第24話 ラストラン③
パドックをかなり早めに切り上げた卓也は、もう人でごった返しているスタンド前までやってきて、なんとか肉眼でレースを観られる位置を確保していた。
さっき、中学生くらいの女の子と父親らしき男の人がパドックを見ているのが卓也の目に入った。女の子のほうは無理に連れてこられたふうでもなく、人混みの中でも心から楽しそうに、わくわくした表情で父親にあれこれ話しかけていた。
なんとなく、初めて父と一緒に東京競馬場に行って、ナギノポセイドンを見たジャパンカップの日の自分を思い出すようで、印象に残った。
(あの子にとっても、今日のレースはずっと記憶に残るものになるのかな……)
そんなことを考えながら観戦位置を決め、立ち止まったところで、右から腕をつつかれた。そちらに顔を向けると、朝とは反対に、藤野優衣のほうが自分を見つけて、人だかりをぬってすぐ近くまで来ていた。
「あ、フユイさん。よくこっちを見つけられましたね」
「いつもよりパドック時間は短めでこっちに移動しまして。ちょっとでも見えそうなとこを……って思って歩いてたら、タクさんいました」
そう話してから、卓也の隣を定位置に決めたらしい優衣は、少しばつの悪そうな顔をして、また口を開いた。
「一緒に観戦しててもいいですか。こないだみたいに大はしゃぎしても、リアクションしてくれる相手いないんで……勝っても負けてもラストランやし、一人で騒いでしまいそうで……」
遠慮がちに小さくなる声にちょっと笑って、卓也は快諾した。
「いいですよ。一緒にはしゃぎましょう」
「ありがとうございます」
優衣が心底ほっとした顔で前を向く。
そして、本場馬入場曲が鳴り響き、アナウンサーの声が流れだした。
『――第××回エリザベス女王杯、二二〇〇メートルに挑む十七頭をご紹介します!』
左手奥のほうから、すでに誘導馬が顔を出している。ざわめきが大きくなり、柵沿いに張りついている人々が身を乗り出し、あるいはカメラを構える。誘導馬に続いて、次々と出走馬が馬場入りを開始する。
「今日は撮らないの?」
三番、四番ゼッケンの馬が続けざまに駆けていって、遠くにナギノシーグラスと水野騎手らしき姿が見えたところで、腕組みしたままコースを見ている優衣に、卓也は話しかけた。
「いいんです」
馬たちが入場してくるほうを見つめたまま、優衣が答える。
「一番撮りたいとこ、前走で撮れたんで。これが最後やから、今日は自分の目で」
『――昨年二着の雪辱狙うスタミナ自慢の六歳牝馬、悲願のGⅠ制覇なるか、ナギノシーグラスと水野騎手です』
会場に流れる出走馬紹介、ついにその名前が聞こえて、卓也と優衣は同時にびくりとした。
最後の最後でも、ナギノシーグラスは今までと変わらず、観客から遠いところを通って、淡々とスタンド前を駆け去ってしまった。
一番人気のハニーブロンドは四枠八番、まもなくナギノシーグラスのあとに続いて駆けてくる。周囲の観衆の多くが、もうナギノシーグラスのことなど気にも留めず馬たちが入ってくるほうへ目を向けているなかで、卓也と優衣は顔を見合わせ、小さく笑った。
「ナギノシーグラス、最後までそっけない馬ですねえ」
「こっちはこれでお別れだからって、ちょっと身構えて待ってたんですけど。一瞬で行っちゃって……」
卓也は周りが見ているのと逆方向の右側へちょっと首を伸ばし、出走馬が向かっていく先を見つめた。
「ああいうところがいいんだよなあ。あの平常心、あの動じなさ……」
(また……)
卓也が言葉の途中から自分の思考に入りかけたとき、
「……また、ナギノシーグラスみたいな馬、見つけたいですね」
優衣がこっちの心をのぞいたようなタイミングでそう言って、卓也は目を見開いた。卓也が目をしばたたかせるのに気づかず、優衣がひとり言のように続ける。
「またこんなふうに、未勝利とか、条件とか、そんなときから注目してた馬が、ちょっとずつ大舞台に上がっていくの、追いかけたいです。この四年、ナギノシーグラスのおかげで、めっちゃ楽しかった」
「……おれもです。四年は長かったよね」
「ですよね。わたしなんか大学一年から、社会人になってしもた」
優衣の言うとおり、本当に、楽しかった。ナギノシーグラスがきっかけで、離れて暮らす家族に対して少しだけ素直になれた。次走報を待ったり、ナギノシーグラスが勝ちそうな要素を必死に探したり、仕事がつらい時期でも、いつでも少し先に楽しみがあることは気持ちを明るくしてくれた。
数年待たなくてはならないのがつらいところだが、きっと、今度はナギノシーグラスの子どもたちが楽しませてくれることだろう。
ぎりぎりまでパドックで粘ってしまった善之と奈津は、ゴール前付近の人混みの中で、かろうじて目に入るターフビジョンで、待機所に集結する馬たちの様子を眺めていた。
ナギノシーグラスが負けてもかまわない、これが二人の今の気持ちだった。前走で強豪牡馬相手に勝ったからといって、年齢による衰えや三歳二冠馬との実力差を覆せるものではないと思う。
それでも、勝てそうもないレースにも果敢に挑むからこそ、ナギノシーグラスが、その陣営が好きなのだ。
楢崎夫妻は自宅のテレビで、ゴール前で周回しながら開戦のときを待つ馬たちを見ていた。楢崎があんなに応援していたアカシをさんざんうち負かしたナギノシーグラスもついに引退か、と思うと、いけ好かないのに目がいってしまう。
馬券の相性も悪く、どちらかといえばにくたらしい存在の馬だったが、それだけに意識してしまう馬ではあったから、ラストランと聞くと最後に馬券を買ってやろうという気になった。三連単、ハニーブロンドとナギノシーグラス二頭軸から数頭に流し、自信たっぷりにテレビの前でふんぞり返っている楢崎を、頼子が微笑ましそうに見ていた。
埋まらない力の差というものはあると、高山弥生は知っている。高校生のときまであれだけ打ち込んでいたなぎなたから完全に足を洗い、スポーツとは無縁の大学生になった弥生は、リビングのテレビでぼんやりとナギノシーグラスの引退レースを眺めていた。
自分だってあのとき結局、同期一の実力の親友には最後の部内予選で、全国クラスの怪物選手にはインハイ予選の団体で、それぞれたった一度勝利して、本番のインハイではそれを再現することがかなわなかった。たった一度きりの下克上を最後に、引退することになった。
現実なんてそんなものだ。ただ、可能性がゼロではないだけで。
このエリザベス女王杯が、ナギノシーグラスという馬の、最後の下克上になりうるか。べつにそうならなくてもいいけれど、ただ気にはなっていて、弥生はとにかく最後の戦いを見届けようと思っていた。
テレビの向こうでファンファーレが鳴り響き、観衆が地鳴りのように沸いた。
音をたててゲートが開いた。出遅れた馬もなく、それなりにそろったスタートとなった。
一枠二番から得意のロケットスタートを決めた赤いメンコ、鹿毛の四歳馬リングアスカが今日もハナを切る。
少し離した二番手には一番人気の三歳馬ハニーブロンドが堂々と続く。この馬は秋華賞もそうだった、鞍上の原騎手が自信に満ちてレース開始から前目につけ、横綱競馬で押し切らせたのだ。
ナギノシーグラスはその直後、栗毛の馬体にぴったりつけて内ラチ沿いにひそむ。水野はあきらかにハニーブロンドをマークしている。他にも前につけられる馬はいるはずだが、この時点からハニーブロンドに狙いをさだめる位置にいるのはナギノシーグラスだけだった。
そこから二馬身ほど空けて、スプリングデイズを筆頭に二番手集団が形成されつつあった。真ん中あたりにキクセンレジーナの黒鹿毛の馬体が見える。
末脚に賭けたいセレナータは後方、その直後にテルクシノエがいた。
馬群は少しずつ縦に広がりながら、最初のコーナーに向かう。
向こう正面なかば過ぎまで、馬群は大きく動かないままだった。依然先頭を走るリングアスカの前半一〇〇〇メートル通過時点のタイムが一分二秒五というペース、落ち着いた流れで馬群は縦長、このままでは前残り必至だろう。
ナギノシーグラスは最内でハニーブロンドにぴたりとくっついたまま、坂を駆け上がり、三コーナーにさしかかる。水野騎手の顔は遠く小さく映るばかりでモニター越しでは表情などわからないはずなのに、ゴーグルの向こうの瞳がぎらぎらと目前の栗毛馬を、原騎手を、狩人のようにねめつけているのが見える気がした。
後方集団、最初に動いたのはセレナータだった。
八〇〇メートルを通過したあたり、三コーナーの坂の下りから、セレナータは大外をするすると上がってきた。そのセレナータをマークするテルクシノエもついていく。
先頭で逃げ続けていたリングアスカが残り六〇〇メートルを過ぎ、坂を下りきったあたり、四コーナーを回りきる直前で沈んだ。二番手集団、三番手集団から一気に上がってきた馬たちが、凶暴な軍勢のように横に広がり、いよいよ先頭に立ったハニーブロンドを呑み込もうと動きだす。坂を下りながら横に広がる馬群の真ん中からキクセンレジーナが顔を出し、大外からセレナータが伸びてくる。
そもそも、前にリングアスカしかいなかった三歳女王の進路を現在阻むものはなく、しかも自分より後方にいる馬が一度でも先に行くのを許す様子はなかった。最後の直線、残り四〇〇メートル、ハニーブロンドはまだ持ったまま、なみいる古馬を従えて、堂々と先頭を駆けていく。
水野騎手はもう、ナギノシーグラスを全力で追い出している。人馬一体、三歳二冠馬のぴったり一馬身後に続いて、ひたすら二番手を守っていた。下がっていくリングアスカと入れ替わりに上がってきたもう一頭の六歳馬スプリングデイズが一度は並びかけてきたが、それもすぐに失速して馬群に消えた。
そんな先頭二頭から二番手集団とのあいだは、二馬身ほどあいている。なかでも余力のありそうな様子で追い上げてきているのは、セレナータとキクセンレジーナのGⅠ馬二頭だけ。
残り二〇〇メートルにさしかかったとき、ナギノシーグラスがハニーブロンドに半馬身まで迫った。それを合図にしたかのように、原騎手がハニーブロンドに肩鞭を一発入れた。
瞬間、黄金の馬体が躍動し、異次元の瞬発力で加速した。
ハニーブロンドは、ようやくここまで迫ったナギノシーグラスを、末脚を伸ばしてきていたセレナータを、キクセンレジーナを、並びかけることも許さず無慈悲にちぎり捨てる風となって二馬身、三馬身ぐんぐん離していった。
観客側から大歓声が上がる。
この時点で、十六頭の完敗は確定だった。
セレナータが、キクセンレジーナが死にものぐるいで追い込んでくる。キクセンレジーナのほうの脚色が鈍いが、それでも二頭ともナギノシーグラスとの差をみるみるうちに詰めてくる。
水野騎手が必死に鞭をふるうもセレナータが並ぶ、キクセンレジーナがクビ差まで追いつく、その先でハニーブロンドがゴール板に飛び込む。
ハニーブロンドのGⅠ三勝目に観衆が爆発するように沸くさなか、セレナータがゴール直前でアタマひとつ分、ナギノシーグラスを抜いた。
それでもキクセンレジーナだけはクビ差おさえきっての馬券圏内死守、ナギノシーグラスは三着で入線した。
レースを終えた馬と騎手たちが、モニターに映し出されている。ゼッケン六番の鹿毛馬の背中で、青い勝負服の騎手が目に見えてうなだれていた。愛馬の首に額をつけるように、がっくりと肩を落としていた。
観衆の騒ぎ声のなかで、卓也は笑おうとした。残念だね、と隣の優衣に話しかけて、四年間応援し続けたナギノシーグラスをねぎらう言葉を口にしようとして、言葉にならないうめきのような声がもれたのを自覚した。
異変に気づいた優衣がおろおろしている。まずいなあ、と卓也は思って、額をおさえるようなしぐさに見せかけるつもりで、片手で顔の上半分を覆った。しばらくそうしていた。
にじんだ熱いものがやっと引いて、いくらか掌に吸いこまれたあたりで、卓也は手を離した。
「あ、あの、大丈夫ですか? ティッシュいりますか?」
優衣がそう言って、卓也は噴きだした。ちゃんと笑えた。大丈夫大丈夫、と軽い口調で返して、ちょっと鼻をすすり、眉間を指でおさえた。
「ね、隣で先にやられると自分の涙引っ込んじゃうでしょ」
卓也がそう言うと、優衣は困ったように笑った。
「わたし、今回はあんまりその波来てないんです……自分でも意外やけど」
「そうなの?」
卓也が取り出したティッシュで鼻をおさえながらそう返すと、優衣はうなずいた。
「ナギノシーグラス、負けちゃったんですけど、気持ち的に晴れ晴れしてしまって。思ったより悪くなくてよかった、無事でよかった、のほうが強い感じ」
「そうかあ。晴れ晴れ、はわかるかも。GⅠで三着……二年連続馬券圏内は立派だしね。でも……」
またこみあげかけた感情をいったん飲み込んで、卓也は続けた。
「GⅠ、勝ってほしかったな。こんなに勝ってほしいと思いながら応援した馬、いなかった。もう終わりってことが信じられない……」
優衣は、わかります、と何度もうなずいた。
「でも、わたしは終わりって思ってないです」
自分のティッシュで鼻をかみながらぱちくりした卓也に、優衣は満面の笑顔でこう言った。
「続きは産駒で! ちょっと先やけど、今から楽しみです」
優衣の言葉に、卓也は、父に連れられてナギノポセイドンを見たジャパンカップを思い出した。四年前の六月、阪神競馬場で初めてナギノシーグラスと出会った日に思いをはせた。
「そうだね……」
卓也はポケットに手をつっこみ、「がんばれ!」と印字された、ナギノシーグラスの単複一〇〇〇円ずつの馬券をじっと見つめた。
「楽しみだね。まだまだ、この先も」
優衣が力強くうなずく。卓也もうなずきかえして、鞄からスケジュール手帳を取り出して、その馬券を大切に挟みこんだ。
ナギノシーグラスという馬がいたことを、彼らは忘れない。その血があと数年の月日を漂い、産駒というかたちでターフの上に戻ってくるのを待っている。
波に磨かれ再び地上に運ばれるガラスの欠片を探すように、また、出馬表のどこかに、母としての彼女の馬名を見出すのだ。
『――エリザベス女王杯で三着だったナギノシーグラスが引退、繁殖入り。通算成績三十四戦七勝。重賞勝ち鞍、愛知杯、マーメイドステークス、京都大賞典――』