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ターフの上のシーグラス  作者: 石見千沙/ナガトヤ
第三部 重賞戦線編
39/53

第19話 エリザベス女王杯③

 淀の空に本場馬入場曲が高らかに響きわたる。悠々と歩きだす誘導馬たちに続いて、出走馬たちがターフに姿を現した。

 アナウンサーが一枠一番から順番に出場馬とその鞍上の名を読み上げていく。

『――五歳になって躍進、勢いのままにGⅠ初制覇を狙う重賞二勝馬、ナギノシーグラスと水野晃彦』

 己の名が呼ばれたのを合図にしたかのように、粛々と歩いていた鹿毛の馬体が躍動を開始した。青天の下、緑のターフの上、騎手のまとう青と水色の勝負服が、遠目にも鮮やかに小さくなっていった。


 オープニング映像が終わり、スターターがスタート台のほうへ歩きだすさまがターフビジョンに映し出されている。

 映像の最後にでかでかと映し出された「GⅠ」の文字、観衆はまんまと煽られ、待ち望むファンファーレに向けて次第に高揚を高めている。


 優衣がパドックでの撮影を早々に切りあげてコースのほうへ来たとき、すでに直線周辺は人間でごったがえしていた。

 優衣はターフビジョンの正面真ん中あたりの地点まで来て、できるだけ前へと移動していた。かろうじて人と人の間からコースもビジョンも見える位置を確保しても、前のほうの観衆がひっきりなしにうごめいている。自分も右に左にふらふらしていないと、見たい景色を見ていられない。

 本場馬入場が終わるまではコースに向けていたカメラも、もう今はしまって首からぶらさげている。首を伸ばして右手のほうのゲートと、その向こうで歩いている馬たちとその鞍上の中に、見おぼえた青い勝負服を探した。

 少し前までは優衣も、レースで馬が走るところ、勝つところを写真に残したいと思っていたが、最近は少し考え方が変わって、大レースのときほど観戦するだけでもいい、くらいの気持ちでいる。

 競馬は刹那でできている。ある馬が走っている瞬間、ある場所を通過する瞬間、同じ瞬間は二度とない。レンズをのぞいている時間の分だけ、実際の景色を見つめている時間は減っていく。

 もともと写真の腕を上げたいと思ったことが、競馬に興味を持つきっかけだった優衣だが、今では、好きな馬が輝く一瞬を写真におさめることと、その一瞬一瞬を己の目に焼き付けること、そのどちらともに同じくらいの価値を感じるようになっていた。

 GⅠくらいの客入りの多い日に、人混みで写真を撮ることも実際の景色を目にすることも、どちらも中途半端になるくらいなら、もう写真は諦めて、できるだけこの目で景色を見つめ続けたほうがいい。

 スターターが台に上がり、台が自動で上昇する。群衆の高揚が最高潮の一歩手前に達し、かすかな緊張感が走る。

 スターターがぱっと旗を掲げた。

 ファンファーレが鳴り響き、盛大な歓声と手拍子が、あちこちで風船がはじけるように爆発する。すべての音がコース上の広い広い空に吸い込まれていく。

 未勝利戦のときからずっと追いかけていた馬が、興奮と熱狂渦巻くこの場所に出てきたことを思うだけで、優衣の胸はつまった。

 いよいよ馬たちがゲートにおさまりはじめる。水野騎手の青い勝負服、三枠を示す赤い帽子を、優衣は最後まで目で追い続けた。

 スタートの瞬間は、いつもどこかあっけない。

『スタートしました』

 落ち着いた調子のアナウンスが響く、ガコンと音をたててゲートが開く、馬たちがいっせいに駆けだし、観衆は再びわっと沸いた。 

『ややばらついたスタート』実況が示すように、二頭が出遅れ、一頭がロケットスタートを決めてそのまま快く飛ばしていく。逃げ馬の赤いメンコ、あれは三歳のリングアスカだ。

 そのすぐ後、二番手につけたのが、ぐいぐいと前に押し出していったナギノシーグラスだった。先行馬だとは思っているが中団に控える競馬もできる馬だ、いきなりこうも前に出るとは思わなかった。ナギノシーグラスは二番手集団の先頭で内ラチ沿いを奪い、そのまま優衣のいる目の前を通りすぎていった。

 馬群を離していくリングアスカとは対照的に、最初のコーナーの手前くらいで水野騎手は手綱を抑え、ナギノシーグラスの脚は淡々としたリズムを刻みだした。

 三番手に並ぶのはキクセンレジーナとコバルトキャンディの二頭、ナギノシーグラスをGⅠ馬たちが虎視眈々と狙っているように見えて、自分が走るわけでもないのに優衣の胃がキリキリと痛んだ。

 そして向こう正面に入りかけ、縦長になっていく馬群を、ターフビジョンが映しだす。

 ウンディーネの青鹿毛の馬体が中団内側、馬群のちょうど真ん中あたりにあるのは意外性がないが、サンドリヨンの白い馬体がそのすぐ後ろにつけているのには優衣は驚いた。

 他の追い込み勢でいえば、今年の秋華賞馬セレナータと一昨年のオークス馬フェストゥーンが最後方から三番目くらいにいて、そのあたりこそサンドリヨンの定位置というイメージがあった。

 下手をしたら早い段階でガス欠を起こし、自慢の末脚が不発に終わりそうな積極策、ゴーリー騎手の賭けと覚悟が伝わってくる。

 優衣の背筋が冷える。大丈夫、サンドリヨンとの勝負はもう済んでる、だってナギノシーグラスは二度も、あの破壊的な末脚をねじふせたのだから。


 逃げ続けるリングアスカが三コーナーへさしかかり、二番手集団が坂を駆けあがる。もうリングアスカと二番手集団の間にほとんど距離がなく、騎手もすでに全力で追いはじめていて、飲み込まれるのも時間の問題といった風情だ。

 二番手集団先頭を行くナギノシーグラスは坂の下りに入り、リングアスカを追いつめ、内から並びかけるコバルトキャンディを退けながら、徐々に内ラチを離れ、やや外側に進路をとっていた。追い上げてくる馬たちに外から包まれることを警戒したのだろうか。

 中団馬群は残り八百メートル、サンドリヨンの白っぽく目立つ馬体のすぐ前につけていた一頭が坂を下りはじめながら一気に位置を上げ、先行集団に食らいつき、キクセンレジーナに並びかけた。ウンディーネだ。

「サンドリヨンはまだ動かないね」

 コースは早くに詰めかけた観衆に隔てられて遠く、全く見えない。かろうじて目に入るターフビジョンを頼りに、馬群の中の白い馬体を見つけ、そわそわしながら望が言うと、理香子が頷く。

「ロンスパこなせる馬じゃない。ゴーリーはまだ仕掛けどころ探ってるね」

『残り四百メートル、ナギノシーグラス堂々と先頭に立ちました!』

 喧噪と興奮でBGM程度にしか聞こえていなかった実況だったが、その馬名だけはやけにはっきり耳に届いた。望は、えっ、と声を上げてつま先立ちになった。

 鹿毛一色の特徴のない馬体、青い勝負服、赤い帽子、いつの間にか馬群に沈みかけているリングアスカにかわって確かに先頭に立っている。

 青鹿毛のウンディーネ、黒鹿毛のキクセンレジーナが、黒い影のように並びかけようと迫っているが、半馬身くらいまで差を詰められたところで水野騎手が鞭を一発、ナギノシーグラスはわずかに加速して彼女らを一馬身突き放した。

 サンドリヨンは坂の終わり、馬群が横にばらけたタイミングで馬群の外に進路を見出し、ひっそり位置を上げてきていた。ゴーリー騎手が鞭を入れだした残り二百メートル、先頭のナギノシーグラスから三馬身か二馬身か、余力のないキクセンレジーナをふり落とし、ウンディーネとたたき合うが、残り一馬身にまで迫ったナギノシーグラスの脚も止まらない。

 またしても、と絶望しかかって、嫌だ、と望は一人首を横に振った。序盤いつもより積極策に出た影響か、サンドリヨンはじわじわ加速しているが、あの鮮やかな切れ味はない。いつもこのあたりで見せてくれるはずの爆発的な末脚ではない。

 そんなふうに見えていた。ゴーリーがまた一発鞭を入れた。先へ先へ粘りながら必死に首を伸ばすナギノシーグラスが苦しそうに見えた。

 残り五十メートルかそこら、ゴール板直前の数完歩で、サンドリヨンとウンディーネが最後の力を振り絞り、ついにナギノシーグラスと並んだ。

 そこから少し離したところに四番手に沈んだキクセンレジーナとやっと追い上げてきたセレナータ、十番人気が三着内に入ることは確実だった。あちこちで悲鳴が上がり、怒号が響き、何人かが頭を抱える。

 鹿毛と芦毛と青鹿毛の三頭、なだれこむようにゴール板を通過した。

 ウンディーネがアタマ差ほど遅れているようには見えた。

 数秒後の電光掲示板の着順欄は、四着五番、五着十二番の数字だけをまず示した。


 だめだな、と卓也が力なくつぶやき、まだわからん、と父が食い下がった。「がんばれ!」と印字されたナギノシーグラスの馬券が、父の手の中で震えていた。

 善之と奈津は身を寄せ合いながら、いったんちゃう? いったやんな? と口々に言いあうことしかできなかった。確信などなかった。

 西畑望にはどの馬が何着か判別できなかった。言葉もなく理香子とぎゅっと手を握りあい、祈りながら電光掲示板を見つめた。


 ゴール板の近くにいた藤野優衣には見えていた。最後の最後は首の上げ下げ、たぶん、外側の芦毛馬のほうが先に、わずかに前に出ていた。

 こらえきれず、胸の前で抱えたバッグに顔を埋めた。

 見なくても、電光掲示板が一着九番、二着六番、三着三番の数字を光らせたのはわかっていた。周囲が沸く。口々に芦毛馬とその鞍上を讃え、祝い、ときどき文句を言う声がまじり合って大騒ぎになっている。

 顔を埋めたバッグに、にじみ出したものをなすりつけてから、優衣はぱっと顔を上げ、人混みをかきわけてスタンドのほうへ歩きだした。

 勝ち馬を讃えたい気持ちと、自分のことのような悔しさとやりきれなさがせめぎあって、これ以上ここにはいられなかった。

 それほどまでにナギノシーグラスという馬が好きだった。


 善之は足元に目を落としていた。

「つら……勝ったと思ったんやけど……」

 善之よりも奈津が気落ちしているのではないかと、心配して隣を見たが恋人は思いのほかけろりと笑顔すら浮かべ、サンドリヨンとゴーリー騎手をまっすぐに見ていた。

「正直な、わたしは、今回は厳しいんちゃうかな、と思ってた」

「マジか」

「だって、それがシーグラスやん。勝ちきれへん子。十番人気で二着って立派やん? 充分楽しませてもらったわ。なみいる良血だのクラシック組だの、そのへん負かしただけでも立派やわ、爽快爽快」

 でもあそこまで行ったら勝ってほしかった、という言葉を飲みこみ、かわりに奈津の言葉をかみしめると、確かにな、という気がしてきた。

「……うん。すごいよな。這い上がったもんや、ナギノシーグラス」

 そうそう、と奈津がさっぱりと笑った。


「卓也、すごいぞ、ナギノシーグラスの複勝で六万プラスだ」

 父はそう言って笑おうとしたが、声は震え、目じりには光るものがたまっていた。卓也だって似たような気持ちだったが、父よりはうまく笑って、父の肩をバンとたたいた。

「やったじゃん。母さんに何か買ってやったら、服とか」

「そうだなあ、でも、競馬に二万もぶちこんだって知れたら、めちゃくちゃ怒られるからなあ……」

 小さくつぶやき、父は大事そうに手に持った馬券に目を落とした。それから痒い部分でもかくかのように目元を指先でこすって、よし、と声を上げた。

「卓也、京都の回らない寿司、食いに行こう。どうせお前もナギノシーグラスで当ててるだろ」

「実は当ててないんだよな。キクセンレジーナ軸にしちまって」

「じゃあおごってやるよ。おれじゃなくてナギノシーグラスと水野騎手に感謝して味わえよ」

 やった、と卓也はガッツポーズしてみせた。親子二人そろって、空元気をふるい立たせて先に楽しみを作っていないと、今すぐにでもそのへんの売店のビールでやけ酒してしまいそうだった。


 望が人目も気にせず、泣き笑いながら理香子に抱きつき、やった、やったと騒ぐ。理香子は苦笑いしながら望を引きはがした。

「ゴーリーはサンドリヨンがバテるかバテないか、ギリギリの賭けに出たね。あと一ハロンあったら、距離こなせるナギノシーグラスにすり潰されてたかもしれなかった」

「賭けに勝てる馬だったんだ、サンドリヨン。あの位置につけてもちゃんと脚が残ってた……」

 顔を覆ってぼそぼそ言う望にもう一度笑って、理香子が肩を揺さぶってきた。

「それで? あんたも馬券は勝ったでしょ。いくらプラスになったの? ちょっと見せてみ」

 望は涙をぬぐうと、ポケットから馬券を取りだした。

「単勝だけで六万くらいかなあ……。十万円事件のときほどインパクトないね。これお金に換えたくない。記念にずっと持っていたい」

「バカ、ありがたく稼がせてもらいな」

 冗談だって、と望は笑いかえした。

「ちゃんと換金するよ。それでまた音楽関係の何かに使う」

 おお、と理香子が声を上げる横で、もう一本ギター買おうかな、他の機材もいいな、とぶつぶつ呟いたあと、望はターフビジョンを見上げ、ウイニングランの様子を眺めた。

「わたしもわたしの賭けに勝つ……」

 呟きは喧噪に消える。ビジョンの向こうで、西日を浴びて輝く白い馬体が、満面の笑みを浮かべる相棒を背に、颯爽と駆け抜けていった。


 勝ったと思った。

 ゴールの少し前、左手に白いものがぽんと飛び出してきて、それでもまだ、着順確定の直前まで信じていた。

 検量室前、乱れた愛馬のたてがみの上で、水野は少しのあいだうなだれていた。まだ乗っていたかった。恋人のように離れがたかった。

 もう重賞を二勝した五歳牝馬、繁殖入りは確実、そろそろ引退もちらつく段階の馬だ。

 もっと早く出会いたかった。もう少し彼女と走りたかった。GⅠ以外に今日の悔しさのやり場がない。

 勝っても負けても今年はこれで休養、年明けの日経新春杯は水野で使う、その後は未定。水野が聞いているのはそこまでだ。

 とにかく次がある、そう自分に言い聞かせ、渦巻く感情を今はいったん飲み込んだ。万感の思いをこめて、水野は、大きな挑戦を終えたばかりのナギノシーグラスの汗まみれの首をごしごしと撫でてやった。

過去登場回

卓也 第1話、第4話、第13話

善之と奈津 第3話、第9話

藤野優衣 第5話、第11話、第13話、第14話

西畑望 第16話

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