M_oon
自殺関係の話が苦手な方はご遠慮ください。
試験が終わり、年度も後半期へと入ったくらいだっただろうか。夏の短い北海道もまだ紅葉してはいないが、西から吹く風は乾いて冷たい、そんな時期。――小さい秋ではなく、冷たい秋だ。人々が感じるのは。特にこんな雨の日はそうだ、とかその日の俺は思った。
登校時間、校門の前でバスから降りて、傘をさして玄関までの短い道を歩くわずかな時間だけど、雨と一緒に降る冷気は身に沁みる。ぱつ、ぱつ、と傘を叩くのは凍った秋の欠片のように感じた。
見上げた空は重かった。
試験直後の授業は、答案返却に充てられている。授業の前には必ず生徒が期待したり憂いたりして、答案が返された瞬間には悲喜交々の声が上がる。総じて賑やかな時間が過ぎていく。俺自身の試験について言うことはない。大体が九割の点数を取っているので嘆くことはないし、だからと言って喜ぶことでもない。やったから、結果が出る。個人戦としてのテストなんかに面白みはない。
学校のペーパーテストが好きな奴がいるのだろうか、と俺は考えた。――もちろんいるだろう。授業がない「テスト期間」が好きな人間じゃなく、テスト自体が好きな人間が必ずいる。――テストが必要だと言うこととも違う。――そういう奴等は試されて、良い結果を出すのが好きだ。上の者に褒められ、自己満足し、下の者を公然と、昂然と見下す。尺度をもらうのが、そういう奴等は好きだ。測ってもらうのが好きだ。そこで秀でることは、大勢で椅子取りゲームをして椅子に座ったり立ったりする感覚に似ていると思う。奴等は、ゲームに参加しないという選択をすることはない。
ゲームに参加しなければならない。――それが社会だ。
ゲームに負けることが恐ろしいと感じさせられる。――それが教育だ。
そして、俺もすっかり「教育」されていると思う。テストに反感を抱きながら毎度しっかり点を取っているのは、椅子取りゲームで立たされることが恐く、そしてゲームを止める選択をできないからだ。テストを受けるのは嫌いだが、これではテストが好きな連中と変わらない。そう、俺は自分を見た。
うんざりしてみた。
死んでみようかと、その年何度目かに思った。
*
ぱたたたた
赤い口から連続的に溢れる液体は、しかし小さな世界の断崖となる淵からは、まるで落ちることを恐れるように少しずつ寄り集まり雫となって落ちて行く。だから水面を打つ赤い流れは断続的だ。
――これだけじゃ死ねない。
リストカットで死のうと思う奴は少ない、はず。これで死のうとするのは馬鹿だと思う。確実に死ねる方法を選ぶべきだ、本気で死ぬなら。腕を切るのは、血を流すためだ。――血を流して、柔らかくも鉄面皮な自分の皮の中に流れる熱い物を確かめたいからだ。――生きているんだと、知りたいから。
死を恐怖を持って退ける。
自殺は他人に迷惑をかける。だから、思いつきで死ぬのは良くない。
*
「――腕、膨張しているわよ。それに、血液の芳香がする」
自宅のトイレを出たところで鉢合わせた姉サクヤに言われた。
午後九時にして早々にパジャマを着て寝る準備に入っているサクヤは、そのままトイレに入らずに、足を止めて俺をじっと見据えた。――目敏い。そしてしつこい。
「自傷するの、禁止すると言ったわよね。何故止めないの? ――お父さんとお母さんに黙秘しているのは、もう中止にした方がいいかしら」
サクヤは俺の自傷癖を知っていた。――初めて知られたのは中二の頃だろうか。――だけど親には言わなかった。姉らしく、弟を想い、不必要に刺激しないうちに治そうとしているのだろう。俺はそんなサクヤが嫌いじゃない。偽善っぽいと思うけど、サクヤの心遣いは優しくて、嬉しい。――きっと、俺が自殺したら一番嘆いてくれるだろう。
力のこもった動作で、サクヤは俺の腕をつかんだ。少し膨らんでいると言われたそこは、トレーナーの下にトイレットペーパーを巻いてあった。もちろん、切った傷口を塞ぐためだ。掴まれて、圧迫されると痛みが走った。
「……ずいぶん深く切断したんじゃない? 何かあったの?」
サクヤは憂うような声で問いかけてきた。
「――なぁ――」俺は疑問を口にしようとした。
しかし、止めた。こんな質問を他人にするのはバカバカしいと思った。答えは予測できる。
「――」
「言えないの? …………」
沈黙が訪れる。居間の方から、父母がテレビを見ながら談笑している声が聞こえた。
「死なないでよ。死亡しても、何も変化しないんだから」
生きていても何も変わらないさ。
そんなことは言わない。俺は黙ったまま、肯きもせずにサクヤの黒い瞳を見ていた。やがてサクヤは茶色い後ろ頭を見せトイレに入って行った。
死ぬこともままならない。
生きることも、もちろんままならない。
その日は下らないことをいっぱい考えた。何で死にたいかって、くだらないことを考える自分を抹殺したいからだと最後に考え、俺はその日の分の思考を打ち切った。
*
次の日、朝起きた時はまだ雨が降っていたが、学校に行く時間には晴れあがっていた。
雨上がりの空というのは気持ちのいいものだ。俺の席は窓際ではない。澄んだ青い空を見る時間は限られる。冷たいコンクリートの校舎の中、軽々しいプラスチックの机に俺はいらいらと就くことしかできない。――もっとも、こんな青い空は高すぎて、圧倒されて息の詰まるものを感じるから、見えないのが幸いかもしれない。
空気が冷えて乾いていた。昨日作った腕の傷が疼いた。昨日サクヤに問い詰められ、掴まれたことを思い出した。
昼、母の作ってくれた弁当を忘れたので、芋洗いする学食に行かなければならなくなった。 うんざりしながら人混みへと向かっていると、人混みの中で抜きんでていた、見覚えのあるクラスメイトの頭を見つけた。桂だった。こちらから何も合図しようとしなかったが、進まない行列に退屈してぐるぐると周囲を見渡していたあいつは、サバンナに立つキリンよろしく俺を見つけた。
「よお、轟。あとで合流しようぜ」
券売機の前できっかり一秒考え、弁当では絶対に有り得ない温かい蕎麦を頼むことにした。蕎麦は配膳も早く、時間のかかる定食を頼んでいた桂と同じタイミングで席に着くことができた。
「珍しい。いつも弁当だよな。弁当忘れたか?」
俺は肯いた。何も言わなかった。醤油だしの山菜の浮いた蕎麦を黙々と啜った。
「轟、高専祭で何かやるのか? 俺さ、学科展で鋳造の担当なんだけどよ、すんげえ大変なんだよ。放課後なかなか帰れねぇの」
高専祭とは高専の学校祭。外部の人間も招くから、学科ごとで展示がある。それが学科展。機械工学科の鋳造の展示準備は、毎年色々作るので作業が大変だと言うのは有名な話だった。――桂は知らなかったのだろうか? 俺はちらりと向かいに座る桂を見た。
「誰もいないからやろうなんて思わなければ良かったぜ。家に帰れるの八時だぜ? バスケ部に出る気も起きねぇ」
やれやれと頭を振りながら、桂は鯖をほじっていた。俺は蕎麦をすすった。
「――轟が何も言ってくれない」
「……」
「轟? なんか今日は元気なくね? ヘイミスタトドロキ、ハウビーンユー?」
「――?」
理解不能な英文を投げかけられた。それとも俺が知らないだけか? ――いや、これはきっと……
「How are you?」
「オー、ソレソレ。I’m very good! Thanks, and you?」
「Me ……too. Thank you.」
「『ミー』と『トゥー』のあいだに間があったぞ。ホントにか? 弁当忘れたことがショックなのか?」
俺は答えなかった。食堂の賑わいに意識を逸らしていた。
桂はそれ以上話しかけてこなかった。俺達は同時に席を立ち、食器類を返して食道を後にした。外に出ると秋晴れの空から、ちょっと温かい昼の風が太陽から降りてきた。
「……なぁ桂、生きる理由ってなんだ?」
「……。てん、てん、てん」
桂のユーモアらしい、と俺は解釈した。
「ないんじゃねえの? 難しいこと考えるなよ。こうして息して歩いてるんだから」
*
生きる理由がない。
でも生きている。理由がなければ生きてはいけないということはない。
むしろ生きなければならない。
理由がなくても生きることはできる。なら、理由がなくても死ぬことは可能だろうか。
可能ではある。ようはその手段を取って結果として死を得るのだから。ただ、それが良いこととはならない。
昔読んだ古い漫画にあった。『泣く奴がいるから』と。――泣く奴がいるから、殺してはいけないのだと、人間を。
それは自分という存在にも当てはまると思う。自殺すれば人様に迷惑だとか、そういうこともあるけれど、誰かを悲しませるようではならないのだ。その責任を、死んでしまっては取ることはできない。
でも死にたいんだ。生きていたくないんだ。
死というものは虚無だ。そこに何も無い。他人も、自分も。思い、情報、記憶、記録、感覚、未来、過去、今、行き先、物質、世界、存在、温かさ、流動、ざわめき、広がり、エネルギー、全て無い。解放されながら、閉じ込められている。死は点。無次元の状態。何も無く、何もできず、何も感じられず、真っ黒い永遠が唯一、いやそれすら無いのかもしれない。でも……でも……吐き気すらないのは良い。倦む感じがないのがいい。喜びなんて泡沫で、泡がはじけたように苦い感情というのはこびりついているものだから。――全部、捨てたい。
思い通りにならないから。
――そういえば、シロガネも似たようなことを言ってたな。
*
バン、バン、バン。
小気味良くリズムを刻むことが大事だ。
運動は生きていることそのものだ。胸の中にある鼓動が大声を出し、赤い命が身体中を駆け巡っているのを感じられる。
そして集中力。行き先を見据えて、迷うことは愚かだ。そこに向かうと決めたなら、全力を使うほかに何がある?
跳ぶ。水平の力を、一瞬で鉛直への力へと昇華させる。
「お……おっしゃー! いいぞ轟!」
ボールは過たずポストに飛び込み、落ちてきた。まずまずのレイアップシュートを決められた。
「盛り上がっているみたいね。タケルは勉強だけじゃなくて運動もできるんだ」
コートに振り向こうとした瞬間だった。あり得ない声が聞こえたのは。
声の主を、俺は間違うことはなかった。背後にいたのは、外行きの競技用車椅子に、体育館というこの場所に合わせたような上下青いジャージ姿のシロガネだった。遠野さんもメイド服で同伴していた。
「ここ二三日のタケルの心の動きが変みたいだから、見に来ちゃった。喜んで?」
シロガネの声はガランとした静寂に響いた。その静寂には、ついさっきまでいたはずの生徒達の人熱れが残っていた。――相変わらず、物凄い、謎な人払いだ。
「あ、そういえばまだ教えてなかったね。――私の周りに人がいなくなるのは、別に追い払っているわけじゃないよ。位相を、チャンネルを変えているだけ。多面体の世界の、他の人が立っていない一面に私が存在しているだけよ。MMOで同じサーバタウンが幾つもあるのと同じね。――タケルはいつでも、無意識に私と同じ位相に立つから不思議よね」
不思議なのは、俺の心を読むように言動するシロガネの方だ。
「それで本題に移るけど……死んでみたいの?」
シロガネの声には面白がる様子が――無い。やわらかそうな桜色の唇には微笑の形があるけど、銀の輝きを覆い隠すような夜色の瞳には何の感情もない。
俺は何も答えず、身体が冷えてきたことを感じつつ、車椅子に座るシロガネを見下ろして突っ立っているだけだった。
「今日のタケルは無口ね。――まぁ、私がちょっと浮世離れしたことするとすぐそうなるけど。――死にたいなら死んでみればいいんじゃない? タケルが死んだら、私、天使みたいに迎えに行ってあげてもいいよ。私には翼があるからね。……まだ見せたこと無かったか。……きっと瀕死のタケルは、赤い涙を流すよ」
シロガネの言うことはそれだけのようだった。遠野さんの手を借りず、小さな手の動きですばやく競技用車椅子を旋回させた。束ねられた黒い髪が踊った。
「……シロガネは、どうして生きてる?」
意識せず、俺は彼女に問いかけていた。
シロガネは車いすごと俺に振り返って答えた。
「死ぬために生まれてきたからじゃないからよ」
「……でも、人はいつか死ぬ」
「いつか死ぬのが恐いから今死にたいわけじゃないでしょ? タケルは」
そしてシロガネは、びゅう、と風を切って姿を消した。
刹那、
世界の位相が切り替わった。唐突に戻ってきた学生たちの声が、高波のように俺の鼓膜を強く叩いた。――時は止まっていたようだった。
「ロトー? まだゲームは終わって無いぞ」
促され、俺はまたバスケットボールの試合に戻った。――生きる時間はまだ流れていた。
*
月夜だった。
星夜だった。
そして闇夜だった。
黒い天には白い光があふれていたが、黒い地上には黒い闇しかなかった。空は澄んで、大きく円かな月の兎だかの影が見えるのに、その光は弱く薄い。まるで天と地が切り離されているようで、居心地が悪かった。地面の上に一切の望みが転がっていないような感覚。死ぬ前だからこんな気分がするのだろうか。
時間は……確か午前二時くらいだったはず。丑三つ時か。家族が寝付き、トイレに行くように装ってそのまま家を出てきた。
目的地は近くの高層マンションだ。学校に行こうかと思ったが、冷静にちょっと考えて、止めた。家からどれだけ離れていると思ってるんだよ。学校には鍵がかかっているだろうし。行こうと思っているマンションにもカード式の鍵があるが、中学のころの友達がスペアを渡してくれているので問題ない。――その友達には申し訳ないことになるな。
真夜中とはいえ、行き道に街灯の光も、車の音も聞こえなかった。不自然だった。まるでゴムでできたトンネルの中を歩いているようだった。もしくは、深い森の中を通っているようでもあった。俺が歩いているのは札幌の片隅の街角ではなく、ただ漠然とした黒い砂漠だった。足の下にあるのが砂漠ではなく、アスファルトであるという違いしか俺は感じられなかった。
そしてそれは、俺にある存在を思い出させた。――シロガネだ。現実と隔絶されたような、与えられた幻覚。
――くっく………せーかい。
頭に声が響いた。俺の心の中の独白に答えるように。もちろん、あの声で。
ふ……と闇が動いた。――蝋燭の揺らめきのような、微かな風…………目の前にあったのは追分高専の校舎だった。
その校舎には扉という扉、窓という窓がなかった。人形の虚ろな硝子の瞳――眼球の抉り取られた屍の眼窩――そんな感じが、通いなれた建物から漂っていた。校舎には明らかに無機物でありながら、命のともしびがさっきまであったのだと訴える、有機物の惨たらしさがあった。
普通ならガラス(強化プラスチックかもしれない)の自動扉がある玄関をくぐった。
ホールには予想に反し、普段から貼られている掲示物が闇に曝されていた。非常灯の緑の光が明かりとなった。長椅子や学校のアイデンティティーみたいなオブジェもあった。リノリウムの床を歩くと、きゅ……きゅ……と足音が空しく響いた。
右手にある階段を昇った。三回まで、クルクルと。
廊下に入ると、赤外線感知センサーによって蛍光灯が点けられた。ドギっとした。白い硬質の光は、雪のようだと思い、それからはじめて、俺は秋の夜の寒さを感じた。空気は氷水のようだった。風花が舞っても不思議じゃない……冷蔵庫で作る、白く濁った氷に閉じ込められた気分になった。
校舎全体の中央に位置する階段だけが屋上に続いている。屋上は応援団の持ち場で、その扉(があるはずの場所)の前には旗だの和太鼓だのが置かれている。屋上への出口を塞ぐように置かれているそれらを引っ掛けないように注意しながら、俺は生涯最後となるはずの敷居を跨いだ。
屋上に柵はない。黒い空を吹きわたる秋の風が、隔ても無くこの屋上を駆け抜けていた。強い西風は絶望の匂いがした。
ここまで来れば、あとは死ぬだけだ。
俺は屋上の縁に立った。ぐわ……闇の手が俺の身体を揺さぶった。――恐くはない。恐くないということは、つまらなかった。生きていた甲斐がなかった気がした。未練も、後悔も、ここに無いのなら何のために生きてきたのだろうかと首を傾げずにいられなかった。――まぁ、いいか。
軽く、コンクリートの縁を蹴った。そうすると背中に当たっていた風が、俺を虚空の中に押し出した。
落下。――身体中の血液が逆流するような、無重力の感覚はその時にしか味わえない。
↓
闇↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
長い。
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
――光が迎えた。
*
それを天使に喩えないのなら、比喩になど存在価値がないと思った。
わずかな淡色、貫くような灰白の光。後光。輝く身体。あくまでも黒く夜に溶ける髪。――槍のような白銀の眼光。
そして、翼。
闇の底から舞い上がってきた「彼女」は、俺の真下で急停止し翼を一打ちした。その瞬間、強烈な衝撃が逆上って来て、俺の身体の落下運動を止めた。空中で停止した身体を「彼女」は両腕に捕らえて舞い上がった。
――速い。飛翔は軽やかで、燕のように素早い。しかし加速度を感じなかった。全身を輝かせる彼女の腕の中はやわらかだった。しかし屋上を見下ろせる高みまで上昇した時、彼女は物を扱うように俺を投げおろした。
コンクリートに背中から叩きつけられたとき、俺はうめき声を漏らした。
仰向けの状態から半分だけ身を起こし上を見上げると、「彼女」が神々しく俺を見下ろしていた。澄んだ夜空に星々が無数に瞬いていたが、彼女の背景とあっては慎ましく星々は光っているだけだった。黒い空の中、一番の光を放ち夜を支配するのは「彼女」だった。翼が美しかった。銀色の光が結晶した羽毛の細かい双翼は、物質的な重さをまったく感じさせなかったが、それでいて鳥のそれのような有機的な質感を持って彼女の背で揺らめいていた。
「本当に死ぬつもりだったんだ。……覚悟はできてる?」
彼女の声は、少し離れているのに近くで話しかけられているように耳に届いた。
上空に浮かんだ彼女が降りてきた。接近され、はっきりと見る悪戯っぽさを感じさせる可愛らしい顔立ちは――間違いなくシロガネのものだった。が、その双眸の色は人の物ではありえない銀色。まさしく、白銀。瞳孔はなく、星を埋め込んでいるようにも思えた。
彼女が屋上の上に立った。――正確には、爪先は触れず、二十ミリメートルくらい浮遊していた。水平に開かれた銀の両翼は、シロガネの身体を重力から解き放っているようだった。
床に長座の恰好でいる俺の前でシロガネが腰を曲げ、淡く光る指先で俺の頬に触れた。体温が感じられなかった。単に触れられたという、現実感の薄い感覚だけ頬の皮膚を伝わってきた。
「私ね……したいことがあったんだ」
そう言う、シロガネの微笑に寒気を覚えた。――美しくて、妖しくて、危うくて。
「人を殺してみたかったの。死んでも良いと思っていて、多少の縁がある、そんな人を」
「シロガネ……?」
「なあに、タケル?」
「怒ってる?」
「ううん。全然。むしろ嬉しい。なんていうか、育ててた植物を収穫する気分かな、今。ちょうど私達が会ったのは春だし、今は秋だし、ホント、良い収穫時期だよね」
ぱん。
シロガネが俺の頬を平手で叩いた。単に皮膚と皮膚がぶつけられた以上の、静電気がスパークするような痛みが頬に走った。――とても痛かった。
「撲殺……でいいよね。その方が殺しているって感じがするじゃない。絞めるのは鳥みたいで良いけど、あっさりしているし。突き落とすのも、切るのも、味気ないしね。――ね、どう?」
笑いながら訊ねてきた。――本当に、心から楽しそうに。
「……うん。シロガネにまかせる」
――これは自殺というのだろうか。
俺が考えていたのはそれだけだった。
――ま、死ぬから何でもいいか。
俺が思考している前で、シロガネは、屋上に用意されたように落ちていたバッドを手に取って、その握り心地を確かめていた。彼女のために誂えたような、銀色の金属バット。バットで床が叩かれると、こーん……と小気味良い音が響いた。
「行くよー!」
助走――少し距離を取ったところからの滑空で勢いをつけて、バットを振りかぶったシロガネが飛んできた。
がつーん! 思いっきり殴られた。まさしく、殺す気で殴られた。打たれた頭がコンクリートの床に激突し、跳ねた。
どご! と次は腰骨を打ち据えられた。床からの反作用で二重に痛かった。
足、腕、肩、頭、頭、腹、シロガネは次々とバットを振り下ろしてきた。
「うーん、倒れている人を殴るのは面白くないよね。タケル、立ってよ」
ふと、手を止めたシロガネが何気なくそう言った。だが殴られている方はそんな余裕はない。すでに身体は襤褸切れになった気分だった。
「ねぇ! 起きてよ。――まだ死んでないよね」
無邪気に、とても無邪気にシロガネは言う。
俺は立った。立とうとした。だが身を起して床に手を付いた瞬間に、シロガネは隙の出来た腹にバットを突き入れてきた。
う、と息の詰まる感じ。身体の中に臓器という袋が何個も入っていると実感できた瞬間だった。そのうちの、胃という袋は外部に繋がる食道を通して、圧迫されたことによる圧力を外に吐き出した。
有体に言って、吐いた。神々しい光を纏うシロガネの前で、俺は体裁もなく惨めったらしく嘔吐した。
口から胃液が垂れるのを感じた時、頭からも血が流れているのを知った。一通り吐いて、脱力して黒い空を見上げると、世界が回っていた。
そしてまたも衝撃。
ゴルフボールを打つかのような無造作なスイングだった。頬骨の尖った部分が砕けたように感じたのは気のせいだろうか。
「くっく……くくくく……あははははははははははははっはははh!」
シロガネの笑い声が、高く、早回しの音声のように響き渡った。――信号の混乱した頭脳が、その音をエコーしまくっているように拾っていた。
「殺す、私がタケルを、人を、殺す、殺す殺す殺す!」
叫ぶ声はイレブン・ナインくらいの高純度で狂気に染まっていた。しかしそれでも、シロガネの纏う銀の光は狂気とは無関係の清廉さだった。――純粋な狂気と清廉さの違いはわからないけど。
バットを振り回すシロガネ――天使にバットを持たせるというのはパンクな感じだったが、俺には大天使に剣を持たせるのと同じように、素晴らしい組み合わせだと思った。――最高だった。こんな姿を見ながら死ねるのなら何も悔いがないと思った。
やがて、内臓の損傷を強く感じはじめた。殴られながら血を吐き、血を吐きながら殴られた。身体は冷たく、熱かった。眼に映る世界は光にあふれ、闇に渦巻いていた。何もかもが混乱していたが、火を見るようにはっきりとした痛みと苦しみがそこにあった。
そしてすべては遠ざかり始めた。高波が一気に引くように、世界の沈黙は風よりも早かった。
?
朝日が顔を打ち、俺は目を覚ました。
鳥の声、近所の人の挨拶の声。遠くに聞こえる車の音は、街という生き物があくびをしているように聞こえた。
どうやら俺は自分の家のベランダにいるようだった。
全身が痛い。ひどく痛い。怪我はないようだったが服に血のにじんだあとがあった。
――生きながらえたみたいだな。
そう思った時、意識の底でシロガネの声が蘇った。――まだ殺しちゃうのはもったいないから、続きはまた今度、ね。――まったく、シロガネは俺のことを愛玩人形か何かだと思っているに違いない。でも……それも悪くなかった。
家に入ると、家族はまだ眠っているみたいだった。――というか、時が止められているような感覚。今の内に身支度しろということか。自室に入り、すばやく着替えた。血に汚れた服は――今度シロガネにでも送ってみるか。
身動きするたびに身体が軋んだ。だがこの痛みが、俺がいま生きているということを叫んでいた。本当に、痛みとは悪くないものだ。痛みを知っていれば生きてられる。生きていれば、シロガネに会える。
他にもあるだろうか?
いま世界はどうなっている?
不意に、世界への興味が沸いた。今日は楽しい一日になりそうだった。