第22話 ラストチャンスⅡ①
「今さら騎手変えたからどうなるって馬でもないよな」
菅原は電話口で不満げな声を響かせた。
七月末、菅原と山田が共に応援している牝馬、ナギノシーグラスの四月の天皇賞以来の始動戦が、八月の札幌記念だと発表された。そんなタイミングの仕事終わりに、山田が久しぶりに菅原に電話をかけると、どうしたって競馬の話になる。
山田はナギノシーグラス陣営のこのレース選択については、また骨太なチョイスを……、くらいにしか思わなかった。確定ではないだろうが、秋にまたエリザベス女王杯を目指すとすれば、この時期の始動戦としては他に、牝馬限定の芝一八〇〇メートル戦、クイーンステークスもある。
ただ、ナギノシーグラスは一八〇〇以下の距離ではろくな実績がないから、二〇〇〇メートルある札幌記念を選ぶのは妥当といえる。
問題は鞍上で、今回ナギノシーグラスの手綱を取るのが、二度の重賞勝ちを共にした水野騎手ではなく、二年ぶりの原騎手になるというのだ。
菅原は、この乗り替わりをひどく残念に思っている様子だった。原騎手のファンである山田でも、同じく複雑な気持ちだ。
去年のマーメイドステークス以来、ナギノシーグラスと水野騎手はGⅠやGⅡでも良い勝負をしながら、勝ちにまで至っていない。予定していた引退を撤回してまでナギノシーグラスを勝たせてやりたい陣営の執念を考えれば、リーディング上位の騎手を乗せて、少しでも可能性を高めて、そうなるのも無理はないと思う。
それでもナギノシーグラスを重賞馬にしたのは水野だし、手が合っていることは疑いようがない。
ここしばらくナギノシーグラスが勝てていないのは、これはもう馬の問題じゃないかと山田は思う。晩成タイプではあるが、年齢による衰えはあるだろう。切れ味不足など、もともと完全無欠な馬というわけではない。
もしくはレース選択。惜敗のエリザベス女王杯、日経新春杯はともかく、阪神大賞典からの天皇賞春というローテーションで、ナギノシーグラスくらいの実績の六歳牝馬をどうこうというのは、誰が見ても夢物語の域だ。
これらの敗北で降板させられたとするならば、いち競馬ファンとして、水野が不憫に思えてしかたなかった。
携帯電話の向こうで、菅原がため息をつくのが聞こえた。
「……ラストラン、京都記念でよかったんだ。それで引退しててほしかったんだ、おれは」
山田よりも早くからナギノシーグラスのファンになっていたくせに、意外なことを言う。山田が、へえ? と続きをうながすと、菅原は理由を話した。
「六歳だぞ。ピークはあきらかに過ぎてて、これから良くなるなんてことないだろ。好きな馬が、わざわざ惨敗を重ねてから消えてくところ、見たくないよ。最後のほうの競争成績くらい、きれいな数字を残して引退してほしかったんだよ……」
「まあ、まだ最後のレースがどうなるかなんてわからないって」
山田は苦笑してそう言ったが、どちらかといえば、そうなっていくだろうという予想を否定できない。若いときにクラシックを賑わせたGⅠ馬ですら、引退直前には二桁着順を繰り返しながらずるずる現役を続行して、こんなあいつは見たくなかったとか終わった馬とか言われながら、ひっそりとターフを去っていくことは少なくないのだ。
ましてGⅠ馬ですらない、五歳になってやっと重賞馬になれたようなナギノシーグラスが衰えきったら、その最後はどんなやりきれない引き際になるだろう。
未勝利の頃からこの牝馬の堅実さしぶとさを愛してきた菅原が、ナギノシーグラスが落ちぶれていく姿を見るのがつらいというのは、山田にも理解できる。
「現地、今回は行かないのか。札幌なのに」
「行かないかな。日曜に悲しくなって帰ることになりそうで気力がわかない。テレビでいいや」
そうか、と山田は笑った。
「まあ……できるだけいい結果を祈るか」
「それしかないね」
それじゃまた帰省したときに、山田はそう言って通話を終了した。
「ナギノシーグラスがうらやましいよ」
お盆休み、関東に帰省していた西畑望はそんなことを言った。居酒屋で一緒に飲んでいた親友の理香子は、どうしたの急に、と首をかしげた。
「正確には、ナギノシーグラスのファンが、っていうべきかも。だって、わたしはもう、サンドリヨンの走る姿を見られないんだよ」
ああ、と理香子はうなずいた。
去年のエリザベス女王杯での勝利を最後に、サンドリヨンがターフに戻ってくることはなかった。年も明けないうちに、左前肢に屈腱炎を発症していたことが判明したのだ。
そのまま、あっけなく引退することが発表された。
無事だったら明け五歳で、まだ今年いっぱいくらいは走っていただろう。サンドリヨンの能力なら、国内でも海外でも、選択肢はいくらでもあったはずだ。
もともと体質の弱さが課題の馬ではあった。せっかく骨折を乗り越えてこれからというときに、あのガラスの脚は最後に一度だけ輝きをはなって、そこが限界だったのだ。
望は、まさかあのエリザベス女王杯が、サンドリヨンの走りを目にした最後になるとは思っていなかった。思いがけなく人生の転機の一つとなったあの芦毛馬の故障引退を、正直なところまだ受け入れられない。
競走馬が無事に現役生活を全うするということ、ただそれだけのことでさえ、どれほど難しいかを思い知らされた気がした。
「こうなったらさ、サンドリヨンが二度負けて、最後に二着に抑えたナギノシーグラスには、結果出してもらわなきゃだめだと思うわけ」
アルコールに顔を赤くしてそんなことを力説する望に、理香子はくっくっと笑った。
「のんちゃんがライバル視してたくらいなのに」
「そうそう。サンドリヨン、体質が弱くて力を出し切れなかったって見方もあるじゃん。ナギノシーグラスが結果出せば、サンドリヨンも怪我してなければもっと……って思う人もいるかもしれないでしょ」
「うん、まあ、逆にナギノシーグラスが負けまくったら、あのエリザベス女王杯はレースレベルが低かった、なんて言われかねないか」
「それが一番いや。三度も同じ二頭でワンツーしてたせいで、さすがになんとなくセットのイメージついちゃってると思うから、よけいに」
そう言って、望は勢いよくビールをあおる。
「ほんとは、あと一年くらいサンドリヨンを追いかけられるはずだった。ほんとはもう少しサンドリヨンのレースを観たかった。でも、そんなこと言ったってしかたないし、それなら、ナギノシーグラスを通して、もうちょっとだけ夢を見たいんだ……」
わかるよ、と理香子が微笑む。
理香子のほうが競馬歴は長くて、気に入った馬の故障引退なんてもう何度も見てきた。望は競馬に手を出してまだ三年、最初に好きになった馬が屈腱炎で引退するとなると、相当ショックだっただろうと思う。
サンドリヨンの引退で、もしかしたら望は競馬をやめてしまうかもしれない、と理香子は思った。今の望にはもう、一時期のような自暴自棄な様子はないし、仕事も趣味もいいバランス感覚でこなしている。初めての競馬場でいきなり十万円賭けるようなまねをして、理香子の肝を冷えさせたのも今では笑い話だ。
望にはもう競馬は必要ないのではないかと思ったけれど、そんなことはなかった。今年も肩入れしてしまう馬を見つけては、理香子と一緒になって盛り上がってくれる。
望がすっかり元気になったことも、それでも今も一緒に競馬を楽しんでくれることも、理香子にとってはどちらも嬉しかった。
だから理香子にとってもサンドリヨンは大事な思い出の馬だ。人間の勝手な思惑だと自覚していても、そのサンドリヨンと勝利を三度奪いあったナギノシーグラスには、頼むぞ、くらいの気持ちを理香子も抱いてしまう。
「……それじゃのんちゃん、週末は、兵庫に戻る前にうち寄るんだよね?」
「うん。それで、競馬中継終わったら新幹線乗る。あーあ、次の日出勤じゃなきゃ、ビール持ちこむんだけどな」
ぼやく望に、理香子は声を上げて笑った。
「悪くなったねー。昼からビールだなんて発想」
「ここ最近、土曜はたまにやるよ、競馬観ながらビール。最高じゃん。でも、わたし休み明け走れないタイプだから、仕事の前日は飲まない」
「そのへん、まだマジメのんちゃんの片鱗は残してるね」
今もマジメだし、と言って望は舌を出した。