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ターフの上のシーグラス  作者: 石見千沙/ナガトヤ
第三部 重賞戦線編
42/53

第20話 日経新春杯③

 モニターに映し出されたスタート地点、いつものようにゲートが開いて、ナギノシーグラスは水野がうながすのに従って前へ前へ出ていく。そろったスタートになるかと思われたが、一頭の栗毛馬が最初の一歩でがくんと馬首を下げ、躓いた様子を見せた。四番のナツアカネだ。一郎が、げー、と呟く。

 黒い点の群れのような馬たちがだんだんこちらへ近づいてくるのを見ながら、シンが目を細めた。

「……スタートいいやんな、ナギノシーグラスは。失敗したとこ見たことない」

 ターフビジョンを見ると、先行争いのなか、水野が果敢にナギノシーグラスの首を押し、二番手最内を奪いとっていた。

「でも、ナギノシーグラスって溜められる馬やと思うからなあ。もうちょっと慎重にいってもええんちゃうか……」

 シンの言葉の最後のほうは、目の前にさしかかった馬たちの蹄音にかき消された。彼らが第一コーナーのほうへ通り過ぎるのを待って、橘は口を開いた。

「それで最後届かんかったら、消極的だの、なんで控えただの言われるやん。どっちかっていうと、シーグラスは先行馬のイメージやろ」

 コーナーを回りながら、先行集団の外目の馬たちがごちゃつきながら次々位置を上げていき、二番手でコーナーに入ったナギノシーグラスの位置はいつしか四番手か五番手になっていた。

 空いたナギノシーグラスの外側に出てきた一頭の馬が、走りながらさかんに首を振り上げ、吠えるように口を開け閉めしているのがモニター越しでも目についた。

 一番人気、コバルトトゥモローだった。騎手が必死に腰を引き、手綱を引いている。一郎があーあ、と腕組みする。

「コバルト、めちゃくちゃ掛かってるなあ。あいつ追い込み一辺倒やろうに。こんな前目につけてスタミナもたへんやろ」

「壁を作りそこねたな。騎手は一枠一番からギリギリまで内にいさせたかったやろうけど、斜め前が空いて、馬が勝手に飛び出してしもた」

 制御を失っているコバルトトゥモローと、あくまで行儀のいいナギノシーグラスの対比がおかしくて、橘は笑ってしまった。

「横の小僧がうるさいわね、くらいの調子でゴールまでいってほしいな」

 そうですね、とシンは笑った。そのとき、うかない顔で一朗がコースを見つめた。

「ナツアカネはやっぱり遅れてますねえ。あれ、届くんでしょうか……」

 夏に飛ぶ赤蜻蛉の名を持つ、二番人気馬の明るい栗毛の馬体は、馬群の中でも西日を浴びてよく目立つ。コーナーを回りきったあたりの位置は後方から四番手、スタートの躓きもあって出遅れた印象はぬぐえない。向こう正面に入ってから馬群がだんだん縦長になっていっているから、実際の位置取り以上に後ろのほうにいるように見える。

「まだ大丈夫やって、追い込み馬やし」

 シンがそう励ます一方、レース展開が動きを見せるなかでナツアカネは後方から動かない。リングコンダクターが向こう正面半ばを過ぎたあたりで大胆にまくりはじめている。

 シンが前言撤回、と呟いた。

「……有力馬がこけてゴーリーがもらったな。ナツアカネとコバルトは残念やったな」

「シンさんてのひら返すの早いです」

 ナツアカネとは逆の意味で動きがないのはナギノシーグラスも同じだ。彼女は三番手前後最内から位置を変えないまま第三コーナーにさしかかりつつある。順調すぎて不安になるほどだった。最初隣にいたコバルトトゥモローは、コーナーワークで外に振られてやや位置を下げている。

 休み明けの六歳牝馬が牡馬混合の二四〇〇でこんなに順調なものか。きっと残り二百メートルかそこらで押し寄せた追い込み勢に飲み込まれて掲示板も外すのだ、そういうものだ。橘はそう自分に言い聞かせて、かすかな期待を押し殺し、レース後の失望に備えた。

 そのとき、ああ、ああ、と急に一朗がうるさくなって、四角のほうを指さした。

「来た! ナツアカネ来た!」

 最終コーナーを回りながら一気に塊になり、差し、追い込み馬の多くが大回り気味に外へ振られていくなかで、ただ一頭、その栗毛馬は最内にこだわっていた。内ラチにへばりつくようにしてコーナーを回り、自然に空いた最内コースをすり抜けることで、後方四番手から前から四番手へ、気がつけば一気に位置を上げていた。

「原、さすがうめえ……」

 シンがうめく。

 残り四〇〇メートルで先頭に立った橘本命のナギノシーグラスを、大外をまくって先行集団にとりついたシン本命のリングコンダクターと、最内から忍びよる一朗本命のナツアカネが追う展開、コバルトトゥモローはずるずる下がって後方集団に飲み込まれていった。

 一番人気馬の沈没にあちこちから悲鳴と怒号が上がる。しかめ面で腕組みをして黙って見守る橘の隣で、シンと一朗が口々に騎手と馬の名を叫びながら押し合いへし合いしている。

 残り二〇〇メートル、並んで駆けるナツアカネとリングコンダクターから先頭のナギノシーグラスまで二馬身、ここで初めてナツアカネに鞭が入った。

 栗毛馬の動きが目に見えて変化する。いっそう首を低くして、前脚を振り上げ地をたたくように全身を前へ前へ伸ばして、リングコンダクターを置いていきだした。

「……み……水野! そのままぁー! 残せー!」

 ついに橘もこらえきれず柵を拳でたたき、無我夢中で叫んだ。

 だがナツアカネは一完歩ごとに追い上げる。確実に距離を詰められながらも、ナギノシーグラスはやすやすと先頭をあけ渡さなかった。橘の胸は熱くなって叫ぶこともできなくなった。おまえここまでやれるのか、六歳になった牝馬が、将来有望な若馬や実績ある牡馬相手にここまで戦えるのか。

 引退間近のこのときになって。

 勝つか負けるかではない、雑草血統の晩成牝馬が見せた底力に、橘は胸が震えるほど興奮していた。

 ゴール直前で、ナギノシーグラスはナツアカネにとらえられた。

 一着ナツアカネ、半馬身差二着ナギノシーグラス、そこから一馬身差三着にリングコンダクター。

 少し離れた四着にはひっそりとテルクシノエが入っていて、結果として二頭しかいない牝馬が活躍したレースとなった。コバルトトゥモローは八着に終わった。

 見事馬単を当てた一朗はその場でいつまでもガッツポーズを繰り返し、一人馬券を外したシンは頭を抱えて、結果よりもレースに満足した橘はわけもなく大笑いしていた。


 翌週の金曜日の焼鳥会は、日経新春杯の馬単でかなり儲けた一朗の奢りということになっていた。

 その約束を取りつけていたのに、当の一朗だけが遅れてくることになって、定時退社をもぎとってさっさと入店していた橘とシンは、やきもきしながらも先に飲み食いを始めていた。

 その一朗も一時間もしないうちにやってきて、お待たせしましたー、と呑気な調子で二人の横に座った。

「遅いやんか、逃げたかと思ったわ」

 シンが軽口をたたくと、一朗はにやっとした。

「そんなん言ってていいんですか? 今日はおれの奢りなんですけど」

「すいませんでした、どうぞ明日の若駒ステークスの買い目教えてください」

 一朗は明るく笑ってから、「橘さんこれもう見ました?」と、だしぬけに橘のほうに携帯電話の画面を見せてきた。

「夕方くらいのニュースですけど。ナギノシーグラス、引退撤回しましたよ」

 予想外の情報だった。昼休み以来インターネットを見ていなかった橘は、口をつけていたビールに軽くむせた。

「……マジで?」

「マジみたいです。日経新春杯の結果を受けて、なんとかビッグタイトルを取らせてやりたいって、陣営が。しかも次走が……」

 一朗の言葉を最後まで聞かず、橘も自分の携帯電話を取りだし、検索をかけてその情報を確認した。

「次走、阪神大賞典!?」

 橘が驚いた声を上げるとカウンターの向こうで調理していた店主がびっくりして勢いよく顔を上げた。店主に向かって片手を立てて小さく謝り、橘はシン、一朗と顔を見合わせた。

「……これ、完全に天皇賞行く流れやん」

 シンがあきれたような調子で言う。

「繁殖入りを一年遅らせてまで、GⅡはともかくGⅠ粘るってだけでも賭けやないですか。ましてや阪神大賞典って……」

 そう言うのは難しい表情の一朗だ。

 二人とも、ナギノシーグラスがこれ以上勝ち星を挙げるのは、厳しいことと思っているらしい。

 だが、橘はそうは思わなかった。おもしろいやないか、と呟いて、ビールを気持ちよくあおって。

「おれは、可能性はあると思う」

 きっぱりと、そう断言した。

 京都記念で幕を閉じるよりも、これは断然おもしろい。

 この牝馬の真のラストランがどこになるにせよ、引退まで水野が乗るのかどうか、あとはそれだけが橘にとって気になるところだった。

過去のヤキトリーマンズ登場回

第12話 中日新聞杯

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