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第4話 矢車賞①

「……よしよし! 勝ち上がってる」

 日曜の夕方、競馬サイトでその日のレース結果を確認して、卓也は小さく呟いた。

 ナギノシーグラスはなかなか勝利を挙げられないまま、デビューからすでに十戦を経験していた。

 最低人気で三着に食いこんだ新馬戦からまもなく十カ月、卓也は、ナギノシーグラスという馬をそれとなく追いかけていた。このあいだに、何度かは京都や阪神に出てきた。卓也が現地で応援したことも二回ほどあった。

 今日も、阪神競馬場の未勝利戦に出走することは確認していた。今日は重賞のアーリントンカップもあったのに、別に用事があって一日家にもいられず、競馬中継はテレビで見ることもできなかった。

 ずっと応援していたナギノシーグラスが、ついに未勝利馬の身分を脱出したことを確認したいま、嬉しくもあり、その瞬間を見損ねたことが残念でもある。

 新馬戦で卓也が予想したとおり、距離延長で少しずつ結果も伸ばしてきてきたナギノシーグラスだが、とにかく二着や三着が多かった。二月の末に阪神二四〇〇メートル戦に出てきたときなど、阪急杯を目当てに現地入りしていた卓也は、勝つならここだろう! と珍しく思いきって、ナギノシーグラスの単勝を一万円買っていたのだ。

 それで二着になったあの日は、まだ正午過ぎだというのに膝から崩れ落ちそうになった。もう、一度に千円以上は賭けないぞ、と心に誓った。

 ずっとやきもきさせられていたが、この十か月で得意分野もはっきりしたし、まずは一勝できたわけだから、この馬のこの先をもう少し見ていけるのだ、そう思うと嬉しかった。

 そのとき、手の中のスマホが震動し、通話画面が起動した。父だ。

 すぐに出てやると、父は、もしもーし、とそれは嬉しそうな声を出した。

「よう、親父、久しぶり。あれだろ? ナギノシーグラス」

 ナギノシーグラスの新馬戦以来、数か月に一度、競馬にかこつけて実家と連絡を取りあうようになっている。GⅠでもない日に、向こうのほうから連絡してきたのは珍しいが。

「そう、ナギノシーグラス。おまえ、今日は買ってないのか」

「用事あったんだよ。おれが競馬やらない日に限って注目してる馬が勝つんだから、愛想つかしそうになるよ」

「まあそう言うなって、ポセイドンの産駒ももう年に十頭生まれるかどうかで、現三歳で勝ち上がってるの、シーグラスくらいだからさ……」

 そこで、父は少し沈黙した。

 ナギノポセイドンはもう何年も種牡馬をやっていながら、目立つ活躍馬もおらず、年々産駒数が減り続けている。心から応援していた馬の血脈が途絶えるかもしれない、いつまでその子孫を応援できるかわからない、その寂しさは、競馬に手をだしてまだ数年の卓也にも伝わってきた。

 少しの間を置いて、父は再び話しはじめた。

「あいつ、ナギノシーグラス……オークスは出られないかなあ」

 気持ちはわかるけど、と思いながら、卓也はいやいやと苦笑した。

「確かに距離は合いそうだけど、さすがに間に合わないだろ。まず賞金が足りないよ」

 そうだよなあと、電話の向こうで父は残念そうにため息をついた。

 日本中央競馬には、牝馬三冠と呼ばれる三歳牝馬限定のGⅠレースが存在する。桜花賞、優駿牝馬、秋華賞の三つがそうで、来月、このうち優駿牝馬――通称オークスが開催される。

 オークスはその二冠目、東京競馬場、芝二四〇〇メートル。牝馬三冠の中でも、最も距離が長いレースだ。

 先週、すでに最初の一冠である阪神一六〇〇メートル戦、桜花賞が終わった。ナギノシーグラスが未勝利戦で苦しんでいるあいだ、着々と勝ち上がっていった同世代の牝馬たちは、すでに実績を重ねてきているのだ。

 三歳のこの時期に一勝したばかりの馬が、その中でオークスを夢見るには、スタートラインに立つための収得賞金が現状、少ない。

 オークスの出走可能頭数は十八頭。桜花賞五着以内の馬、オークス前哨戦のフローラステークス二着以内の馬、そしてスイートピーステークス勝ち馬にはオークスの優先出走権が与えられ、残る枠は収得賞金順で決まる。

 現時点で、未勝利戦を一勝しているナギノシーグラスの収得賞金額は、四百万円。今年、オークスに出走登録している馬はすでに二十頭いた。そのうち三頭がナギノシーグラスと同じ一勝馬で、今の条件のまま出走を狙うなら、抽選を突破しなくてはならない。

 ナギノシーグラスが確実に出走権を得るためには、オークスまでにもう一戦勝利し、収得賞金額を九百万円以上にする必要がある。

 それは父もおおまかに把握しているようで、電話の向こうで深いため息が聞こえた。

「さすがに、一勝馬が食いこむのは厳しいなあ」

「オークスまでにあと一ヶ月しかないのに、そのあいだにもう一勝できたとして、今度は体力的にどうなんだ。ナギノシーグラス、去年の十一月くらいから使い詰めなんだから」

「そうだよなあ……」

 父はしょんぼり同意したから、卓也はこう言った。

「まだ秋華賞が残ってるじゃん。そりゃ、二〇〇〇よりは二四〇〇のほうが合ってそうだとは思うけど」

 秋に期待だな。そうだな。

 その日は、そんなやりとりをして通話を切った。

 だが八日後、ナギノシーグラスのページに「次走矢車賞」の文字を見つけて、卓也は目を丸くすることになった。

「……まさか」

 オークスを狙ってみるつもりなのか。

 矢車賞は、収得賞金が五百万円以下の三歳牝馬のみが出られるレースだ。このレースの勝ち馬が、オークスに臨むこともある。

 とにかく、去年の十一月から七戦走り続け、ナギノシーグラスは一勝を果たした。ここから秋の最後の一冠、秋華賞を目標にするなら、いったん休ませても間に合うはずだ。

 それでもここに出てきたということは、オークスにわずかな望みを見ている可能性が高いと卓也は思う。

 矢車賞、京都競馬場、芝二二〇〇メートル。二二〇〇メートル以上のレースでなら、今のところ、ナギノシーグラスは三着より下になったことがない。舞台適性は高いだろう。

 競馬サイトの馬柱を、卓也はほんの少し不安な気持ちで眺めたが、未勝利戦から二週間、矢車賞は、ナギノシーグラスも含めた十二頭立てで行われることが確定した。

 枠順も決まり、レース当日はやってきた。

 卓也の胸には期待よりも心配のほうが渦巻いてはいたが、それでも、プロがいけると判断し、あの馬の可能性に賭けているのならば、一人のファンとしてただ応援するだけだった。

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