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ターフの上のシーグラス  作者: 石見千沙/ナガトヤ
第三部 重賞戦線編
43/53

番外編 ミスティモーニングの日経新春杯

2019年末、ツイッターの創作企画「文字書き忘年会」で書いたSSに加筆訂正したものです。水野騎手の過去レース。

「スタートしました」

 戦いの幕が切って落とされる、ガコン、という音と共に十六頭の馬が一斉にターフに飛びだしていく――。


 先手を取ったのはレース中ただ一頭の芦毛馬、十番人気の四歳牡、ミスティモーニングだ。レースはGⅡの日経新春杯、重賞勝ち馬が何頭か名を連ねている。なかでもデビューからこのかた三着内を外したことはなく、前走菊花賞二着の実績を持つ良血、青鹿毛のミッドナイトウルフが圧倒的一番人気となっているなかでは、条件戦を勝ち上がったばかりのこの馬に関して、期待する人間は多くない。

 若き鞍上は、レース前から、大逃げを打つことを心に決めていた。

(おれたちには、これしかない。これしかないんだ)

 そうだろ、ミスティモーニング。心の中でそう語りかけながら、騎手は芦毛の馬体に出鞭を入れた。

 日経新春杯は二四〇〇メートルのレース、道のりは決して短くない。まだ先は長いのに、芦毛馬はすでにエンジン全開に見える走りを見せていた。

 ある観客は言う。

「どうせ直線あたりで沈むだろ」

 また、ある観客はぼやく。

「あーあ、紐には入れてたから、二着に来りゃ美味しいと思ってたのに。こりゃ掲示板にも残らんな」

 スタートから一コーナー、二コーナーを回り、向こう正面に入りながら、ミスティモーニングとその騎手は五馬身、六馬身、後続との差を開けていく。

 この騎手は、普段、重賞に乗ることもまれなポジションの若手だ。人気薄でも、このGⅡの舞台は大きなチャンスだと思っていた。

 そしてミスティモーニングは、若駒時代に低迷していた馬ではあったが、この騎手はこの馬を、実力と成長力を秘めた馬だと思っていた。

 やっとこの馬と重賞の舞台まで出てこられた、ここは絶対に勝ちたかった。どんな強敵がいるとしても。勝って、この先の重賞戦線を、GⅠへの道を、共に歩みたいと強く願った。

 レース直前からスタートまで、思い詰めるほどの思いでいた騎手は、向こう正面の半ばほどで少しばかり気持ちが落ち着くのを感じて、ちらりと背後を窺った。

 圧倒的一番人気の馬の鞍上、目立つオレンジの勝負服はまだ遠い。他の馬もつついてくる気配はない。

 ミスティモーニングが大逃げを打ったというのに、二番手以降は、ミッドナイトウルフばかりを意識して、未だ牽制しあっているらしい。

 急速に自信がわき上がってくるのを感じた。

 まもなく第三コーナー、ミスティモーニングはまだリズムよく飛ばしている。後続も差を詰めてきている気配はあるが、せまりくる足音はまだ脅威ではない。

「いけるか? ミスティ……!」

 呟くともなく呟き、コーナーを回り、三コーナーの坂を下りながら、騎手は馬首をぐいと押した。

 下り坂の勢いに乗って、ミスティモーニングは止まらなかった。スタートから大逃げという一か八かの賭けに出ていた鞍上も驚くほど、その冬空色の馬体には豊富なスタミナが残っていた。後続は有力馬を警戒しすぎた、ミッドナイトウルフが直線に入りながらラストスパートをかけるころにはミスティモーニングはまだ数馬身先、ミッドナイトウルフ並の瞬発力さえ持ちえない他馬は、すでに逃げ粘る芦毛馬には届くまい。

 それでも、ミッドナイトウルフは強敵だった。

 ゴールまで残り百メートル。ミッドナイトウルフが一完歩ごとにせまってくる。

 ミスティモーニングの騎手の視界の隅に青鹿毛の馬体が映った。背筋に寒気が走った、絶望した、必死に鞭をくれるももうだめだと思った。

 だが、ミスティモーニングはまた伸びた。

 条件戦上がりの十番人気の馬、スタートからエンジン全開飛ばしに飛ばしながら、その馬体のどこにそんな余力が残っていたのか、誰も予想だにしなかった二枚腰を発揮して、ミスティモーニングは、迫るミッドナイトウルフを差しかえしたのだった。

 アタマ差でミッドナイトウルフをしのぎきり、ミスティモーニングはゴール板に飛びこんだ。逃げきったのだ。青鹿毛の強敵がゴールまでに視界の先へ飛びだすことがなかった事実を、騎手はどこか信じられない心持ちでかみしめていた。

 ミッドナイトウルフに騎乗していた騎手が、悔しそうに「やりやがったな!」と称賛とも怒りともつかない言葉を投げてきて、彼はやっと勝利を実感した。

 観衆のどよめきが聞こえる。いつになく笑い声がまじっている。賭ける側の多くにすれば笑うしかないだろう、これほど人気を集めた馬が負け、二桁人気の馬が勝ったのだから。

 さすがにへとへとの芦毛馬を徐々にスピードダウンさせ、歩かせてやりながら、騎手は語りかけた。

「ごめん。おれがおまえを甘く見てたよ。あんな二枚腰、持ってたんだな」

 口の周りに泡を浮かべ、呼吸を荒げる愛馬は、目を血走らせるばかりで応えはしない。汗だくの首筋をごしごしと撫でてやりながら、騎手は心の中で言葉をかけ続けた。

(おれたちにも、これしかない、なんてことはない、のかもな)

 いつしか観衆の笑い声や罵声、絶叫のあいまに、おめでとう、の言葉がまじりはじめていた。騎手にとっては久しぶりの、馬にとっては初めての重賞制覇だった。

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