第24話 ラストラン①
一ヶ月前の京都大賞典とはうってかわって、エリザベス女王杯当日の降水確率はゼロパーセント、馬場状態は良、朝から快晴だった。
最後のレース、最後のGⅠに、先月ようやくGⅡ馬にまで上りつめた六歳牝馬、ナギノシーグラスが挑む。
九時半にもならないうちに、卓也は京都競馬場にたどり着いた。いつもより多い人の流れに乗ってパドックまで早足に進む。
見慣れた円形のパドックまで来てみると、淀駅側の柵の周りに人だかりができていた。真っ白い誘導馬が一頭、制服の騎手を背に、パドックの柵の外に顔だけ出して、集まった人々が次から次へと手を伸ばして撫でてくるのに任せている。
そんな誘導馬の「お出迎え」に集まる人の中に、見覚えのある女性の横顔を見つけて、卓也は近くまで歩いていった。
「フユイ」こと藤野優衣だ。
先月の京都大賞典、雨の現地で熱烈にナギノシーグラスを応援しているこの女性がいて、それが以前から卓也もSNSでよく目にしていた、競馬写真を投稿する「フユイ」というアカウントの持ち主だった。
それまでネット上で交流したことすらなかったが、ナギノシーグラスという地味な競走馬を未勝利時代から追いかけていたファンは珍しく、互いにSNS上での存在を認識はしていた。
京都大賞典で偶然出会い、そこで初めて互いのアカウントをフォローし合ってから、ときどきやり取りをするくらいの間柄にはなっている。双方ナギノシーグラスの応援のために、この日現地入りすることは話していた。
おとなしく顔を触られていた誘導馬がようやく立ち去り、人が散りはじめるのを少し離れたところで待って、卓也は彼女に近づき、おはようございます、と声をかけた。
優衣はぱっと振り向き、ああ、と笑顔になった。
「おはようございます! お互い早いですね」
「いつも朝イチってわけじゃないですけど、今日はね。ナギノシーグラスのラストランなんで」
気合入っちゃって、と卓也は笑って、それからこう尋ねた。
「今日は、お友達いないんですか?」
「真奈美は競馬ファンってわけじゃないんですよ。現地は気が向いたら行くってくらいで、GⅠの人混みかき分けてまでは、来てくれへんかな……」
そう言いつつも優衣はさほど残念そうでもなく、楽しそうにカメラの設定を確認している。優衣は手を動かしながら、こう尋ねてきた。
「……タクさん、今日のエリザベス女王杯は、シーグラス以外は何か注目してる馬、いてます?」
優衣の質問についてはあまり考えていなくて、卓也は、うーん、と腕を組んだ。
「今回は全然、他の馬見てないですね。ナギノシーグラス一筋で」
「わたしもです。全馬ライバルって感じ。GⅠ二勝のセレナータとか、三歳二冠馬のハニーブロンドとか人気ですけど、小娘に負けんな! って思いますよね」
優衣が熱っぽい口調でそう言い、卓也も力強くうなずいた。
「陣営から見て自信があるから、一年現役続行を決めたわけですもんね。プロが判断したことだから、おれも可能性はあるんだと思う」
実際のところ、これまでのデータを見れば、エリザベス女王杯で優勢なのは三歳と四歳、五歳以上からの実績はあまり良くない傾向にあることがわかる。
それでもナギノシーグラスは去年、五歳で二着に食いこんだし、前走は力のある牡馬をねじ伏せたのだ。期待したって悪くない。
「今日はティッシュ持ってきました?」
卓也が少し意地悪な質問をすると、優衣の頬が赤くなった。
「いえ、それは……いや、忘れました……」
相手があまりにも素直にそう白状して、卓也は笑ってしまった。優衣が恨みがましい目でにらんでくる。
「それでいじるの、もうやめません……?」
「すいません。まあレース後にでも、また必要になったら気軽に連絡してください」
卓也は携帯電話をポケットから取り出し、顔の横で振ってみせた。
卓也が四年前に現地観戦していたナギノシーグラスの新馬戦の写真を、他人が写りこんでいてSNSには投稿できない分も送ってほしいと優衣がいうので、前回のうちに、個人的な連絡先も交換してあった。
優衣は照れ笑いを返してきた。
「ありがとうございます。でも、そんな毎回泣きませんって……たぶん」
午前中の未勝利戦で、ナギノシーグラスの主戦である水野騎手は、メインを前にしていきなり十二番人気の馬を一着に持ってきた。
「メイン、逆に不安になるんやけど……」
競馬場に来て早々、騎手買いの単勝馬券でいきなり高額のプラスを叩きだした橘は複雑そうな顔をした。
軽めの昼食は橘が勝った分の奢りになった。フードコートで早くもビールやつまみを囲んで、焼鳥屋の常連仲間のシンと一朗は苦笑いする。
「調子が良いととるか、運を使っちゃったととるか……」
「水野、一日に二回も三回も勝つタイプじゃないですからねー」
いやいや、と橘はテーブルの上で指を組んだ。
「調子がええんや。そういうことにしておこう」
橘がそう言うと、それにしても、とシンが口を開いた。
「よかったですよね、水野。ナギノシーグラスのラストラン乗れて」
そうそう、と横で一朗もうなずく。
「札幌記念の乗り替わりは、原騎手のファンのおれでも残念な感じしましたからね」
「あれっ、そうなん?」
「そうです。そこはやっぱり、継続コンビのほうがロマンありますやん」
シンと一朗のやりとりに、橘が口をはさむ。
「……おれもあの乗り替わりは残念やったけど、でも、あれでナギノシーグラスの鞍上が水野じゃなくなったとしても、今日はナギノ応援してた気がする」
「それも『そうなん?』って感じですね」
一朗が意外そうに首をかしげるのに笑って、橘は、そうなん、と頷いた。
「もともと水野主戦で重賞戦線に来た馬ってことで注目したけど、今は水野抜きにしてけっこう好きやなあ、あの馬。血統もたいして良くない、たいして期待もされてなかった馬が、コツコツ勝ち上がってGⅠでもいい勝負するようになるの、それもロマンやん」
話しながら、自分が水野を応援し続けてしまうある理由に、橘は気づきはじめていた。競馬界に縁も人脈もない世界出身の若手騎手を応援したくなる、というのとは別の理由だ。
「おれ、そもそもナギノみたいな馬が好きなんやろうな。サクサク勝って当たり前みたいな馬より、意外性のある馬、叩き上げみたいな馬とか。忘れられかけた血統から、ある日突然活躍馬が出るパターンとか。水野みたいな渋い騎手を追いかけてると、そういう馬に出会える確率が高い気がする。わかりやすく良い馬が回ってくるタイプの騎手じゃないからこそ」
シンと一朗が、はあ、なるほど、と顔を見合わせた。
「まあ、おれは、近代競馬の結晶! 期待の良血! みたいな血統の馬が出てきて、きっちり勝っていくのが好きですからね」
そう言うシンは、毎年のように良血馬を集めているゴーリー騎手を、応援している。
「おれは、原騎手が昔乗ってた馬の産駒とコンビ組んで……っていうのが燃える、みたいなとこから始まってますから。まあ、原はいわゆる騎手の『推し』って感じにもなりますけど、やっぱりそれも馬ありきですね」
ベテランの原騎手が好きな二十代の一朗はそう語る。
だよなあ、と橘は微笑んだ。
「と、いうわけで、おれは迷わずナギノシーグラスからいく」
「マジですか橘さん。さすがに本命にするのは冒険じゃないですか」
ええねんラストランなんやから、と言って、橘はシンに尋ね返した。
「そういうシンはやっぱりゴーリー本命?」
「です。キクセンレジーナはもう五歳ですけど、宝塚記念の三着、府中牝馬はスタートで不利があっての二着、全然力落ちてないやないですか。それも今年からゴーリーに乗り替わって、陣営の気合も違いますよ」
去年のエリザベス女王杯勝ち馬サンドリヨンの同期にあたる、実力派のオークス馬の名前を答えたシンは、今度は一朗に話を振った。
「一朗はどうよ」
「いや、今回はハニーブロンドと原騎手で間違いないでしょ!」
一朗が挙げたのは三歳の栗毛馬の名だ。今年のオークスと秋華賞の両方を制していて、今年の三歳牝馬の中ではナンバーワンといって間違いない。
条件、年齢、血統、鞍上、どれをとっても不安要素がなく、なみいる古馬を押しのけて一番人気の支持を得ている。
「……じゃあ、ちょっと早いけど、おれはもうエリ女の馬券買っとこうかな。機械混む前に」
橘がそう言って食べ物を片付けにかかると、シンと一朗も、おれもおれもと動きはじめた。
「なんか……結局、全員騎手買いみたいになったな……」
橘がごみを集めながら苦笑いすると、シンと一朗は肩をすくめた。
「しゃあない、好みってありますから」
「まじめにギャンブルに邁進するならともかく。おれらロマン派はどうしても勝ってほしい騎手、勝ってほしい馬を評価してしまうんですよ」
橘は、まあそうやんな、とうなずいた。
そういう買い方をしている限り、馬券が外れたって、それほど後悔することもないのだ。三人とも、きっと、これからも似たような買い方ばかりしていくのだろう、橘はそう思った。