第149話 虚勢
「おお、怖い怖い。先刻までは口でしか歯向かってこなかった奴が急に暴力に訴えるか。女の見栄というのは度し難いものだな」
天魔雄神の一言一言がハクの気に障る。
そういう性格の妖怪だと理解していても、苛立ちは収まることを知らずに増していくばかりだった。
これ以上大黒の前で余計なことを言おうものなら全霊をもって喉を裂く。
そんな刺々しい殺気を放つハクだったが天魔雄神はどこ吹く風、代わりに隣にいる大黒がハクの殺気によって正気を取り戻した。
「なんか寒気がする……」
「あっ……」
大黒の声が耳に届いたハクはすぐさましゃがんで大黒の顔を覗き込む。
「良かった……、意識を取り戻したんですね……。……目はきちんと見えていますか? 動かない箇所はありませんか? 私のことが分かりますか? あと……」
「す、ストップストップ。心配してくれてるのは凄く伝わってくるけど一旦落ち着いてくれ。正直俺もまだ頭がはっきりしてないんだ」
ハクは大黒の顔や体をペタペタと触って無事を確かめる。
謎の寒気によって目覚めた大黒は、ハクの肩を掴んで自分から離れさせ、混乱している頭の中を一つずつ整理する。
(覚えてはいる。大黒家の地下を抜けた後、あいつが出てきた。……出てきて、最悪な気分にさせられた。底のない絶望を体験した。けどなんとか俺は終わらせたはずだ。終わらせて、心を空にしてずっと歩き続けた。思い出さないように、考えないように、細心の注意を払って歩いてた。そしたら確か……)
大黒はここまでの道程を思い出してふっと顔を緩ませる。
そして肩を掴んだままだったハクを力強く抱き締めた。
「きゅ、急に何をするんですか」
「いやさ、思い出したんだよ。俺がここに来られたのはハクのおかげだったって。暗闇の中、ハクの声が聞こえた気がしたからその場所を目指して歩いてこれた。ハクの存在を感じられていたから俺は潰れずにすんだ。……ありがとう」
「……大げさですよ。ですが、拠り所だったと言われて悪い気はしませんね」
ハクは大黒の背中に手を回して、優しく言葉を返す。
いつまでもこのままでいたいと思っていた大黒だったが、いつまでも空中にいる存在を無視しているわけにもいかず、名残惜しそうにハクから手を離した。
「で、あれが噂の天魔雄神か? 最悪最低な性格をした元凶、人を地獄に落とすのが趣味な人格破綻者は」
「ええ、そうですよ。あそこにいる彼こそが、人の記憶を盗み見る覗き魔で神々も見放すほどの悪神、天魔雄神です」
二人から嫌悪と侮蔑の言葉をかけられた天魔雄神は少し不快そうに眉を顰め高度を下げて二人に話しかけてきた。
「九尾はともかく人間にそこまで過ぎた言葉を使われるとさすがに不愉快になってくるな。貴様が見どころのない人間であったなら殺していたぞ」
「へぇ、なんか知らない内に気に入られてたのか。お前みたいなのに気に入られてもそれこそ不愉快になるだけだけど」
大黒は強気に言い返すが、その足は震えている。
今まで何体もの妖怪と戦ってきた経験がある大黒だったが、神に分類される妖怪と対峙するのはこれが初めてであった。だから、大黒はどこかで天魔雄神を甘く見てしまっていた。
地下室を出たら絶対に一発殴る、そう決めていたのに実際に会ってみれば想像以上の圧力に虚勢を張ることしか出来ない。
天魔雄神が大黒に向けているのは殺意でもなく、小さな苛立ちから来るほんの少しの敵意。
しかし、そんな敵意を向けられただけで大黒の体は怯えて足が動こうとしない。
(くそっ、伊達に神を名乗ってるわけじゃないってことか……!)
力の差というよりも生物としての格の違いを感じてしまい、大黒は歯噛みする。
「ひっひっ、悪いな。脅かしすぎてしまったか? なぁにそう恥じることではない。そうやって虚勢を張れているだけ人間にしてはよくやっている方だ。人間の中には俺様を見ただけで糞尿垂れ流して失神する滑稽な奴もおるからな」
天魔雄神は大黒の内心を見抜き、振る舞いを嘲笑する。
それによって大黒に向けられていた敵意は消えたが、神としての存在感は依然として残っている。
元陰陽師である大黒は普通の人間よりも長く耐えられるだろうが、長くここにいるのは大黒に良くない。
しかも今は全員霊体の身、肉体というフィルターが無い分より悪影響を受けやすくなる。
そう判断したハクは一刻も早く現実世界に戻るため、手早く予定していた質問を天魔雄神に投げることにした。