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第3話 3歳未勝利戦②

 そろいの馬券を買って、いよいよコースへ。善之がまずはとすすめた単勝複勝百円ずつの馬券を眺めて、そこに印字された「がんばれ!」の文字に、奈津はいたく感心していた。

「これ、ずるいわ。勝ちそうになくても、好きな馬の買いたくならへん?」

「なる、なる。絶対当たらないって思っても、わざわざがんばれ馬券買って、何枚か記念に置いてる」

 奈津はおかしそうに笑った。善之も笑いかえしながら、頭の中で、さて奈津の前でどこまで本気で楽しもうか、適切なはしゃぎ加減を見きわめようとしていた

 重賞レースの日のコース沿いは、席取りの新聞紙やレジャーシートが多いが、今日のこの時間はまだいくらかスペースがあった。最初はできるだけ間近で見るべきだろうと思って、善之は奈津をつれて、席取りに侵略されていない場所を探した。ゴール近く、ターフビジョンの左端のあたりに、わずかに場所が残っていた。

 周辺には子ども連れもちらほら見られる。あたりを眺めながら、奈津はへえ、と声を上げた。

「眺めが良くて気持ちいい。思ったよりきれいやな」

「そう。おれも行く前は小汚いイメージあったけど、違うやろ。若者とか家族連れも来やすいようになってるみたいや」

 奈津に合わせてのんびり景色を楽しむうち、入場曲が流れ、左手のほうから馬たちが入ってきた。

「わ、来た来た」

「芝コース、こっち側やからな、けっこう近く走るぞ。見とけよ」

 本馬場入場と返し馬は、善之がとくに好きな瞬間だった。

 パドックで悠々と歩く馬の姿は好きだ。レースで先頭を争う姿も好きだ。

 だが、馬場入りから返し馬のときの競走馬たちの姿はまた違う。決められたコースの中を駆けるのはレースと変わりないが、それよりも少しだけ、ほんの少しだけ自由だ。観客の遠くを通り過ぎたり近くまでやってきたり、すぐに駆けだしたりしばらくてくてく歩いていたり、落ち着きない動きを見せる馬もいれば、どこかのんびりしている馬もいる。

 競走馬という生き物たちの、ちょっとした個性を垣間見られる気がするのだ。

 善之はしばらく、隣の奈津のことも忘れて、待機所へと駆けていく馬たちの姿に魅入っていた。時間をかけて目の前の景色を堪能しきって、やっと、こちらをじっと見ている奈津の視線に気づいた。

「……なに?」

「いやー。真剣な顔で見てるなって思って。ほんま、好きなんやな」

 やべ、と思ったが、奈津はとくに悪く思ったふうもなく、からかうような、楽しそうな顔で善之を見上げている。きまり悪くなって、善之はコースのほうをつつくように指さした。

「なんやねん。馬見とけ、馬」

「もう馬はみんなあっち行ったわ」

 奈津が笑いながら言ったとおり、出走馬たちはもう右手側のずっと向こう、スタート付近に集結しはじめていた。

 せっかく応援馬券を買ったのに、ナギノシーグラスという馬をちゃんと見ておくのを忘れていた。

 改めてレーシングプログラムを開き、馬番、枠番とその色を確認した善之は、奈津に話しかけた。

「奈津、自分が買った馬、わかるか」

「わからん」

「やんな。ナギノシーグラスは五枠やから、騎手の帽子は黄色や。でも、同じ枠の十一番も同じ帽子、似たような鹿毛の馬で、あと見分けられるのは騎手の着てる勝負服やな」

「ああ、ほんまや。馬によって違うな」

「馬やなくて、勝負服は馬主によって違うねん。どの馬主の馬かを示すユニフォームみたいなもんや。ナギノの馬は、ほら、青と黒の二色のやつ。これで、遠くからでも一目でどれがナギノシーグラスかわかるな」

 奈津は、それは理解した様子で、頷いた。

「うん、わかる。これで、目で追えるな!」

 それから、遠目に、馬たちの様子やレーシングプログラムの内容を解説しているうちに、いよいよスターターが登場した。

 スターターの旗がかかげられ、場内にファンファーレが流れる。ゲートインは全馬問題なく、スムーズに進行した。

 そして、すべての準備が整う。「スタートしました!」実況の声がいきいきと場内に響き、ゲートが一斉に開いた。

 一頭、スタートで躓いた馬がいた。奈津がさっき、名前がかわいいと言っていた八番、シュークリームだった。

 その他には大きく出遅れた馬はいない。右手のほうから、馬たちが押し寄せるように同じ方向へ駆けてくるのを、奈津は身を乗り出すようにして見ていた。

「うわあ、ド迫力! ……あ、ナギノシーグラス、前に出てくる」

 スタートから鞍上の手は動いて、ナギノシーグラスを前へ前へとうながしている。かといって一気に先頭に立つわけではなく、前目で落ち着けるポジションを探しながら、馬群の内側に進路をとろうとしているのだ。

 地響きをたてて目の前を駆けぬける馬たちを見送り、善之は説明した。

「内側の柵沿いを通ったほうが、より短い距離を通ったことになる。何頭か馬が並んで、ぐるっと円を描いて走ったら、外側の馬のほうが大きな円を回ったことになるの、わかるやろ?」

 両手で円を描くしぐさをしながらそう言うと、奈津はうなずき、眉をひそめた。

「じゃあ、内側の柵沿いの、一番や二番でスタートする馬が有利やんな」

「三〇〇〇メートルとか、長い距離のレースは特にな」

 最初のコーナーへなだれこむ十七頭の姿をターフビジョンで確認すると、ナギノシーグラスは前から四番手のあたりにいた。内枠からスムーズに先行した一番の馬の外にいて、二頭並んで走る位置に落ち着いている。

「外側を回ってる、やんな……?」

「まあそうやけど、内に一頭しかいないし、大丈夫やろ。二二〇〇メートルなら、外目でもチャンスあるよ」

「ふうん……」

 うかない表情で、奈津はレースを目で追った。あるていど隊列も落ち着き、馬たちは向こう正面に入るところだった。四番の馬が先頭で一頭、他馬から三馬身ほど距離を保った状態で逃げている。二番手の馬は、馬名が爽やかだと奈津が評したサマースカイだった。そのすぐ後ろに、一番とナギノシーグラスが並んで駆ける。

 もう一頭、奈津が気にしていたシュークリームは、スタートで躓いた影響が大きく、離れた最後方を必死に走っている。

 団子のようになっている馬群もなく、全体的にばらけ気味で、縦長の隊列が形成されていた。そのまま馬たちが駆ける様子を、しばらく黙って眺めていた奈津が首をかしげた。

「これ、後ろのほうの馬、追いつける?」

 善之も首をひねり、答えた。

「うーん、まだわからん。だいたい最後のカド曲がって、最後の直線で勝負かけることが多いけど……ほら、来た」

 先頭の馬が三コーナーにさしかかったあたりで、後方組が動きだしていた。近くの観客が、まだ早いぞとかなんとか騒ぎだした。

 後ろのほうから急速に上がってきたのは、大外枠からスタートしていた十六番、十七番の二頭で、競うように馬群の外側を大きく回り、いち早くスパートをかけはじめている。

「ああやって、ちょっと早めに勝負に出ることもあるから。ただ、スタミナがもつかなあ……」

 最初に脱落したのは逃げていた四番だった。三コーナー、四コーナーを回りきるところまでは先頭を守っていたが、直線に入ったところで、せまりくる馬群の中へ沈んでいった。

 外側を回って先行組に襲いかかる十六番、十七番と、逃げ馬が沈んだあと先頭で粘ろうとするサマースカイ、その真後ろで仕掛けどころを探っていた一番とナギノシーグラス、これら五頭がほぼ同時に直線になだれこむ。

 ごちゃつく先頭争いから抜け出したのは、サマースカイとナギノシーグラスの二頭だった。

「来た! ナギノ来た、奈津、来たぞ」

「うん、うん」

 二人して身を乗り出し、ゴール側めがけて最後の直線を駆けてくる馬たちを出迎える。周囲の観客の声援にも熱が入りだした。何人かが、馬や騎手の名前を口々に叫ぶ。

 ナギノシーグラスは、ずるずる下がっていく一番と、追いすがる十六番と十七番を尻目に調子よく脚を伸ばし、サマースカイとの差を詰めていき、ついにぴたりと並んだ。

 善之の横で、奈津が「がんばれ、がんばれ!」と声を上げる。善之も馬たちを凝視しながら、柵に乗せた拳に力をこめ、ただ頷いた。

 そのままの勢いで先頭に立つかと思いきや、サマースカイが予想以上の粘りを見せ、一騎打ちに持ちこんでいる。先頭で追い比べる二頭と、三番手以降の馬たちとの間が開いていく。

 ナギノシーグラスとサマースカイの鞍上が懸命に馬首を押す。ほんの少し前に出ていたのは、内のサマースカイの鼻先だ。

 頭ひとつぶんサマースカイが前に出ているのがわかって、善之と奈津はああ、あかん、と口々にうめいた。一番人気のナギノシーグラスに賭けている人間は多いはずで、あちこちで悲鳴のような声が上がっている。

 残り二〇〇メートルをきった。善之も奈津も諦めかけていたが、ナギノシーグラスは、上り坂にさしかかりながら、再び盛りかえしはじめていた。

 善之と奈津は、無意識のうちに歓声を上げた。

 二頭がまた、頭を並べる。そして、ついに、ナギノシーグラスの鼻先が前に出た。サマースカイもその鞍上の騎手も、それぞれ懸命に前へ前へ脚を伸ばし、鞭をふるったが、今度こそ、ナギノシーグラスは先頭を譲らなかった。

 善之と奈津の前を通りすぎながら、最後のひと押しとばかりに、ナギノシーグラスがさらにぐんと伸びる。

 そのままサマースカイにはおよそ一馬身、三番手にはさらに差をつけて、先頭でゴール板に飛びこんだ。

 観客が沸いた。ナギノシーグラスという馬が、生まれて初めて勝利を手にした瞬間だった。


「ええレースやったわ。あの馬、差しかえすなんてやるやん……!」

 再び屋内に入り、馬券売り場を歩きながら熱っぽく語りかけていた善之は、はた、と言葉を止め、奈津の表情をうかがった。奈津はにこにこして話を聞いている。善之は己を落ち着け、尋ねてみた。

「どうやった? 初めてのレース」

「うん、おもしろかった。動物でもああやって、抜いたり、抜かれたり、あるんやなあ」

「ものすごく珍しいわけでもないけど、いつもあんな感じってわけでもないで。あそこで一回抜かれたら、そのまま下がっていくことも多い。おれ、ああいう差されて差しかえすレース、めっちゃ好きや! もう一回負けん気出すなんて、たいした根性やったわ、ナギノシーグラス」

 ついつい早口に語ってしまってから、奈津が歩きながらこちらの顔をしげしげと眺めているのに気づいて、善之はまた口ごもった。

「……ごめん、ぺらぺらと」

「ええのええの」

 笑ってから、奈津はちょっと黙った。それから、再び口を開き、こんなことを言った。

「あのな、競馬に興味ある、ってちょっと噓やったの」

「あ……やっぱり?」

 それは納得がいった。しかし、それでもこうしてついてきて、思いのほか熱心に話を聞いてくれているわけがわからない。そう思っていると、奈津は言葉を続けた。

「ほんまは今日、徳ちゃんが楽しそうなとこ、見に来たんや」

 なんやそれ? 善之が首をかしげると、奈津は笑った。

「徳ちゃん、わたしやみんなの好きそうなとこ、楽しめそうなとこ、選んでくれるのは上手や。嬉しいけど、徳ちゃんが好きなとこへは一緒に行ったことないなって、ずっと思ってたから」

 ぽかんとした善之に、あ、でも、と言って、奈津はナギノシーグラスの馬券を取りだしてみせた。

「来てみたら、思ったより面白かった! ほら、初めて馬券も当たったし。わたしもちゃんと楽しんでるよ。だから、今日は最後まで付き合わせて。あと、徳ちゃんがわたしと一緒に行きたいって思ってくれたときに、また連れてって」

「それは、ええけど……」

 意味もなく動揺しながら、善之がそう返すと、奈津はぱっと笑みを浮かべた。

「じゃあ、次行こう、次」

「行こうって、レース? いや、レースでもええんやけど、昼飯どっかで挟まないと……」

「どっちでもいい! 徳ちゃんの行きたいほうで」

 この未勝利戦とメインレースさえちゃんと見られるなら、あとは奈津の意見を聞きながら動くつもりでいた善之は、そう言われて困ってしまった。

「いま昼飯行っといたらメインまでゆっくり動けるけど、でも、次のレースは見られへんけど……奈津の希望は」

「いや、わたし、どんな馬が出てるってこともわからへんし調べてへんから、希望も何もないわ。ついていくしかないわ」

 投げやりにすら聞こえる言い方で、奈津は善之の選択をうながした。

「じゃあ……昼飯で」

「了解! 競馬場では何食べるのが好き? わたし、わからへんで。徳ちゃんが行くのについていくだけやで」

 そう言いながら、奈津ははしゃいだ様子で片手をのばし、善之の背中を押す。わかった、わかった、とあわてながら、善之はレストランが並ぶほうへ足を向けた。

 奈津のいつにない強引さが、不快ではなかった。

 自分が計画した時間の過ごし方に相手が満足して、自分も満足して、それで充分だったのに。奈津はそれで満足しようとしなかった。善之が頼んだわけでもないのに、競馬に興味があったわけでもないだろうに、善之の好きなものを知ろうと、歩み寄ってくれたのだ。

 そのことが単純に嬉しかった。いつもは相手に合わせて楽しませる側に回るばかりだから、それはどこか新鮮な喜びだった。心がはずんだ。

 いいかげん、奈津に背中を押されているのが、不快ではないが、なんとなくいごこち悪くなってきた。触れられているところがむずむずする。こんな感覚をいだくのは、中学生のとき以来だ。

 そういえばと、とりつくろうような調子で、善之は口を開いた。

「奈津、シーグラスって何のことやった?」

 奈津は善之の背中から手をはなし、説明した。

「海岸で拾えるガラス片のことや。海に捨てられたビンやガラス製品がな、潮の流れに乗ってるうちに、角がとれたり表面が曇ったりして、ちょっときれいな、いろんな色のついた半透明な丸っこい石みたいになるの。アクセサリーとか飾りの材料になるから、集めてる人もいるんよ。それを、去年の夏に尾野ちゃんと拾いに行ってん」

 善之の表情をのぞきこんで、奈津はあー、と不満そうな声をあげた。

「何がおもしろいねんって顔してるな」

「いやいや……」

 ごまかしそこねた善之に顔をしかめてみせてから、奈津はくすくす笑った。

「徳ちゃん、今日、いつもより正直や」

「ごめんって」

「ええの。合わせてくれるところはいつも見てるから、今日はその調子でいて」

 そう言って、奈津は前を向いた。そうは言われても、善之は内心、にわかに焦りはじめていた。今日のふるまい方に慎重にならねばという思いが、急激に強くなってきた。

 レース前まで、心のどこかで、ある程度までは自分を律して、それでも気に入らなければ別れるまで、という思いがどこかにあった。自分も奈津も、まだ気軽な付き合いのできる立場なのだから。

 それなのに現在、善之の頭はフル回転で、今日一日の過ごし方について計画を見直しはじめていた。うかつな言動をしてこのひとに見捨てられたくない、という思いがどんどん強くなっていく。

「……ところで徳ちゃん、今日のメインだっけ、何買うか決めてるの?」

「いや、ざっくりしか決めてない。細かいデータは、昼飯のときにでも、奈津に教えながら見られるかなと思って。あとパドックも見ないと」

「へえ。メインはやっぱり、細かく見るんや。しっかり馬券当てないとな」

 そうやな、とうなずきかえしながら、善之は、これは集中できそうにない、と思いはじめていた。今日ばかりは、それどころじゃない。

 レストラン街に入ったとき、善之はふと思いついて、こう言った。

「今日はおれが好きなように動くけどな。今度は、シーグラス拾いにも連れてってもらおうかな」

 奈津はにっこりして、嬉しそうに頷いた。

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