第21話 ラストチャンスⅠ①
惜しくも二着に終わった日経新春杯から二ヶ月後、阪神競馬場内回り三〇〇〇メートル、阪神大賞典。引退撤回してこの長距離GⅡに臨んだナギノシーグラスは、中団待機からじわじわ位置を上げていく作戦で、紅一点ながら十一頭中の五着、掲示板に乗る活躍を見せた。
阪神大賞典というレースは、そもそも牝馬が出走することが少なく、牝馬の勝ち馬が過去に出ていない。三〇〇〇メートルという距離、阪神競馬場名物ともいわれるゴール前の急坂、スタミナとパワーの両方が要求される条件をそろえたこのコースで、ナギノシーグラスは、少なくとも最後まで止まらなかった。
しかし勝ち馬のヤマオロシをはじめ先行した四頭には追いつけなかった。出遅れながら最後の豪脚でヤマオロシに半馬身差まで迫った、去年の菊花賞馬カンノヴェロシティには、直線でやすやすと置いていかれてしまった。だが、ナギノシーグラスは最後まで止まりもヨレもせず、少なくとも距離はこなせるということを証明した。
陣営は迷わず、天皇賞春への挑戦を表明したのだった。
いよいよ四月の天皇賞春当日、善之と奈津は現地観戦するため、朝一で京都競馬場入りしていた。
四レースまで観戦したところで昼食をとることにして、二人は陽だまり広場に向かった。
陽だまり広場では、今日と昨日の二日間限定でグルメイベントが開催されていて、さまざまな都道府県の名物メニューをキッチンカーで販売している。
善之と奈津は海鮮丼を選んで、長蛇の列の最後尾に二人並んだ。
「……ナギノシーグラスの前走。六歳牝馬が三〇〇〇で掲示板ってだけでも、立派やんな」
さっそく話しはじめた奈津の勢いに苦笑いして、善之はうなずいた。
「牝馬が勝った最後の年は、菊花賞は一九四七年、天皇賞春は一九五三年。このへんのレースに挑戦する牝馬自体、毎年一頭二頭おるかおらんかやから。挑戦するだけでも、ようやるわ、って思うくらいやけど」
善之は携帯電話を取りだし、先月の阪神大賞典についてインターネットで検索をかけた。
「『この距離はこなせると感じましたし、上積みもあります。次が楽しみです』……前走の水野騎手のレース後コメントは、やる気満々やなあ」
「うん、わたしもそれ、見た。ヨシくんは勝つと思う?」
奈津の問いに、善之は、無理、と首を横に振った。
「阪神大賞典ワンツー組でも、春天三連覇を狙うヤマオロシに、菊花賞馬のカンノヴェロシティやろ。あと、GⅠ馬じゃないシュヴァンや八歳馬のサンゴクワールド、このへんにも届かんかったのに、大阪杯からはあのダービー馬のエンデも来る。日経新春杯でナギノシーグラスに勝ったナツアカネも、宝塚記念馬のリングヴォヤージュも日経賞から来る。勝つかどうかってレベルの勝負は正直きついと思う……」
あまり希望のないことを言うと、ナギノシーグラスが大好きな恋人ががっかりするかもしれない、と語尾をやわらげて奈津の顔をちらっと見ると、意外にも奈津は目を輝かせている。
「それでも挑戦するってことやんな。陣営は、わたしたち素人にはわからん根拠があって、シーグラスをレースに出すってことやん」
「お、おう。そうやな」
「わたし的にも、勝ち負けじゃなくて、どこまでやれるかって感じで楽しみや」
もう負けてもええやん、などと言って、奈津はさっぱりと笑う。
「出走するだけでも大変なことなんやってことはわかった。わたしは最後まで応援するだけや」
善之のほうは、心のどこかでナギノシーグラスの長距離重賞挑戦について、あきれに近い感情を抱いていたのだが、それは温かく変化した。奈津がこんなことを言うと、いつもこうだ。
自分が後ろ向きなことを口に出す前に、立ち止まらせてくれる恋人だ。一歩立ち止まって、奈津の言葉を待っていれば、それは前向きなものに変わるのだ。
「……うん、そうやな。ぼろ負けはないはずや。三着の可能性はあると見て、おれは春天のシーグラスは紐には入れる」
「今から決めてええの?」
奈津がからかいの目線を向ける。ええの! と善之がふんぞりかえると、奈津は笑った。
「今度こそ当ててもらお。次はお返ししてもらうから」
善之も頭をかいて笑った。談笑しているうちに、ずいぶん長く見えた行列も思ったより早く前に進んでいく。海鮮丼は、午前中の未勝利で単勝万馬券を当てた奈津が奢るといってきかなかった。
中学生になったばかりのしのぶは、ゴールデンウィークがはじまったばかりというのに友達との予定も入れず、昼までに宿題のノルマや買い物を片付け、中継の瞬間を待っていた。
十五時、競馬新聞をとにらめっこしている父が時計を見て、さて、と声を上げる。
「ナギノシーグラスはどこまで食い込めるかな」
勝利までは想定していなさそうなその口ぶりに、しのぶはむきになってこう言った。
「出るからには一着一着!」
「えー……いやあ……出るからには可能性ゼロとは言わないけど、まあ現実味ないぞ」
「うそうそ、ちょっとくらい可能性あるでしょ」
横から父の新聞をのぞきこみ、天皇賞の予想欄に目をつける。予想家たちのうち、ナギノシーグラスに印をつけているのはたった一人だ。それも「注」。
「……注、ってなに」
「三着までなら可能性がある馬」
新聞に予想を載せるような人々の評価がその程度だと知って、しのぶはさすがにがっかりした。
「失礼な。ナギノシーグラス、もうちょっとやれるでしょ」
「いや、こんなもんだと思うぞ。おれはまじめに馬券買うなら、申し訳ないけど、ナギノシーグラスは紐にも入れられない」
「夢がない」
「夢ねえ……」
父が新聞をたたむ。テーブルの上のリモコンを取って、競馬番組にチャンネルを合わせると、もうパドック中継が始まっていた。
京都競馬場外回り三二〇〇メートル、天皇賞春。フルゲート十八頭立て、阪神大賞典に続き、牝馬はナギノシーグラスただ一頭だけ。
若い四歳勢力の台頭、ダービー馬エンデと菊花賞馬カンノヴェロシティ。エンデなどは前走GⅠの大阪杯を快勝したうえで出てきて、現状一番人気に支持されている。距離的な実績はカンノヴェロシティが上といえるが、スタートを不安視されて二番人気。
かつて兵庫特別でナギノシーグラスと初めて戦ったヤマオロシも同じ六歳、天皇賞春三連覇を賭けてここに来た。大阪杯にも海外にも目もくれず、前哨戦も阪神大賞典だけ、同一GⅠ三連覇という偉業に対する陣営の思いが見てとれる。
一方、馬券を買う側からは。阪神大賞典で出遅れたカンノヴェロシティにコンマゼロ秒差迫られたことや、いつもは休み明けが苦手なのに今年初戦の前走を勝ってしまったことで、上積みの有無を疑問視する向きもあり、ヤマオロシは三番人気に甘んじている。
GⅠ馬はもう一頭、五歳のリングヴォヤージュがいて、四歳まで掲示板を外したことがなかった安定した実力が評価されていたが、前走の大阪杯で十着と大敗を喫したことが影響して四番人気。
結局、今回のレースで抜きんでているのはこの四頭でまちがいない。無邪気にナギノシーグラスの勝利の可能性を信じるしのぶと違って、父は、この天皇賞は手堅く決まるのではないかと、あくまで現実的に考えていた。
テレビにナギノシーグラスの姿が映しだされる。
以前のパドック中継でナギノシーグラスを見たとき、しのぶは、この牝馬は人間に例えるなら、女優やアイドルというよりモデルみたいな感じかもしれない、という印象を抱いたが、今回もそれは変わらなかった。
例えるなら、背が高く骨格のしっかりとした、静謐な態度の中性的な美女。牡馬にまじってタフな条件のレースをこなしてきたこれまでの実績に、大観衆にも他馬にも動じず前を見据える姿に、しのぶはそんな幻影を見ていた。
ナギノシーグラスは馬番十二番で、人気の十一番カンノヴェロシティと同じ六枠だ。たくましい腰回り、日光を浴びて輝く毛並み、パドックの見方はいまだによくわからないけれど、すぐ前を歩く菊花賞馬と比べても、何の問題もないように思われた。
むしろ、カンノヴェロシティのほうがときおり首を上げ下げしていて、ナギノシーグラスの穏やかな様子が引き立っているようにも感じられた。
「……おとうさん、どう?」
「何が」
「ナギノシーグラス。ピカピカだし、落ち着いてるし、いいんじゃないの」
「そりゃ人気ツートップのヤマオロシもエンデも変わらんだろ」
「あとはカンノヴェロシティ、強いみたいだけどちょっとイライラしてるよ」
「あのくらいは問題ないよ。菊花賞のときはもっと、パドックで一回立ち上がるところもあったけど、それでも勝ったからな。スタートさえ決まれば必ず上位に入ってくるよ」
もう悔しくなってきて、しのぶはテレビに目を戻した。どうにか、ナギノシーグラスが勝つ理由を探そうとした。
しのぶは基本的にはナギノシーグラスと、その次くらいにヤマオロシが好きなだけで、競馬のことは詳しくない。データも血統もよくわからない。
だから信じていられる、ナギノシーグラスが勝利する可能性を。
そのときふと、初めてちゃんと競馬を観戦した三年前の兵庫特別で、父が語った言葉を思い出した。
「……競馬に絶対はない、んだよね?」
「お、よく知ってるな、それ」
しのぶは、父に向かってずっこける身ぶりをしてみせた。自分が教えたというのに、忘れている。
そんなしのぶに首をかしげて、父は、まあそうだな、と言う。
「十八頭立てのレースで十八番人気の馬が勝つこともあるからな」
「ほら。ナギノシーグラスが負けるとは限らない」
父は苦笑いして、それ以上反論しなかった。
「競馬に絶対はない……」
コースの前でごったがえす観衆の中で、SNSの片隅に見つけた呟きを、卓也は小声でなぞった。競馬好きであればいくらでも目にする機会があるその格言、ただその一言だけを、いつものナギノシーグラスのファンがついさっき投稿していた。
天皇賞春を勝った牝馬が五十年以上出ていないこと、他の出走馬が強力すぎる顔ぶれであること、いくら卓也がナギノシーグラスを好きでも、さすがにここでどうにかなると思うことはできなかった。
卓也と同じくらい熱心に、ナギノシーグラスを追いかけているこのフユイという人物も、その現実をかみしめながら、きっとこの京都競馬場のどこかにいる。
卓也の父ですらそうだった。さっき電話したときも、ナギノシーグラスの身を案じてぶつくさ言っていた。
「六歳になった牝馬が春天なあ。親父が天皇賞馬だし、ポセイドンの子が同じく春天に挑戦するってのにロマンは感じるけど……レース中に故障でもしたら取り返しがつかないぞ……」
父の言うこともわかる。三二〇〇メートルのGⅠという厳しいレース、ナギノシーグラスがタフな牝馬でも、とにかく無事に走りきってほしい、怪我だけはしないでほしい、卓也にしてもその願いが一番にあった。
そして、父はあくまでナギノポセイドンのファンだ。今のところナギノポセイドン産駒ただ一頭の、中央重賞勝ち馬としてのナギノシーグラスを応援する立場だ。ナギノシーグラスのこれ以上の勝ち負けどうこうよりも、牝系でもいいから、早くナギノポセイドンの血をつないでほしい気持ちのほうが強いのだろうと思われた。
一方の卓也は、ナギノシーグラスという競走馬を応援する立場だった。ナギノシーグラスに勝ってほしかった。子孫の活躍を早く見たいとも思うけれど、それよりも今この場で、ナギノシーグラスの底力を証明するようなレースぶりを見たかった。
たぶん、フユイ氏も同じ思いでいるのだろう。競馬に絶対はない。愛する馬の勝利を信じているのなら、そんな言葉は出てこない。それでも勝利を願ってしまうから、競馬に絶対はない、と自分に言い聞かせるのだ。
だから、たったそれだけの投稿に強烈な親近感をおぼえて、卓也はお気に入り登録を選択するボタンをタップした。フユイ氏という人物の、写真が添付されていない投稿にまで反応するのは初めてだった。
背伸びをしても視界の下半分で人の頭が黒々と揺れ動き、もうターフビジョンしか見えない。卓也は、それくらいでちょうどいい、と思った。好きな馬の出走そのものが賭けのような、今日のレースは心臓に悪い。
スターターが台に上がったのが見えた。旗が上がり、ファンファーレの生演奏が響き、負けじとわき起こる歓声が快晴の天に吸い込まれる。
スタート地点は向こう正面。六枠十二番ナギノシーグラスの鞍上の青い勝負服と緑の帽子が行儀よくゲートにおさまったのを確認して、それだけでひとまず安堵した。
全馬がゲートインしてからのほんのわずかな間の、観衆がいっせいに息をのむかのような凪のような瞬間、そして。
『スタートしました』
今日も、戦いの火蓋は切って落とされた。