なまけ虫となまけもの
疲れたことも、分からないままに働き続けていると、
「なまけ虫」と「なまけものの精」に取り憑かれる。
それは幸運な事である。
何故なら、「死」から遠ざけてくれるから。
今までの自分の生活を再度、考える必要があると、教えてくれるから。
なまけ虫を、お腹に飼っている人がいる。
人にやってもらって、当たり前。
感謝の気持ちもない。
自分の行動が悪い方に発展して、大事になったら、
他の人を悪く言い、責任から逃れようとする。
お腹のなまけ虫と、それを飼っている人は似たもの同士なので、
とても気が合い、
「自分は悪くない」
と確認しあって、また増長するのだ。
お腹に入らずに、空を飛んでいる、なまけ虫もいる。
なまけ虫というが、一生懸命に飛んでいる。
探しているものがあるのだ。
それを、見過ごさないように、晴れた空も、雪の夜も
雨の朝も飛んでいる。
そして、
「ああ、見つけた!」
と、一人の歩いている男を目掛けて舞い降り、
ぴたりと背中に取り憑いた。
取り憑かれた人は、今まで頑張っていた気力が
「すうっ」っと抜け出て、疲れて、悲しくて、むなしくなるのだ。
男は、足を引きずりながら、なんとか家に帰った。
しかし、ご飯を買って帰って食べるのも、
家の掃除だって、脱いだ服をかけるのだって、
何もかも疲れて、動けなくなってしまったのだ。
それでも朝は来る。
とても体が重いのに、仕事に行く。
朝の光って、こんなに狂暴だったけかなぁ?
「行きたくない」
毎日思っていたが、今朝は、いつもの何倍も行きたくないのだ。
「行きたくない」
「行きたくない」
それでも、男は昨日着たYシャツを着て、ドアを開けるのだ。
食事は昨日の昼に食べたっきり。
駅前で野菜ジュースを買って、それが朝ご飯のつもりなのだ。
朝のラッシュも疲れる。
でも、今は頭がぼんやりと霧がかかったよう。
危うく、降りる駅を過ぎるところだった。
会社に着いた。
いつもの通り机に向かいう。
頭がぼんやりして集中力がないので、いつも以上に頑張らなければならない。
彼には皆でやる仕事、自分の仕事、プラス、彼一人に任された仕事がる。
「期待しているよ」
先輩が親しげに、肩をたたいた。
彼は、その手を払いのけたいのを我慢した。
先輩が期日を忘れていた仕事を、押し付けられたのだ。
部長が通ると、先輩がわざとらしく言った。
「いやあ、彼には普段から目を掛けていましてね。
今度の仕事も彼に手伝ってもらっているんですよ。
彼は優秀ですからねぇ。
私が育てたんですが、
危うく、この私も抜かれそうですよ。ははははは」
部長は穏やかに
「大変だと思うが、期待している。良い結果を出してくれ」
「はい。頑張ります」
それ以上は何も言えなかった。
愛想笑いも出来ないまま、なまけ虫を背中に引っ付けて机に向かう。
「へぇ~。部長にまで期待されちゃって、すっごいねぇ」
同僚の言葉と裏腹の嫌味な言い方。
前までは、こんな言い方する奴じゃなかったのにな。
何て言えばいいのか分からず背を向ける。
「あれ~?俺みたいに出来の悪い奴は無視ですか?
なぁ。ちょっと目を掛けられたら、随分偉そうになったよなぁ~?」
同僚は周囲に同意を求める。
同意する人。無視する人。苦笑してその場を去る人。
彼の周りには、嫌な空気が残った。
やる気のないのを何とか活を入れ、仕事をすること十数時間。
先輩も同僚も帰っています。まだ仕事は終わりらない。
足が泥に入るような感覚を感じながら、
「なんとか」「もう少し」「もうひと頑張り」「もう少し」
彼が席を立ったのは、仕事が終わったからではなく、終電間近だったから。
そんな毎日。
いつからか、もう一年以上は経っている。
先輩は、その都度、別の仕事を押し付けて、一緒にやっていると言うのだ。
そして、また朝。
自分が乗る一本前の特急が来た。
彼はぼんやりしながら、停まらない電車が通るホームに近付いてきた。
背中のなまけ虫は、渾身の力を振り絞り、彼の足を止めようとしている。
「黄色い線の内側までお下がりください」
「危ないので、黄色い線の内側までお下がりください」
アナウンスが3回流れた。
3回目は怒鳴り声だった。
なまけ虫は、彼の足を止めながら、羽根を震わせる。
人には聞こえない音を発っしている。
電車の音も、人々の騒音の間を細く抜けて広く、広く響いた。
それは、もう一つのモノを引き寄せるための音だった。
でも、それは、到着までが遅いだ。
早く早くと虫は鳴いた。
早く、早く、早くと虫は泣いた。
彼は、無表情で線路脇に立ち尽くしている。
ついに、やっと来た。
ふよふよと飛んできた。
そして、彼の背中に取り憑いた。
虫は潰されないように、さっと横に避けた。
いま、彼の背中には、なまけ虫とナマケモノの精が付いている。
ナマケモノの精自体、体重はないが、取り憑いた瞬間、彼は後ろに倒れ、
特急列車が怒りのホーンを鳴らし走り去った。
彼は、自分が電車に向かっていたことも、その後、倒れたことも自覚していなかった。
あれ、地面だ。身体が動かない。周りに人が沢山いる。何か言っている。
彼が覚えているのは、そこまで。
すうっと、暗闇に吸い込まれた。
目が覚めたのは数日後だった。
点滴を打たれている腕を、さすっているのは母親。
「目ぇ覚めたかい?」
泣いた後だと思われるしゃがれた声。
「な・ん・・・で」
彼の声は出ませんでしたが、母親には通じた。
「おメ、駅で飛び込みそうだったじゃねぇか。その後、ぶっ倒れたんだよぉ」
「おメ、・・・死ぬ気だったんか」
「こん・・なに、痩せてよう」
母親の節くれだった手が腕を撫でている。
死にたかったか?考えたが、分からない。
そんな気がしたかも知れない。
いや、でも生きてはいたくなかったな。
「あ、会社」
とても聞き取れない、しゃがれ声を母は気付いて言った。
「もう、行かんで良いんだ。あんな所。おメ、随分無理していたんだな。
労災降りるってよ。お願いだから、休んでくれ」
母が泣いて縋るも、ぼんやりと別のことを考えていた。
労災かぁ。よく簡単に通ったな~
ああ、駅のホームだったから、鉄道警察が連絡したとかかな。
など、適当な事を考えていると眠気がやってきた。
「よく、休みんさい」
母親の声が聞こえた気がした。
精神科で、うつ病の診断を聞かされた時は、心外で、激しく異論があったが、
反論をする事が、喋ることが、出来なくなっていた。
その後の3週間は、日に三度の食事を無理に食べさせられ、それ以外は眠り続ける。
さすがに、トイレに行くときは、目が覚めたが、トイレが済むと
またベットでばたりと眠りにつくのだ。
背中のなまけ虫となまけものは、間に合ったねと。と笑いあった。
でも、まだ気が抜けない。
病気の人には、するりと「死」が取り憑いて、思いもよらぬ方法で、
死を迎い入れてしまうのだ。
「まだまだ」
なまけ虫となまけものは言葉は交わさなくとも、同じ思いで頷いだ。
薬の量が調整され、日中は目が覚めている時間が出来た。
そうなると、
「自分は、なんて意味のない存在なんだろう。」
「消えてしまいたい」
そんな、声に出さない呟きを「死」が聞きつけるのだ。
「やっぱり、死にたかったんじゃないか」
床のタイルの隙間から、タール状の黒いのもが湧きだし、なんとなくの人型になり、
ニヤニヤしながら「死」が彼に巻き付いた。
「お前なんて、会社の、社会のお荷物」
「お前なんていなくても、誰も何も思わねぇし」
「生きている価値も意味もねぇ」
「さっさと死んでやるのが親孝行」
誰かの面会で、赤ちゃんの泣き声が聞こえた。
「お前を必要とする奴はいない」
「お前みたいな面倒な病人と結婚したい奴なんかいねぇ」
「社会不適合者」
「さっさと死ね。ほら死ね。ヤレ死ね。今すぐ死ね」
もう、死が誘っているのか、自分の考えなのか、分からない。
いや、彼自身には、「死」が取り憑いている自覚はないので、
それらの言葉が、ひたすら頭の中を回っているのだ。
病院の先生は、彼の症状を見逃さず、また薬を投与され、
ひたすら眠らされたのだ。
そして、ある朝、目が覚めた。
ぼんやりとしていると、看護師さんが見回りに来た。
彼を見て
「お早うございます」
彼も答えた。
「お早うございます」
久しぶりに声帯を使ったので、カサついて、少し上ずった声だった。
でも、彼が自然に出した声だ。
看護師さんが、にっこり笑い
「大変でしたね」
と言った。
なぜか、意思とは関係なく涙が出た。
「死」が
「おやおや、つまんねぇなぁ」
と、彼に巻き付いていた体を解いて、ドアの閉まる隙間から出ていった。
また、別の人に取り憑くのだろうか。
それでも、なまけ虫となまけものもも、顔を合わせて頷いた。
虫には笑顔がないけれど笑っていた。
なまけものは、笑った顔を常にしているけれど、この時は本当に笑った。
何が理由で、泣くのか分からない彼の背中で、二匹の精は笑いあった。
でも、まだ。もう少し。
母親が入ってきた。
「おや、起きて大丈夫なのか?」
「うん。大丈夫だよ。ありがとう」
翌週、点滴は外され、その翌週には、病棟も変わった。
病室に入ったとき、花や果物の加護や菓子などが、たくさんあった。
母親が泣きながら言った。
「一時は恨んだけれどねぇ。しょっちゅう来てくれる人もいてね。
なんて言うかね、おメ、大事にされなかったけれど、必要とされていたんだねぇ。
あたしゃ、誇らしいよぅ」
大事にされなかったけれど、必要とされていた。
そして、それに対し、自分はNOと言えなかった。
「母さん。俺、仕事辞めるかもしれん」
「ああ、自由にし」
退院までは、それから半年は掛かった。
食事が固形になり、座ってできる運動から、散歩が出来るようになった。
それでも、階段一階分昇るだけで息切れしたり、ラジオ体操が、前半も出来なかったことに
驚愕した事もあった。
そんなころ、月に二回の通院で、やっと退院の許可が下りた。
「部屋を奇麗にしておいたよ」
母が言い、荷物を持とうとしたが、自分で持った。
これで終わったわけではない。
まだ通院が一年か、三年続くか分からない。
仕事もすぐには出来ない。
職場は辞めていない。
週に一日、数時間でも出勤すれば、給料の何割かは支払われるそうだ。
無駄遣いをしなければ、生活できる支給額で、有難い。
彼は、午前中の陽の光を浴びて、うーんと背伸びをしました。
朝に気分が良いのは、本当に久しぶりだ。
この感覚が、生まれ変わった気分というものか。
彼の実感が背中に伝わった。
もう、大丈夫。なまけ虫の精となまけものの精が背中から離れた。
彼は、あれ?肩が軽くなったかな?と首を左右に曲げていた。
見上げた青空に、何か光った気がしましたが、気のせいかと、すぐに忘れた。
なまけ虫は、なまけものを飛び越し、空高く飛んだ。
なまけものは、なまけものなので、ゆっくり上昇し、太陽の光に溶け入り消えた。
なまけ虫は上空より地平を見ながら、飛び回る。
どこかに休むのが必要なのに、自分では気づけない人を探して。
「あ!」
なまけ虫が急停止して、ホバリングした。
「ああ、あの人だ」
子供が巣立って、歳よりも上に見える女性。
朝が辛いと泣いている。
心に、ぽっかりと穴が開いたようだと。
今まで、頑張ったんだね。
もう、休んで良いんだよ。
なまけ虫は、残酷な優しさで、夫人に取り憑いた。
夫人は、ふうっと倒れた。
周囲に人だかりが出来る。
彼女は、これからの人生を見直すため、自分と戦い、慰め、許し、妥協点を探すのだ。
なまけ虫に背中から見張られながら。
なまけ虫は飛んでいる。
人の世界を見下ろし、疲れた魂の悲鳴に耳を澄ませて。
そして、伝えるのだ。
「休むことは怖い事ではない」
「罪悪感は感じなくていい」
人は時に、見えない病を負う。
そんな時に、現れる存在がいる。
見えない。気付かれない存在が、世界のやさしさの証明として、居る。