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ターフの上のシーグラス  作者: 石見千沙/ナガトヤ
第三部 重賞戦線編
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第20話 日経新春杯②

 その日の京都競馬場第六レース、芝一八〇〇メートルの三歳新馬戦で、ナギノディープシーと水野は十二頭立ての九着に終わった。

 苦笑しながら腕時計を見ると、十三時まであと数分。橘は外れ馬券を鞄のポケットに突っ込むと、コースに背を向けた。

 携帯電話を見ると、三人のメッセージグループには一朗からの「モニター正面付近にいます」という一言と、シンの了解スタンプが表示されている。

 スタンドを抜け、パドックまで出てくると、二人の後ろ姿はすぐに見つかった。モニターがよく見える位置の一番高いところ、UMAJOスポットの前あたりで缶コーヒーを手に立っていた。寒風に身を縮めながら駆け寄り、シンの隣に並んだ。

「待たせたな」

「いえいえ。ディープシーは残念でしたね」

 なんでそれを、という問いかけを遮るように、シンは笑顔で片手に持っていたコーヒーをずいっと差し出してきた。

「はい、橘さんのぶん」

「ありがとう、悪いなあ」

「ナギノディープシーで外したばっかりやろなあ、って思って」

 この野郎、と軽くシンに肘鉄して、橘はさっそく缶を開けた。もう少し暖かい季節なら冷たいビールといきたいところだが、一月の屋外では、ホットコーヒーも悪くない。

 第七レースを観た後、三人は一度レストラン街に引っ込んで熱いうどんをすすって体を温めた。それから馬券を買ったり買わなかったり、当てたり外したり、のんびりと過ごしているうち、あっという間に、日経新春杯の出走馬がパドックに出てくる時間が近づいてきた。

「ディープシーに限らず、水野、今日は乗れてないな」

 三人そろって集合したときと同じ場所に戻り、橘が深刻そうにそう言うと、一朗がシン越しに応じる。

「土曜から調子悪いですねえ。水野にしては珍しく馬質よくて、この二日で一番人気とか三番人気に三回くらい乗ってるのに、逃げ馬はスタートこけるわ追い込み馬は直線で詰まるわ、ことごとく飛ばして」

「ネットでめっちゃ叩かれてる。見てたらおれのほうがへこむ。なんか、直属の部下がめっちゃやらかして怒られてる気分」

 携帯電話を見ながらぶつくさ言う橘に、シンが苦笑いした。

「ネットなんか見ないほうがいいっすよ」

「でも、見てまうねん。マイナー騎手一緒に応援してる人見つけたら嬉しいやんか。でもナギノシーグラスみたいな、人馬マイナー同士でここまでのし上がってきたコンビ、騎手変えろーとか言われてるの見ると悲しくなるな……」

「橘さんピュアやからやっぱり見ないほうがいいですよ、ネット」

 馬鹿にしてるやろ、してませんて、シンと小声で言い合っているとき、一朗がほらほら、と制止した。

「来ましたよ」

 このレースの一番人気は一枠一番の鹿毛馬、四歳のコバルトトゥモロー。最初にパドックの奥から姿を現したが、ひどく落ち着きがない。白っぽい毛のまじった尻尾の付け根には赤い飾り、さかんに首を振り、目を血走らせ、地団駄を踏むような足取りで歩いている。

 二歳時代にはオープン勝ちを果たして早くから重賞戦線を賑わせ、セントライト記念三着から菊花賞五着とこのメンバーではピカ一の実績を持っているが、その後勝ちきれない理由はこれだ。気性が幼い。菊花賞から休養を経てもなお、まだそのあたりが成長していないらしい。

「あちゃあ。ずっとあの調子やったら、レースの前に消耗しちゃいますよ」

 一朗が大きくバツをつけた新聞を、シンがのぞきこむ。

「ええ度胸やな。もう一番人気切ってまうんか。おれはリングとコバルトの二頭軸で三連複といくで」

「おれにはナツアカネいるんで。……コバルト、力はあると思うけどここじゃないですよ、距離短縮したら狙います」

 一朗が高く評価する栗毛のナツアカネも、どちらかといえばナギノシーグラスのようにおとなしい気性らしいが、より気が強そうだ。パドックを囲む人垣に怖じることなく、好奇心旺盛そうな瞳で、観客たちをじろじろと見返しながら歩いている。

 最前で親に抱えられていた幼児が、ナツアカネと目が合ったらしく、喜んで手を振っている姿が見えた。

 シンがなるほどな、と呟き、横で聞いていた橘はうんうんと頷いた。

「いや、やっぱり二四〇〇以上は落ち着きもないと。ナギノシーグラスも見てみ、あのどっしりした足取り」

 首を低くして歩く鹿毛の牝馬にちょっと目をやってから、シンと一朗は顔を見合わせた。

「ナギノシーグラスはおとなしすぎてパドック参考にならないです。初見じゃ特に」

「そうそう。覇気ないなって思って切ったら、穴空けるパターンなんですよね」

 むっとした表情の橘に、ですから、と笑いかけて、一朗は新聞にチェックをつけた。

「おれは馬単で、ナギノは紐に入れます。あとテルクシノエも。このレース、おれ的には牝馬怖いんですよ」

「こういうときのシーグラスは確かによくわからんから怖い。前走GⅠ二着の六歳牝馬、ハンデはそう軽くもない五十五キロ。鞍上の水野は今週いつにもまして不調。扱い難しいわ」

 そう言ってモニターを見上げたシンが、あれ、と声を上げた。

「ナギノシーグラス、ちょっと人気下がってますよ。……リングコンダクターが五番人気や」

 ナギノシーグラス単勝八・二倍、リングコンダクター七・九倍、確かに人気が入れ替わっていた。


 ナギノシーグラスはここで負ける。

 言葉には出さなかったが、シンも一朗だけではなく、橘さえ確信していることだった。

 本番は次、ラストランとなる来月の京都記念のはず。いくら体質の強い馬といっても六歳牝馬、鼻出血の経験もある。ここで余力を使い果たすようなことはしないだろう、と橘は思う。

 負け方が問題だ。衰えだしたかまだ戦えるか、それを判断するのが今日だと思う。

 続くラストランでは、ただ回ってくるだけで終わるナギノシーグラスを見たくない。

 水野を通して、ナギノシーグラスという牝馬のことも好きになったが、この馬ももう残りわずかな現役生活だ。年末の京都大賞典から、関西で出走する限りは全部現地観戦する気でいたが、このレースの顛末次第では、ラストランはわざわざ現地まで行くことはするまい、と思った。

 血統も見た目も主戦騎手も地味な牝馬が、良血馬やリーディング上位騎手とコンビを組んだ馬、ときには一線級の牡馬にさえ、しぶとく堅実に食らいついていく姿が好きだった。

 ナギノシーグラスの魅力であるあのしぶとさ堅実さが、ついに衰えはててしまったさまを目の前でむざむざと見せつけられるのは、ひどくつらいことである気がした。

 だから、せめて好走してくれ、と橘は願った。

 若くなくなった馬でも、実績下位の騎手でも、走る限りは行けるところまで行く姿を、どこまでも食らいつく姿を見せてくれ、と。

『五番、ナギノシーグラス、四八六キロ、プラス二キロ、水野晃彦、五十五キロ』

 実況アナウンサーが馬場入りしていく各馬のデータを読み上げる。

 ゴール板付近の最前で柵に張りついて待っていた橘たち三人の前を、その左手から馬場入りしてきた出走馬たちが次々に駆け抜けていく。

 ナギノシーグラスもすぐに表れた。スタンドから離れたところを駆けていく鹿毛の牝馬の姿を目で追いながら、橘は祈ってしまった。

 ひょっとしたら勝てるんじゃないか、水野を勝たせてやれるんじゃないか、おまえなら。今日もこんなに落ち着いて、他馬にも歓声にも動じない精神の強さがあって、休み明けでもはちきれんばかりの筋肉を光らせて。

 橘の願いをつゆ知らず、青い勝負服をまとった騎手を背に、鹿毛馬はゲートのほうへ駆け去っていった。

 橘たちのいるあたりから右へまっすぐに伸びる直線のずっとずっと先、小さくなっていく人馬が向かう先は四コーナーポケット、そこにゲートが用意されている。その向こうに黒い山並み、その上空には雲が厚く垂れこめているが、山の上空にいくつか切れ間ができていて、金色にかがやいている。

 ところどころ輝く冬曇りの空と、黒くそびえる山影を背景に、ゲートも人も馬もやけにちっぽけに見えた。

 実況は続き、残る馬たちがその方向へと走り続ける。十一番リングコンダクター五〇二キロプラス四キロ、ブレンダン・ゴーリー、五十六キロ――。

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