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ターフの上のシーグラス  作者: 石見千沙/ナガトヤ
第三部 重賞戦線編
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第19話 エリザベス女王杯②

 修学院ステークスの出走馬たちがパドックから去っていっても、他の多くの観客がそうしているように、善之と奈津もまたその場を離れず、つめかける人の間でなんとか確保した最前列近くに留まっていた。パドック中央のモチノキがスクリーンの正面に来る位置に来てしまって、その大木の脇からスクリーンを見るために、しきりに奈津が右へ左へ首を伸ばしている。

「もうすぐ出てくるな。やっとGⅠや、こっちのほうが緊張するわ」

 奈津がそわそわと落ち着かない様子で、腕時計を見たり背伸びしたりするのを、善之は微笑ましい気持ちで見ていた。

 二人の目当ては、ナギノシーグラスだった。もう二年以上前、付き合いだして間もない大学三年生のとき、初めて奈津が競馬場についてきた日、最初に観戦した未勝利戦を勝ち上がったのがこの馬だ。初心者の奈津が「シーグラス」という馬名が素敵だ、と注目していた馬がそのまま勝ち上がったから、なおさら思い出深い。

 あのころは、まだ気軽に一緒にいられる彼氏彼女という段階で、善之も、おそらく奈津も、将来を見据えた付き合いに続くとまでは考えていなかった。

 あのとき、初めて一緒に競馬場へ行った日、普段から幹事気質でもてなす側に回りがちな善之に、奈津は一日ひたすら合わせてくれようとした。その嬉しさ、あの日に気持ちが一気に深まったことを、善之は一生忘れないだろう。

 シーグラスの意味も初めて知って、奈津に良い場所を教えてもらって、一緒にシーグラス拾いにも行った。そのあたりから次から次、このひとと共にやりたいこと、行きたい場所が連想ゲームのように広がっていって、気がつけば社会人になった今も、すこぶる順調に付き合いが続いている。

 結果的に、善之にとっての奈津が、気楽な関係の彼女からもっと大事な相手となった分岐点に、ナギノシーグラスという馬がいる。

 奈津もそこまで考えているかどうかはわからないが、好きな馬であることは確かなようだった。

 その奈津はさっきから、レーシングプログラムを見ながらぶつぶつ呟いている。善之も自分の分を持っているが、横からのぞきこんでいた。

 そうこうしているうち、スクリーンがいよいよエリザベス女王杯出走馬のデータを映しだした。奈津がまた、モチノキを避けるようにしてスクリーンを見上げて、ナギノシーグラスなめられてるなあ、とぼやいた。

「単勝六十一倍とか。一番人気……は、ウンディーネかぁ……」

「今年は勝ちないけど、春は海外で好走してきたし、メンバー唯一のGⅠ二勝で、札幌記念も府中牝馬も三着やからな」

 ウンディーネはナギノシーグラスと同期の五歳馬で、この世代の秋華賞馬だ。去年はエリザベス女王杯を勝っていて、連覇を狙って再びこの舞台に挑む。

「この馬、ナギノシーグラスと走ったこと、前にもあるやんな」

 その記憶はなくて、善之は驚いて「そうだっけ?」と返した。

「わたしも調べてあとから知ったんやけど、ほら、三歳のときの矢車賞。レディガーネットも出てたみたい。勝ったのがウンディーネ」

 そうやったんや、と返しながら、善之はさっそく携帯電話でその情報を調べた。なるほど、その矢車賞を勝って、ウンディーネは牝馬三冠路線への合流を果たし、最後の一冠である秋華賞を制覇したわけだ。

「そういう分かれ道やったんかなあ……」

 電光掲示板を見上げ、ウンディーネの名前に目をやりながら善之がそう言うと、奈津は、え? と首をかしげた。

「もし、矢車賞を勝ってたのがナギノシーグラスやったら。たぶんオークス出てたやん。オークスは勝てなくても、そこで賞金積んで、もしかして秋華賞に出たり、もっと早く重賞路線に乗れてたかもしれへん……」

「そうやなあ。でも、それ言い出したら、もっと前から。わたし、ナギノシーグラスはデビューから二〇〇〇メートルくらい走ってたら、もうちょっと勝ち上がり早かったんちゃうかなあって、最近思うねん」

「そもそもそうやんな! 父が春天勝ち馬で、体型も……」

 熱くなりかけた善之に、まあまあと奈津が笑いかける。

「順調に勝ち上がってたり、早くに大きい結果出してたり、それもファンとしては嬉しかったけど、それやと今のナギノシーグラスとは全然別の馬や。シーグラスがそういう馬やったら、ほんまに初心者やったわたしは、競馬をそこまでおもしろいと思うこと、なかった気がするねん」

 奈津は妙に真剣な顔をして、考えながら、言葉を選びながら続ける。

「シーグラスを応援してて、競馬の良さってこういう馬にあるのかなあ、って思って。人間のスポーツ選手で、デビュー戦とか、すごく小さい大会から応援できることって、そうそうないやん。一般人の目に触れるようになるのって、ある程度メディアに取り上げられるようになってからやん」

「まあ、そうやな」

「いつまでもアマチュアの大会に出てるような選手と、中学くらいから全国大会で活躍してる選手との力関係が逆転することだって、あんまり印象にないし。でも、競馬はある。ナギノシーグラスは、そういう、逆転劇を見せてくれる馬やと思ってるねん」

 奈津がパドックに目を注ぐ。待ち遠しそうに、競走馬たちが出てくるあたりをじっと見つめている。恋い焦がれた相手を待つような視線に、善之はかすかな嫉妬すらおぼえた。

 そんな善之の様子に見向きもしないで、奈津は語る。

「なかなか勝ち上がれなくて、重賞路線行くまでに二着や三着連発して、でもなんだかんだ、ちょっとずつ結果出して、GⅠにも出られるようになって。わたし、そんなナギノシーグラスが好きや」

 ごくん、とつばを飲み込んで、奈津はこうつけ加えた。

「応援するのがこんなに楽しいアスリート、他におらんわ」

 奈津に比べれば、そこそこ長いこと競馬を観てきた善之にも、奈津の言葉は理解できた。

 競馬は、強者と強者の戦いというだけでは終わらない。「競馬に絶対はない」。いつの時代も、絶対を覆す馬がどこかにいる。ただ観戦するにしろ、本気で賭けるにしろ、そういう、絶対を覆す馬を探すことがおもしろいのだ。

 うん、と善之は頷いていた。我知らず、奈津と同じように、熱っぽい視線をパドックに注ぎながら。

「うん。おれもナギノシーグラスが好きや。あの馬応援してたおかげで、競馬がもっとおもしろくなった」

 奈津が善之のほうを見ずに笑う。

 カポ、カポ、蹄鉄が地面を打つ音が、パドックの奥からリズムよく近づいてくる。あちこちで人が立ち上がり、カメラを構えだす。

 エリザベス女王杯の出走馬たちが、パドックに姿を現しはじめた。


 三枠六番ナギノシーグラス、やっと卓也と父の前にさしかかった。卓也は携帯カメラのシャッターボタンをタップした。

 今日も首を低くして歩いている。よく言えばきわめて落ち着いていて、悪く言えば元気がなさそうな歩き方。前を歩く同枠五番のキクセンレジーナが、観客側をねめつけるように外側に顔を向けながら通りすぎたあとで、ナギノシーグラスのおとなしそうなさまがよけいに際立つ。

「どうだ? シーグラス、ポセイドンと似てるか?」

「いや、毛色も違うし、おれは見ただけじゃわからんよ。シーグラスのほうがすらっとしてる気がする。でも、パドックの歩き方が似てるな。首を少し下げて歩くところ」

「あの馬、新馬戦のときからあんな感じだよ」

 そんなやり取りをして、卓也は話題を変えてこう尋ねた。

「ナギノシーグラス以外はどれがよさそうかな」

「キクセンレジーナは状態いいと思うなあ。見ろよあの毛ヅヤと目つき。府中牝馬組は、キクセンレジーナとウンディーネだな。勝ったのはスプリングデイズだけど、あの馬は前走がメイチだったろ」

 府中牝馬から参戦する二頭の有力古馬の馬体は、たしかにパドックを見渡しても目立って青光りしている。春のヴィクトリアマイル二着含め、GⅠで馬券圏内を外したことがない昨年のオークス馬のキクセンレジーナと、GⅠ二勝で牡馬混合戦でも好走する五歳馬ウンディーネ、実績で見てもこの二頭が固い。

 この二頭に続く三番人気が、今年の秋華賞馬だった。卓也は人混みに配慮してできるだけ小さく折りたたんだ新聞を片手に、予想を続けた。

「やっぱり、今日はあんまり荒れなさそうだよな。三歳馬はどうかな。秋華賞勝ったセレナータと、その三着のリングアスカ」

 栗毛のセレナータと、赤いメンコをした鹿毛のリングアスカをそれぞれ指さして卓也が言うと、父がうなずく。

「リングアスカは、典型的な逃げしかできないタイプだな。桜花賞と秋華賞では三着に残れたけど、オークスは十着。少なくともセレナータとは勝負ついてるし、たぶん二二〇〇が長い。セレナータならって感じ」

「同意見。おれもセレナータは紐。あと、二二〇〇が長いという意味ではコバルトキャンディもそのパターンな気がする。春にヴィクトリアマイル勝って、秋はマイルチャンピオンシップのほうが合ってたんじゃないか」

「そうだよな。……条件が合ってなさそうな馬もいるし、上積みなさそうな馬もいるし、いくらGⅠ実績がないからって、シーグラスが十番人気は納得いかない」

 パドックを一周して、再び卓也たちの前に近づいてきたナギノシーグラスを見つめながら、父はそうぼやいた。卓也は苦笑した。

「シーグラスは荒らしてくれるよ、きっと。……で、いくら買うんだ?」

 そう聞かれて、父はにやりと笑った。

「単複一万ずつ」

 卓也はちょっとのけぞった。

「正気かよ。十年前のポセイドンのとき以上じゃないか。あのとき合わせて一万だったろ」

「十年経って年収上がったからな」

「母さんにはばれないようにしろよ、マジで」

 そこで父が合図して、二人はコースのほうへ歩きだした。人の流れも同じく、少しずつ動きはじめている。

 階段を上がりきったとき、父は最後に一度だけ、名残惜しそうにパドックのほうをちらりと見た。ナギノシーグラスは相変わらず首を低くして歩いている。

あと③に続きます

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