第23話 ラストチャンスⅢ③
最内一番の馬がゲートの開く瞬間バタついて出遅れ、十三番の馬がゲートを出た瞬間ふらついて十四番のナツアカネと軽くぶつかり、スタートはバラついたものになった。
ナギノシーグラスはというと、何の問題もない好スタートを切った。鞍上の水野は前へ前へ馬を促しつつも、自分の内にいた二番馬シュヴァンは先に行かせてその直後に入りこみ、ラチにへばりつくような位置を確保した。
スタートしてすぐ外から一気に動いてハナを奪ったのは、近頃すっかり逃げ馬のイメージのついた八歳馬サンゴクワールドだ。芦毛のシュヴァンがそのすぐ後についていく積極策、続く三番手ポジションをナギノシーグラスが守る。
四番手には天皇賞馬ヤマオロシがいた。つややかな黒鹿毛の馬体がナギノシーグラスをぴたりとマークしたまま、最初のコーナーに一緒に入っていく。差しのイメージのあるこの馬にしては常よりは攻めた位置、目の前を、泥を蹴立てて通り過ぎていく馬たちを写真も撮らずに見送りながら、優衣はごくんと息をのんだ。
「ヤマオロシがあそこにいるの怖い。めちゃくちゃ狙われてる感じする」
「煽り運転かってくらいくっついてるな。……ピックアップラインはどう思う? めっちゃ後ろやけど」
真奈美に聞かれたときには、すでに馬たちの尻しか見えなくなっていた。まったく目を向けていなかった一番人気馬の姿を、優衣はスクリーンの中に探した。
ピックアップラインは四番スタートから位置を下げたらしい。後方から五番手くらいの位置で泥をかぶりまくっている。末脚自慢の追い込み型だから不思議はないが、内枠から好スタートをきったことを考えれば、素人目にはもったいない位置取りであるような気がした。
「……わかんない。追い込み馬だから、あれでいい気もするけど。ただ、こんな重い馬場で走ってるイメージがないんだよね……」
雨は止まない。
向こう正面では、先行集団を引きつけるように走っていたサンゴクワールドが、一馬身、二馬身とリードを広げだしている。一度離されかけたシュヴァンが逃がすまいとついていく。
水野騎手はナギノシーグラスの手綱をおさえたまま二頭が先に行くに任せ、ヤマオロシも不気味にナギノシーグラスの直後に控え続ける。五番手あたりにいた一頭が、しびれを切らしたように外から顔を出し、ナギノシーグラスの近くまで上がってきた。
先行集団でポジション争いの気配がじりじりと強まる一方、後方馬群からも動きが起きた。
大外を上がってきたのはナツアカネの栗毛の馬体、坂を上りながら、少しずつ真ん中あたりに取りついた。重馬場もスタートの不利も、ナツアカネの戦意を削りとることはなかったのだ。
坂を上がりきったところで、ナツアカネは外を回りながら一気に位置を上げてきた。タイミングを同じくして、中団に潜んでいたテルクシノエも馬群の外に躍り出て進路を確保する。
ずっとナギノシーグラスの直後にいたヤマオロシも、コーナーを回る先行馬群が横に広がっていく動きに乗じて、いつの間にかナギノシーグラスから離れて外に持ち出し、馬群を割って前に出ようとしていた。
サンゴクワールドは最後の直線に入る前に失速し、上がってきた集団に呑まれた。テルクシノエは外から襲いかかった馬たちにかわされ、浮上することはなかった。
最後の直線。
ナギノシーグラスは――水野騎手は、ひたすら内ラチ沿いを進みつつ、後続がどれほど近づいても自分より先に行くことを許さなかった。そして残り四〇〇メートル、一度は先頭に立ちかけたシュヴァンに内から襲いかかった。
芦毛の馬体を挟んで反対側からはヤマオロシが迫ってきていた。シュヴァンを両側からはさみ撃ち、無慈悲に切り捨てて、ナギノシーグラスとヤマオロシが馬体を併せてハナを奪い合う。
優衣は息を止めていた。
ナギノシーグラスが一馬身先頭に立った。あとはこのポジションを死守するのみ、水野騎手が馬首をしごき、食い下がるGⅠ二勝馬を抑えにかかっている。優衣はいつしか真奈美と手を握り合って、湿気も薄ら寒さも吹き飛ばす喧噪の中、言葉もなくラストスパートを見守った。
敵はヤマオロシだけではない。大外からナツアカネが、少し遅れてピックアップラインが、ひときわ豪快な末脚で一完歩ごとに先頭争いに加わろうと突き進む。
ついにナツアカネが三番手へ、ヤマオロシにアタマ差まで詰め寄ると、黒鹿毛馬も持ち前の勝負根性を発揮してさらに伸びた。ナギノシーグラスまで半馬身。
優衣は悲鳴を押し殺しながら、それでも万に一つの希望を捨てきれず、その瞬間を残すべくカメラを構えた。
覚悟はした。何度も。
だが、この三頭の先頭争いを制したのは。
『抜けた! ナギノシーグラスリード一馬身! 先頭三番ナギノシーグラス、ゴールイン! 六歳牝馬! ナギノシーグラスです!』
優衣のカメラは、ゴール前でその瞬間をしっかりとらえた。
激しいレースの証に、スクリーンに映し出されたナギノシーグラスの体も顔も泥にまみれていた。数少ない特徴である額の小さな星も汚れてよく見えなくなっている。
信じられなかった。ナツアカネ、ヤマオロシに詰め寄られて最後にもうひと伸び、ゴール直前で一馬身、それだけ突き放した。まだやれる、まだ勝てる、泥まみれの体で、鹿毛馬はその底力を示した。
九番人気、六歳牝馬の勝利。歓声よりも、悲鳴と怒号と苦笑いの割合の多い騒ぎの中で、気がつけば優衣も誰に言うともなく声を上げていた。
「えらい! すごい! 見たかナギノシーグラス! 恵みの雨! さすが海神の娘!」
そういえば父ナギノポセイドンはダート寄りの種牡馬で、ナギノシーグラスも重馬場得意だった、馬を心配するばかりでこのときまで忘れていた。思い出して、優衣は声を上げて笑った。
その場で飛び跳ねながら大騒ぎする優衣を、ストップ、と真奈美がたしなめる。はっとしたとき、優衣の右にいた男の人がさっと顔をそむけるのが視界の隅に映った。笑われたらしい。
さすがに気まずくなった。優衣も右側を極力見ないようにして、いったん深呼吸した。
少し落ち着くと、ナギノシーグラスが勝った、という事実が胸に迫ってきた。真奈美の顔を見ていると、涙まであふれてきた。
「絶対無理やと思ってた。もう六歳で、春から負けてばっかりで、さすがに一着になるところは見られへんやろって思ってた」
真奈美はうんうんと微笑んで聞いてくれた。
「とにかく無事に走り終えてくれたらって、なのにまさか、ここで勝つなんて……!」
泣くなよー、と真奈美が笑いだして、優衣も顔を覆いながらまた笑った。
顔を覆ったまま動かなくなった優衣に、真奈美がちょっと、と声をかける。優衣はくぐもった声を出した。
「真奈美、ティッシュ持ってない……? 鼻水出てきた……」
「えっ、ごめん、持ってないわ」
「ハンカチティッシュは基本やろ、なんで忘れるねん」
「あんたが言うな」
軽口を叩きあいながら、さて困った、と思ったとき、目の前でカサカサと音がして、真奈美が、あ、と声を上げた。
真奈美、実はティッシュ持ってたん? そう思いながら優衣が目だけを出すと、おかしそうな笑みを浮かべ、ポケットティッシュを差し出してくれていたのは、なんと右にいた男の人だった。
「どうぞ、もうこれ一パックあげますよ」
優衣と真奈美は真っ赤になった。優衣は消え入りそうな声でかろうじて、ありがとうございます……と言って受け取り、涙やら何やらをぬぐった。
「ほんとうに好きなんですね、勝ち馬」
男の人が思いやりのにじむ口調でそう言ってくれて、優衣の恥ずかしさが少し薄らいだ。
「そうなんです。すみません、横でうるさくして」
「競馬場でくらい、いいじゃないですか。おれも大好きなんですよ、ナギノシーグラス。これ、ほんと嬉しいですね」
優衣と真奈美は顔を見合わせた。若い女相手に、てきとうに話を合わせているような様子ではなかった。話し方に標準語の響き、もしかしてこのために遠征してきたのだろうか。ゴールの向こう、速度をゆるめる馬たちの後ろ姿を映しながら、その人の瞳もかすかに揺れているように見えた。
レースが終わっても雨は降り続いている。人気を集めたピックアップラインも、ヤマオロシも敗れた。早々にコースを後にする観客が移動をはじめる中で、優衣と真奈美とその人もそこに残っていた。
そのとき、男の人がポケットから携帯電話を取りだし、何事か話しはじめた。よかったな親父、とか、落ち着け、とかいう言葉が聞き取れたが、男の人はそっけないくらいの勢いで、早々に電話を切ってしまった。
電話をしまった男の人は一息ついてから、ふふっと思い出し笑いをして、また優衣たちに話しかけてきた。
「その、おれもちょっとうるっときそうだったんですけど、横で女の子が先に泣きだすもんだから……気がまぎれちゃって」
くすくす笑う男の人に、優衣はまた赤くなって、横から真奈美が助け船を出した。
「許したってください。この子、もう何年もナギノシーグラスナギノシーグラス言い続けてるくらい、応援してたんです」
何年も? と男の人は目を丸くした。
「あんな渋い馬を? 条件戦走ってたころから?」
「初めて見たのは未勝利でした。ナギノシーグラスがいたから、競馬続けてるって言ってもいいくらい、好きです」
優衣が熱をこめてそう答え、無意識に手元のカメラを撫でる動きをしたのを見て、男の人は何かを思いついたような表情をした。
それから、ためらいがちに口を開き、変に思われたらすみません、などと前置きして、こう尋ねてきた。
「もしかして、SNSで競馬写真投稿してたりしません?」
口取り式が始まるころ、いったん雨は止んだ。
厚い雲の垂れこめた空の下、鮮やかな紅の優勝レイを首にかけたナギノシーグラスが、ウィナーズサークルに姿を現した。GⅢ勝ち馬からGⅡ勝ち馬となったナギノシーグラスは、いつになく首をしっかりと上げて、胸を張っているかのような姿勢で歩いていた。
顔はいくらかきれいに拭いてもらったらしい。泥汚れが取りのぞかれて、額の小さな星がはっきり見えるようになっていた。
その背中で、青い勝負服を泥だらけにしたままの水野騎手が、晴れやかに笑っていた――。
京都大賞典での勝利からまもなく、ナギノシーグラス陣営は、エリザベス女王杯への出走を正式に表明した。
調教師はあるインタビューで、これが正真正銘のラストランになります、と断言した。
この展開を設定することができたのは、7歳で2017年京都大賞典を勝利したスマートレイアー姐さんがいたからです。感謝。ちなみに現地で見てました。かっこよかった…