第23話 ラストチャンスⅢ①
近頃は、ナギノシーグラス好きといえばフユイさん、という意味を含んだ言葉を、SNSで投げかけられることが増えた。
ナギノシーグラスという牝馬は、見た目に目立つ特徴があるわけでもなく、誰もが注目する良血というわけでもない。デビューから勝ち上がるまでに十一戦を要し、長いこと条件戦を走り続けて少しずつはい上がってきた、渋いという言葉で表現されるような馬だ。
五歳になってやっとGⅢを勝利した、そのあたりでようやく、応援したくなる馬、といった評価が増えてきた。
そんな地味な馬を未勝利時代から追いかけ続け、写真を撮り続けていた「フユイ」のことを、同じSNSを使う競馬ファンの一部は、「やたらナギノシーグラスが好きな競馬写真アカウント」と認識しているらしい。
写真部員だった大学生時代、動物撮影の技術を向上させるために足を運んだ競馬場でナギノシーグラスと出会った「フユイ」こと藤野優衣は、今年、社会人になっていた。
会社にも慣れて忙しさが増しても動物の撮影は続けているし、ナギノシーグラスにもとことん付き合おうと、夏季休暇には北海道旅行にまで行って、札幌記念を観戦してきた。
その札幌記念で、今後のナギノシーグラスの勝利の可能性に関して、もう期待するのはやめたほうがいいのかもしれない、とついに思うようになった。
あとはただ、無事に引退することを祈るだけ。
『札幌記念七着ナギノシーグラスは、鞍上水野で京都大賞典からエリザベス女王杯の予定』
九月半ばにネット上で発表された古馬次走報の中に、その一文はあった。優衣は、まずはほっと息をはいた。
鞍上水野、これが今は一番嬉しい。正直なところ、前走の原への乗り替わりについては、優衣はひどく落胆したのだ。このままあのコンビがもう見られなくなるかもしれないと思うと、寂しくてたまらなかった。
主戦が定まらないころから見つめ続けていた馬だけれど、ナギノシーグラスには水野が乗ってこそ、と今は思っている。
それから、京都で走る姿を見られるのも嬉しい。札幌記念こそ、長期の休みを利用して現地入りすることができたけれど、学生のときほど気軽には遠征できないから、生活圏の関西なら、体力的にも時間的にもさほど無理せず出かけられる。
「二戦とも京都でよかったわ。ジャパンカップとか有馬記念て言われたらどうしようかと思った」
「それはどう考えても無理やから安心しろ」
九月のこの連休に帰省してきていた兄の孝道から、鋭い返しが飛ぶ。やっぱり無理かあ、と優衣は肩をすくめた。
「距離はなあ。二二〇〇よりも二四〇〇以上のほうが向いてると思うねんけどなあ」
「牡牝混合で、牡馬の一線級が出てくるGⅠでどうなるかは、春の長距離路線や札幌記念でよくわかったやろ、陣営も。エリ女はまだ夢捨てられへんのもわかるけど、秋古馬王道は絶対無理やって」
リビングで新聞を読みながら、孝道はそう言う。そうだよね、と優衣もうなずいた。諦めたつもりでも、無理、という言葉には抵抗感がある。
いよいよ戦績も安定を欠きはじめた六歳牝馬。優衣はこの秋のGⅠ挑戦が最後になるのではないかと推測しているし、インターネットや新聞で見かける陣営インタビューにも、「もう一花」のような言葉をはじめ、現役生活が残りわずかであることを示唆する表現が見え隠れしていた。
そもそも京都記念で引退していたはずの馬なのだ。競走馬としてどんなに衰えても重賞二勝の実績馬、繁殖価値は決して低いものではないはずで、いたずらに競争生活を引き延ばして、大きな故障でもしようものなら、それこそ取りかえしがつかない。
春のうちに引退していたほうが競争成績もきれいだったかもしれないし、故障のリスクも低いかもしれない。
それをわかっていても、優衣はナギノシーグラスが走るところを見られることを喜んでしまった。最後まで応援する気になった。
結局、優衣も本心では、「ひょっとしたら」を捨てきれないでいる。
その日のうちに優衣は、写真部時代からの親友である真奈美に電話して、来月頭の京都競馬場へ行かないかと誘った。
「わたしの好きなナギノシーグラス、出るねん。GⅡやからめちゃくちゃは混まへんし、シーグラスもそろそろ引退近いと思うし、よかったら今のうちに観に行っとけへん?」
そう言うと、真奈美は「いいね」と明るい声で応じてくれた。
「懐かしい、ナギノシーグラスは優衣が話題にするから覚えてる。まだ走ってたんや」
真奈美は、大学卒業と共にカメラから遠ざかってしまっている。もともと趣味が多いたちで、社会人になってから他にも楽しみが増えて、写真撮影に費やす時間が減ってしまったらしい。
そのこと自体は優衣にとって少し寂しいけれど、興味の幅が広い真奈美だからこそ競馬通いにもちょくちょく付き合ってくれて、今でも声をかけやすい貴重な友人だった。
そんな優衣の考えを見透かしたかのようなタイミングで、真奈美は「優衣と競馬場か、久しぶりにカメラ用意しよかな」なんて言い出した。
これには嬉しくてたまらず、優衣ははしゃいだ声を上げた。
「持っていこいこ! 昔を懐かしむ感じで!」
「昔いうても、まだ半年くらい前やん」
そう言った真奈美自身が、もう半年? と、自分の言葉にぎょっとしたように電話の向こうで声を上げて、優衣は笑ってしまった。
「真奈美もたまにはカメラ使ってあげて」
「うん、久しぶりに使うわ」
そう返してからちょっと間を置いて、真奈美はこう言った。
「優衣はすごいなあ。ひとつのこと、社会人になっても続けてるの、素敵や。一緒に出かけるとなると、こっちまでカメラ持ち出したくなるわ」
「真奈美もええやん。いろんな楽しみ知ってるのかっこいいで。また悪い遊びでも教えてや」
悪い遊びってなんやねん、ギャンブル教えられたのはこっちやで、と笑いまじりの声が返ってくる。意図せず互いを褒めあうことになって、電話越しに二人して照れ笑いして。
「じゃあ、また集合時間とか相談するわ。場所は淀駅になるけど」
優衣がそう言ってくすぐったい空気を変え、真奈美が、うん、と短く返事した。
「楽しみにしてる。競馬、普段はぜんぜんやらんけど、あの空気、一回体験しちゃうと、たまーに行きたくなるな」
「そうやろ。わたしももうあかんわ。足洗われへんわ」
「賭けすぎ注意な」
優衣は、はーい、と気の抜けた返事をした。
電話を切りあげたあとも、嬉しい気持ちは残っていた。
趣味の範疇ではあるけれど、カメラの趣味を続けていてよかったと思う。競走馬を中心に、動物写真を投稿するためSNSを始めて、写真を見てくれるひとが増えて、もっと素敵な写真を撮りたいという気持ちになった。
そんな流れのはじまりに、ナギノシーグラスがいる。ある馬を好きな気持ちを、理解してくれる誰かと分かちあいたいと思ったことが、大学の写真部の範囲だけで楽しんでいた優衣を、もう一歩先の世界へ踏み出させたのだ。
早く真奈美に会いたかった。自分が今でも写真撮影を続けていることはナギノシーグラスのおかげでもあるのだと、そんな話を聞いてほしかった。