S_leeping beauty
シロガネはぺったんこだ。
――じゃなかった。
シロガネは胸が小さい。
――でもなかった。
思考が混乱していた。何故? ……あぁ、そうか。
場所は俺の家の風呂場だった。上がったらテスト前勉強として、倫理でもやろうかと考えながら俺はお湯につかっている。そんなシチュエーション。
シロガネが闖入してきた。露出度の高い、小さい、サイズも小さい紫陽花色のビキニを着て。木製のお洒落な車椅子に座って。家の風呂場はバリアフリーではないが、あまり気にしない様子でゴトンと段差を乗り越えて入ってきた。
「な、何でシロガネここに……」
「何でって、時にはタケルの背中を流してあげるのもいいかなぁとか思いついて」
いやなことを思いつくもんだ。
いつも服で隠されている部分の肌が、陶器磁器のように白かった。その上に、烏の濡れ羽色の髪がかかって、たがいをsexyに高めていた。――くらっとした。
「くっく、私の色香に惑わされているみたいね、タケル。――ねぇ、この下も見てみたい? この下にある、白とも黒とも違う色を」
そう言ってシロガネは小さい胸を隠す水着に手をかけた――――
*
夢だった。
朝、六時十四分。いつもより十四分の寝坊。そろそろ母が起こしに来そうな頃合いだった。俺はすばやく布団を撥ね退け、寝巻用のジャージを脱ぎ棄て家用のジャージに着替えた。
――朝から疲れる夢だった。
欲求不満で見た夢だと思うだろうか? ――たぶん、違う。今の夢は過去の記憶の再生だ。しかも、現実は小説よりも奇なりとか言うように、本当にあったことはこれより更にたちが悪かった。
あの時、シロガネは何も着ないで車椅子に乗って入ってきた。
場所はシロガネの家だった。普段は完全無欠そうなメイドロボの遠野さんが、突然ミス――何も無いところでつまづくのは「ドジ」の範囲か――を起こし俺の頭にケーキと紅茶を落としたことが事の始まり。そして、風呂に入ってこいと言われ、ちょっと惨めな状態だった俺が素直にそれ聞いてしまったのが運のつき。シャワーだけ浴びてさっさと出ようとしていたのに、その僅かな時間にシロガネが現れた。
――続きは思い出したくないな。
別に何があったわけじゃないが。あの時ばかりは俺も焦ったし、きまり悪かったし、はっきり言ってあの時ばかりは怒りたくなった。怒らなかったけど。だがあの時見たシロガネの白い裸体が時々フラッシュバックするのも事実だったりする。腰が細く、綺麗なラインの身体だった――胸は小さかったが。Bくらいだったよな……。俺はどっちかというと巨乳くらいの方が……。
あぁ、くだらないことを考えた。
俺はさっさと自室を出て、階段でちょうど登ってきた母とおはようの挨拶をした。
「そろそろクリスマスだよな、日本。なぁ、わくわくしないか?」
朝の食卓で父が唐突に言った。六時半、食卓についているのは俺とスーツ姿の父だけだ。
――前にも言った気がするが、轟家は父、母、姉、そして俺の四人だ。気儘な大学生の姉サクヤの朝は遅く、母はサクヤと一緒に朝食を摂ることになっている。
父は真駒内陸上自衛隊駐屯地に勤務する自衛隊だ。階級は忘れたが(ていうか知らない)英語とロシア語を使い、割と高い地位にいるらしかった。名前は忍代。その字は日本神話で、ヤマトタケルの父である景行天皇の謚号に由来するらしい。父の名前は祖父が付けた。祖父の名前は……まぁ、今はいいか。因みに母はの名前は姫子。母方の祖父母も何を考えてその命名にしたのやら。
父は俺のことをタケルではなくニホンと呼ぶ。
さて、ドラマとかでは朝の食卓で父親役はモニターを広げ新聞を読んでいるのが一般的だが、目の前の父は違った。父は文庫本をテーブルに押さえて俺の方を見ていた。タイトルは『クリスマス・キャロル』。確か実業家がクリスマスは馬鹿馬鹿しいとか言って、三体の幽霊に脅かされる話だったな。――それでクリスマスの話か。
「別に……」
この状況でこんなふうに答えれば、次の会話は決まったようなものだ。
「何? お前もこのスクルージのようにクリスマスなんて馬鹿馬鹿しいとか考えているのか? ……むう、家の息子にも精霊の訪れがあれば良いのだが……」
ほらね。
「クリスマスがどうでも良いことはないけど、今はまだ十一月だし。俺達、先にテストだし」
後期中間試験だ。――まぁ、俺にとっては大したことではないけど。会話の流れで言ってみた。
「もう十一月なんだぞ? ケーキの予約は始まってるぞ? 街もクリスマス一色だ。おぉ、素晴らしいクリスマス! メリークリスマス、ハッハッハッハ……」
朝からテンションが高かった。何故だ? あの小説のせいか。……まぁ、確かに面白かったけど。
俺は温度差のある空気を無視し、なるべく喋らずに朝食を終わらせた。
父のことはあまり好きじゃない。父は自分の興味あることしか話さないし、興味と趣味のためなら仕事を休むことだって何度かある。自分本位な人間で、見ていてイライラする。自分以外の人間も自分と同じ興味を持っていると思いこんでいるような言動も嫌だ。父と被らないように朝食の時間を変えることを考えたこともあったが……それはアホらしいのでやめた。朝はゆっくりしたい。父は無視すれば良い。別に、好きじゃないが嫌いというわけでもないし。
しかし――クリスマスか。
*
休日だったが、百ミリメートルくらい雪が積もったので除雪した。自動除雪機を使えば良いようなものだが、家の除雪機は家のブレーカーを落とすくらいに電気を使うのでなるべく使わないようにされているのだ。それにパワーがあるので、百ミリメートルぐらいでは使うに及ばない。
雪かきのあと、英語の復習をして、それから十一時に家を出た。行き先はもちろん神無邸。神無の人間としてはシロガネしか住んでいないから、シロガネの家でしかないんだけど。
雪はまだちらほら降っていた。真っ白い空の、こぼれおちる純潔の欠片のように。明るい空の中で雪は輝く花びらとなって地上に舞い落ちていた。ふんわりと積もったその上を、俺は長靴で踏みつぶしていった。風は冷たく、澄んでいて、雑音を孕んでも無く清浄の一言に尽きた。――こういう日はとても好きだ。
雪空の下で、白いシロガネの家も真っ白に輝いていた。まるで砂糖で固めたミルフィーユのようだ、とか思ってみたりした。
そんな雪のようなふわふわした気持ちでチャイムを鳴らしてみたが、出てきた遠野さんはびっくりしたような、困ったような顔で俺を迎えた。
「……何か、ありました?」
「いえ、その…………本日、お嬢様は加減が悪く……伏せっておりまして――」
「あ……そうですか。じゃあ、あまりお邪魔しない方がいいですよね。……」
滅多にない、奥歯に物が詰まったみたいに話す遠野さんと俺。会話が続かなかった。――これが男の友達なら、気兼ねなく「顔だけ見ていく」とか言えたんだけどな。――とか考えたら、顔で判ったのか遠野さんが言った。
「せっかくですので、僭越ながら、私がタケル様の御持て成し差し上げます。――お嬢様は眠っておりますが、顔だけでも御覧になってください」
居間に通され、ローズウッドのテーブルについて紅茶をもらった。何の紅茶かわからない、暗い水色をしていた。お菓子も出てきた。黒檀を四角く切ったような、しっとりしたショコラだった。
「――んん?」
紅茶を口に含んで思わず首をひねった。スッとして鼻の奥まで通る香りは良いとして、紅茶の味の奥に淀むねっとりとした味は何だろう? いや、知らない味じゃない。――そうか、ウィスキーボンボンだ。
「あの、お口に合いませんでしたか……? 冷えた身体をお温めできるようにニルギルにウィスキーを入れたのですが」
「あ、いや変じゃないですが……俺、未成年ですし……」
お酒は二十歳になってから。
遠野さんは途端にうろたえ始めた。
「す、すみません。すぐに違うものをお出し申し――」
「いえ良いです。おいしいですよ。今まで飲んだことはないですけど、お酒を紅茶に入れるのは……とてもおいしいです」
慌てて俺が言うと、遠野さんはうろたえるのを止めた。――やれやれだ。まあ、あんまり入ってない感じだから問題ないと思った。
じっくり、ゆっくり紅茶とお菓子を味わい、それからシロガネの部屋に案内してくれるように遠野さんに頼んだ。
いつも使わない、屈折した廊下を歩いた先にシロガネの部屋があった。――そこまでの道はよく思い出せない。
廊下のドアを開けた先に薄暗い部屋。その中の洗われた骨のような不気味な白いドアを開けると、銀糸が織り込まれたレースの天蓋がかかったベッドが置かれた寝室。淡い珊瑚色のカーペットの上を遠野さんに後押しされて歩き、ベッドの枕元まで寄るとそこで眠る黒髪の女の子の顔を見ることができた。
初めてみるシロガネの寝顔は、見ていると恥ずかしさで背中がむずむずしてくるぐらいに無垢で、可愛かった。いつも話している時のシロガネは、悪戯っぽく、毒気を孕んだ大人っぽい表情をすることが多いけど、活動を止めて静かに眠るシロガネは、まるで深山に積もる白雪のようにinnocentだと俺は思った。微かに赤みのある白い頬、力を抜いてふんわりと寄り添っている二枚の花唇、猫の毛のような華奢で長い睫、前髪と交わった慎ましげな眉。――そのどれもが完璧で、完璧同士が調和し合って可憐さを演出するシロガネの顔は、まるで女神のようだと俺は思ってしまった。(もしかして、俺、痛い奴になってる?)
俺が見ている間、遠野さんは何も言わなかった。まるで、馬鹿な少年がうら若い乙女の寝顔に見とれているのを観察するように。――いや喩えでいう話じゃないんだが。――遠野さんの視線に気づいたとき、一気に気まずくなってしまった。
「……風邪、ですか?」
場を繕うようにそう言ってみた。
「いいえ。――……」遠野さんは言い淀んだ。
「そ、そうですよね。顔、赤くないですもんね……」
しばらく沈黙があった。沈黙にはそれぞれ全く違う理由があったようだった。
「……お教えいたしましょうか? 貴方様がご存知にないお嬢様のことを」
色素の薄い赤い瞳で俺を見ながら、遠野さんは静かに問いかけてきた。
答えは決まっていた。
「はい、教えてください」
「お嬢様は、毎年この時期になりますと長い眠りに就くのです。クリスマスの前には起きます。眠っている間は、おそらく、私が深く立ち入れることではありませんが、お嬢様は自身の中にある王国にいるのだと思います。きっと、この時期はお嬢様の王国の中でも重要な時期なのでしょう。目覚めた時のお嬢様は、何かを捨てたような、ぽっかりとした表情になっています。そしてそんな顔をして、クリスマスのお祝いのために参られます旦那さま――お父様と会うのです」
「……はぁ…………そうですか」
先週会った時は、そんなこと微塵も匂わせてなかったな、シロガネは。ていうか、そんなことがあるなら言ってくれよとも思う。――言いずらかったのか?
もしくは、何か企んでいるか。
しかし起きた時に『ぽっかりとした表情になって』いるというのは気になるな。そんな顔で父親と会う、か。シロガネは父親のことが好きじゃないみたいだが、もしかして「嫌い」のレベルに達しているのか? だが何をしてそんな顔をするのか。……気になった。
だが知ってどうするのか、俺はシロガネの寝顔を見て思った。シロガネの生き方に干渉するのか?
――いや、それはないな。
帰ろう、そう思って後ろを振り返ると、そこにいるはずの遠野さんがいなかった。二人きりにされていた。
もう一度シロガネの寝顔を見た。微かな寝息をたて、昏々と眠るシロガネの寝顔は変わらずinnocentだった。――俺は――気がついたら彼女の頬に唇を当てていた。
――おいおい!
自分の行動が信じられなかった。我に帰ってすばやくシロガネから顔を遠ざけた。そしてこれ以上わけのわからない行動を取ってしまう前に、俺は踵を返して部屋を出ようとした。
しかし、行動を妨げる小さな抵抗を感じた。絹と思われる白い豪奢な布団の中から突き出た白い手が、俺のジーンズの生地を掴んでいた。そして――俺は身体だけではなく、意識が引っ張られるのを感じた。
気が、遠くなった――
…………
*
意識が戻ったとき、俺は石の地面の上にへたり込んでいた。コンクリートではない。平たく削った石をタイル状に敷き詰めた道。馬車ぐらいが走るなら問題ないが、自動車が走るには絶えないだろうという感じだった。
宵の入りの空。道を照らすのは篝火の明かりと、道に沿って建てられた石造の建物の窓からこぼれている光。
どうやら五百年くらい遡ってタイムスリップした揚句に海の向こうまで飛ばされたらしい。――なんていうのもアリだが、ここはおそらくシロガネの心象世界、シロガネが心の中に閉鎖的に築き上げた世界だろう。遠くに、夕陽を背に受ける大きく高い城がある。あれはきっと前に来たことのある城。ならばここは城下町といったところだろう。
立ち上がり、城に向かって歩き出した。石畳に舗装された大通りの上には、多くの人通りがあった。――通り過ぎる人達は、ほとんど九割以上が男。ここが普通の場所ではないと確信させるようだった。――往来は賑わっていた。まるでお祭りのように。少し注意しながら周囲を観察すると、諸所に大きな杭に結び付けられた赤い旗や、乾いた血のような色の茨で編まれたリースがあったりした。リースはただ輪になっているだけじゃなく、中に時計を模った飾りが付けられていたりした。――どうやら、祭りは祭りでも、血なまぐさい祭りみたいだと俺は思った。
「よう、そこの兄ちゃん! 腹減ってねぇか? 喰ってかないか?」
声をかけられた。フライパンの看板をかけた、食堂っぽい店の入口に立った太い腹にエプロンをかけた中年の男が俺に呼びかけていた。
少し考えて、俺は金がないと答えた。しかし料理人は金は要らないと言った、祭りだから。
「今日は何のお祭りなんですか?」
店に入って出されたのはトマトのラザニア。板状の麺がぽそぽそしていたが味はなかなかだった。
「えーっ、知らないのか? 今日は『時計祭』だよ。ほら、城の壁に付いた時計が十二時に近づいていただろ? あれを戻すのに、みんなで騒いだりするんじゃないか」
「騒ぐと……時計が戻る?」
「そう、十二時はまだだよーって時計に教えるんだよ。すると明日になれば……えーと、六時くらいになってるのかな? で、また一年経つと十二時になるんだよ」
「はぁ……」
シロガネの思いつきは時々理解できない。
「そうそう、そろそろパレードだよな。早く食いなよ。女王様の御姿をみることができなくなるぜ」
「パレード?」
「なんだ、それも知らないのか。お祭りには、偉い人のパレードが付き物だろ? 『時計祭』は一年で一番大きな祭りだからな。女王様もそりゃ立派な山車に乗って城下をお巡りになるんだよ。――因みにな、パレードの噂を教えてやろうか。パレードについてお城まで行った奴はな、一生城で働けるらしいぜ。でもその代り、そいつは外とは一切連絡できなくなる。俺も女王様は好きだけど、一生城の中で暮らすのは嫌だから、そんなことはしないけどな」
がっはっは、と料理人は笑った。
――それって、生きて帰ってこれないってやつだな。
おそらく、そんなことは誰も考えないのだろう。もしくは、考えても口に出さないのか。
シロガネは何をしているのか? 俺はその疑問と一緒に、漠然とした不安を覚えた。――シロガネは碌なことをしていないのだろう、と。
「ほら、聞こえてきた。外に出るぞ」
再び出た外は、すっかり黒くなった空と宵闇のベールに覆われていた。けれど往来には小さな松明を持った人が何人もいたり、道を照らす篝火が燦然と燃え盛っていたので暗いということはなかった。そして、それらの明かりに加わって道の向こう、行進の音楽と共に投げかけられる血色の明かりがあった。
巨大な針鼠のような山車。おそらく針は時計の針なんだろう。高さは五メートルくらい。いま俺がいる馬車が三台くらい並走できそうな大通りの、半分くらいの幅をもった山車が人に曳かれて、ずり、ずり、と不気味に迫って来ていた。山車のてっぺんには歯車形の背もたれが付いた玉座が置いてあった。当然――そこに座っているのはシロガネだった。
薄い紅色の紗を何枚も重ねた、薔薇のようなドレスに身を包んでいた。頭には銀の台座に大きなルビーを嵌め込んだ、重そうなティアラを乗せ、シロガネは山車の上から眼下を微笑をもって見下ろしていた。
「女王陛下、バンザーィ」
耳を聾する人々の歓声。シロガネは手を振ることなく、ごく自然に歓声の波の中に身を置いていた。
俺はと言うと、なるべくシロガネが見てくれるように人混みの前に出てみた。が、気付いた。シロガネは眼下を見ているようで、その実なにも見ていないのだと。この凄まじい歓声も、耳には届いていない。――まるで剣山の頂上に閉じ込められた囚人のように、シロガネの姿が見えた。
「シロガネー!」
叫んでも、群衆の中で声は届きはしない。煌めく無数のビーズの中の、一粒の石粒みたいなものだ。
シロガネはそのまま行ってしまった。
*
陽が沈んで大分経ち、もう空には残光も無い。しかし祭りはたけなわとなり、巷は人々の騒々しさで溢れかえっていた。俺は夜店で渡されたタピオカのジュースを手に、ぼんやりと城の方を見ていた。
――そろそろ行くかな。
元々シロガネが何していても関係ない、知らんぷりしていることにしたはずだったが、ここまで来てしまったからには一言ぐらい口を聞いて行こうかと思った。
――心配になってきたとも言っていい。
遠目に見ていた城の様子からして、「女王様」のパレードは終わった頃合いだった。シロガネが戻ったあと城がどうなるか知らないが、とりあえず行くしかない。
城下の祭りと、城の中で行われることは無関係のようだと、これまでに情報収集して理解した。城下ではサーカスをやったり、象をさばいたり、決闘の見世物があったりしたが、それらはお祭り気分に乗った市民たちが勝手にやっているだけだった。誰も、実のところ、城の中で何が行われるのかは知らず、城に行こうとする者も少ないようだった。一部の情報に寄れば、城は衛兵に固められて入れないというのもあった。
山の斜面に建つ城へと延びる傾斜する大通りの上では、確かに進むほどに人が少なくなっていた。半開きにされた銀色に輝く巨大な城門の、そのルネッサンス調の細やかな装飾が見えるぐらいには、人っ子ひとりいなくなっていた。
松明の光に赤く輝く銀の柵の前に、衛兵の姿はなかった。十メートルはあろうか門を見上げながら城に入ると、むっとしたにおいが鼻を通って肺に入ってきた。――血のにおいだった。身震いしてしまったが、足を止めることはなかった。
城の壁の高い所に付いた、時計がよく見えた。火ではない赤い光に照らされた時計は、十一時五十五分で止まっていた。秒針が、針に止められた虫の足のように震えていた。
誰もいない城前。血のにおいの漂う前庭。止まった時計。――これ以上ないロケーションだな。
噴水を通り過ぎ、城本体の扉をくぐった。
学校の体育館より遥かに広いホール。巨大なシャンデリア、途方もない壁一面に施された装飾、物々しく立ち並ぶ石像たち。誰もいない。俺はそこを突っ切って上を目指してみることにした。
「待たれよ」
声は唐突に聞こえた。ホールの欄干から十人くらいの鎧甲冑姿の騎士が現れた。全員剣を抜き、俺の方に顔を向けていた。
「女王陛下は現在大事な儀式の最中であらせられる。関わりのない者が入ることは罷りならん」
「関わりはなくないけど。この夢の中でしか存在しないあんたたちと違って、俺は現実でシロガネ、あんた達の「女王」と友達なんだよ」
「シロガネ……? 女王陛下の御名はそのようなものではないぞ、平民が。とにかく、即刻立ちされ。さもなければ、ここで命尽きようぞ」
騎士達は俺一人を威嚇し、いつのまにやら俺の進路上に立ちふさがっていた。
近くで見る騎士達は、みな甲冑のどこかに血のような赤い染みを付けていた。――本当に、きな臭い状況だ。
「どけ……」
俺は前に出た。
「そうか。ならば容赦はせぬ」
「――!」
本当に斬りかかってきた。
白銀に輝く刃が、重い風切り音を立てて迫ってきた。当たれば死ぬ、その危険な刃の動きが、不思議とゆっくりとして見えた。
一撃は避けた。しかし十人くらいいた騎士達は、情け容赦ない感じで俺に迫っていた。
「本気かよ!」
次々と剣が振り下ろされ、俺はあたふたと逃げ回った。背中を冷たい汗が流れ、緊張で手足が震えるのを感じた。喉の渇きがうるさい。がしゃがしゃと騎士達が鳴らす甲冑の音が、耳にガンガンと響いた。
気がつけば囲まれていた。――このまま何もしなければ、間違いなく死ぬ。――さて、シロガネは夢の中で俺を殺すだろうか。
「どけよ……」
こんなrealityのない場所で死ぬ気はなかった。
騎士達は輪を縮め、剣を頭上に掲げた。餅つきでもすんのか、と言ってみたくなる状況。俺は一心に願う、進路が開くことを。――現実ではいくら願ったって道が開くことはないが、ここは夢だ。道を開くこと、願うことを叶えるのは比較的容易だ。
「どけろ!」
バン、とホールに音が響きわたった。
ホールの大きな扉が開け放たれ、強い風がなだれ込んでいた。風は塊となり、俺の目の前の騎士を吹き飛ばした。
「何――!」「こやつ、まさか……」「面妖なことを!」
騎士達が剣を振り下ろしてきた。なかなか勘が鋭い。だが、剣が振り下ろされた、彼らの輪の中に俺は既にいなかった。はじめに倒れた騎士を踏みつけ、俺は前に飛び出した。
「待て! ――――」
びょう、と風が吹き、騎士達の声は掻き消された。風は俺の背中を押し、俺は黒く足の長い絨毯の上を駆け抜け、長い階段を一気に駆け上がり、城の上へ走った。
上に上がるほど、時計の音が大きくなっていた。かち、かち、かち……でもそれは不規則に、喘ぐように響いた。階段のつきあたりの扉の前に立ったとき、時計の音は鐘の音くらいに大きくなっていた。
鋼板が縦横に重ねられた飾り気のない扉。開くと、そこでは何十人という人達が床に座り込み、一心不乱に腕に抱えた何かを磨いていた。
「……歯車?」
「あら、タケル。来たのね」
床に座る人々の間を縫って、女王様然としたシロガネが現れた。夢の中だから、シロガネは車椅子じゃなくて自分の足で立っている。さっき見たドレスと変わり、こんどはサテンっぽい青い生地の、あまり装飾の華美でないイブニング・ドレスを着ていた。蠢くような腹部の刺繍が印象的。シロガネは烏羽玉の髪を少しアップにし、開けられた耳にドレスと対照的な、淡い色の大きな紅水晶のピアスを付けていた。
「……えっと…………」
とりあえず血なまぐさい事が起きているようではなかった。人が何人も、豪華なお城に集まって一心不乱に歯車を磨いているという光景は異様ではあったが、物騒な感じはない。
「くっく……心配した?」
「シロガネ、もしかして、俺のことはめた?」
いろいろ俺の心を乱すような状況を整えて、シロガネはまさか――
「遠野さんが言ってたことは、本当?」
「嘘じゃない? 親父とはクリスマスに会うのは確かで、食事の時に私から何も言ったりしなかったりするけど、別に人形みたいな顔して座ったりはしないよ」
「……ここの人達は、何をさせられているの?」
「時計を戻す時に、ついでに歯車を入れ替えるのよ。何でか知らないけど、私のお城の時計の歯車には汚れがつくのよ」
あぁ、そうですか。
何かもう気疲れして口を開く気になれない。
「カチカチと十二時に針は近づくよ
カチカチと針の胸は恋に焦がれる
カチカチと時は終わりに憧れる
あと少し あと少し
ビクビクと人は終わりを懼れる
ビクビクと生け贄達はギロチンの下で首を出す
ビクビクと人は生きる未来も懼れる
終わりは嫌 続くも嫌」
シロガネが歌っていた。
「怒ってる……?」
「うん」
俺はシロガネの手を取った。そして、少し力を加えて扉の外まで引っ張って行った。
扉の外は、城の中ではなかった。シロガネの城下町を見下ろす、どこかしらない断崖の上だった。
「何ていうかさ……シロガネと遊ぶのは良いんだけどね……」
「ごめんなさい。タケル」
シロガネはあっさり頭を下げた。
「私、タケルをそんなに困らせるつもりじゃなかった。……楽しんでくれればいいって思ったんだけど……」
「……次からは手加減してくれよ。遊びは気軽にしたいから」
「許してくれるの?」
「友達だから……当然だろ?」
「うん! タケル、ありがとう!」
シロガネは俺の腕に抱きついた。
「じゃ、帰るぜ」
「うん……そうだね。早く、早く帰ろう」
早く早くと、シロガネは妙にせかすように言った。それが少し引っ掛かった。しかしこれでやっと終わると安堵し、俺は祭りに賑わう城下町に背を向け、世界の外側のもやもやした中に踏み込んだ。
――だが、俺は後ろを振り返ってしまった。
後悔した。眼に映った光景は、城下町が紅蓮の炎に包まれているものだった。十二時の、世界の終わりだと、俺は理解してしまった。劫火に包まれた城下町を見下ろして、あの城だけが白々と輝いていた。
*
死の影は世界の影
私の影は私の死
私の十二時もいつか来る
まわるよ 時計はまわるよ
終わりがはじまりになるのかな
私の知らない 知るはずない 新しい時代
……歌はまだ続いていた。
まるで、滅んだ世界を懐かしむように……殺した自分の心を、慈しむように。
意識が自分の体に戻ったとき、俺は眼を開くのが怖かった。自分の心を殺した彼女がどんな顔をしているのか、俺は見たくなかった。
シロガネはベッドの中で上半身を起こし、変わらない頬笑みで俺を見ていた。
一番苦労した話です。プロットを無視してみたり、文字数一万を超えて部分消去してみたり、苦労がありました。
「王国の風」では各話ごとの終わりをすっぱりさせているのですが、如何でしょう?