第5話 500万下①
条件戦の呼称変更以前から構想していた作品なので、条件戦呼称は旧呼称のまま書き進めています。降級制度も存在する時代設定です。
藤野優衣がその牝馬を最初に見たのは十二月最初の土曜日、阪神競馬場のパドックで、第一印象といえば、写真が撮りづらいなあ、くらいのものだった。
阪神競馬場のパドックは、観客側の柵の位置が馬たちの姿にかかって、うまく撮影しにくい構造になっている。そんななかで、ナギノシーグラスという牝馬は、少し首を低くして歩いていて、そのときいた位置から見ると、柵が馬の顔を隠しがちだった。他に目立った仕草や特徴が見られる馬というわけでもなく、この馬をがんばってきれいに撮ろう、という気は起きなかった。
レース結果は六着。ナギノシーグラスのことは、その日のうちに忘れた。
それが初めての競馬場だった。
優衣は、中学生のときからカメラが好きだった。大学に入学して、写真部に入った今は、動物写真をテーマに活動している。
競走馬の撮影を提案してきたのは、二つ年上の兄だった。
「賭けへんなら、実はたいして金もかからんし、動きもあるし、かっこいいし。動物を撮る練習にはええんちゃう?」
競馬をはじめたばかりの兄だからこその思いつきで、深く考えて言ったわけではなかったようだが、乗り気になったのは優衣のほうだった。
大学生になってからの優衣は、写真を撮るために思いつく範囲、友達と気軽に行ける範囲で、動物園や猫カフェ、ふれあい牧場といった場所を巡っていた。
好きな動物を好きなように撮るのは楽しかったが、写真部に籍を置き、部活仲間の撮った写真を見たり、自分の作品の感想を目にする機会が増えたりしてくると、撮影技術を向上させたいと考えるようになってくる。
のんびりしている動物の姿を撮るのは得意だったから、初めての学祭での展示会にも、そんな作品を何枚か出した。優衣の作品に寄せられた感想は、癒される、かわいい、といったもので、好評だった。
だからこそ今度は違った動物の姿を撮ろうと思った。動きのある写真、迫力を伝える写真に挑戦してみようと、今までとは違う撮影場所を探していたのだった。
「行ってみたい。連れてってくれへん?」
頼んでみると、少し面倒くさそうにしながらも、チャレンジカップというレースも気になるからと、兄の孝道が競馬場へついてきてくれたのが、その日のことだった。
大学生になりたての未成年で馬券を買えるわけでもなく、細かい知識があるわけでもないし、競馬自体の何がおもしろいというわけでもない。
ただ、初めて目にした競走馬という生き物には、自分でも意外なほど惹きつけられた。
ただ飼われている動物を眺めるのとも違う。野良猫や野鳥を観察するのでもない。人の作った世界にありながらどこか人の思いどおりにはなりきらない、競走馬という生き物にカメラを向けるには、人に飼われている他の動物の撮影、野生動物の撮影、そのどちらとも全く同じやり方ではうまくいかない、そう思った。
駆ける馬の全体像をおさめられたと思いきやブレてしまっていたり、ここだ! と思ったところでシャッターを切ったのに首だけが映っていなかったり、思うような写真は数えるほどしか撮れなかったが、優衣はその日、大満足で帰路についたのだった。
二度目は京都競馬場、今度は兄ではなく、よく優衣と動物を撮りに行く、写真部同期の真奈美が一緒だった。最初の日からまもなく二ヶ月が経とうという一月末の日曜日、真奈美と共に昼前から現地入りしていた優衣は、第五レースの出走表に見つけたある名前に見覚えがある気がして首をかしげた。
パドックにその馬が現れて、その歩き方を見ているうちに思い出した。ナギノシーグラス。前回の阪神にもいた馬だ。
相変わらず、他の馬に比べるとうつむくような姿勢に見える。
縁のようなものを感じて、優衣は、そのレースではその馬を追ってみることにした。京都競馬場のパドックは阪神とは違って、馬の前に障害物になる高さの柵もないから、そこまで混んでいなければ写真が撮りやすい。
すでに何枚か撮りはじめている優衣に、まだ様子見といった風情の真奈美が話しかける。
「気になる馬、いる?」
「ちょっとだけ。先月が初めてやってんけど、前にもいた馬、いるなあと思って」
あれ、と指さすと、真奈美はふうん、と小さく声を出した。
「違いがよくわからへん」
「わたしも」
そう返すと、真奈美は笑った。
「なんや、わかって撮ってるのかと思ったのに」
「だってわたしも初心者やもん。芦毛とか、青毛とか、見た目が変わってたらさすがにパッと見てわかるけど。……でも、きれいやね、どの馬も」
それにはそうやねとうなずいて、真奈美もカメラをかまえた。
「すごい、ムキムキ。想像してたより大きい。身近じゃないからかな、馬がこんな近くにいるのって、なんか不思議な感じがする」
ふれあい牧場の馬とも雰囲気ちがうし、などと言いながら、真奈美もシャッターを切りだす。うんうんうなずき、ときおりカメラを下ろして、競走馬の姿を目で追いながら、優衣も撮影を続けた。
そのレースでは、ナギノシーグラスは三着に入った。スタートからずっと前のほうの位置をキープして、最後のコーナーを回るときには先頭に立つかと思われる場面もあったが、結局、後から追い上げてきた二頭に先を越されていった。
せっかくゴール板の近くで待っていたのに、最後の直線では応援のほうに力が入ってしまって、優衣はうっかりレース写真を撮りそこねてしまった。
「ゴールの瞬間を撮ろうって言ってたのに。もう、ファンやん」
真奈美はそう言って笑う。優衣も笑って、こう返した。
「ファンまでいかへん。……でも、漠然と競馬場行って写真撮るだけじゃなくて、一頭好きな馬つくって、こだわって撮ったら、もっと上達して、いいの撮れるかもしれへんな」
「それはそうかも。好きなもの撮るのって、熱が入るやんな」
わかる! と肯定して、優衣はこう言った。
「次にまた、ナギノシーグラスに会えたら今度こそ、レース中のかっこいい一枚、撮ってあげたいな」
その機会は、思いのほか早く巡ってきた。
ちょうど一ヶ月ほど経った二月末の月曜日、再びの阪神競馬場で、優衣はまたナギノシーグラスと出会った。
今度は一人だった。最初は怖いイメージのあった競馬場も、予想していたよりはずっときれいで入りやすく、二回行っただけでも気軽な行き先のひとつになってしまっている。
前回と同じく、昼前には競馬場に到着して、レーシングプログラム片手にパドックまで行ったところで、すでに周回をはじめている馬たちと、その中のナギノシーグラスの姿が目についた。優衣は思わず、また会ったな、とこっそり呟いた。
相変わらず、阪神競馬場のパドックは写真が撮りにくかった。角度を変えたり、場所を移動したり、試行錯誤しながらナギノシーグラスを撮影しているうちに、少しずつこの場所で撮影するコツがわかってきた。
前のほうにいた場合に撮影しやすいと思った方法は、できるだけ左側に寄って、楕円形のパドックの左コーナーにカメラを向け、こちらに向かって歩いてくる馬を狙うやり方だった。
正面から撮影しようとすると柵が邪魔になるが、パドック左奥のほうに向かって斜めの角度からカメラを向けると、こちら側の柵が映りこむ位置は馬の胸元か、うまくすれば脚元のあたりに落ちつく。馬の胸前から上がきれいに映る確率が高くなる。
ナギノシーグラス狙いで、集中してシャッターを切るうち、思いどおりの写真が撮れるようになってきて、優衣はそっと微笑んだ。
競馬場で馬を撮影する、という場面に限るなら、ナギノシーグラスのおかげで、撮影の腕が上がってきているような気さえする。心の中で感謝しながら、今度こそこの馬がターフを駆ける姿をとらえようと、早めにコースのほうへ移動した。
レースの結果は二着だった。ナギノシーグラスは今日も前走と同じレース運びで、スタートから積極的に前目につけていた。今度は直線で一度は先頭に立ったものの、終盤の伸びがにぶく、最後の最後にかわされた。
ゴール板で待ちかまえていた優衣のカメラは、勝ち馬がナギノシーグラスをアタマ一つ分出しぬいた瞬間をとらえていた。
「優衣、例の馬、今度は中京に出てくるみたいやで」
三月に入ってすぐ、リビングに寝ころんで、携帯で競馬サイトを眺めていた兄が、そんなことを知らせてきた。
競馬自体にはまだそこまで詳しくない妹が、ナギノシーグラスという馬に偶然三回も現地で出くわしていて、応援するようになっていることは、孝道も知っている。競走馬が、一ヶ月くらいの間隔でレースに出ることは珍しくないから、ちょうど月イチくらいで競馬場に通っていれば、同じ馬に何度か出くわすことは珍しくないだろう、と孝道は話した。
そんな兄に向かって、優衣が「中京?」と首をひねると、あきれたような返答がかえってきた。
「愛知や」
優衣は、ええ、と声を上げた。
「残念、見に行かれへんやん。関西でレースやってへんの?」
「阪神でやってるけど、ちょうどいいコースがないんやろ。この日は阪神は二〇〇〇メートルまでのレースしかないけど、ナギノシーグラスが出てくる中京のレースは二二〇〇メートル。この馬、二二〇〇あたりから調子上げてきてるし、その距離で使いたいんやろ」
なるほどね、とうなずいて、優衣と兄は会話を終えた。
その日の夕方、競馬サイトでレース結果を確認して、優衣はつい苦笑いした。中京第五レース、ナギノシーグラス、三着。
「……惜しい結果、多すぎじゃない?」
「おるおる、そういう勝ちきれへんやつ」
優衣が愚痴るのを夕食の席で聞いた孝道は、そう言って笑った。