商業主義に満ちていた。アッパーエリアの半分では、もっぱら女とショーが……官能的な奢侈逸楽が……彼をうらやましがらせた。道を切り開くための所持金はたった二百ドルしかなかった。そしてこれが征服しなければならない世界だった。
ユージンのような気質の人間は落ち込みやすかった。最初は人生の壮観さをむさぼったが、やがて精神的な消化不良に苦しんだ。あまりに多くのものをいっぺんに見過ぎたのだ。何週間も歩き回って、店のショウウィンドウ、図書館、博物館、大通りを見て回ったが、その一方でどんどん落ち込んだ。夜になると何もない部屋に戻ってアンジェラに長い手紙を書いた。自分が見たものを描写して、彼女への不滅の愛を書きつづった……主にそれは自分の有り余る活力とむしゃくしゃする気持ちを解消する手段が外になかったからだった。それらは色彩豊かで感情の込もった美しい手紙だったが、アンジェラには、それが自分の不在によって引き起こされたように見えたため、感情と誠実さの印象を誤って伝えた。確かにそういう部分はあった。しかしそれよりもはるかに、孤独と、この人生の壮観そのものが掻き立てた表現したい欲求の結果がそれだった。また、自分が見たもの……三十四丁目の暗闇にいた大勢の群衆、土砂降りのイーストリバーの八十六丁目沖に浮かぶ船、タグボートで牽引される車を積んだはしけ……を試しに描いたものを何枚か送った。その頃は、こういうものをどうやって扱うのか的確に考えられなかったが、雑誌のイラストを描くことに挑戦したかった。しかし彼はこういう偉大な出版物を少し恐れた。いざそれらと同じ地面に立ってみると、自分の芸術がそれほど重要なものには見えなかったからだ。
ルビーからたった一度の手紙を受け取ったのは、最初の数週間の出来事だった。ニューヨークに到着したときに書かれたルビーへの別れの手紙は、冷めた情熱が書いた間に合わせのものだった。ルビーに会わずに出発しなければなかったことが悔やまれてなりません。顔を出すつもりでいたが、直前まで準備に追われてしまった。近いうちにシカゴに戻りたいと思っているので、ルビーのところに行くつもりでいる。今でもルビーを愛しているが、最大のチャンスがある場所へ行くために、別れなければならなかった。「初めて会ったとき、きみがどんなに優しかったか僕は覚えている」と書き添えた。「僕は第一印象を絶対に忘れない、小さなルビー」
こういう未練がましさを書き添えるのは残酷なのに、彼の中の芸術家の部分が我慢できなかった。それは諸刃の剣のようにルビーを傷つけた。彼がそうやって十分に……美しく……気を遣っているのがルビーには理解できたからだ。彼が愛したのは彼女ではなく美しさだった。そして彼女の特別な美しさはその魅力を失ってしまったのだ。
ルビーはしばらくしてから喧嘩腰に、冷淡に、返事を書くつもりだったが、実際にはそうなれなかった。何か辛辣な言葉を考えようとしたが、結局ただの本心に落ち着いた。
「親愛なるユージン」とルビーはつづった。「あなたの手紙は何週間か前に受け取っていたのですが、今まで返事を書く気持ちになれませんでした。私たちの関係が何もかも終ってしまったのはわかっています。それは構いません。仕方のないことだと思いますから。あなたはどんな女性のことも長く愛せないと思います。自分の活動領域を広げるためにニューヨークへ行かなければならなかったというあなたの言葉は本当だとわかっています。そうするべきです。でも私はあなたが来てくれなかったのが残念です。あなたは来てくれたのかもしれませんが。それでも私はあなたを責めません、ユージン。しばらく続いていたことと大して違いませんから。私は好きでしたがそれを乗り越えます。今後はあなたを真剣に考えないようにします。私が時々あなた送った手紙と私の絵を返してくれませんか? もうあなたにはそんなものいらないでしょうから。
ルビー」
手紙には少し余白があって、それから……
「昨夜窓辺に立ち、外の通りを眺めました。月が輝いていて、枯れ木が風に吹かれて揺れていました。原っぱの水溜りに浮かぶ月を見ました。銀色に見えました。ねえ、ユージン、私、死んでしまいたい」
この言葉を読むとユージンは跳ね起きて、両手で手紙を握りしめた。全文に漂う悲壮感が骨身にしみて、ルビーに対する彼の評価を高め、まるでルビーと別れたのが間違いであったかのような気持ちにさせた。結局、ユージンは本当はルビーのことが好きだった。ルビーは優しかった。もしルビーがここにいたら一緒に暮らしていけたかもしれない。シカゴのようにニューヨークでモデルをやってもよかったのだ。もう少しでそんな手紙を書くところだったが、アンジェラが毎日のように送ってよこす長い手紙が一通届いてユージンを心変わりさせた。アンジェラのような偉大で清らかな愛が目前にあるのに、どうやったらルビーとうまくやっていけるのかわからなかった。愛情は明らかに薄れてきていた。今さら、それを復活させる努力をするべきだろうか?
こういう感情の対立はユージンの性格の特徴で、もし彼が正しく内省していたら、自分は美を愛し、愛を愛する、気質的な理想主義者であり、誰に対しても……無理な女は除くが……自分の中には永久の誓約は存在しないことがわかっただろう。
現に、彼は後悔と悲しみを漏らした手紙をルビーに書いたが呼び寄せようとはしなかった。ルビーが来たところで長くは養えない、と思った。それにアンジェラを自分のものにしたかった。だからこの問題は消滅した。
その一方で、雑誌社を訪ねて回った。シカゴをたつ時ユージンはトランクの底に〈グローブ〉のために描いたたくさんのスケッチ……シカゴ川、通りとして一度研究したことがあるブルーアイランド・アベニュー、グース島、湖畔のスケッチ……を詰め込んだ。通りのシーンもいくつかあった。黒い部分がやけに多くてどれも力強く、時々まるで閃光のように白い線を思いがけない形で使っていた。そこには感情があり、生命を感じた。すぐに評価されてもおかしくなかったが、あいにく、作品を粗野に、まるで雑に見えるようにするために彼がやったことに、根本的に奇妙なところが十分にあった。ペンの一振りだけで男性のコートを描いた。顔を点で示した。近くで見ても、ディテールがほとんどない、まったくないこともよくあった。アートスクールや、マシューズやゴールドファーブから受け取った称賛から、自分には自分のスタイルがある、という結論にゆっくりと到達しつつあった。ユージンはとても個性的だったので、それに固執する傾向があった。自信に満ちた雰囲気で訪ね歩いたが、それを裏付けるのは彼の信念以外には何もなく、ましてや人を引きつける雰囲気ではなかった。〈センチュリー〉、〈ハーパース〉、〈スクリブナー〉で見せたとき、彼の絵はうんざりした態度で受け取られた。壁には何十枚ものすばらしい絵が展示されていた。その頃のユージンが知っていたイラスト界をリードする人たちに署名されたものだった。自分は何の印象も与えなかったと確信して部屋に戻った。相手は彼よりも百倍は画家に精通しているに違いないからだ。
実際、ユージンは物事の物質的な側面に簡単に圧倒された。雑誌社の美術室や編集室の壁に飾られているのを見た絵の作者はどれも、優れていると言っても実際にはユージンほど優れてはいなかった。彼らには硬材の額縁と芸術的に受け入れられている強みがあった。雑誌で名をあげるにはまだ道のりは長かったが、彼が後に描いた作品にはこの初期以上の炎はなかった。扱い方が少し大まかになり、細部への不寛容が少し減ったが、それほどではないにしても、勢いはなくなった。いろいろなアートディレクターは、器用な若い画家が絵を見せにくるのにうんざりしていた。最初のうちに少し苦しむことは、彼らのためにはなった。だからユージンはほんの少しだけ褒められて早々に退去させられた。これは否定されるより悪かった。すっかり意気消沈してしまった。
しかし、まだもっと小さな雑誌や新聞があったから、地道に足を運んで、何か仕事をもらおうとした。しばらくして小さな雑誌の一、二誌から、絵を三、四枚描いて三十五ドルになる仕事をもらった。そしてそこからモデル代を出さねばならなかった。画家として仕事ができて、ポーズをとるモデルを受け入れられる部屋を確保しなければならなかった。西十四丁目で一部屋見つけた。奥が寝室で、広々とした中庭が見渡せ、問い合わせをせずに誰でものぼってこられる共用の階段があった。家賃はひと月で二十五ドルかかったが、そのリスクは冒した方がいいと思った。少し仕事がとれれば生活することができた。
第十六章
ニューヨークの芸術界は独特である。当時も、そしてその後もしばらくの間、ほとんど一体性がなく派閥化していた。たとえば彫刻家の世界があって、そこには約三、四十人の彫刻家がいた……しかし彼らはお互いを少し知る程度で、互いに相手を厳しく批判し、そのほとんどが身内や友人の陰に隠れていた。イラストの世界とは一線を画する絵画の世界があって、そこにはおそらくは千人、ひょっとするとそれ以上の、画家とされる人たちがいた。そのほとんどは、全米デザイン・アカデミーの展示会で絵を展示してもらうくらい……絵を売ったり、装飾の仕事をしたり、肖像画を描いたりするくらい……の実力を持つ男女だった。アトリエの建物は市内各地にちらばっていた。ワシントン広場、九丁目と十丁目、マクドゥーガル通りと、ワシントン広場から五十九丁目にいたるまでの時々交差する通りの思いがけない場所に、画家、イラストレーター、彫刻家、いろいろな芸術の職人がいっぱいいた。この絵画の世界は彫刻家の世界よりも結束力があって、ある意味では後者も含まれていた。サルマガンディー、キットカット、ロータスなど、いくつかアートクラブがあった。ペン画や、水彩画や、油絵の展示会がたくさんあって、そこの夜のパーティーでは芸術家が顔を合わせて挨拶を交わし、自分たちの世界の親交を深めた。これに加えて、十丁目のアトリエ、二十三丁目のYMCA、ヴァン・ダイク・スタジオなどに住む小さな共同体のグループもあった。時には一時的に意気投合した小さなグループを見つけて、話し言葉で言う「なじんだ」グループに入り込むことができた。そうでもしなかったら、ニューヨークでの芸術活動はとても退屈なものになったかもしれないし、交流する特定の人たちを見つけないまま長い時間を過ごすことになるかもしれなかった。
絵画の世界の隣には、初心者と、編集室の引き立てで立場を固めた人たちでできているイラストの世界が存在した。彼らは必ずしも絵画や彫刻の世界の一部ではなかったが、精神的には同属で、自分たちのクラブもあった。彼らのアトリエはいろいろな地域にあり、そこには画家もいれば彫刻家もいた。唯一の違いは、駆け出しのイラストレーターの場合、一つのアトリエに三、四人が同居しているのが見受けられた。一部は経費節約のためだろうが、仲間思いなのと、仕事でお互いを励ましたり、間違いを正したりできるからだった。ユージンが足を踏み入れたときも、そういう興味深いグループが多数存在した。しかし当然彼はそういうものを知らなかった。
どこで話を聞いてもらうにしても新人だと時間がかかる。どんな分野に参入するにしても、私たちは皆、見習いをしなければならない。ユージンには才能と決断力はあったが、経験もノウハウも友人知人の輪もなかった。街中が見知らぬ人で冷たかった。もし彼が景色として街に夢中でなかったら、ものすごく孤独で不幸だっただろう。ワシントン、ユニオン、マディソンなどのすてきな新しい広場や、ブロードウェイ、五番街、六番街などのすてきな通りや、夜のバウリー地区、イーストリバー、ウォーターフロント、バッテリー公園のようなすばらしい光景は、すべてが変わらぬ魅力で彼の心を奪った。
ユージンはこういうもののすばらしさ……その美しさ……に魅了された。ごった返す人の群れ! まさに人の渦だった! 一流ホテル、オペラハウス、劇場、レストラン、すべてが美しさで彼を虜にした。豪華なガウンをまとったすてきな女性たち、巨大な昆虫のような金色の目のタクシーの群れ、朝夕のこの生命の満ち引きが、彼に孤独を忘れさせた。使えるお金がなく、すぐに仕事で成功する見込みもなかったが、こういう通りを歩き、こういうウインドウをのぞき、これらの美しい女性に見惚れることはできた。あちこちの分野でほぼ一時間ごとにある成功を報じる日刊紙の発表に興奮した。各地でニュースが、作家は本で、科学者は発見で、哲学者は新理論で、資本家は投資で、大成功を遂げたと報じた。すばらしい劇が上演され、偉大な俳優や女優が海外から来て、社交界にデビューした人たちが大きな成功を収めたというニュースがあった。全体的にすばらしい動きがあった。若さと野心は需要があった……ユージンはそれを知った。もし才能があるならば、いつ話を聞いてもらえるかが問題なだけだった。ユージンは自分の話を聞いてもらうときが来るのを一心に待ちわびたが、そのときがすぐにくる気がしなかった。だから憂鬱になった。旅の道のりは長かった。
最近昼も夜も、彼のお気に入りの気晴らしのひとつは、雨でも霧でも雪でも通りを歩くことだった。街はユージンを魅了した。濡れていようが白かろうが、特に公共の広場は魅力的だった。一度、猛吹雪の中で、パチパチいうアーク灯の下で、五番街を見た。白と黒でその光景を描けないかを確認するために、翌朝急いでイーゼルに向かった。うまくいかなかった。少なくともそう感じた。一時間の試した後で、うんざりして投げ出した。しかしこういう光景はユージンを引きつけた。こういう光景を見たいと思っていた……色鮮やかにどこかに現れるのを見たいと思っていた。食事に使える金が十五セントしかなく、行く場所もなく、話す相手もいなかったこの頃は、成功の可能性は慰めだった。
経済的な自立に情熱を持っていたのは、ユージンの性格の興味深い一面だった。窮地に陥ったときなど、たまにはシカゴから実家に手紙を書いてもよかったかもしれない。今だって父親から多少のお金を借りてもよかったかもしれない。しかし稼ぐ方を選んだ……現状よりも順調にいっているように見せたかった。もし誰かが彼に尋ねていたら、うまくいっている、と言っただろう。実際、ユージンはアンジェラにそういう手紙を書いたが、さらに遅れる言い訳として、十分な資金ができるまで待ちたいと言った。彼はこの間ずっと努力をして、二百ドルをできるだけ長持ちさせ、どんなに小さくてもいいから、もらえるどんな小さな仕事でも引き受けてそれに加えた。出費を週十ドルまで切り詰めて、何とかその金額内に収まるようにした。
ユージンが落ち着いたこの建物は、本当はアトリエのビルではなく、部分的に商売用に転用された古い荒れ果てた下宿用のアパートだった。最上階にはそこそこの広さの部屋が三つと、廊下の端に作った寝室の二つがあって、全部が何か手に技術を持って働いている孤独な人たちでうまっていた。ユージンの隣の住民はたまたま下働きのイラストレーターで、ボストンで修行を積み、生計を立てたくてここにイーゼルを構えた人だった。最初は二人の間でろくに挨拶も交わされなかったが、到着の二日目にドアが開いていて、イーゼルが見えたので、そこで画家が仕事をしていることがわかった。
最初はモデルを使えなかったので、アート・スチューデンツ・リーグに頼むことにした。そこの事務方を訪ねると、彼が出した葉書に返事をくれた四人の名前を告げられた。彼が選んだ若いスウェーデン系アメリカ人の女の子は、彼が頭に描いた物語の登場人物に何となく似ていた。黒は髪、まっすぐな鼻で、とがった顎の、こぎれいな、魅力的な女の子で、すぐにユージンは彼女を好きになると思った。しかし自分を取り巻く環境が恥ずかしくて、その結果自信がなかった。このモデルは結構遠いところにいた。ユージンはできるだけ大急ぎで、出費を最小限に抑えて絵を仕上げた。
ユージンは知性が釣り合うときはすぐに仲良くなったが、そうでない者とは知り合いになろうとしなかった。シカゴでは学校で一緒に活動した結果、数名の若い画家たちと親しくなったが、紹介もなく来ていたのでここには知り合いが一人もいなかった。ユージンは隣人のフィリップ・ショットマイヤーと知り合いになった。彼から地元の画家の生活について聞き出したかったが、ショットマイヤーはすてきではなかったので、ユージンが知りたかったことの詳細をもっと細かく伝えることはできなかった。ショットマイヤーを通して、アトリエのある地域や、個性的な画家や、若い駆け出しはグループで働くことなどを少し学んだ。ショットマイヤーはその前の年にこういうグループに属していた。しかし今どうして独りなのかその理由は言わなかった。彼はマイナーな雑誌のいくつかにも、ユージンがまだ取り引きしたことがないいい雑誌にも、絵を売っていた。ショットマイヤーがすぐにユージンのためにしたことはとても有益だった。作品を褒めたのである。他の人がユージンの前でやったように、ショットマイヤーは画家としての彼固有の特異な才能を見抜いて、すべての展覧会に足を運び、ある日、それがユージンの輝かしい雑誌のキャリアの始まりなる一つの提案をした。ユージンは通りの風景を描いていた……他にやることが何もないときにいつも取り組む課題だった。ショットマイヤーはぶらっと現れて、六時過ぎに通りに押し寄せるイーストサイドで働く大勢の女の子たちを描くときの彼の筆の動きを目で追っていた。ビルの暗い壁、燃え盛るガス灯が一つか二つ、黄色く照らされた店の窓、陰って半分しか見えないたくさんの顔……魂と躍動する人生を赤裸々に暗示したもの……がそこにあった。
「いやぁ」あるときショットマイヤーは言った。「そういうのって僕には本物に見えるな。そういう人混み、見たことあるもん」
「あるのかい?」ユージンは応じた。
「きみならそれを口絵に使ってくれるどこかの雑誌が見つかるはずだ。それをもって〈トゥルース〉にあたってみたらどうだ?」
〈トゥルース〉は、ユージンや西部の他の多くの人たちが高く評価する週刊誌だった。毎週カラーの見開きを掲載し、時々こういう風景を使うことがあった。どういうわけか、ユージンはいつも、やることが定まらないとき、行動を起こさせるこういう後押しを必要とした。ショットマイヤーの言葉のおかげで、ユージンは仕事に一層熱を入れた。そして出来上がったら〈トゥルース〉の事務所に持ち込むことに決めた。アートディレクターは何も言わなかったが、ひと目でそれを承認し、編集部に持ち込んだ。
「これなんですが、それなりに見どころがあると思います」
男はそれを得意げに編集長のデスクに提出した。
「ううん」編集長は原稿を置きながら言った。「こいつは本物だな? 誰が描いたんだ?」
「ウィトラという名の若い奴で、ついさっきここへ来ました。私には本物に見えます」
「うーん」編集長は続けた。「その後ろの顔が連想させるものを見てみろ! えっ? ドレの作品の大衆を少し感じさせるな……いいんじゃないか?」
「いいですよね」アートディレクターは繰り返した。「何ごともなければ将来は有望だと思います。彼の作品で少し中心のページを組んで見るべきでしょう」
「そいつはこれにいくら要求するかな?」
「さあ、本人はわかってませんね。ほとんど何でも引き受けるでしょう。私の方で七十五ドル渡しておきます」
「よかろう」アートディレクターが絵を取り戻すと編集長は言った。「そこには何か新しいものがある。そいつをつかんで放すなよ」
「そうします」同僚は答えた。「まだ若い奴です。そういう奴はあまり励まされることを望みませんよ」
男は真面目な顔をして退出した。
「これはかなり気に入った」男は言った。「この分のスペースなら見つけられるかもしれない。住所を教えてくれたらすぐ小切手を送るよ」
ユージンは住所を教えた。心臓が胸で盛んにドキドキ鼓動していた。ユージンは値段について何も考えていなかった。現に彼は思いつきもしなかった。頭の中にあったのは、見開きのページを飾る絵だけだった。結局ユージンは本当に作品を〈トゥルース〉に売却したのである! 今、彼は正直に、少し前進したと言えた。今ならアンジェラに手紙を書いて伝えることができた。雑誌が出版されたら彼女に数冊送ることだってできた。これ以降は実際に目標がもてるようになった。一番よかったのは、自分は通りの風景を描ける、と今わかったことだった。
灰色の石畳を踏むどころか地に足がつかない心境でユージンは通りに出た。頭を後ろに投げ出して、深呼吸した。自分に描けそうなこういう感じの他の風景を考えた。夢が実現し始めていた……ユージン・ウィトラは〈トゥルース〉の見開きページを飾る画家になった。すでに想像の中では、これまで夢見たすべてのシリーズに取りかかっていた。駆けつけてショットマイヤーに伝えたかった……うまい食事をおごってやりたかった。彼を愛しているといってよかった。平凡な下働きのなのに、その彼がユージンにやるべき正しいことを提案してくれたのだ。
「おい、ショットマイヤー」恩人の入口から顔をのぞかせてユージンは言った。「きみと僕とで今晩食事をしようぜ。〈トゥルース〉があの絵を買ってくれたんだ」
「よかったじゃないか」同じフロアの仲間は、ねたみの欠片もなく言った。「いやぁ、うれしいな。あそこならあれを気に入ると思ったんだ」
ユージンは泣いていたかもしれない。かわいそうなショットマイヤー! いい画家ではないが、いい奴だった。ユージンは絶対に彼を忘れることはないだろう。