第3話 3歳未勝利戦①
発端は金曜日の昼休み、学食での出来事だった。
その日、一人で受けていた二限目の講義が少し早めに終わった。四月の第一週の講義だけあって、内容といえばガイダンスくらいだった。
昼食に向かった三回生の徳田善之は、奥のほうの席に彼女の奈津がいて、友達と談笑しているのを見つけた。
「よっ」
近づいて声をかけると、女子二人はふりむいた。奈津と一緒にいたのは、善之もよく知っている尾野だった。三人とも同じ学科の同期なのだ。
「席、はずそうか?」
からかい顔に立ち上がりかけてみせた尾野を、奈津はあわてた様子で、いいからいいから、と止めた。善之も苦笑した。
「ごめんごめん。声かけただけや」
「いや、だって、わたし邪魔してるみたいやん」
「いや、今日はおれもこのあと約束あるから」
じゃあ、と手を上げて離れかけたとき、入り口のほうから、学生たちが波のようにおしよせてきた。そのなかに、例の約束の相手、サークル仲間の溝口のいがぐり頭が見えた。溝口はすぐ善之を見つけて、おーう、と手を振った。
そのとき、溝口の目に女子二人がうつっていないのに気づいて、善之は、あ、まずい、と思った。
止める間もなかった。溝口は善之に近づきながら、さほど大声というわけでもないのによく通る声で、話しかけてきた。
「徳ー、今週の競馬、何買うかもう決めた?」
えーと、まだ……とにごしながら、横目で奈津たちの様子をうかがう。奈津はきょとんとしていて、尾野は眉をひそめていた。同期女子の中でもとりわけきまじめな二人組だったから、賭け事の趣味なんて知られないようにしていたのに。
「徳ちゃん、競馬好きなん?」
そう尋ねてきたのは、奈津だった。善之は観念して、素直に頷いた。
「観戦がメインやし、一回に千円までって決めてるから……」
返答というより言い訳になった。目をそらすと、尾野の冷ややかな表情が目に入った。あ、これは終わったかなー、と思ったとき。
「興味ある。今度、連れてってくれへん?」
耳を疑って、善之は奈津の顔に目を戻した。奈津は好奇心いっぱいの表情をしていた。その横で尾野が小さく、えー……と漏らすのも気にしていないふうだった。
やっと状況を察した溝口が、「なんか、ごめん……」と消え入りそうな声で呟いた。
本気? と尾野が聞くと、奈津は、本気! と力強く答えた。マジで? と善之が聞くと、マジで! とこれまた力強く答えた。
ついには、この日曜に一緒に競馬場へ行こうと約束していた溝口が、じゃあおれ今週パス! 奈っちゃんと楽しんで! と言って逃げていった。それで、せっかくだしと思って奈津を誘ってみたら、二つ返事でついてくることになった。
口止めはしていたというのに。心の中で溝口に対してぶつくさ言いながら、善之は仁川駅改札前で、奈津を待っていた。
それにしても、と善之は首をかしげた。ほんとうに興味があるというのだろうか。競馬どころか、ギャンブルの絡まないスポーツ観戦やアウトドアさえ、関心をしめしたことがないというのに。
奈津は、かろやかなスカートとパステルカラーのよく似合う、おとなしげな見かけそのままの、ごくごくおとなしい女の子だ。付き合いだしてまだ数ヶ月だが、善之も二人で出かけるときは人の多い繁華街や騒がしい店は避けて、美術館や植物園や、隠れ家みたいなカフェや、そんな場所を選んできたし、奈津はいつもそれで満足そうだった。
彼女相手に限らず、友人やサークル間でも、飲み会や遊びに行く先に関して、善之の選択はいつも的確だった。この相手と行くならここ、このメンバーならここ、そんなふうにあれこれ調べるのが好きだし、人を喜ばせるのが楽しかった。親しい相手と楽しめる方法を探すのが趣味のような性分なのだ。
奈津本人がほんとうにわくわくしている様子ではあったから、何も言わなかったが、尾野はちょっと心配そうな表情をしていたし、善之自身も、ほんとうに大丈夫かよ……と思っている。親しい相手の好みについてある程度鼻がきく自信はあるが、自分の勘も経験も、奈津に競馬場は合わないぞ、と警告している。
「徳ちゃん、お待たせ」
なじみのある声が聞こえて、考え事を中断して顔を上げると、人波にまじって、奈津が改札から駆け寄ってきていた。グレーのカーディガンに七分丈のジーンズ、動きやすい格好推奨な、と言ったのは善之だが、いつも着ないようなマニッシュな装いは新鮮だ。
「そんな待ってへんで」
「そう? よかった」
連れだって競馬場のほうへ歩きだす。今日の阪神メインはGⅢレースのアーリントンカップだ。まだ昼前の今でも、駅から阪神競馬場へ伸びる専用通路はそれなりの賑わいを見せている。きょろきょろしながら、奈津がさっそく聞いてきた。
「今日ってどういう日?」
「うん、五月にNHKマイルカップっていうでかいレースがあるんやけど、それのトライアルが今日のメイン。ここで三着以内に入った馬は、そのレースに優先的に出走できる」
「予選みたいなもの?」
「ちょっと違うけど、近いかも。その本番くらいでかいレースになると混みすぎて移動も大変やけど、今日くらいなら動けないってほどでもないし、将来有望な若い馬も出てくるし、初めてでも楽しめると思う」
善之がそう言うと、奈津はちょっと表情を引きしめた。
「そういえば、ごめん。 溝口くんと一緒に来るはずやったやろ」
「ああ、いいよいいよ。あいつが勝手に逃げただけや。今日はもともと一人でも来るつもりやったから、気にするな」
ほっとした表情をした奈津に、それより、と善之は口を開いた。
「奈津が競馬に興味持つとは思わなかった。もし、途中で退屈したら遠慮なく言ってや」
できれば、今日の競馬は夕方のメインまで見たいが、場合によっては、帰りを奈津に合わせることも考えていた。だが、奈津は首を横に振った。
「ありがとう。でも、今日は最後までつきあうと思う」
「そうか? 好き嫌いあると思うから、無理するなよ」
「そうやなあ、じゃあ、もし挫折しても、わたしのことは気にせんといて」
そう言う奈津に、善之はあいまいに笑いかえしておいた。奈津の性分からすれば、言葉どおり受けとって大丈夫だろうが、今ははっきり決めなくていいだろう。
やがて、入場券売り場のある正門までたどり着いた。奈津は遠慮したが、今日は初めてやからサービスやと言って、善之はすたすたと券売機の前まで行くと、二人分の入場料を支払った。
「馬券は自分で買うんやで」
「それは当たり前や」
言いあいながら、パドックの二階までやってきた。レーシングプログラムを一部ずつ手にして、下のほうが馬が近いからと、善之は奈津を一階まで連れてきた。
よく晴れていて、陽射しが強い。奈津は背負っていた小ぶりなリュックからキャップを取り出し、かぶった。
「教えてもらったとおり。日焼け対策もばっちりや」
「阪神のパドックは、屋根はあるけど陽射しはしっかり届くからな」
きれいな楕円をえがくパドックには、すでに馬たちが登場していた。奈津はその景色を見回し、人間の陸上競技ができそう、と呟いた。
腕時計を見ると、十一時四十分くらいだった。第五レース、未勝利戦、芝二二〇〇メートル。レース経験を重ねているが、まだ一勝もしていない馬たちが十七頭、出馬表に名を連ねている。
「ちょっと中途半端な時間にしてごめん。このレース、気になってて」
「ええの、今日は合わせる。好きな馬、出てるの?」
レーシングプログラムを開きながら、奈津がそう聞く。
「いや、特に好きな馬はおらん。これ、芝のほうで二二〇〇メートルのコースなんやけど。阪神では六月に宝塚記念っていうこれまたでかいレースがあって、それと同じ条件やねん。だから、ちょっと見ておこうかと」
「ふうん……」
よくわかっていないふうで、奈津はレーシングプログラムをしげしげと見ている。善之は苦笑した。
「どうする? 馬券買ってみる?」
「どうしようかな……」
「おれ、このレースまともに予習してないし、奈津の選んだ馬買うわ」
そう言うと、奈津は、ええ、と眉をひそめた。
「お金賭けるのに、そんなんでええの?」
「そんなんでええの。ギャンブルで儲けようと思ったって儲けられないし、そんなマジでやっても競馬は面白くないで。適当な選び方でちょっとだけ賭けて、たまに当たったら嬉しい、そういうのが面白いんや。当たったときに買ってた馬や騎手を覚えたり、次から応援したり」
「なるほど……」
奈津は目の前を歩く馬たちと、レーシングプログラムを見比べた。何が良いのかわからない様子の奈津に、善之は助け船を出した。
「何番の名前がかわいい、みたいなのある? 最初はそういうのでも」
うーん、と考えながら、奈津は気になった馬名を指さしていった。
「そうやな……。三番のサマースカイ、爽やかやと思う。あと、八番、シュークリームはそのまんまやけどかわいいな。それと……あ、シーグラスだって。十番、ナギノシーグラス」
「シーグラス?」
善之は首をひねった。注目したことがない馬だし、見覚えのない言葉だ。善之の感覚では、そうしゃれた馬名だとも思えなかった。
「シーグラス、知らない? わたし、尾野ちゃんと一緒に拾いに行ったことあるよ」
「いや、初めて聞いた」
「あとで話すわ。とりあえず、競馬考える。……どの馬がいいかわからへんし、この三頭の中から選ぶわ」
再びレーシングプログラムに目を戻し、考えだした奈津に、善之は説明を続行した。
「ちょっとまじめに予想するなら、ここ。騎手の名前の横、三つ数字があるやろ。これ、その馬が出た直近三レースの順位や」
「なるほど。丸と四角があるのは?」
「丸は芝のレース。四角はダート。ざっくり言うと、草の上走るか砂の上走るか、日本のレースはこの二種類やねん。今日のこのレースは芝やから、単純に考えたら、丸の数字が参考になるな」
「そうなんや。じゃあ、この中やと、ナギノシーグラスが一番ええかな」
「三、二、三……そうやな、惜しい結果が続いてるな。ほら、あの馬」
その馬を見つけて、善之は指さした。その先を見た奈津にどう? と聞くと、苦笑が返ってきた。
「……うん、見た目じゃ違いがわからへんかな……」
「まあ、そうやなあ」
穏やかに同調しながら、善之はその馬を観察した。首を低くして歩くさまは元気がなさそうにも映るが、発汗もせず落ち着いて、体格のよさもあって悠々として見える。脚と胴がすらりと長く見えて、長距離が向いてそうだ、といった印象を受けた。
「……うん、おれはああいう馬、けっこういいと思う。ちょっと待って」
そう言って、善之は携帯を取り出し、その馬について検索をかけた。手もとをのぞきこんだ奈津と二人、出てきた競馬情報サイトをのぞきこむ。
「通算成績……十戦ゼロ勝」
「あらら……全然勝ててないんや……」
「これはそういう馬たちのレースやからな。未勝利戦っていうのは、デビューしてから一度も勝ったことがない馬だけが出るレースや」
へえ、と声を上げる奈津に、善之はサイト画面を指さしながら、ナギノシーグラスについてさらに説明した。
「ただ、戦績見てみたら、ほら、最初は一六〇〇メートルのレースでデビューして、一八〇〇、二〇〇〇と距離を伸ばしながら少しずつ、成績も伸ばしてきてるんやなってことがわかる。それで、二二〇〇超えたあたりから、ここ最近は二着、三着が続いてる。この馬の場合、長い距離のほうが走るんや」
「なるほど。得意分野がわかってきたってことか」
納得顔にナギノシーグラスをしばし見つめ、奈津は、うん、と頷いた。
「よし。じゃあ、あの馬買ってみる」
「ほんまにええか? こいつ、一番人気やから、当たってもそんなに得やないで」
「いい。だって、そんな考えてもわからへん。名前がいい感じで、成績がいい感じやし、最初はあの馬にするわ。馬券って、いくらで買えるの?」
奈津はためらいのない様子で、そう聞いた。