第24話 ラストラン②
これがナギノシーグラスのラストランであると知って、しのぶはどうしても京都へ行きたい、と両親にねだった。関東の中学生が競馬のためにわざわざ京都へ、そんなことに両親が良い顔をしないのは当たり前だが、懇願に懇願を重ねて、ようやく約束を取りつけたのだ。
ただし二学期の中間試験で全科目七十点以上、一科目たりとも例外はなし、それが条件だった。
そして、しのぶは見事それを果たした。
「そこまで頑張られたらなあ……」
苦笑いの父に連れられて、しのぶはいま、淀の地を踏んでいる。
競馬に興味のない母は、いい機会だから関西に住む友人に会ってくるといって、今日一日は別行動だ。
そういえば、としのぶは三年くらい前のことを思い出す。
初めてナギノシーグラスをテレビで見たのは、小学生のとき、漢字ドリルに悪戦苦闘していた日のことだった。息抜きに見た競馬中継が予想外に面白くて、じりじり脚を伸ばす鹿毛馬の姿を見て、やる気に火がついたこと、その日の分の漢字ドリルを仕上げたことは不思議に心に残っている。
これを見たら「がんばろう」と前を向けるものを、誰もがひとつくらい持っているとしのぶは思う。しのぶにとっては、それがナギノシーグラスという競走馬の姿だった。
特に前走の京都大賞典は素晴らしかった。ここ一ヶ月、あのレース動画を何度も見返しながら、中間試験を乗り越え、京都遠征を勝ち取れたのだ。
正直なところ、がんばっても全科目赤点回避くらいが自分の実力だと思っていたしのぶにとって、これは自信のつくできごとでもあった。
「ナギノシーグラスのおかげだなあ」
「あんまり味しめるなよ……」
困ったふうにいう父を無視して、しのぶは円形のパドックを見渡した。
あと少ししたら、エリザベス女王杯出走馬たちが入ってくるという。ナギノシーグラスは三枠六番。ゼッケンの数字を見逃さないようにと、しのぶはそれだけを考えて、それだけを覚えていた。
まだ第十レースが行われているうちから、もうパドックは人でいっぱいだった。だいたいこの事態を予測していた父が、第九レースが終わった時点でパドックにはりつくことを決めたおかげで、電光掲示板の真正面のあたりの、前のほうにいることができたが。
「見えるか?」
「なんとか。人と人のあいだからなら。でも見るので精いっぱいだから、ナギノシーグラスの写真、おとうさんが撮ってね」
父がわかったわかったと苦笑したとき、右手奥がざわついた。
「来たな」
父がそう呟くと同時に、右手奥から白黒二頭の誘導馬が姿を現した。あたりの人々が一斉にカメラを、携帯電話を掲げる。
(ナギノシーグラスは三枠六番……)
一番、二番……その馬が姿を現すまでわずかな時間が、ひどく長く感じられて、そして。
ゼッケン六番の鹿毛馬が出てきた。
しのぶの心臓が跳ねる。その姿はいったんモチノキの向こうに隠れて、そのあいだにしのぶは馬くさい空気を大きく吸い込み、深呼吸した。
やっと、ついにやっと、ナギノシーグラスと出会えた。
鹿毛馬がモチノキの陰から再び出てくる。真円のパドックを歩いて、いよいよしのぶがいる場所の前へ回ってくる。
テレビで見る姿しか知らなかった存在が、目の前にいる。手を伸ばせば届きそうなほど、近くに。
首を低くして歩く姿はよく知っていた。額の小さな星以外、ほとんど目立つ特徴のない、見分けにくい鹿毛一色の馬体も。
そんな地味な姿をしていても、レースに向かうとひたむきに粘り強く駆け続ける姿も。もともと競馬への興味がいっさいなかったしのぶの心に、爪痕を残し続けてきた競走馬が、いま、目の前を歩いている。
一周目を通り過ぎていったナギノシーグラスを見送って、父が問いかけてきた。
「どうだ?」
「ナギノシーグラスが実在してる……実在したんだ……」
感極まった様子のしのぶに、そりゃしてるよ、と父が笑う。
厩務員と並んで歩くところを見てわかる体の大きさ、四〇〇キロ、五〇〇キロという馬体重の数字、競走馬が大きな生き物であるということは知っていた。それでも、この場で実際の競走馬を目にするのは、知識として知るのとも、テレビ越しに見るのとも違う。
柵ひとつ隔てて、手で触れられるわけでなくとも、その毛並みのなめらかさや、体温まで伝わってくる気がした。
彼らは恐ろしく価値高い芸術品だった。それでいて、よくよく観察すれば、一頭一頭のちょっとしたしぐさや瞳の動きもそれぞれに違っていて、個性も感情もゆたかな、たしかに血のかよった生き物だった。
テレビ越しに見ていたときから感じていたことだが、競走馬という生き物たちを目の前にして、その感慨はますます胸にせまってくるようだった。
今日、ナギノシーグラスが勝つか負けるかは、今のしのぶにはやっぱりわからない。わからなくたってよかった。
もっと早くからナギノシーグラスを見たかったと思った。好きな馬を前にしたときのこの感情を、何度でも味わいたかった。
「これが最後なんだよね……もっと早く会いに行けばよかったな」
しのぶは無念さをこめてそう言った。
すると、父は、うーん、と首をひねって話しだした。
「どっちにしても、この馬、なかなか会えなかったと思うぞ。なんせほとんど、関西でばかり走っていたからな」
「そうなの?」
「関東に来たのなんて、去年の中山牝馬ステークスくらいじゃないかな。しかも、レース途中で鼻出血発症して惨敗して終わり」
マジかー……と肩を落としたしのぶに、父は笑った。
「まあ三年待てよ、ナギノシーグラスの子どもがデビューするから」
「三年? 長いよ」
「そう思うだろ。でも人間じゃこうはいかないからな。子どもが同じ競技をするわけじゃないし。数年待ったら跡継ぎを応援できるって考えたら、そんなに長い年月でもないだろ?」
そうかなあ、としのぶは口をとがらせる。
「三年も好きな馬がいなかったら、競馬やめちゃいそう……」
「それならそれでおとうさんはほっとする」
やっぱやめない、としのぶがむきになって返答すると、父はまいったなあ、とだけぼやいた。
三年後.ナギノシーグラスの子どもを同じように応援できるかどうかはわからない。だけど、競馬を観続けていればまた、こんな気持ちで応援できる馬を、もしかしたら今後こそデビューしてすぐのときに見つけられるかもしれない、としのぶは思ったのだ。
菅原と山田は、パドック時計台側、階段の半ばほどにいて、菅原の双眼鏡を交代で使いながら馬たちを見ていた。
双眼鏡越しに、山田が目を細める。
「スプリングデイズも今回で引退だっけ。あんまりよくないな。ずっとイライラして汗もすごい」
目立つ流星が特徴的な鹿毛馬は、確かに遠目で見てもひどく落ち着きがない。菅原もうなった。
「なまじ去年の府中牝馬勝っちゃったもんだから、陣営も諦められなかったみたいだけど、去年のエリ女だって存在感なかったし、厳しいだろ。もう無事に完走できたらそれが一番だよ」
スプリングデイズは、ナギノシーグラスと同じ六歳牝馬だ。ナギノシーグラスと違って若駒時代から重賞戦線で善戦していたが、五歳六歳は一転、しぶとく好走し続けるナギノシーグラスに対して、もはやここ一年ほど惨敗を重ねるばかりになっている。
「……ナギノシーグラスは前走から変わりないな。何事もなければ、いつもどおり実力なみには走るだろ」
山田はそう言って、双眼鏡を菅原に返した。ああ、と答えて受け取り、ため息をつく。
「前走、ヤマオロシに勝つとは思わなかった。ほんとしぶとい牝馬だよな」
「おまえ、札幌記念の時点で諦めてたもんな」
「そうそう」
ナギノシーグラスの引き際は、無残な数字ばかりが並ぶものと菅原は思っていた。それを、前走の勝利で覆された。
ここにきて、菅原は、今日のエリザベス女王杯でナギノシーグラスが勝てるとは思っていない。前回の勝利で評価されたか、現時点で六番人気と年齢のわりに評価されているが、何せ強敵がそろいすぎている。
まず、言わずと知れた三歳馬ハニーブロンドが強すぎる。四歳馬のセレナータも、牡馬混合GⅠである宝塚記念を制してここへ来た。実力といい条件といい、うってつけだ。五歳筆頭はキクセンレジーナ、今年に入っても宝塚記念四着、府中牝馬ステークス三着と、勝ちから遠ざかってはいるがまだまだ力は残している。
「こんなに応援してんのに、シーグラスが勝つとは思わないんだな」
「勝つとは思わない。もうピークは過ぎてる。前走は条件が良すぎたよ、有力馬は出遅れるわ、恵みの雨は降るわ」
「あいつ重馬場得意だもんな」
「そうそう。前走勝った時点で、ラストランがどうなったとしても悪い幕引きにはならないと思ってさ。とにかく、見届けようと思ったんだ」
普段どおりもの静かな口調だが、ナギノシーグラスの動きを追う菅原の眼差しには熱がこもっている。
菅原と山田が初めてナギノシーグラスを観た二歳未勝利戦から、四年。菅原は、ナギノシーグラスに対してずっと考えていたことを、初めて山田の前で口にした。
「今だから言うけどさ。ナギノシーグラス、自分と似てると勝手に思ってたんだ。たいした才能とかはなくて、粘りに任せて行けるとこまでいくとこが」
「うん。たいした才能がないとは思わんが、おれも、おまえを競走馬に例えるならナギノシーグラスだな、と思ってた」
マジか、マジだ、そんなやり取りをして、菅原と山田は同時に噴きだした。
いやまじめな話さ、と前置きして、山田はこう言った。
「粘りまくるのはたいした才能だろ。おまえもナギノシーグラスも。見ろよ、ナギノシーグラスなんか未勝利抜け出すのに十戦もかかったのに、今や重賞三勝馬だぞ。良血じゃないし、まあ天才ではないだろうけど、あの中で見劣りするか?」
山田の指さす先で、目立たない鹿毛一色の馬体が、西日に照らされて輝いて見えた。
菅原は息をのんだ。ナギノシーグラスの輝きは、同じ鹿毛のセレナータにも、ハニーブロンドの黄金のような栗毛にも、キクセンレジーナのほっそりと気品高い黒鹿毛にも負けない。
二歳三歳から結果を出してきた馬たち、すでにGⅠを勝ってきた馬たちに食らいついてきた馬体が、パドックで燃えている。
菅原は、自分の武器を探して、戦える舞台を探して、不得意な営業部門からようやく向いていると思える場所になった分析部門まで、がむしゃらに働いてきた自分に、この馬の姿をまた重ねてしまった。
ナギノシーグラスがGⅠを勝てなかったとしても、その競走馬生を否定したくはないと思った。
「……たいした才能かはわからんけど、たいした頑張りだよなあ」
ナギノシーグラスのことを言っているのか、自分のことを言っているのか、菅原自身にもよくわからなかった。ただ、山田が茶化さずに深くうなずいてくれるのが嬉しかった。
「そろそろ行こうぜ。もうコースのほうもいっぱいかもしれないけど、できるだけちゃんと観戦できるところへ行こう」
山田がそう促して、そうだな、と菅原は応じて、動きだした。
パドックに背中を向けた瞬間、急激な寂しさが菅原を襲った。
牡馬を見学させてくれる牧場は存在するが、繁殖に上がった牝馬を見学する機会というのはそうそうない。このレースを最後に、ナギノシーグラスをこの距離でこの目で見ることは、おそらくもう二度とない。
たぶん、ナギノシーグラスとは、これきり永遠の別れだ。
そう思うと、コースのほうへ向かおうとする足が重くなった。
「おい、菅原? 行くぞ」
段を上がりきったところで、最後に一度だけパドックのほうを振り返った菅原を、山田がせかした。
すまん、と短く返して、とうとう菅原はパドックから目をそむけた。四年間親しみ、追いかけ続けた競走馬と決別した。