第23話 ラストチャンスⅢ②
京都大賞典当日は、朝から雨が降っていた。
それでも真奈美は来てくれた。週末に雨予報が出ていた木曜日の時点でどうするか確認したけれど、ためらいなく「行く!」と返してきたのだ。
現地入りは午後から、レストラン街で遅めの昼食をとって、メインレースを集中して観戦することにした。雨が降って気温も下がり、次の日も仕事というのに、丸一日屋外にいるとかなり体力を消耗しそうだった。
そうして二人は、レインコートを着込んで傘をたたみ、第九レースのあたりから、時計台側のパドック最前列に張りついて出走馬を待っていた。
優衣と真奈美はレインコートだけで雨対策することにしていたが、すでに周囲では、透明なビニール傘の花がいくつも開いている。
次第に密度を増す人垣を、真奈美はちょっときょろきょろ見回してから、話しかけてきた。
「こんな雨でも、みんな来るんやな。優衣みたいに、こんな天気でも会いたい馬がおるんかな」
優衣は微笑んだ。
「単純に競馬場が好きとか、ギャンブルが好きって人もおるやろうけど。でも、わたしみたいな人もいっぱいおるやろな。雨が降っても見たいくらい好きな馬が今日出てるんや、って人」
「今日人気なやつ、なんやっけ……ええと、ヤマオロシ? GⅠ馬?」
うん、と優衣はうなずいた。
「春の天皇賞を四歳五歳で連覇した馬。三連覇はあかんかったけど。今年は秋の天皇賞から、秋古馬三冠って呼ばれてるGⅠ皆勤するつもりらしい。基本的にぶっつけ苦手やから、京都大賞典一叩きしとくんやって」
「ヤマオロシ目当ての人が一番多いんかな」
目玉はもう一頭おる、と優衣は携帯電話の画面を真奈美に見せた。
「ヤマオロシは今のとこ二番人気やな。今日はこっちが一番人気。五歳のピックアップライン。こっちもGⅠ勝ってるで。一昨年の菊花賞馬」
「口説き文句」という意味の馬名を持つこの青鹿毛馬は、一昨年の菊花賞一着、去年の天皇賞(春)三着と、ステイヤーとしての存在感を示している。この春の長距離路線で不在だったのは、海を渡ってドバイのレースに挑戦していたからだ。
結果は三着。敗れながらも力は見せ、帰国初戦の宝塚記念では二着と、優勝馬のセレナータを追いつめてみせた。ヤマオロシと比較して若さや休み明け実績を評価され、ここでは現在、一番人気に押し上げられている。
不安要素といえばこの天気、重馬場適性くらいだろう。これまで天気の運に恵まれてきた馬で、こんな日のレースの経験は乏しい。
あと気になるのは、と優衣は何頭かの出走馬の名前を挙げた。
「春の天皇賞組多いな。ベテラン八歳馬サンゴクワールド、芦毛のシュヴァンに栗毛のナツアカネ。他路線は、牝馬のテルクシノエがおるな、ナギノシーグラスみたいな晩成タイプなんやけど」
そこまで説明したところで、奥から誘導馬が姿を現し、周囲がざわつく。しゃがんでいた人は立ち上がり、前を空けて立っていた人は一歩詰めた。
優衣と真奈美のように、最前列でレインコートだけになってカメラを準備していた人の一部は、さっそくカバーつきのカメラを構えだしている。
今日のナギノシーグラスは二枠三番。同枠二番のシュヴァンの、真っ白い馬体に続いて、見慣れた首の低い姿が現れて、優衣の心臓が高鳴った。
例の青鹿毛馬、四番のピックアップラインはそのすぐ後に出てきた。青光りする馬体で、堂々と観客席を見回しながら歩く一番人気馬の姿とすぐ見比べられる位置にいると、ナギノシーグラスも馬体重は変わらないのに、いつになくちっぽけに見えてしまう。
ナギノシーグラスとピックアップラインがまずは一周目、優衣と真奈美の前を通り過ぎた。雨音にまじって、シャッター音があちこちで鳴りひびく。注目していた二頭を見送りながら、真奈美が小声で、うわ、と言った。
「あれがピックアップラインか。黒いな。すごい迫力」
「青毛とか青鹿毛、かっこいいやんな、やっぱり。……でも、迫力ではヤマオロシも負けてないと思う」
そう言って、優衣は近づいてきた黒鹿毛馬を指さした。七番、ヤマオロシ。GⅠ二勝の実績はこのメンバーの中でも抜けているし、今年はともかく、去年の天皇賞ではピックアップラインを下している。ピックアップラインよりも背が高く胴も長く、体型だけなら、ヤマオロシのほうがより長距離向きな印象を見る者に抱かせる。
ピックアップラインのように、にらみつけるような様子はないが、正面からヤマオロシの顔を見ると、その目に静かに射貫かれるような感じがする。
「シュッとしてるな」
「そうそう。あと、この馬、ナギノシーグラスのライバルの一頭って感じもするねん」
「え、そんなに一緒に走ってる?」
真奈美が意外そうに声を上げて、優衣はうなずいた。
「実は、どっちも重賞出てなかった三歳のとき、すでに戦ってる。兵庫特別っていうねんけど。あとは去年の京都大賞典、今年の阪神大賞典に天皇賞、四回は対決してるな。……ライバルというには、全部負けてるけど」
最後につけ加えると、真奈美からは苦笑が返ってきた。
「勝負がついちゃってるやつか……」
「そうやな……まあ、相手はGⅠ二勝馬様やから」
雨音にまぎれ、ひそひそ話しているうちに、パドックでは今回の出走馬十五頭全てが一周目を歩き終えた。一番の馬が二周目に入り、またこちらにさしかかろうとしている。ナギノシーグラスが再び近づく前に、優衣と真奈美はカメラをとり出し、構えた。
パドック撮影を少し早めに切り上げて、まだ誰もいないコースを眺めながら、ゴール付近最前列の柵の前で待った。
雨はまだ降り続いている。馬場状態は当然重馬場、こんな日は派手に泥が跳ね、土が飛ぶ。いかにも走りにくそうだ。
ナギノシーグラスが現役を続けることは、優衣だって嬉しかった。でも、牝馬が挑戦すること自体まれな、三〇〇〇メートルを走る阪神大賞典や春の天皇賞あたりから、無事を祈る気持ちは去年以上に強くなっていた。
優衣が競馬を始めてから数年、すでに何頭かの馬の引退を見てきた。
忘れられないのは、トリアイナという馬。ナギノシーグラスと同じ、ナギノポセイドン産駒ということで注目していた。二年前のダートの未勝利戦で、直線に入る直前、急ブレーキをかけたかのように異常な止まり方をして競争を中止し、そのまま消えていった二歳馬。
レース中の異変といえば、ナギノシーグラス自身がかつて、中山牝馬ステークスでレース途中に鼻出血を発症し、惨敗したことがある。あのときは中山へ遠征してまで観に行っていた。何かに引っかかったかのように勢いを失い、波のように押し寄せた馬群にのみこまれた青い勝負服と鹿毛の馬体を、あのとき優衣は見ていた。
その景色を思い出して、優衣はぶるっと身震いした。
あの日の中山牝馬ステークスといえば、出走表明していながら、屈腱炎でレース前に引退したサフランボルという馬もいた。屈腱炎といえば、去年のエリザベス女王杯のあと、ナギノシーグラスを破ったサンドリヨンもそれが原因で夢半ばターフを去った。
不吉な連想は止まらないが、とにかく、ナギノシーグラスはここにいる。なんといっても丈夫で、脚元には問題が起きたことがないのだから、馬場が悪くても、きっと今日も無事に走りきれるはず。
ぼんやりと目の前を見つめ、考えこんでいた優衣の左肩を、真奈美がたたいた。
「優衣、来たよ」
左のほうに目を向けたとき、入場曲が流れはじめた。
先頭に誘導馬、続く一頭、二頭、ナギノシーグラスの姿ももう見えていた。
ナギノシーグラスが落ち着きを欠いたところを、おそらく競馬ファンは誰も見たことがないだろう。今日も、ただ粛々と駆けていく。
『三番、ナギノシーグラス、四八四キロ、マイナス十二キロ、水野晃彦、五十四キロ――』
出走各馬を紹介する放送を聞きながら、返し馬の様子をひとしきり撮って、優衣はぼやいた。
「あいかわらず、シーグラスはわかりにくい馬やなあ。落ち着いてるのか、元気ないのか……」
「でも、そういうところが好きなんやろ」
うん、と優衣はうなずいた。
現在、ナギノシーグラスは十五頭中九番人気だ。あの馬の良さは、わかる人だけわかればいいとも思い、もっと評価されてほしいとも思う。
馬が一頭、観客の前を駆け抜けるたびに、周囲で誰かがざわめく。雨が降り続き、気温も低いのに、人々の熱は高まるばかりだ。ピックアップラインで間違いないな、重馬場ならヤマオロシのほうが、サンゴクワールドは興奮しすぎてあかんわ、そんな声が聞こえる。
「え、こっち? ナギノシーグラス?」
優衣の右側に立っていた若い男の人がいきなり話しだしたかと思うと、その馬名を口にした。心臓が跳ねる。ちらっと横目に見ると携帯電話を耳に当てていた。
いつもどおり落ち着いてるよ、優衣が隣の声に聞き耳を立てたのはそこまでだった。コースに目を戻して、意識しすぎ、と心の中で自分をたしなめた。
返し馬、待機所を経ていよいよ準備万端、出走馬がスタート前で歩き回り、スターターがやってくるのを待っている。
ナギノシーグラスもそこにいる。他の馬に比べて少し首を低くして歩く鹿毛の馬体と、背筋を伸ばした姿勢で騎乗する水野騎手の青い勝負服、ビジョンに映っているその姿だけを優衣は目で追っていた。
やがてスターターが台に上がる、旗がひるがえる、ファンファーレが鳴り響く。GⅠのときほどではないが、観衆はそれなりに沸いている。両隣で真奈美も右側の男の人も控えめに拍手しているようだが、優衣はただ、レインコートの袖口をぎゅっと握りしめた。
六歳牝馬、牡馬やGⅠ馬にまじってタフな戦場をいくつも駆け抜け、まだここで遥かな栄光を追い続けている。優衣はこみあげてきた畏怖と愛情をかみしめた。ひたすら、ナギノシーグラスを大好きだと思った。
――お願いだから、無事で。そしてできれば、複勝圏内くらいには。
『スタートしました!』
音をたててゲートが開いた。