第155話 体罰
「本当に……本当に無事で良かったです……。このまま兄さんが起きなかったら私は……」
純は泣きそうな声で大黒に抱きつく。
もはや抱きつくというよりは縋り付くといった方がいいくらいで、二度と離したくないという意思が体全体から溢れていた。
大黒はそんな純の背中を赤子をあやすように叩き、穏やかな声で話しかける。
「……ごめんな。心配かけた。まあこんな体たらくで信用がないかもしれないけど、巻き込んだお前たちを残して勝手に死ぬなんてことはしないからそこだけは安心してくれ。ボロボロでも、死にそうでも、絶対戻ってくるから」
「ええ……、信じていますよ。兄さんのことは、誰よりも。それでも心配なものは心配なので、どうかあまり無茶はしないでください」
「善処するよ」
純の言葉に大黒は苦笑いを浮かべ、そろそろいいだろうと思い純を離そうとする。
しかし純の肩を掴みグッと力を入れると、純はそれ以上の力で大黒にしがみついてくる。
一度と言わず、二度、三度と試してみても純が離れてくれる様子はない。
「あの」
「………………」
片腕では無理に引き剥がすことも難しく、言葉で説得しようとしたが純は大黒の呼び掛けに応じず黙ったままだった。
そこで大黒はふっと諦めたように笑い、近くにいる鬼川に視線で助けを求めた。
それに対して鬼川は本気で嫌そうな顔をするが、いい加減話を進めたい気持ちもあり助け船を出すことにした。
「ほらほら当主、お兄さんも困ってるんで離してあげてくださいな。つーか上司の情事とかあんま見たくないんであたしとしてもとっとと離れて欲しいんすけど」
「変な言い方すんな。これはただの兄妹のスキンシップだ」
生々しい見方をしていた鬼川に大黒は苦言を呈する。
純も純で大黒とは違った不満があるようで、大黒に抱きついた状態で鬼川を睨めつけた。
「ふん、お前みたいな薄情な従者の言うことを聞く義理はない。兄さんが起きたら真先に知らせろと言いつけていたのに、私を差し置いて寝起きの兄さんと喋っているなんて……」
「それでなんか怒ってたんすか。ばらさないで欲しいってお願いしてたヤクザのこともばらしちまうし……。あん時当主トイレ行ってたのにどうやって伝えろって言うんすか。重い日だって言うからこっちも気を使って……」
鬼川が何かを言い終わる前に純は大黒から離れ、鬼川の顎に蹴りを入れる。
渾身の蹴りを食らった鬼川は後方に派手に吹き飛び、ドゴォっ! と大きな音を立てて襖と一緒に倒れ込んだ。
「適当なことを言うな。殺すぞ」
立ち上がった純の眼は爛々と光っており捕食直前の野生動物を思わせた。
その眼で睨まれ恐怖に震えながらも、鬼川はふらふらと身を起こし大黒に不敵な笑みを見せつけた。
「ふふっ、どうすかお兄さん……。当主、剥がせましたよ……」
「無茶するなぁ……」
身を挺して純を動かした鬼川に、大黒は呆れた声を出す。
「後、さっき最後に言ったのは嘘なんでお気になさらず……」
「聞き届けたよ。だから純も落ち着いて座ってくれ。どうしても我慢ならないのだとしても折檻は話の後で。このまま追撃すると本当に死にそうだ」
「……ふぅ、分かりました。今は矛を収めましょう」
「いや……もっと必死に止めてくださいよ……」
口元に垂れてきた血を袖で拭い、鬼川は純から少し遠い場所に腰を下ろす。
大黒に言われて一旦怒りを抑えてこそいるものの、今の純に近づくのは危険だと本能が察知したが故の行動だった。
しかしそれすらも純の気に障ったようで、純は鋭い眼光を鬼川に向けた。
「どうした? 何故そんな遠くに座る? 今はなにもしないと言っただろう。お前は上司の言葉を信じられないのか?」
「お兄さん……、よく見てて下さい。これがパワーハラスメントってやつっす。お兄さんはくれぐれもこんな上司がいる職場には就職しないよう気をつけてください」
泣き言をいいつつも鬼川の体はすごすごと動き、純の隣に収まった。
その頬に一筋の涙が伝ったように見えたが、大黒は気のせいということにして話を本題に戻した。
「で、そこそこ騒いだけど未だに他の人間が顔を出さないってことは……つまりそういうことでいいんだよな?」
「…………」
「…………」
大黒の問いに二人は神妙な面持ちになり、純が静かに首肯した。