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第2話 2歳未勝利戦②

 いつもコースに早めに出るようにしている二人はたいてい、発走を待っているあいだ、次のレースの予想をして時間をつぶす。山田のビールが空になり、菅原の競馬新聞に赤ペンの書きこみが増えたころ、馬たちが順番にゲートにおさまりはじめた。

 ゲートインはおおむね順調だったが、一頭の馬が後ろ脚をいく度か蹴り上げ、嫌がるそぶりを見せた。その馬名を確認して、山田が嫌そうな顔をした。

「ブラックアローじゃん。ほんっと気性悪いな……」

 それでも促されると長くは抵抗せず、ブラックアローは、渋々とでも言いたげな動きでゲートにおさまった。

 最後の馬まで位置について、そして。

「スタートしました」

 実況の声がひびき、ゲートから馬たちがいっせいに飛びだした。

 出遅れた馬もおらず、馬たちはほぼ一直線の状態で、菅原と山田のいる目の前を、地響きをたてて通り過ぎていく。

「おー、きれいに出たな」

「だな」

 短くやりとりしているあいだに、その一直線もくずれていく。十五番の鞍上が馬を押して押して先頭に立つと、そのままコースの最内に寄せて逃げの体勢をとった。

 十五番は馬群から少し離れたところに落ち着き、一番の馬がそれにつられた様子で首を伸ばしかけたが、その背の騎手は手綱を引き、十五番より前には出さなかった。

 その二頭が引っぱるかたちで、馬群は最初のコーナーに向かった。あとの十三頭はあまり間をあけることなく、やや縦長の隊列をつくり、先頭の二頭を追う。

 馬たちはすでに肉眼ではよく見えない。菅原と山田はターフビジョンが見える位置へ、少しだけ移動した。

 ターフビジョンでレースの様子を確認すると、山田の買ったブラックアローは後方、両脇も前後も他馬に囲まれて、行きたがるそぶりで首を上げ、歯をむきだしているさまが映し出されていた。

「あーあ、やっぱりかかってる」

 山田が苦笑いした。競馬でいう、かかる、とは、騎手と馬の呼吸が合っていない状態のことをいう。ブラックアローの場合も、騎手は体力を温存させて追い込みに賭けたい、馬は前へ前へ行きたい。それで、遠目に見ても、馬と騎手が綱引きのようにせめぎあっているのがよくわかった。

 鞍上はブラックアローを馬と馬のあいだに入れ、わざと前に出られないようにしている。あの位置で、ぎりぎりまで脚を溜めさせる作戦だろう。

「最後、外に出せたらいいけどな。……おっ、おまえのナギノシーグラスは、いい位置にいるじゃんか」

 山田に言われて、菅原は、五番の馬を探した。気性の荒さが際立つブラックアローの動きが気になって、自分の買っていた馬そっちのけで、つい目で追ってしまっていた。

「……あ、ほんとだ」

 ナギノシーグラスは相変わらず前目最内を淡々と走っている。この従順さで、最短距離を無駄なく通っているわけだから、不必要に消耗していないだろう。あたりの隊列もさして密集していない。この調子で進めば、ラストスパートで進路を確保することは、そう難しくなさそうだ。

 そうこうしているうちに先頭の十五番、一番が二コーナーを回り、向こう正面にさしかかる。そのとき、ナギノシーグラスのすぐ後ろにいた六番の馬が動いた。ナギノシーグラスの外を追い抜き、じわじわと前に出ると、一番の馬に並ぶ。

「六番、仕掛け早くないか?」

 菅原がそう聞くと、山田は、ああ、と答えた。

 ひやっとした菅原だったが、ナギノシーグラスはつられない。騎手の手も動かない。落ち着きをたもったまま、ナギノシーグラスが向こう正面の中間を過ぎ、菅原がほっとしたときだった。

 後方でブラックアローのすぐ外側にいた四番の騎手が馬をうながし、隊列の外側をすっと押し上げていった。ナギノシーグラスも、その前を走る六番も、一番と十五番も一気に抜いて、三コーナーを前に四番の馬は先頭に立った。

 やべ、と声を上げたのは山田だった。馬の間に入れることで、その荒すぎる気性をおしこめられていたブラックアローの左手に、ぽっかりと空白ができてしまった。

 ブラックアローが進路を求め、馬群の外に向かって動く。遠目にもわかるほど騎手がのけぞり、必死にブラックアローの手綱を引いている。ターフビジョンに映る向こう正面の様子を見ながら、山田が嘆いた。

「あちゃあ。完全に馬とケンカしてる」

「どこまで我慢できるかな」

「せめて四コーナー回るまでは……直線までは……!」

 山田が祈るような声でうめく。先頭集団はすでに四コーナーにさしかかっていた。そこから直線の入り口で、ついにナギノシーグラスが動いた。鞍上の手がナギノシーグラスの首を押し、すぐ前にいた六番を抜き、手ごたえ悪く伸びあぐねている一番と十五番に並びかける。

 ほぼ同じタイミングで、ついに、ブラックアローが四コーナーに入る前に馬群を外れ、溜めていた脚を爆発させて追い上げてきた。もはや鞍上の制御がきく様子ではなく、あきらかに早すぎる仕掛けだったが、騎手も腹をくくったか、ブラックアローをおさえることはせず、そのままスパートをかけていく。

 先頭にいた四番をも追い抜いたナギノシーグラスに、ブラックアローはあっというまに並びかけた。最後の直線、残り約三〇〇メートル。菅原と山田がそれぞれ買った二頭が抜けだし、せめぎあう展開となった。周辺の観客たちが、火がついたように、それぞれ頼みにする馬や騎手の名前を叫んだ。菅原と山田も例外ではなかった。

「ぶ……ブラックアロー原ぁ! そのまま! そのまま行けー!」

「ナギノ! がんばれー!」

 ブラック! ナギノ! 拳をにぎりしめ、目の前を通過していく馬たちへ、競って声援を送っていた二人は、馬群を割って先頭に忍び寄っていた栗毛馬に、ぎりぎりまで気づかなかった。

 インザフォレストだ。

 先頭の二頭は互角の勢いで、並んだままゴールに向かっていくようにも見えたが、我慢しきれなかったぶん、やはりブラックアローのスタミナ切れが早かった。ナギノシーグラスの鼻先が、首を上げ下げするごとに少しずつ前に出ていく。

「くっそー……」

 山田は悔しそうな声をもらし、菅原はにやにやした。三番手以降とは二馬身ほどの距離がある。ナギノシーグラスの勝ちを確信した。

 そのとき、四番手まで位置を押し上げてきていたインザフォレストに数発、鞭が入った。アクセルを踏みこまれた自動車のように、栗毛の馬体が急加速する。

 インザフォレストがはじけるように脚を伸ばすのを見て、菅原と山田はそろって「あー!」と叫び声を上げた。

 インザフォレストは加速した勢いのまま、ゴールまで残りわずかな地点で、ブラックアローもナギノシーグラスもいっきに差しきってしまった。栗毛の馬体が半馬身先頭に躍りでたところがゴールだった。

 上位三頭に続き、ゴール版を次々に通り過ぎていく馬たちの尻を見送りながら、菅原と山田はしばし沈黙していた。最後の馬がゴールしたあたりで、山田が「あー……」と声をもらした。

「あいつかよー……」

「最後、迷ってたのにな」

「いや、これはマジ悔しいパターン……くっそ……」

 山田は頭をかいた。

「おまえは単複か? いいなあ、まあまあついたろ」

「十倍くらいかなあ。まあ百円しか賭けてないから」

「もったいねえ」

 菅原と山田は、コースに背を向けてとぼとぼと歩きだした。歩きながら、山田はブラックアローについてこう評した。

「ありゃ、もうちっと距離の短いところから始めたほうがいいんじゃないかって思っちまうな。能力はともかく、気性悪すぎ。あれだけかかってりゃ、スタミナがいくらあっても足りない」

 菅原は、なるほど、と声を上げた。

「そうか、そういう影響もあるか」

「そういうこともある、らしい。逆にナギノシーグラスは、おまえの言うとおり、長いところが向いてそうだな。瞬発力はいまいちなさそうだけど、バテてなかったし。ずっと落ち着いて騎手のいうこと聞いてたもんな」

 そこで山田はちょっと黙って、それから、再び語りはじめた。

「競馬ってさ、そういうとこもおもしろいと思わないか? 能力だけじゃなくて性格までレースに影響することもあるのが、ちょっと人間みたいで、親近感わくんだよなー」

「はは、たしかに」

 菅原の頭に、インザフォレストに差しきられる直前、鹿毛と黒鹿毛の二頭が、ゴールめがけて叩きあっていた光景がよみがえる。

 気性も得意分野も現状まったく違っているらしい二頭が、あの瞬間、わずかな瞬間だけでも、頭を並べて拮抗していた。菅原にはどうにも、あの二頭の姿が、今の自分と山田に重なって感じられてしょうがなかった。

 もしも今後、ナギノシーグラスとブラックアローが山田の言うとおり、それぞれ適性に見合ったレース選択をしていくのなら、二頭がぶつかることはもうないのかもしれない。

(おれとこいつが同じ営業部で働いていられるのも、いつまでかな……)

 ふと、自然にそんな考えが浮かんだ。

 意識していなかっただけで、いま急に気づいたことではない。向き不向きに応じてふさわしい場への異動があるのは普通のことだし、このままいけば、近い将来、いずれ違う道を行くことになることが予想できる。

 たぶん、データを扱うのが丁寧な菅原は、流行や数字を分析する部門へ。動きだしが早く、コミュニケーション能力に長けた山田は、営業職を極めていく方向へ。ずっと同じところにいる可能性のほうが低い。

 山田に対するうらやましさももどかしさも尽きはしない。だが、違うやり方で互角に近い競争ができている、この今が限られた時間であることを思うと、それはこのうえなく貴重な、価値高い時間であるように思われた。むやみな焦りが、ほんの少し静まるような気がした。

「……おれ競馬向いてるわー。ほら、数字こまかく見るの好きだし。だからとうぶん新しいことはいいや。競馬、もっと詳しくなるわ」

 菅原がそう言うと、なんだよー、と山田は顔をしかめてみせた。

「まぐれ当たりで調子に乗んな」

「はあ? おれはちゃんと考えて買ったんだぜ。初心者なりにちゃんとデータも考慮したんだし」

「は? 仕事とは違うから。数字とかデータが必ずしも通用しないのが競馬だから」

 仕事とは違うから。悔しそうな山田の負け惜しみには、菅原を認める響きがにじんでいるようにも聞こえて、菅原は微笑んだ。

 そうだ、負けっぱなしでもない。細かい資料を求めるタイプの顧客相手なら、菅原のほうが数字を出すことだってあった。

(……楽しいな)

 焦りが落ち着くと、そんな感情さえわいてきた。

 同じ場所で競いあえるのは、いつまでだろうか。そんなことを考えて、菅原は少しだけさびしくなった。

 そんなことには気づかず、山田はおら、次だ次、と声をかけてきた。

「今日一日の収支、負けたほうが奢りな」

「なんで負けたほうが奢るんだよ、逆だろ」

 言いかえしながら、パドックのほうへ歩いていく。並んで歩いていると、鹿毛の馬体と黒鹿毛の馬体が並び、せめぎあっていた瞬間がまた頭に浮かんだ。しばらくは、このイメージが脳裏につきまといそうだ。少なくとも、山田と同じ場所にいるあいだは。

 パドックでは次のレースの出走馬たちが、もう周回をはじめていた。

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