第4話 矢車賞②
関西は朝から雨予報、昼過ぎから降りはじめた。京都競馬場の馬場状態は稍重、梅雨時期だった新馬戦を思い出すと、わずかに期待が高まる。
その週は仕事疲れがひどく、天気が悪いなか、大阪の家から二時間かかる淀まで行って帰ってくる元気はなかったから、配信サイトでレース中継を観戦することに決めていた。
配信サイトを開いたスマホを横にして、机の上で箱ティッシュにたてかけ、発走を待つ。そうして準備を整え、家事をあれこれやっているうちに発走時刻はやってきた。レース中継のページが表示された画面に、ゲートインの様子が映し出されると、卓也はスマホの前に座り、腕組みした。
ナギノシーグラスは好スタートを決め、前から二番目の位置につけた。
今日も、ナギノシーグラスは鞍上に逆らう様子を見せない。スタートをすっと出て積極的な位置を確保しながらも、手綱に従い、一定のリズムで淡々と駆ける。
ほんとうに、走る姿を見るたび従順な馬だという印象を受けるし、新聞や競馬サイトでは、レース前後の関係者コメントに、素直、動じない、といった言葉が並ぶ。
この馬のここまでの戦績をふりかえると、前から三番手前後のポジションを守り、そのままゴールへ向かうパターンが多く、典型的な先行馬といえた。動じないという評価のとおり、レース中でも後方の馬の接近にひるまず、人間の言うことを聞いていられるタイプだろう。
まず、いつもどおりの落ち着いた走りに持ちこめた様子に、卓也はほっと息を吐いた。ナギノシーグラスに限らず、こうした淡々とした先行馬が、卓也は大好きだった。
馬群はややばらついていて、縦長とまではいかないが、逃げる一番を筆頭に先行集団、中団、そして少し離れたところを二頭が並んで走る隊列になっている。雨のそぼ降る灰色の空の下、土のはねる地面は柔らかそうで、ペースはそれほど速くない。
現在三番人気の六番ナギノシーグラスは相変わらず二番手をキープしている。七番の馬が、つつくようにぴったり後ろについたが、ナギノシーグラスのペースはゆるがない。
その七番のすぐ後ろにいるのが、二番人気の五番、青鹿毛のウンディーネだった。
ウンディーネは、ナギノシーグラスと違って新馬戦を快勝し、デビュー当時の評価も高かった馬だ。春のあいだは桜花賞をめざし、一六〇〇メートル前後のレースで使われていたが、なかなか五着前後より上に行けず、桜花賞には出走もできなかった。
だが三週間前、忘れな草賞で初めて二〇〇〇メートルのレースに出走して二着に入った。ナギノシーグラスと同じく、使われていた距離が合わなかったということだろうか。
そして、もう一頭の上位人気馬、一番人気の二番、鹿毛のレディガーネットは後方から勝負しようとしている。体質が弱かったという理由でデビューが三歳にずれこんだ馬で、レース経験は上位三頭の中で最も少ない。
一八〇〇メートルの新馬戦は楽勝していたが、その後の二戦は惜敗続きで、結局、オークス前哨戦の重賞のほうには間に合わず、こちらに出てきたらしい。
隊列は大きく動かないまま、馬たちは一コーナー、二コーナーを回り、向こう正面にさしかかる。
ナギノシーグラスを真後ろでマークしていた七番の馬が、ナギノシーグラスと逃げ馬を一気に追い抜き、先頭に立った。その鞍上は手綱を強く引く動作を見せていて、馬を制御しきれていない様子がうかがわれた。
七番に抜かれ、二番手になった馬が少しペースを上げ、つられる様子を見せる。ナギノシーグラスは落ち着いたものでマイペースを保ち、先頭二頭とナギノシーグラスの間にはわずかに距離ができた。
そんな中、七番に代わってウンディーネがじわりと前に出て、ナギノシーグラスの真後ろにぴったりつけた。不気味な動きだった。
それからさほど間を置かず、先行集団が向こう正面の半ばを過ぎたころ、最後方から三番目くらいに控えていたレディガーネットが動いた。
まだ大半の馬がゆったりとしたペースを守り、体力を温存しながら駆けているなかで、ただ一頭、馬群の外側を前へ上がっていく。騎手も馬首を押し、馬を促す動きを見せていて、このまくりが馬の暴走ではないらしいことがわかる。
レディガーネットは三コーナー手前で坂を上がりながらナギノシーグラスを抜き、ウンディーネを抜き、先頭の二頭も抜いてハナを奪い、その勢いのまま後続をひき離しにかかった。
先行勢もレディガーネットに続き、坂の下りにさしかかりながら、次々とラストスパートをかけはじめた。
最初に逃げていた馬と七番の馬は早々にガス欠を起こした。下り坂の勢いを利用しながら四コーナーを曲がり、レディガーネットを追って直線に入るナギノシーグラスとウンディーネについていけず、あっさりと中団馬群に呑みこまれていく。
「いいぞ……!」
卓也は拳をにぎりしめた。最初から最後まで先行集団に食らいつき、落ち着きを保ったまま勝負どころへ入る。これこそ、ナギノシーグラスだ。
だが、ウンディーネと並んで直線に入ったあたりから、ナギノシーグラスの様子がおかしくなりはじめた。
伸びない。首を押されても、鞭が入っても、いつもの手ごたえがなく、先へ進むウンディーネに置いていかれだしている。
迫りくる中団、後方集団を目にして、卓也はうめいた。ナギノシーグラスは首を前に伸ばし、必死に走っているように見えるが、これはもう無理だ。
そこからたいした時間もかけず、ウンディーネはレディガーネットに追いつき、ナギノシーグラスは力尽きたように後続に呑みこまれた。
卓也はもう、先頭のどちらが一着になるか、どの馬が三着に届くか、見ていなかった。
馬群の後ろの方まで下がっていきながらも、ナギノシーグラスは懸命に駆けつづけ、完走した。八着だった。
「疲れが残っていたのか、最後はバテてしまって伸びなかった」
ナギノシーグラスに騎乗していた藤木騎手のレース後コメントだった。卓也はやっぱりな、と一人うなずいた。
藤木騎手は、出走するレースの距離が二二〇〇メートルにまで伸びてきたあたりから、前回勝利した未勝利戦と今日まで連続五戦、ナギノシーグラスとコンビを組んでいる。
卓也としては、これからもこのコンビで走るナギノシーグラスを見たかったが、藤木騎手は今年、別の三歳牝馬で桜花賞に出ていたし、ナギノシーグラスのほうが騎手を選べる立場ではなさそうだった。
夕方にまたも電話をかけてきた父は、さんざん残念がっていた。
「直線に入るあたりの手ごたえはなー! 行くと思ったんだがなあ」
「ジョッキーもバテたって言ってるし、弱くて負けたんじゃなさそうだから、そんながっかりするなよ」
ここは休ませてやろうぜ、と卓也が言うと、父は、そうだなあ、とため息まじりに返してきた。
「でも、ナギノポセイドンを菊花賞から応援してたからか、どうしてもいけちゃうかも、って思ってしまったんだよな……」
「そういえば、ナギノポセイドンも菊花賞が初めての重賞出走だったっけ。兵庫特別勝ちからの挑戦で」
そうそう、と父が電話口で熱っぽく語る。
「それで三着だからたいしたもんだ。あいつも、まず勝ち上がりまでに時間かかって、菊花賞までに十戦以上走ってたなあ」
「ちょっと似てるのかな、ナギノシーグラス」
「うん。また親父のことも調べてみてくれよ。おもしろいぞ」
そうするよ、と答えて、卓也はその日の通話を切りあげた。
案の定、数日後に卓也が再び競馬サイトを確認すると、ナギノシーグラスの休養放牧が発表されていた。
これで数ヶ月、ナギノシーグラスをレースで見ることはない。
「戻ってくるのは、夏になるか、秋になるか……」
卓也はベッドで横になり、ナギノシーグラスの競争成績をスマホでじっと眺めた。
なんだかずっと、この馬が走っているところを見ていたような気がする。二歳の夏頃にも一度、三ヶ月ほど休養期間をもうけていたようだから、走りっぱなしだったというわけではない。
それでも半年で八戦、ナギノシーグラスが歩んだローテーションは、かなりタフなものだったといえる。
毎月一度はこの馬の出走を確認して、実際のレースを観られなくても、あとから結果を知っては惜しい惜しいと盛り上がっていたこの十ヶ月は、それだけでもけっこう楽しかった。
「お疲れさん。またな」
そう呟いて、卓也はスマホを置いた。
競馬をやるようになって数年、一頭の馬を、未勝利クラスからこんなに熱心に追いかけたのは初めてだった。勝ち上がってくれただけで、ひとまず満足してしまったような心持ちだった。
五月中旬、ナギノシーグラスのいないオークスでは、矢車賞の賞金で出走権をもぎとったウンディーネが、十番人気ながら四着に食いこむ走りを見せた。
勝利したのは、卓也も父もまったく注目していなかった馬だった。
過去の卓也登場回
第1話 新馬戦