第22話 ラストチャンスⅡ②
八月下旬、札幌記念。例年、秋のGⅠや海外を目標に据えるトップクラスの馬たちが出走する、「スーパーGⅡ」とも呼ばれるハイレベルな一戦だ。
今年もその呼び名にたがわぬ面子がそろった。もっとも注目を集めるのは四歳牡馬二頭、ダービー馬のエンデ、皐月賞馬のキナバルの激突だ。
クラシックを皆勤したエンデと、三歳秋は古馬にまじって秋天路線に挑み、四歳春は怪我で休養していたキナバル。エンデは凱旋門賞の前哨戦として、キナバルは休養明けの始動戦として、それぞれこの場を選んだ。二歳GⅠのホープフルステークスあたりからダービーまでライバル関係と目されていた二頭の再戦に、多くの競馬ファンが心躍らせている。
GⅠ馬は他に、去年の宝塚記念を制した五歳馬リングヴォヤージュがいる。GⅠ勝ち実績まではない中では、四歳になって重賞戦線で二着、三着と爪痕を残してきている牝馬リングアスカもいる。
札幌記念のデータを分析してみれば、六歳馬の実績は決して悪いものではない。だが、今年の出走馬を見渡すと、四歳、五歳勢に人気が集まっているし、実際、このレースの目玉は四歳クラシック馬二頭の再戦でまちがいない。
競馬新聞の馬柱から世代交代の色を読みとって、菅原はさびしいような新鮮なような思いを抱きながら、テレビの電源を入れた。
今年の札幌記念は十三頭立て、ナギノシーグラスは七番人気の位置にいる。インターネットなどでレース予想を調べれば、今回の騎手変更は概ね鞍上強化と見る人が多いらしい。菅原としては複雑だが、思ったより人気が下がっていないのはこのあたりの理由かもしれない。
ため息をつきながら、菅原は新聞とパドック中継を交互ににらんだ。
(馬体重四九六キロ、前走プラス十六キロ……)
絞れてないな、と菅原は思った。
デビュー当時は四七〇キロ台前半だったナギノシーグラスは、五歳になるころには四八〇キロを切ることがなくなっていた。いつかのレース前のインタビューで、とにかく精神面がしっかりしていて、牝馬のわりに飼い葉食いがいいことが強みだと厩務員が話しているのを見たことがある。
レースでの気性のよさやパドックでの落ち着きを思えば、ナギノシーグラスらしいエピソードだが、反面ダイエットに苦労することもあるんじゃないかと思えたものだ。
実際に戦績をふり返れば、四八〇キロ台前半のときの好走率が高いことがわかる。しかも今回は過去最高体重だ。サラブレッドという生き物の水準において、どの程度の増減だとレースへの影響が大きくなるのか菅原には判別しようがないが、ナギノシーグラスのこれまでからすれば、あと十キロは落としたかったところではないか。
テレビに映しだされたナギノシーグラスは、いつものように首を低くして歩いている。前を歩くリングヴォヤージュが落ち着きなく跳ねるように歩いていても、影響されることなく厩務員に引かれている鹿毛馬の姿を見ると愛着がわく。
やはり現地まで観に行けばよかったかもしれない、という考えもよぎった。
(……でも、どう考えても)
今日は無理だよな、とも確信している。
ナギノシーグラスを、番組内でパドックでの注目馬に指名する予想家もおらず、馬券に入れる芸能人もおらず、まったく話題にのぼらないまま、パドック中継も予想コーナーも終わってしまった。
結局、今日のナギノシーグラスは、多くの人にとって脇役でしかない。
ナギノシーグラスの勝利までは考えられない。もはや期待するのもつらい。
ただ、爪痕を残してくれ、と菅原は願った。まだ終わってない、これは秋に向けての叩きにすぎないのだと、せめてそれくらいは信じさせてほしいと思った。
菅原にとっては、いつでもナギノシーグラスが主役だ。馬場入りの後ろ姿も、輪乗りのさまも、ゲートインの瞬間も、錚々たるGⅠ馬そっちのけで、ただ鹿毛の馬体、青い勝負服を追っていた。
『スタートしました』
赤いメンコの鹿毛馬、リングアスカが逃げ馬らしくロケットスタートを決める。外枠からは宝塚記念馬リングヴォヤージュが前へ前へ動き、三、四番手外側についた。明るい色合いの栗毛、額から鼻筋に流れる派手な白斑、鹿毛や黒鹿毛だらけのメンバーの中では、この馬がよく目立つ。
各馬のポジションが落ち着いていくなか、青い勝負服の原が手綱をおさえ、後方に位置取りするのを見て、菅原は思わず舌打ちした。
馬群は最初のコーナーに入る前に、すでに縦長になりつつある。中団馬群の後方にキナバルの黒鹿毛の馬体があって、二馬身離したところにエンデがいて、ナギノシーグラスはその外側につけている。
「違うだろ……」
二頭の鹿毛が併走する姿を見て、思わず声に出ていた。
ナギノシーグラスは追い込み馬じゃない。前走の三二〇〇メートルではあれしかなかったというだけのことだし、溜める競馬もできるが、それで後方待機から始めても、長くいい脚を使えるというだけだ。
どこで仕掛けるのかわからないが、素人目には、この位置取りは失敗だとしか思えなかった。瞬発力に欠けるナギノシーグラスが、切れ味自慢のエンデやキナバルと同じ位置から追いだしても届くはずがない。
騎手の判断か、陣営の指示か。そんなことまではわからないが、とにかく、向こう正面半ばを過ぎても、まだナギノシーグラスは後方集団に潜んでいる。
赤いメンコのリングアスカが依然三馬身ほど離して逃げ粘り、真っ先に三コーナーに向かう。栗毛のリングヴォヤージュが先行集団先頭に躍り出て、少しずつ速度を上げ、逃げ馬を捕まえにかかる。
後方組で最初に動いたのはエンデ、鞍上は今回もゴーリーだ。中団馬群の何頭かが三、四コーナーに向けて一気に位置を上げ、馬群と馬群の間にできた空間をエンデは突き進み、横並びになりつつある先行勢の直後まで一気に押し上げた。
内を突き、先行馬を割って出るエンデに対し、中団追走から外に進路をとるキナバル。二頭とも前方の道は拓けていて、いよいよラストスパートを開始していた。
一方でナギノシーグラスのほうも、鞍上で原の手が動いていて、ごちゃつく馬群から脱出しようとしていた気配はあった。
残り二〇〇メートルにさしかかったあたりでやっと抜けだせたナギノシーグラスに、原はあきらめず鞭を入れていたが、追い込み勢はもうトップスピードに乗っているし、リングアスカはじめ先行馬もなかなか止まらない。
「……無理だ」
明白だった。
先頭では、内から抜けたエンデと外から襲いかかったキナバルとリングヴォヤージュ、GⅠ馬三頭が叩き合っている。少し離して粘り続けるリングアスカが、四番手以下の馬たちをひき連れて頑張っている。
あとの馬はただ追いかけているだけに見えた。
『先頭はエンデ! 先頭はエンデ一着でゴールイン! 二着リングヴォヤージュ……』
ああ、と菅原は嘆息した。やっぱりもうだめじゃないか、という失望を飲みこんだ。
わずかに遅れて、馬券にもなれなかった十頭が黒い川のようにゴール板へと流れこんでいく。雄大な鹿毛の馬体も、青い勝負服も、その一滴にすぎないことだけを確認して、菅原はチャンネルを変えた。
「許さん!」
理香子の家で競馬番組を最後まで観終えて、望は声を上げた。理香子がどうどう、となだめてくる。
「ナギノシーグラスめ……わたしのサンドリヨンのライバルでありながら、あんな情けないレースをするなんて……許さん……」
「今回はしかたないよ。上位勢が強すぎるし、距離も短いし、位置取りも悪かったし」
「わたしの複勝一万円も吹っ飛んだし!」
「それは賭けすぎだね。自業自得だね」
理香子の冷静な返しに、望は肩を落とした。
「らしくなかったなあ。最後までがんばって脚は伸ばしてたけど。やっぱり追い込みはさせるもんじゃないね、この馬」
「うん。こないだの春天で、ひょっとしたら、って思ったのかもしれないね。騎手か調教師かわかんないけど、ここにきてナギノシーグラスの末脚を試しでもしたんじゃないの。ま、わざわざ水野おろしてこれか、とは思うよね」
だよねえ、と望はまとめて膝に乗せていた荷物に顎を乗せた。
「でも、やっぱりリングアスカにも先着できなかったのは残念……」
そうぼやいてから、望はやっと立ち上がった。
「のんちゃん、もう行く?」
「うん、行く。りっこ、秋くらい、また関西泊まりにおいでよ。京都競馬場でも行こうよ」
うん、とうなずいて、理香子も見送りに立ち上がった。
「今年もエリザベス女王杯、押しかけようかなあ。今年の牝馬三冠組とか出てきたらおもしろいよね。ナギノシーグラスもまた出てきたら、サンドリヨンの代わりに応援するわ」
望は声を上げて笑った。
「出るとは限らないけどね」
「どっちにしても、行くなら十一月のあたりかも。また連絡するね」
理香子とのやり取りはそれで終わった。最後にじゃあねと挨拶し合って、望は帰路についた。
新幹線に揺られているうち、サンドリヨンに会いたい気持ちがこみ上げてきた。やっぱり、あと一年は競走馬としてのサンドリヨンを応援していたかった。
今日ナギノシーグラスに好走してほしかったのも本心だが、同時に、あまり成功されても悔しくなっていたかもしれない、とも思う。健康なまま現役続行して、さらなる栄光をつかむ姿を見たかったのは、サンドリヨンのほうなのだ。
ナギノシーグラスは、愛してやまないあの芦毛馬を思い出させてならない存在というだけだ。サンドリヨン以上の結果を出されるのは悔しい。でも、サンドリヨンに勝ったことのある馬として、負けてほしくもない。
一口馬主ですらないのに、一頭の競走馬にこんな面倒な感情を向けてしまうなんて、まだまだ自分もよけいなストレスを抱えたままなのかもしれない、などと思うと苦笑がにじんだ。
ナギノシーグラスは今日、結局七着だった。あんな道中ながら最後までよく走ったというべきか、やはり衰えが見られるというべきか、そのあたり、何の参考にもならないレースだったと望は思う。
だからがっかりするのはまだ早いはず、判断材料は次だ。そう考えて、望は、とにかくナギノシーグラスの次走報を待つことにした。