第89話 悔恨
「ただいまー」
自宅に戻ってきた大黒は帰宅の言葉を発するが、それに対する返事は帰ってこない。
磨が死ぬ前までは、磨かハクのどちらかが玄関まで出迎えに来てくれていたのだが、今は返事が来ることすら無い。
(それを寂しく思うのはさすがに勝手がすぎるな……)
大黒は感傷に浸ってしまいそうになる自分を戒めて、リビングに続く扉を開ける。
すると、そこにはソファに突っ伏しているハクの姿があった。
大黒はそんなハクを見て、極力足音を立てないように直ぐ側まで近寄っていった。
「ハク? 寝てるのか?」
「……………………起きていますよ」
大黒が静かに声をかけると、少しの沈黙の後くぐもった声が返ってきた。
ハクは顔を完全には上げないまま、横目で大黒を見る。
「どうしたんですか? 普段よりも随分と早い時間ですが」
「ちょっとハクに話したいことがあってな。居ても立っても居られなくなって学校を抜け出してきちゃったんだ」
実際に家に帰ってくることになった理由は違うが、そう言った方が話が始めやすくなると思い、大黒は嘘を付く。
「……いい加減、学校の方からもう来るなと言われるかもしれませんよ」
「大丈夫だって、それくらいで退学になるなら日本の大学生は中退者ばっかりになる」
「それが本当なら一度教育制度を見直した方が良いかもしれませんね」
それは二人にとって久しぶりのまともな会話だったが、ハクは未だに大黒に顔を向けようとしない。
しかし大黒も今から話そうとしていることを思えば、顔を合わせない方がやりやすいと考え、無理にハクを起こすことはしなかった。
「……なあ、そのままでもいいから聞いてくれないか」
「……………………」
「多分分かると思うんだけど……、いや、こういうのがダメなんだな」
大黒は頭を振って自嘲する。
そしてソファを背もたれにして床に座り、改めて話を再開する。
「話っていうのはさ、磨のことなんだ。磨とハク、後まあ俺のこと。……楽しい話でもないし、ハクが聞きたくないならこれ以上の話は止めとくけどどうする?」
「…………聞きます。聞かせて下さい」
「……分かった。上手く、話せないかもしれないけど聞いてくれ。まずはちゃんと話せてなかった磨のことから……」
話を進めようとすればするほど、大黒の口と心は重くなる。それでも話すことをやめないのは、それが今の大黒がハクに出来る唯一のことだと分かっているからだった。
「これは言ったと思うけど、磨は元々妖怪だったみたいなんだ。だけどある日陰陽師に捕まって、実験で無理やり人間にされた。……そんでその陰陽師っていうのが俺の昔の友達だった」
「…………」
「そいつは昔っからヤバい奴でな。人間には甘いが妖怪にはとことん容赦のない女だった。だからそんなイカれた実験をしてても何の不思議もなかったんだけどさ、かといって許せるわけもなかった」
「…………」
ハクは微動だにすることもなく大黒の話を聞いている。
「そいつの狙いはハクだった。陰陽師としても一般人としても普通じゃない奴だったが、九尾の狐にご執心っていう点では普通の陰陽師と一緒だったみたいだ。そしてそいつはどこからか、俺がハクと関わりがあるってことを知ったらしい」
「…………それで、ここに送り込まれたのが磨というわけですか」
「送り込まれたというか、俺なら磨を連れ込むと思ってたって感じだったな。これだから昔からの知り合いっていうのは厄介なんだ。ある程度以上に行動を読まれてしまう」
「……ふふっ」
それまで抑揚のない返事しかしなかったハクの口から笑みが漏れる。
その声を聞いた大黒は何か自分に落ち度があったのかと不安にかられて、右手で口を覆う。
「…………俺、変なこと言った?」
「いえ、貴方は昔から貴方だったのだなと思っただけですよ。気にせず続きをどうぞ」
「……まあ、褒め言葉として受け取っておくよ。それで、そいつは最初俺を人質にしてハクをおびき出そうと目論んでたみたいなんだけど……、そいつが襲ってきた時に磨が俺を庇ってくれた。あの日俺が持って返ってきた呪具があるだろ? あれで磨が刺されたんだ」
「……あの禍々しい呪具で傷を付けられたのなら貴方では手の施しようがないでしょうね」
ハクは飢餓ノ剣の効果を知らない。だが、呪いの専門家とも言えるハクは一目見ただけでも、その呪具のレベルが把握出来る。
そして大黒の呪術の腕では飢餓ノ剣には太刀打ち出来ない、というのがハクの見解であった。
「悔しいことに、その通りだったよ。俺には磨を救う力がなかった。だからそいつは交換条件を出してきた、磨を治す代わりにハクを連れてこいって感じにな」
「それで貴方は……」
「ああ、ハクを選んだよ。ハクは俺の生きる意味そのものだ、たかだか一、二週間一緒に過ごしただけの子供とどっちを取るかなんて言うまでもないだろ?」
「……なるほど、そのまま磨は死んでいったんですね」
ハクは大黒の露悪的な言い回しに取り合うことはせず、大黒に話の続きを促す。