J_unction
『春のはじめ、季節外れに降る雪は早咲きの桜の花びらのようで……』
なんて言ったら詩人気取りだろうか?
学校の帰り、俺以外だれも降りなかったバス停を離れて少し歩いてから、もう春のくせにどんよりとした、冷えた曇りガラスのような空を見上げて、俺はふとそんなことを考えた。
春、といっても北海道の春は遅い。桜は五月にならないと咲かないし、梅はあまりないし、道端にはまだ雪が少なからず残っている。春を告げるはずの東からの風も妙に冷たいし……あと何だっけ?
ま、いいか。俺はそう思考を結んで間近の自宅まで足を速めることにする。
俺の住む一帯は、子供のいる家庭が極端に少ないらしく、学校の終わる時間になっても帰宅する子供で賑わうことはない。すごく、ひっそりとしている。聞こえるのは霙が積もってバシャバシャになった路面を歩く俺自身の足音くらいで、一つ角を曲がって大きな道に背を向けると、車の音すら遠くなる。
寂しい?
そう……言うこともできるか。だけど、どうでもいい。友達と帰ることだけが人生じゃない。――友達を作ることだけが人生じゃない。
寂寞は一時だけ。今の俺に足りないものはない――
「――って、うわ!」
道の角を曲がろうとした瞬間、何か低いものが飛び出してきた。小さいから車ではなく、大きいから子供でもない。銀色の何か――。
霙に濡れた路面を、シャー、と鳴らして急停止したその物体の正体――車椅子に乗った女の子だった。
前後に少し長く、車輪が少し傾いた競技用の車椅子だ。乗っている女の子は俺と同じくらいの年だと思う。白いフリルのついたブラウスを着て、薄いベージュのスカートを穿いている。大きい眼、桜色のレースのリボンで後ろに束ねられた長い髪、整った顔……
その子は俺をまじまじと見ていた。それなのにこちらもまじまじと見てしまい、少し気恥ずかしくなった。
「ごめんなさい」
俺が顔を背けた瞬間、その子が言った。高くも低くもない、女の子らしい優しい声だった。
そして俺が何か言う前に、車椅子をかなりの勢いで反転させて、走って行ってしまった。現れたときと同じく、去る時も風か雷を思わせる素早さだった。
――四十五秒未満の邂逅。
あとになって思ったそんな言葉。その言葉自体は何かで聞いた言葉だったけど。
運命的と言えば運命的だった。車椅子で市街地を颯爽と駆け抜ける美少女、そんなものがこんな世界にあると考えたこともなかった。ましてそれに轢かれかけるなんてことがあるとしたら、それだけで何かの運命を疑わずにはいられないだろう。
そして運命というのは一回きりでは終わらない。
一週間ほど経った雨上がりの日、俺はサクヤ……姉の言いつけで、学校の帰りにいつもと違う場所でバスを降り、百均屋(百円ショップ)で買い物をしてから家に向かった。そこここにある水溜りには雨上がりの空が青く映りこみ、鏡の街を歩いているようだった。俺はあまり散歩の類が好きじゃないが、歩いていて気分の良くなる日だった。
シャー、と自転車が水を跳ねながら走るのを見て、俺はその前に車椅子に轢かれかけたことを思い出していた。――あれは変な出来事だったと、その時はそんなふうに考えてた。
ふと気がつくと、周りに誰も人がいなかった。すぐ横の車道には車が走っているけど、その音が遠く感じた。家の近くならそんなこともままあるけど、その時いた場所は真夜中でない限り賑やかな場所だ。
変だと思い周囲を見渡した時だった。百八十度旋回したところで、ありえないものが、先日のあれが爆進してくるのが見えた。
「ちょっ――!」
身体に刻まれた防衛本能で、車輪のついた人を乗せた金属の塊を反射的に回避した。
すぐに振り返ると、車椅子はまたも鮮やかなパワースライドをして急停止した。おさげにされた女の子の髪がふわりと揺れた。
彼女は何も言わなかった。大きな眼で、無表情に俺をまじまじと見るだけだった。
その瞳は、すこし変わってると俺は思った。ただ黒いだけではなく、燻し銀のような色と煌めきを見せる瞬間がある。
こちらからも何も言えず、ただ黙って彼女が喋るのを待った。
「この間もお会いしましたわね」
「そ……そうですね。――……」
「――何か仰らないのですか? 『車椅子で激走するのは危険だ』とか」
彼女が口を開いても、相変わらず俺は何も言うことはできなかった。ただ俺は、美しいけど鋭い棘を見せる薔薇をじっと見るように、彼女と向き合っていた。
「よろしければ、私の家にお越しいただけないでしょうか? このお詫びもしたいですし、それに……」
彼女は言葉を区切って、笑みをつくった。それは俺に花が開くことを直感させた。
「この私が同じ人と二度もぶつかりかけるなんて、単なる偶然ではありえませんわ。あなたと私は出会うべくしてここにいる、そう思いませんこと?」
そう思う。しかし現実には知らない女の子と共感したことに凄く恥じらいが生じて、どうしようもなく逃げ出したくなった。
「……あ、でも、俺帰らなきゃ」と無意識的に俺はそんな風に答えていた。
「そんなにお時間は頂きませんわ。私の家は……そう、昔話で言う『近いかったのか遠かったのか〜〜/それは眉間と鼻の間ぐらいでもあった』という様な距離ですし」
この時、すでに俺は目の前の女の子のペースに絡めとられていた。
逆らうことは考えられなかった。恥ずかしかったけど、言われるままに車椅子の押し手を握り、女の子が指し示すままに俺は知らない場所へ歩き始めていた。
*
導かれるままに歩くと、気がつけば大きな家の門の前にいた。そこはまわりもお高そうな家が並ぶ、高級住宅地といった感じだったが、自分の家に近いだろうこの場所にまったく見覚えがなかった。やたらに煉瓦造りの家があったり道端にはプリムローズが咲いていたり、イギリスの童歌「マザーグース」の似合いそうな場所だった。もう少しここを密かに観察したくなったが、目の前の車椅子の彼女を見て、俺は黙って車椅子を押して目の前の門の中に入った。
柱があるマホガニーみたいな、ていうか砂糖菓子のようにふんわりと白い両開きの扉を開くと、庶民の眼には燦然とまばゆい玄関があった。綺麗で広い。車椅子の人間が住む家のせいか、しきいに段差はなく、滑らかに三和土と外界が接続されていた。
三和土の上に立つと、さて、と彼女が俺を見た。
「この車椅子は外用なので、そこにある家用の車椅子に乗り変えなければいけません。――お手を貸してくださりますか?」
「手伝うって……あの、もしかして……」
「あの、優しくしてくださいね……。こういう身なので、運動もせず重いかもしれませんが、どうか……」
この車椅子の女の子が言いたいことは、抱きかかえて乗り換えさせろということのようだった。
一般に言う、彼女いない歴十七年と八カ月の俺。女の子と手を繋ぐぐらいはあった気がするが、抱きかかえるなんて無かった。しかし相手は身体の不自由な人だ。変な意識をするのも失礼なので、頭をクリアーにして彼女の身体に腕を伸ばした。
彼女のきめ細やかな白い首筋に顔が近づくと、微かな甘い匂いがした。――男とは違う、女の子の体臭。女の子は砂糖や蜂蜜や、そんな素敵な物でできている……、とか考えてしまった。
スカートの上から注意深く膝の裏をとらえ、ゆっくりと彼女を持ち上げた。腕に抱えた彼女の身体は羽のように軽く、猫を抱えているような感じだった。俺の腕の中で、彼女は甘ったるい顔でこちらを見ている。何を考えているのかまったく分からない。俺は顔を上げて彼女から眼を逸らし、示された木でつくられた上品な感じのする車椅子の中に彼女を降ろした。
「ふふ……ありがとうございます。力持ちでいらっしゃいますのね」
「あ……いや……」
心臓がバクバクしている。しどろもどろで、何も言うことができない。――無理に話そうとしたら、何を言ってしまうかわからなかった。
俺が黙り、彼女も黙る。不意に沈黙が訪れ俺が気まずくなったとき、ぱたぱたと速足の足音が聞こえた。
「お嬢様……! どうして私を呼んでくださいませんでしたか? お客様、それも殿方にお身体を運ばせるなんてお戯れを……」
「リア、それを言うなら、あなたこそ私が帰ってきた瞬間に出迎えるべきでしょう? ま……私は気にしませんけど。それよりお茶の準備をしてちょうだい。お客様にはお菓子をお出しして」
お嬢様と呼ばれた彼女が居丈高に話しかける相手、背の高さが俺と同じくらいの、白黒のメイド服を身につけた若い女の人だった。長いスカートに靴下を履き、白い手袋をしているのでほとんど肌の露出がない。瞳の色が赤いのが不思議。色素が薄いのだろうか? ちょっと縦長の顔、薄い唇を上品に引き結んでいる。
メイドさん(リアさんだっけ?)は、す、と頭を下げた。もちろん『お嬢様』に向かって。
「失礼を重ねてしまいました。どうか平にご容赦ください」
「ふふ……良い子ね。許してあげますから早くお茶の準備をなさい」
すばやい動きで姿勢を正し、メイドさんは回れ右して家の中に入っていった。
「駄目ね……、私を連れて行ってくれなくちゃ。――あの、お願いできますか?」
「あ、うん……お邪魔します」
俺はまた車椅子のハンドルを取り、彼女を押して豪邸の中に入っていった。
玄関から入る廊下は俺の想像を超えた広さだった。この車椅子の女の子のためでもあるだろうが、さすがは豪邸。少し薄暗い廊下はしっとりとした高級感があり、壁紙一つ取っても、ただ白いだけじゃない柔らかい感じを持ったそれが品の良さを見せつけていた。
部屋がいくつもあり、突きあたりのドアを開くと、そこが居間のようだった。燦々と光が射しこむ居間は、過剰ではないくらいに広々としていてくつろげる雰囲気を醸し出していた。調度品の数は少なく、どちらかといえば寂しい感もある。しかし無駄がなく、洗練された感じがあった。
微かな匂いを漂わせる木のテーブル(ローズウッドという木だと俺は知っていた)を前に、テーブルと同じ素材のやたら座り心地の良い椅子に座ると、さっきのメイドさんがお茶を持ってやってきた。かちゃり、とソーサーが置かれた瞬間、俺の鼻を紅茶の深いにおい、花畑にいるみたいなにおいがくすぐった。
「ダージリンね。それもとっておきのものを出してきたのね」
「はい、お嬢様が誰かをお招きになるということは滅多にありませんので、飲みやすいダージリンでも一番のものを御用意させていただきました」
ダージリン? いいお茶かな、と思う以外は何も考えつかない俺だった。色は澄んだ黄金色で、砂糖を入れなくてもすっと飲める感じだ。
四角いテーブルの差向いに座った車椅子の女の子が、また大きな眼で俺を見ていた。
「いかがですか? お口にあいましたでしょうか?」
「うん。すごくおいしいです」
「――ですって、リア」
ありがとうございます、とメイドさんがこちらに向かって深々と頭を下げた。黒い頭に付けられた、真っ白なヘッドドレスがこちらに突きだされる。
そしてメイドさんは素早く姿勢を正すと、くるりと背を向け歩み去り、また現れた時にはクッキーやらのお菓子を詰めたバスケットを持ってきた。
「あ、これもおいしい」
自然と感想の出る味だった。
「あらリア、あなたも少しは料理という物が解るようになったのですわね」
「はい、お嬢様の御蔭でございます」
「? リアさんは料理が苦手なんですか?」
「そうですわね……、決して技術に劣っているわけではありませんが、微妙な味遣いというのがリアは不得手なのですわ」
彼女は桜の唇にクッキーを押し込む。こりこりと、小気味良いような咀嚼音が耳を澄ませば微かに聞こえた。
「そういえば、まだ自己紹介をしていませんでしたわね。――あら、私ったら髪もまとめたままでしたわ」
髪を、という部分に反応してメイドのリアさんがヘアブラシを取り出した。
しゅる、車椅子のお嬢様が髪を束ねるリボンを解く。つややかな、まさしく緑の黒髪といった彼女の髪がサラサラと水のように流れた。リアさんがその髪にブラシを通すと、さらに髪の艶が増した。――なんていうか、なまめかしい。
「私は神無・銅蔵が一女、神無・銀と申します。神無とは神が無いと書き、銀はそのまま銀の一文字です。どうぞ、気易くシロガネとお呼びください。それとこれは――」
「メイドの遠野・理暗と申します。遠き野、理に暗いと書きます」
凛とした彼女、神無さんの雰囲気が眩しくて、俺は少し気圧された。
「俺は轟・日本。轟は一文字で、タケルは日本と書いてタケルって読むんです」
「私の見聞が狭いせいか、珍しいお名前のように思いますが?」
「日本神話のヤマトタケルから来ているらしいです。父はそういうことに凝る性質みたいで、姉がいるのですが、姉の名前も木花と書いてサクヤといいます」
「まぁ、お姉様ですか。どのようなお方ですの?」
「どのようなお方、というか……」
――いい加減、敬語で話すのは疲れたな。
ずっと気になっていたことも含め、俺は切りだすことにした。
「そのまえに――神無さんは何歳って聞いていい? 俺は十七だけど」
「あら、それではタケルさんと同い年ですね。私も半年前に十七歳になりましたわ」
「じゃあさ、同い年なら敬語は止めない? ……いや、無理にとは言わないけど」
「――そうね。でもタケル、あんたも私のことを名字で呼ばないで。私のことはシロガネって呼んで。もしくはシルバーでもいいけど」
どきり。微笑む神無さんを前に俺の心臓が跳ね上がった。ちょっと前までのお嬢様口調をひっくり返したような砕けた口調が、親近感をレッドゲージまで倍増させている。
「……だめ?」
おまけに、神無さんは品を作ってそんなふうに聞いてくる。
「い、いや……わかった…………シロガネ」
「よしよし。じゃあ、タケル。タケルの話をしてよ。タケル自身の話、家族の話、学校の話とか」
テーマが定まってないな。
だけど黙っているのもアレなので、少し頑張ってみることにした。
「えと、まあ俺は十七歳で男で家は札幌で、あぁ高専に通ってるな。知ってる、高専? 追分にあるやつ。長く言うと高等工業専門学校って言って、色んな工学の勉強するんだよ。俺は機械工学科ってところに入ってる。機械工学科なのは別にロボットとか車とかが好きだからじゃなくて、専門性が広いって聞いたからだな。色んな勉強がしたいんだ、俺は。――そういうと勉強が好きみたいに言っているみたいだな。まあ、あれじゃない。未成年であるうちはせいぜい勉強していれば良いかなって。俺って特に趣味もないから。――家族のことについて話すか。四人家族で、父親は物書きが趣味の公務員。母親は主婦。さっき話した姉は俺より四歳上で、文化系の大学で英語とかの勉強してるらしい。…………」
だいたい、このようなことを話した。
「学校は楽しい?」
「何もしてないよりは、退屈じゃない」
「友達はいるの?」
「口きく奴はいる。……家に行くこともあるから、友達とも言えるか」
「わざわざ普通の学校じゃなくて、高専に行って機械の勉強をしようと思ったのは、少しは機械に興味があるんでしょ? タケルは専門性が広いからって言ったけど。じゃあさ、ネジの有名なメーカーって何か言える?」
ネジ、ねぇ。
すっきりした味の紅茶を一口飲んで、一つ思いついた。
「もしかして……『カミナシ』?」
シロガネは我が意を得たりと笑った。――可愛い。
「そう、『株式会社カミナシ』。世界的にシェアを持つネジのメーカー。――もっとも、私はネジのことも、会社の経営のことも、何も知らないけどね。一つ確かなのは、あんたの前に座っている私は社長令嬢ってこと。――私のこと、聞きたい?」
「ん……俺が話したくらいには」
俺がそう答えると、シロガネは前髪に触れたあと、そっと口を開いた。
「じゃあ、まず一つ。何で私は車椅子だと思う?」
今はあと少しで二十二世紀に届く時代、足が不自由でも何とか治す方法はある。社長令嬢とにもなれば、金の心配をする必要はない。
「……わからん」
「それは私が治さないって言ったからで、親父もその私に強いる必要はないと思ったから。――私には翼があるの。だから足は必要ないの」
「翼……?」
「お嬢様、あまりお客様をおからかいにならないでください」メイドの遠野さんが言った。
「あら、本当でしょう、リア? 今は見えないから信じられないだろうけど」
シロガネはクッキーを一つ手に取り、こちらへ差し出した。俺はそれを受け取り、口に入れた。ドライフルーツの乗ったクッキーのおいしさが口に広がった。
「おいしいでしょ。リアが焼いたのよ」とシロガネ。
「うん、すごいよね。うちの姉もお菓子作ろうとするけど、これに比べれば全然大したことのないやつしかできない。遠野さんのクッキー、売れるよ」
遠野さんが俺に向かってお辞儀した。
「遠野さん、ね。タケルはリアが人間のようにいうのね」
「? 遠野さんは人間だろ?」
くすり、シロガネが嗤う。
遠野さんが白い手袋を外した。手袋の下は……人形のような、機械的な関節の目立つ手だった。
「言っておくけど、義手とかじゃないから」シロガネが面白がって言った。
「いや、でも……遠野さん、全然人間らしいじゃん。ロボットみたいに、機械っぽくない」
某有名漫画の原子力ロボットが生まれるはずだった二千八年から七十年近くたった現在、ロボットというのも大分人間らしくなっている。でも、とても人間そっくりとは言い難い。姿形はともかく、立ち居振る舞いが変だ。擬似的な心は、やはり本物には遠い紛い物。でも俺みたいな庶民が知らないだけで、莫迦みたいな値段がかけられたロボットは違うのか……?
「悩んでるね。人形は心を持たない、そう思ってるんでしょ? それは正解。コンピューターは心を作れないわ。だから、リアには私が心をあげたの」
「心をあげる……」
「まぁ心を持たせた分、少し抜けた部分ができてしまったみたいでね。冷静な顔しておっちょこっちょいなの。――今も、私に靴を履かせたままにしてる」
「「――!」」
俺と遠野さん、二人の(シロガネに言わせれば片方は人間じゃないらしいが)驚きが重なった。
すみやかに遠野さんはテーブルの下のシロガネの足元に潜り込み、靴を脱がせて玄関へと消えた。
しかし、シロガネはさっきからとてつもないことばかり言っている。……虚言癖か?
「信じてない?」
さらりと彼女は聞いてきた。
「信じにくいけど、そうなんだろ? シロガネが嘘を言わないのなら、これは本当だ」
さっき、翼を持っていると言ったことも。
別に人を見る目があるわけじゃない。だけど、目の前の車椅子の女の子が嘘を言うような可哀そうな、弱い存在だとは思えなかった。
「嘘をつくのは弱いからじゃないよ」
シロガネが俺の心を呼んだようにそう、小さな声で言った。
「タケル、その親指の傷はどうしたの?」
彼女が目ざとく見つけた、俺の右手の親指に、縦に刻まれた傷跡。つけたのは少し前だから、今はふさがって白い線のようになっているだけだ。
「これは……何でもない。紙で切っただけだ」
「嘘つき」シロガネが即座に言った。
そう、何でもない傷じゃない。でもこれは言うべきではない。
「あんたが嘘をつくのは、弱いから?」
「……自分が無敵だと思ったことはない。俺は弱い人間だ」
「じゃあ、タケルの言った理論はタケルの中では成立しているわけね。――私は強い人間なのね?」
「……」
答えられるわけがない。
「リア、ナイフを頂戴。それと、お茶をもう一杯、新しいカップで」そっけなくシロガネは言った。
いつの間にか戻ってきていた遠野さんが、テーブル用の小さな銀色のナイフと紅茶を持ってきた。ナイフは彫金が細やかで綺麗だった。
「純銀よ?」
そう言って彼女は、新しく淹れられた紅茶の上でナイフのエッジを指先でなぞった。
白魚の親指の先から、赤い液体が流れた。俺に見せるように向けられた、ふっくらとした指の腹には、俺と同じように縦に長く傷が開いていた。違うところは、俺の傷は右手にあり、彼女は左手につけたということ。
「タケルは左利きなのね」
美しく開かれた親指から、赤黒い血液が柘榴の実のように零れ、紅茶の中に、ぽた、ぽた、と落ちていった。その音さえも、甘美だった。
しばらくして、シロガネは紙のナプキンで右手の親指を覆った。純白のナプキンが真紅に染められていった。シロガネは、自分の血を垂らした紅茶を俺に向けて差し出した。
「飲んで。強くなれるかもよ? あんたが強いとみなした、私の血がこぼれているんだから」
シロガネは誘惑するように言う。
黄金色のはずの紅茶は、血液が混ざったことで淀んだ栗色になっていた。でも芳しいにおいはそのまま、濁った紅茶は妖しく渦巻いていた。
少しためらってから、俺はそれを一口含んだ。さっきまで口当たりの良かったダージリンが、千振茶のごとく苦み走っていた。そして金臭く、生臭い血の味。――どうしてこんなに強烈な味がするのだろう? だが俺はそれをもう一口で一気に飲んでしまった。カップをソーサーに置くと、テーブルの向こうでシロガネが嗤っていた。
「じゃあ、そろそろ帰る? 今は五時だけど」
どのくらいいたのか。時間の感覚がまるでなかった。
窓の外を見れば、傾き始めた日が赤い波長を強くして差し込んでいた。
「うん……帰る」
「リア、タクシーを呼んで」
「い、いや、歩いて帰るよ」
「歩いてって、ここがどこだか判るの? 無理しないで、タクシーに乗りなさい。私の家はお金持ちだから気にしないで」
有無を言わさない状況だったので、大人しく従うことにした。
帰るとき、シロガネは俺を見送らなかった。遠野さんがタクシーが来るまで、俺と一緒に外に立っていた。
別れるとき、遠野さんは微かな声で言った。
「また、会えるでしょうか?」
それは期待を込めた呟きではなく、ある現象を感情を差し挟まずに観察するかのような一言だった。
*
シロガネという女の子と出会い、別れてから二週間ほど過ぎた。それっきり何の連絡もなかった。それも当たり前――俺達は互いの住所すら知らないのだから。
彼女と話した一時は、泡沫のような気がしてきていた。だからシロガネと会えないことを不思議には思わなかったし、惜しいとも思わない。それが夢ならば、消えてしまうのが当然だから。しかしあの時飲んだ、血の混ざった紅茶の味は時々口の中に甦った。ほの苦く、生臭く、それでいて甘美な味わいのあるあの紅茶。――まるで吸血嗜好の人間になったような、変態じみた興奮すら俺は感じていた。そんな感覚に浸っている時、俺は目の前の現実と頭の中の妄想が乖離していくのをまざまざと感じた。――本当に、あれは夢のような一時だった。
そして、この日。いつもどおりの日々の流れとして、俺は学校に通い、そして帰宅した。家には専業主婦の母親がいる。小説を読んでいる母にただいまと言い二階の自室に上がったところで、電話のベルが鳴り階下から母が俺を呼んだ。
「タケ、神無って人から電話よ」
「――!」
びっくりした。
開きかけていた機構学の教科書をそのままにして、俺はすばやく部屋を出て階段を下り、母の手から受話器を取った。
「もしもし?」
「こんにちは、タケル。元気にしてた?」
歌うようなシロガネの声が聞こえた。
「あ、あぁ。……」
俺はうまく言葉を継ぐことができない。
「寂しかった? 寂しいと思ってくれた?」
さぁ?
寂しいと思うほど付き合いはなかった。だから、わからなかった。けれどシロガネの声を聞いて、心が僅かなりとも弾んだのは否めなかった。
「……少し」
「ふふ。ねぇ、タケル。私たち友達にならない?」
「――それはいいね」
あまり迷わずに答えると、回線の向こうのシロガネの声が弾んだ。
「そう、よかった。じゃあ今度の土曜日、リアを迎えにやるから。また紅茶を出してあげるわ」
紅茶、といわれあの血の混じった紅茶を思い出した。――俺はつばを飲み込んだ。
「ではごきげんよう」
言うだけ言うとシロガネはあっさり電話を切った。
車椅子で女の子が爆走している……という思いつきからこの物語がはじまりました。思いついた時はそれ以上つながりを持たせることはできなかったのですが、それからあった諸々のことを継ぎ足していったらこんな形に相成ったわけです。