第136話 幻覚
「あまのさかおのかみ……、聞き覚えがあるような無いような……。九天の王なんて仰々しい呼ばれ方されてるってことは強い妖怪なんだよな?」
大黒は顎に手を当てて自分の記憶に妖怪の名前があるかを探る。
九天……つまりは天界で名を馳せた妖怪ならば知らないはずはない。
しかし、大黒がいくら頭を悩ませてもピンとくるものが思い浮かばなかった。
だからハクに天魔雄神の解説を頼もうとしたのだが、ハクがそれを教える前に周囲の状況が急変した。
「………………しち、しちしちちちちちちちちぁあさぁあわあかぁ!」
「はっ!?」
大黒とハクが話していた間にもずっと繰り返されていた会話が途切れ、言葉を発していた刀岐の顔がドロリと崩れる。
目と鼻と口の区別もつかなくなった顔で、刀岐は壊れたラジオのように雑音だけを垂流す。
それを見た大黒が取り乱していると、今度は助手席にいた純が身を乗り出して大黒の首を絞めに手を伸ばしてきた。
「おいおい……! 勘弁してくれよ……!」
隻腕の大黒では片方だけしか防ぐことが出来ず、防ぎきれなかった純の左手は大黒の喉を的確に掴む。
「ぐっ……! ………………!?」
首に力を込め窒息しないように耐えていた大黒だったが、突然辺りが真っ暗になったことで意識を失ったのかと錯覚する。
だが、まだ右手で純の腕を抑えている感触があったため、世界が暗くなっただけだと理解した。
そして暗闇に目が慣れてきてうっすら周りが見えてくるようになると、今度は体が浮遊している感覚に襲われ、自分がどこかに落ちていることが分かった。
大黒の首を絞めてきている純の顔は見えるようになったのに、地面も空もハクも見えず、周りの景色は黒一色。
何とか首を横に向け、落ちた先に目線を向けて見てみるも、変わらず黒色の風景だけが広がっている。
地獄にまで通じていると思えるほどの深い穴、どうすることも出来ずに奈落に落ちる覚悟を決め始めていた大黒の肩に微かな振動が走った。
「落ち着いて下さい。貴方の見ているそれは幻覚です」
「…………!」
ハクの声が耳に届いたと同時に大黒の意識が元に戻ってきた。
「深呼吸をして、ゆっくりと周囲を見渡して下さい。大丈夫です、私がここにいますので」
「はー……、はー……」
ハクの言葉通りに、大黒は荒い息を整えながら周りを見る。
現実世界にこそ戻れていないが、そこには同じ言葉を繰り返す刀岐や同じ場所を走っている車があり、そして隣には大黒の肩に手を添えてくれているハクがいた。
それらを確認したことでようやく大黒は息を落ち着かせることが出来た。
「ふー…………」
「落ち着きましたか?」
「ああ……、死ぬかと思ったよ……。ありがとう」
「いえ、一人より二人の方がこの世界を抜けられる確率が高くなるから助けたまでのことです」
「またまたー、そんなこと言っちゃってー」
大黒はハクの言葉に軽口を返すが、表情には疲労が色濃く出ていた。
ぐったりと背もたれに体を預けている大黒を横目に、ハクは先程大黒を襲った現象について話し始める。
「貴方も体感した通り、天魔雄神は幻覚を使ってこの世界に引き入れたものを惑わします。貴方がどんなものを見たのかは分かりませんが、今のタイミングで見せてくる幻覚ですし小手調べ程度のものだったのでしょう」
「いや、結構しんどかったよ? ハクが助けてくれなかったら普通に死んでたし」
「平気ですよ。この世界では霊力を使い果たす以外の死はありません。そのことをちゃんと理解していれば、心臓を貫かれようと頭を砕かれようと死にません」
「理解していればって……さっきの俺はそれを知らなかったんだけど、もしあのままだったら……」
「錯覚というのは人間に死をもたらすとも言われていますので、まあ」
「死んでたってことだな!」
言いづらそうにしていたハクの言葉を大黒が引き継ぐ。
「といかハクは幻覚を見せられなかったのか? そりゃハク相手に幻覚を見せるのはしんどいだろうけど、俺にだけ攻撃するメリットなんてないだろ」
「見せられませんでしたね。そもそもこんなに早く仕掛けてくるなんて珍しいんですよ。今の私達は天魔雄神にとって玩具のようなものですからね。早々に壊すのは避けたいはずです」
「ええ……、じゃあ何で俺にはやってきたんだ」
「恐らくですけど、貴方が天魔雄神を知らなかったことに少し苛立ったんでしょう。『陰陽師なのに俺様を知らないなんて何事だ』みたいな感じで」
「それだけであんなの見せられたらたまったもんじゃないんだけど……。ま、いいか。元から聞くつもりだったんだし。改めて天魔雄神がどんな妖怪なのか教えてくれないか?」
問われたハクは手早く天魔雄神について知っていることを話す。
天魔雄神。
天狗や天邪鬼の祖先と言われている天逆毎、その天逆毎が天の逆気を呑んで孕んだ子供が天魔雄神である。
天魔雄神は誰の命にも従わず、悪しきことばかり成していたので、八百万の神は天魔雄神を酷く持て余した。
しかし天照大御神はこれを赦し、天魔雄神を九天の王とした。
そして荒ぶる神や逆らう神を統率することになった天魔雄神は、聡い者を昂ぶらせ、愚かなる者を迷わし、人の心を乱していたとされている。