第20話 日経新春杯①
ナギノシーグラスと水野騎手が日経新春杯に出る。
水野騎手が十番人気の芦毛馬を勝たせてから四年。予想を当てた者にも、してやられた者にも、あの勝利はまだ記憶に新しい。
そしてこのあいだの十一月、エリザベス女王杯。奇しくもこの日のナギノシーグラスは、四年前のミスティモーニングと同じ十番人気だった。結果は積極策から粘って二着。
橘は梅田の焼鳥屋からレースを見ていた。店備えつけのテレビからは怒号と悲鳴が響いてきたし、カウンター席で一緒に観戦していた常連仲間のシンは苦笑いしていて、一朗はうめき声を上げて卓につっぷしていた。
乗り鞍自体が多くなく、重賞に出ることも少ないリーディング下位ジョッキーの水野騎手と、近親にも活躍馬がほとんどおらず、父種牡馬の産駒として芝重賞を唯一制している、マイナー血統の雑草牝馬ナギノシーグラス。
橘は騎手の中でも水野を特に応援しているし、ナギノシーグラスの能力も評価している。だが、正直なところ、ナギノシーグラスは水野騎手をGⅠで勝たせるほどの馬ではないし、水野騎手もまた、ナギノシーグラスをGⅠで一着に持っていくことは難しいと思っていた。
あのエリザベス女王杯までは。
「もう一回GⅠであのコンビ見たかったんやけどな……京都記念で引退か……」
一月上旬の金曜日、橘は会社帰りにさっそくいつもの焼鳥屋でシンと一郎と合流し、数日前に発表されたばかりの情報を話題にした。橘の水野びいきをよく知っている常連仲間の二人は苦笑いして顔を見合わせた。
「残念ですよね。でも、エリ女と同じ条件の京都記念を勝って、それで幕引き、っていうのも悪くないですよ。現時点でも重賞二勝で繁殖入りはまちがいないし、産駒の応援も楽しみやないですか」
そう言うのはゴーリー騎手を応援しているシンさんこと榎木伸治。三十四歳で、中津の会社で人事をやっているらしい。人あたりがよく否定的なもの言いをしない人物だから、話していて気持ちがいい。
そこで一郎が、でも、と口をはさむ。
「エリ女の粘りっぷり見たら、六歳でもまだまだやれそうで惜しい感じはしますよね。サンドリヨンともどもGⅠ馬おさえこんで二着はたいしたもんですよ。サンドリヨンと比較したらもっと距離長くても走れそうやし、今年初戦が愛知杯連覇狙いじゃなくて、新春杯を選んだのはわかります」
二十七歳の一朗は大の原騎手ファンだ。淀屋橋の会社でIT関係の仕事をしているという。年長の橘やシンにも物おじせず話しかけてきて、年は離れているがいい弟分だった。
その一朗が日経新春杯の話題を続ける。
「ただ今回の原、有力馬騎乗だから手ごわいですよー。菊花賞三着のナツアカネ!」
ああ、と年長二人は声を上げ、シンが続ける。
「人気薄で突っ込んできたあいつか」
「そうですそうです。シンさん推しのゴーリーは……出ますね」
「リングコンダクターな。あの馬結局GⅠでは勝負なってないけど、どうやろうな。まあゴーリーならどうにかしてくれるか」
シンがそう言って、橘と一郎は声を上げて笑った。
「なんか、ナツアカネってヤマオロシと被りません?」
「そうか?」
「兵庫特別から菊花賞三着のヤマオロシ。阿賀野川特別から菊花賞三着のナツアカネ。和風ネーム」
そう言われれば、と橘はうなずいた。
「ただ、ナツアカネが第二のヤマオロシになるには、あの世代のクラシック勝ち馬たちが手ごわそうやぞ」
そう、去年のクラシック戦線はたいそう面白かったのだ。
とくに、ダービー馬のエンデと菊花賞馬のカンノヴェロシティ、二頭はダービーと菊花賞の両方で一着、二着を分け合った。どちらでも三着以降を大きく引き離しての叩きあいを演じ、そのライバル関係には多くの競馬ファンが心躍らされている。この世代の勝負付けは済んだ、あとはこの二頭が古馬相手にどこまでやれるかだけ、などと言う者までいる。
あの二頭のことを思い浮かべると、他の明け四歳馬たちは、どうしても色あせて感じられる。
とはいえ、今は日経新春杯だ。条件戦上がりとはいえ馬券圏内を外したことがなく、あの二頭に続いて三着をもぎ取ったナツアカネの評価はここでは高い。三歳時の阿賀野川特別も古馬をおさえての勝利だった。血統や実績から見ても距離適性もありそうだし、京都も得意とみられている。
携帯電話で出馬表を見ながら、一朗が続ける。
「似てるといえば、今回もう一頭牝馬いてるやないですか。五歳の」
「テルクシノエか」
「パターン的にナギノシーグラスみたいって思いました」
「条件戦を長いことうろうろして、今回が初重賞出走のパターンな。応援したくはなるけど、おれはまあ、シーグラスは水野騎手込みで応援してるとこあるからな。おれ的にはちょっと違うかな」
そして、橘は深くため息をついた。
「もうどうせ引退するなら、京都記念やめて、春天挑戦してもええんちゃうか、水野とナギノ。おれがGⅠで見たいだけやけど……」
シンと一朗が、ああー、と声を合わせた。
「それ面白いですね。勝つまでいかなくても、見せ場はありそう。上半期は牝馬GⅠってヴィクトリアマイルしかないけど、マイルはナギノシーグラスの実績考えても合わないでしょうし」
「それなら、二二〇〇の宝塚記念のほうも合ってそうやないですか? 梅雨で雨降るでしょ。重馬場得意でしょ」
二人が口々にそう言って、橘はうんうんうなずいた。
「それもそうやな。ああもう、なんでもいいからもう一度GⅠで観たい……」
そのあたりでいったん仕事の愚痴に話題が移り、しばらくは飲み食いに集中していたが、そろそろ会計かといったころに、一朗がいきなり挙手した。
「日経新春杯、現地行く人。……橘さんは確定でしょ?」
「なんでおれだけ決まってんねん。行くけど」
「ほらー。水野とナギノシーグラスが重賞出るなら橘さん絶対行くって」
「やかましいわ」
「はい、すいません。で、おれも行くんですけど、シンさんもどうですか?」
二人のやり取りを楽しそうに見ていたシンは、笑顔で返事した。
「行く行く」
よし、と一朗がやっと挙げ続けていた手をおろした。
「決まりっすね。来週日曜日、十三時にはパドック集合でいいですか。おれは朝から入ってますけど」
シンが了解、と敬礼してみせる。
「おれももうちょっと早く着きそうやけど、まあ、そのへんは適当で」
おれも、と橘もうなずいた。
「ちょっと寝坊してるかもしれんけど、この日の新馬は見たいからな。とりあえずパドック着いたら連絡する感じで行くわ」
こうして、二日後の予定が決まった。
橘は、土曜は朝から家族サービスをするからと言って、先に帰っていった。残されたシンと一朗は、同時にもう一杯ずつビールを頼んで、少しのあいだ黙って飲み食いした。
先に口を開いたのは一朗だった。
「橘さん、いいっすよね。若い人応援してくれる感じが。橘さんみたいな人が上司やったらいいのに」
シンは苦笑した。
「仕事で嫌なことでもあったんか」
「ありまくりですよ。本社でふんぞりかえってるだけのくせに、仕事増やすだけ増やして残業ゼロ目標とかほざくジジイとか。自分とこで手一杯なのに他部署の手伝いホイホイ引き受けてくるオッサンとか。シンさん人事でしょ、転職活動のときは頼みますよ」
嫌や、とシンがすげなく断ると、一朗がなんでですか、と抗議の声を上げる。
「せっかくここで楽しくやってるのに、上司部下にはなりたくないやん」
「それはそうですね」
「橘さんみたいな人が上司やったら、っておれも思うけど、同時に上司じゃなくてよかった~って思うねん。年の離れた友達でええねん、橘さんも、一朗も」
わかります、と言って一朗は笑った。照れ隠しのようにビールを豪快に飲み、シンは、なあ、と話題を変えた。
「橘さんが新馬見たい理由、これやと思うねんけど」
シンが携帯電話で見せてきた出馬表に、ナギノディープシー、という馬名があった。
「へえ。馬主がナギノで、鞍上水野ですね。シーグラスの弟とかですか」
「いや、違う。シーグラスとは母馬も厩舎も違う。……ちょっと気になって調べてみたら、シーグラスまで、水野が目立ってナギノの馬に継続騎乗してたことってなかってん」
「ふむふむ」
「シーグラスだってもともと原が一時期乗ってて、その原が乗れなくなった北野特別から始まったコンビやんか。シーグラスがきっかけで、馬主主導でこの馬に乗せてもらったってことやないかと、おれは思うねんけど」
へえ、と一朗は声を上げた。
「そういうの、いいですね。それがほんまなら、リーディング上位とかベテランとかじゃなくて、縁あっての水野っていうところ」
シンは、やんな、とうなずいた。
「まあそのうち、何かのインタビューとかでこのへんの話が出てきたらおもしろいけど」
「ですね。父フロムザサミットか。ヤマオロシと同じ、ナギノ馬にしては良血ですね」
「暇やったからナギノの現三歳馬も見てみたけど、あとの数頭はシーグラスと似たような血統やったな。血統だけ見たら、今年はこの馬主で一番期待されてるのはこいつちゃうかな」
いいですねえ、と一朗は繰り返した。
「シンさんはゴーリー推しで、おれは原さん推しで、あのへんってもう馬主も厩舎もお得意さん、ついてるやないですか。心配しなくても毎年ええ馬集まってくるし。でも、水野みたいなジョッキー応援してる橘さん、これはこれで楽しそうですね」
「うん。最初から強いわけじゃないやつを早い段階から追いかけられるのって、観戦できるスポーツの中でも競馬のええとこやと思うから。騎手も込みやともっとおもしろいよな」
強い馬の多くは最初から強い。
だが、ときどき、二歳、三歳のときは鳴かず飛ばずだったのに、古馬になってから成長して、早熟組に追いつき、食らいついていくタイプの馬がいる。
ナギノシーグラスはそういう馬で、どちらかといえば早くから活躍している馬や、早熟タイプの馬をよく集める騎手を応援しているシンと一朗も、橘がこのての人馬を応援したくなるのはよくわかった。
ここまでがんばったのだから報われてほしい、という気持ちになるのだ。
「ナギノシーグラス。橘さんじゃないけど、もう一回くらい、GⅠで見たいな。正直、勝つと思うかと言われると、厳しいとは思うけど」
「見どころはありますよね。望みゼロではないですもんね」
話題がここに戻ってきた。
少し間を置いて、そろそろお開きにしますか、と一朗から声を上げた。
第20話は全3回です。