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ターフの上のシーグラス  作者: 石見千沙/ナガトヤ
第四部 最後の挑戦編
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第21話 ラストチャンスⅠ②

 ナギノシーグラスが、スタートしてすぐ最後方から三番手のあたりにまで位置を下げたのには、善之も驚いた。

 この馬が、中団より後ろにつけるのは珍しい。溜めて差す作戦での実績もあるがどちらかといえば先行型で、瞬発力に欠けるタイプの馬だから、ここまで後方に下がると、水野の判断ミスではないか心配になる。

「届くかな? あれ……」

「わからん……」

 奈津が首をひねり、善之はうめくように答える。最初のコーナーを回った馬群が、スタンド側へ押し寄せてくる。それと同時に、コーナーのほうから、徐々に歓声の波もこちらへ近づいてくる。

 そして馬たちは、割れんばかりの歓声に包まれながら、二人がいる直線の真ん中、ターフビジョンの前あたりをようやく通過した。

 まずはゲートの出を心配されていたカンノヴェロシティがきれいなスタートを決め、前から四番目あたりの内ラチ沿いという絶好のポジションをとったことで観衆の多くの気がかりが解消され、現地は明るい盛り上がりを見せていた。ヤマオロシはちょうど真ん中あたり、エンデはナギノシーグラスの外側を並走する位置にいた。エンデの鞍上はあのゴーリーで、騎手もまたエンデの人気を押し上げる一因になっている。

人気どころのポジションはこんなもので、八歳の長距離重賞常連サンゴクワールドが逃げてレースを引っぱっている。カンノヴェロシティの直後につけてこれをマークするのは芦毛の五歳馬シュヴァンと宝塚記念馬リングヴォヤージュの二頭、中団でヤマオロシをマークするのがアカシ、その後ろに、原騎手が手綱をとるナツアカネがいた。

 二度目の向こう正面に向かう馬群は縦長、後方勢に注目する人々はやきもきしたり、エンデとゴーリー騎手のコンビなら大丈夫だとのんびりかまえていたり、そこここから聞こえてくるざわめきの内容はさまざまだった。

 善之と奈津は、そろって不安な表情で観戦する側だ。ナギノシーグラスがこれまで出走したなかで最も長い距離のレースで、しかもこんなに後ろにいたことがない。

「無理に前に行くよりは、安心といえば安心だから……」

 善之がつぶやくと、奈津も神妙な様子でうなずいた。

 レース前には楽しみな思いが勝って、いけるところまでは行けと応援する気持ちが盛り上がっていたが、いざ、こうして二周目にさしかかる馬たちの様子を見ていると不安がこみあげてくる。

 もういいよ、と善之は思っていた。

 勝たなくても、好走だってしなくてもいい、とにかく回ってくるだけでいいから、無事にレースを終えてくれよ。

「……たぶんこれは挑戦だから。ダメならダメでいいんだよ」

 奈津がいつになく自信なさげにそんなことを言う。善之も同じ思いだった。今日のレースでナギノシーグラスが大負けしたとしても、何事もなくレースを終えさえしたなら、それが一番嬉しいと感じられるにちがいなかった。


 向こう正面に入ったところで、サンゴクワールドが少しずつ馬群を離しはじめた。二番手集団とのあいだが三馬身、四馬身と空いていく。馬群は相変わらず縦長で、ナギノシーグラスもいる後方組のあたりまでかなりの距離があって、しのぶはテレビの前でやきもきした。

「やばいやばい……これ追いつかないでしょ……」

 ようやく後方組が向こう正面真ん中あたりにさしかかったころ、ナギノシーグラスの外側につけていたエンデが進出を開始して、しのぶは思わず尻を浮かせた。実際にはエンデはナギノシーグラスより一馬身ぶん前に出て、空いた内ラチ沿いにすっと入り込んだだけだったのだが、そのまま置いていかれそうな気がしたのだ。

 ナギノシーグラスはまだ動かない。一方でいよいよ三コーナーに近づいた中団馬群に動きが出てきている。強気にもここで仕掛けたのがヤマオロシ、ただしそれはまだ慎重な進出だ。中団から、じわり、じわりと先行勢ににじり寄るような動き。

 つられたのがずっとヤマオロシの直後にぴったりつけていたアカシで、ヤマオロシに置いていかれないよう騎手がうながしただけで、スイッチが入ったらしい。あわてて手綱を引っ張りなおした騎手の動きに、アカシは怒りくるったように首を振り上げ、みるみるうちにヤマオロシを抜き、四コーナーに入り、坂を下りながら横並びになりはじめた先行集団に食らいついた。誰がどう見ても早すぎる仕掛けだ。

 しのぶがナギノシーグラスにばかり気をとられているうちに、気がつけばさっきまで後方にいたゼッケン十番、エンデがいつの間にか先行集団最内に追いついているのに気がついた。

「何? なんで? エンデ、ワープした?」

「コーナー手前で一気に位置を上げたんだよ。コーナーを回るときに他の馬が外にふくれるのを利用して、ほんのちょっと空いたインに、騎手が馬をねじこんだんだ」

 たいした度胸だよ、と感嘆する父の説明を、しのぶは最後まで聞いていなかった。後方集団がようやく三コーナー、淀の坂を下りはじめたとき、ようやく水野騎手がアクセルを踏みこむように、ナギノシーグラスの首を押したのが見えたのだ。

 応えて、ナギノシーグラスの首がぐっと低くしずむ、ストライドが雄大に伸縮する、鹿毛の馬体の内側でエネルギーが燃えている。下り坂の勢いを利用しながら大きくふくれ、馬群の大外を通ることにはなったが、前方に邪魔するもののないその進路を豪快に駆けおりだした。

 先頭は残り四〇〇メートル、逃げ続けたサンゴクワールドと、二番手にまで上がってきていたカンノヴェロシティとの差はほとんどなくなっていた。内からはエンデ、外からはヤマオロシが、豪脚と豪脚のはさみ撃ちで先行勢を飲みこみつつある。リングヴォヤージュとシュヴァンも必死にカンノヴェロシティに追いすがり、後方からの襲撃を退けようと馬首を伸ばすが、その脚色には限界が見えている。徐々に開いていく距離は、近い位置取りで進んできたカンノヴェロシティと他の先行馬たちの能力差そのものだった。

 やがてサンゴクワールドが闘志もスタミナも使い果たして急激に沈みはじめ、ヤマオロシとエンデがリングヴォヤージュとナツアカネを無慈悲に追い抜き、カンノヴェロシティに並びかけたあたり、その上位陣の激戦のさまを、しのぶはもう見ていなかった。

 だって、後方大外でナギノシーグラスが止まっていない。内でバタバタしている二頭、三頭、みるみるうちに置いていった。

――行け、行け……行け……!

 ガス欠を起こして落ちてきたアカシとすれ違いながら前へ。まだ前へ。

 先頭で競り合う三頭、ヤマオロシが一瞬先頭に立ち、カンノヴェロシティとエンデが差し返しておよそ三完歩、このレースの勝敗は決した。カンノヴェロシティの頭が一番前に出ていたのは、誰の目にも明らかだった。

 大歓声が上がるなか、まだナギノシーグラスはしぶとく脚を伸ばし続けていた。サンゴクワールドに追いつき、追い抜いたところで、ナギノシーグラスはゴール板を通過した。

 隣の父が「かたいなあ」とぼやいたのをきっかけに、しのぶは息をすることを思い出した。

 負けた。三着にも入らなかった。

 それでも気持ちが清々しく、そこまでの悔しさがないのは、事前にナギノシーグラスはないないと言われて、心のどこかで期待しすぎずに済んだせいだろうか。

 それとも、下り坂の勢いに乗って、豪快に大外を上がってくる姿が一番印象に残ったせいだろうか。

 しのぶは競馬にはそこまで詳しくない。細かいことなどわからない。

 だが、ナギノシーグラスはこのレースで相当がんばったのだと思う。人間だったら中学生のスポーツでも男女分かれている。それなのにこの牝馬は三二〇〇メートルという長丁場に紅一点挑戦し、何頭もの馬がスタミナ切れを起こして落ちていくなか、最後の最後まで脚を伸ばし続けた。

 細かいことなどわからなくていい、と思った。ナギノシーグラスは、少なくともしのぶという純粋なファンひとり満足させる走りを見せてくれたのだ。

 しばらくして発表された全着順、ナギノシーグラスは十八頭中の八着だった。


 レースが終わってから、藤野優衣は、「競馬に絶対はない」とだけ記したSNSの投稿に、お気に入り登録のマークが一つだけついているのを見つけた。

 ナギノシーグラスが負けることは心のどこかでわかっていた。長距離GⅠを果敢に走りきったこと、今まで見たことがないような末脚を見られたことだけで満足しようと思った。

 それでも、どうしてもおさえきれない落胆にため息をもらし、携帯電話を開いたとき、TA氏がその投稿に反応をくれていたことに気づくと、いくらか元気が出た。この顔も名前も知らない同志が、わかるよ、信じたいよな、と言ってくれたような気がした。

 ナギノシーグラスの現役続行について、無駄だの、引退したほうがいいだの、そんな声も聞かれるようになってきた。優衣もそう思うことがないでもない。

 でも、喜ぼうと思う。愛してやまない馬が走り続け、挑戦する姿をまだ見られるということを、心から。


 優勝は菊花賞馬カンノヴェロシティ、二着はダービー馬エンデ。ヤマオロシは、天皇賞春三連覇ならず。世代交代色の強いレースだった。

 楢崎が応援するアカシは十着。最後の直線、後ろ歩きにさえ見えるほど無様に、なすすべもなく下がっていった、あんな姿は見たくなかった。

「せっかく現地に来たのに、アカシ、残念だったわねえ……」

 妻の頼子が楢崎を気遣うようにそう言う。コース周辺から引き揚げていく人の群れにまじって歩きだしながら、楢崎は上着のポケットの中で、こぶしを握りしめた。

「勝負ごとなんだから、しかたないさ」

 そうは言いながら、悔しさとも悲しさともつかない感情はこみあげてくる。

 最後の直線、もはや燃えつきたアカシがただゴールめざして進むだけになって、大外をぶん回してでも末脚に賭けたナギノシーグラスに置いて行かれる瞬間が、いまいましくも脳裏に焼き付いている。

 カンノヴェロシティ、エンデ、ヤマオロシ。この三頭はやはり別格だった。勝負にもならなかった。それは受け入れられるとして、ナギノシーグラスというパッとしない馬に、アカシが先着されるのは何度目だろう。楢崎には、ナギノシーグラスという牝馬が、どうにも小憎らしい存在として印象づけられてしまっていた。

 はじまりは睦月賞、次は去年の秋の京都大賞典、そして、この三二〇〇メートルでまで。自分の好きな馬が追いつけなかった馬。

 アカシがコーナー手前で我慢できていれば、ヤマオロシにつられなければ……楢崎はそこまでで考えるのをやめた。

 気性もふくめて、アカシはナギノシーグラスに負けたのだ。完敗だ。どちらかといえば先行型のあの牝馬が、いつもと全く違う戦法を選んだ騎手に応えて我慢して、持てる力を存分に出し切って、上がれるところまで上がっていったのだ。

「……しかたないさ! 完敗完敗!」

 楢崎はそう言いながら、ポケットに入れていた馬券を取り出し、くしゃっと握りつぶして、コースから馬券売場に続く通路の入り口に設置されているゴミ箱に投げ捨てた。

「頼子、最終レースは抜きにして、旅館に戻るのでもいいか?」

「わたしはいいですよ。あなたはそれでいいの?」

「いい、いい。早く京都のうまいもんにありついて、明日の観光にそなえてゆっくりしよう」

 頼子が笑顔でうなずき、明日も楽しみねえ、と言うのに笑いかえしてから、楢崎は最後に一度、コースのほうを振り返った。

 まだ人が大勢残って、表彰式を見ている様子だ。そこまで興味もわかなくて、楢崎は再び競馬場出口に向かって歩きだした。

 六歳牝馬のナギノシーグラスがどこまで現役を継続するのかは知らないが、無様な引き際は許さんぞ、と思った。アカシという馬が何度もナギノシーグラスに先着を許したことを、アカシを愛する楢崎をも納得させてくれるくらいの走りでもって、残りの現役生活を全うしてほしかった。

 そういうふうに考えだすと、敵のように思えていたナギノシーグラスが、楢崎の中でもふしぎと憎めない存在に変わっていく気がした。

 結果はともかく、今日のあの地味な牝馬の走りは、楢崎でさえ讃えたくなってしまうものではあったのだ。

まるでディープ産駒キンカメ産駒に囲まれたマイナー種牡馬産駒のようなこの作品を見つけてくださった皆様、本当にありがとうございます。このお話より最終章、年内完結予定ですので、あと少しお付き合いいただければ幸いです。

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