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ターフの上のシーグラス  作者: 石見千沙/ナガトヤ
第三部 重賞戦線編
37/53

第19話 エリザベス女王杯①

 エリザベス女王杯、京都右回り芝二二〇〇メートル。牝馬限定のこの大舞台が、五歳牝馬ナギノシーグラスのGⅠ初出走となる。


 ペンを持った。カメラの設定とSDカードのデータ整理は済ませた。普段買わない競馬新聞も買った。

 大学四年生の藤野優衣が最初に好きになった競走馬、愛してやまないナギノシーグラスのGⅠ初挑戦。もう競馬場へは何度も足を運んでいるし、GⅠの現地観戦も初めてではないけれど、こんなに高揚する現地入りは今までになかった。

 京阪電車に乗り込んでから、優衣はもう一度鞄の中身を確かめた。大丈夫、忘れ物はない。出町柳行きの電車はすでに行き先を同じくする人々でいっぱいだ。座席で、通路で、老若男女問わず熱心に新聞とにらめっこしている。

 同じ写真部の真奈美も誘ってみたけれど、さすがにGⅠとなると、人混みに飛び込んでまで会いに行きたい馬もいないから……と断られてしまった。

 優衣だって同じだ。人混みはどちらかといえば苦手だから、いくら競馬自体が楽しくても、ナギノシーグラスくらい好きな馬がいなければ、GⅠ開催日は現地にまでは行かないタイプではある。

 優衣も淀駅に到着するまで新聞を見ておこうかと思ったけれど、揺れる電車内で立ったまま新聞を器用に読む自信がなくて、やめた。かわりに携帯電話をとりだした。

 今くらい、競馬サイトを見て予想しておこうと思ったのに、いつのまにか結局、ナギノシーグラスのことばかり検索していた。

 ナギノシーグラスを本命にする穴党もいれば、ナギノシーグラスの可能性についてまじめに論じる予想家もいる。

 エリザベス女王杯の前哨戦を第一に挙げるなら、府中牝馬ステークスだろう。この牝馬限定GⅡレースから参戦する古馬たちの好走実績は確かに目立つ。次に人気を集めるのは、秋華賞からやってくる三歳馬たちだ。

 そして今回は他に、数は少ないが牡馬混合GⅡ、京都大賞典か産経賞オールカマー。いくら府中牝馬組が有力でも、過去にはここをステップにした出走馬からも、エリザベス女王杯勝ち馬が出たことがある。

 京都大賞典からは、ナギノシーグラスとフェストゥーン。

 産経賞オールカマーからは、サンドリヨン。

 五歳オークス馬のフェストゥーンは、去年のエリザベス女王杯で二着という結果を残している。前走まで二〇〇〇以上の距離では掲示板を外しておらず、前々走の宝塚記念は三着と男勝りな活躍を見せた。休み明けの京都大賞典では七着と期待を裏切ったが、ここでまたGⅠ馬の意地を見せてくれるだろうと信じているファンは多い。

 サンドリヨンはマーメイドステークス、産経賞と惜敗続きだ。華やかな血統、鮮やかな末脚、骨折休養を経てもなお大負けしない安定感は、二歳三歳時の活躍を忘れさせてくれない。おまけに鞍上は今をときめくゴーリー騎手だ。

 ナギノシーグラスだって重賞二勝馬で、それぞれ前走、前々走でこの二頭に先着しているというのに、この二頭よりも単勝人気が低い。クラシックに出走すらしていない晩成戦績に、マイナーな血統や厩舎、水野騎手の重賞歴の乏しさが、信頼性の低下に拍車をかけているらしい。そこにひっそりと視線を向けているのは穴党連中や、優衣のような純粋なファンだった。

 調べていれば、ナギノシーグラスに関する考察もいくらか見つかる。ナギノシーグラスに期待する声を読んでいるだけで、優衣までファンとして嬉しくなってくる。

 ナギノシーグラスが勝つ可能性をインターネットの海で探し続けているうち、あっというまに淀駅に到着した。


 ナギノシーグラスは、ナギノポセイドン産駒では唯一、中央芝重賞勝ち馬だ。そのナギノポセイドンの大のファンだった卓也の父が、この日のため、大阪で一人暮らしする卓也のもとへ、東京の実家から泊まりにきていた。

「京都競馬場、久しぶりだなあ」

 まだ第一レース前だというのに、すでにかなりの人が詰めかけているパドックにたどり着いた父は、目を輝かせてそう言った。卓也は尋ねた。

「最後、淀に来たのっていつ?」

「いつだったかなあ。三十年近く前かな。卓也が生まれる前に一回、京都旅行のついでに、母さんを無理に連れてきたことがあったんだ」

 それを聞いて、そうか、父はナギノポセイドンの関西での晴れ舞台を一度も観に行けなかったのだ、と思い出した。

「よかったな、今日来られて」

「おまえが関西に住んでるおかげだよ。競馬のためだけに関西へ、って、仕事やらなんやらで気楽には行けないからな」

「そうか、そりゃ、遠方配属希望したかいがあったなあ」

 そう返しながら、卓也は、仕事の都合だけではなく、家庭への配慮だってあっただろうと察していた。母も自分もどちらかといえば理解があるほうなのに、家族を置いて自分だけで遊びに行くことを一番躊躇していたのは、きっと父自身だった。

 まして競馬はギャンブルの一種だから、なおさら、きまじめな父は家族や周りの目を気にしてしまって、一人旅に踏みだせなかったのだろう。

(自制できるロマン派だってことはわかってんだから。あれだけ好きな馬なら、気軽に観に行きたいって言ってくれたらよかったのに……)

 そんなふうに考える一方、十年前、ナギノポセイドンが引退する前に気がついて、言葉にして背中を押してやればよかったと、卓也は今さらになって思う。それは卓也自身も、ナギノシーグラスくらい好きな馬が現れなければ、気づけなかったことかもしれない。

 今年の一月の愛知杯で、ナギノシーグラスが重賞を初めて制したとき、電話口で歓喜していた父の涙まじりの声を思い出す。

 遅くなったという後悔もありつつ、今度こそ、ナギノポセイドンの娘を見るために遊びに来なよ、と言ってやれてよかったと卓也は思った。やっと父に対して何かをしてやれるようになった自分を感慨深くかみしめながら、パドックに入ってきた二歳未勝利馬たちを眺めた。


 ナギノシーグラスが重賞二勝目を挙げたマーメイドステークスに続き、芦毛の四歳馬サンドリヨンは、九月の産経賞オールカマーでもまた二着だった。

 サンドリヨンを応援し続けている西畑望は、落胆はしたが、この二着は愛知杯やマーメイドステークスの二着よりも評価できると思っている。

 産経賞オールカマー、中山右回り芝二二〇〇メートル。あのレースには、秋古馬三冠に向け、GⅠ馬が多数出走していた。

 そこへ紅一点出走したサンドリヨンは、同期で中山巧者の皐月賞馬にはクビ差逃げ切られたものの、宝塚記念馬のリングヴォヤージュ以下は、鋭い末脚でおさえこんでみせたのだ。

 今日のエリザベス女王杯、有力な古馬の多くが府中牝馬ステークスからやってくるなかで、サンドリヨンは、古馬重賞は未勝利ながら、五番人気とそれなりに支持を集めていた。

「りっこの本命、決まった?」

 十一時ごろ、望と理香子はフードコートに立ち寄ってファーストフードを選び、早めの昼食を開始していた。望がハンバーガー片手に尋ねると、関東から遊びに来ていた理香子は、ポテトをくわえて新聞をとんとんたたき、二番人気の黒鹿毛馬の名前を挙げた。

「ここは素直にキクセンレジーナかなあ。今回あんまり荒れる気しないんだよね」

「あっ、敵だ」

「ごめん、サンドリヨンは馬単か三連単の紐には入れるから」

 理香子はそう言ってにやっと笑った。この友人は、望がサンドリヨンにかなり肩入れしていることも、そのサンドリヨンが何度もキクセンレジーナに負かされてきたこともよく知っている。理香子がサンドリヨン四歳、と呟き、こう続けた。

「十万円事件から二年かー……早いなあ」

「やめてよ、十万円事件とかいうの」

 二年前、望は、学生時代に友人と組んでいたバンドが解散し、音楽の夢が遠のいたばかりでなかば自暴自棄になっていた。そんなとき、一度くらい羽目を外してみようと初めて競馬に手を出したアルテミスステークスで、望がサンドリヨンの単勝に十万円突っこんだ件を、理香子は今もことあるごとに話の種にしてくる。

「今だから言うけど、あの頃ののんちゃん、ほんとに目が死んでたからね」

「えっ、それは自覚なかった」

「自分ではそこまで落ち込んでないつもりだったでしょ。でも、自分で行きたいって言ったのに、競馬場来ても全然楽しくなさそうで、心配してたんだからね」

 望は肩を縮めた。

「それは心当たりある。あのときは、ごめん。でも、りっことサンドリヨンのおかげで元気になれたから、ほんとに感謝してる……」

 馬と同列かい、と理香子が茶化して、望は苦笑しながらも肩の力をゆるめた。理香子が言葉を続ける。

「いいよいいよ、競馬仲間できてわたしも嬉しいから。……あのときサンドリヨンで当てたお金で買ったギター、どうなの?」

「すごく気に入ってる。毎日弾いてて、勘も戻ってきたし、そのうちオリジナル曲の配信でもやってみたいって思うくらい」

「よかったじゃん。サンドリヨン様様だね」

「ほんと偉大だよ。今回は単勝に一万ぶちこむから」

 望がそう言うと、理香子はマジか、と顔をしかめた。十万円事件のときに肝を冷やした思い出が蘇ったのだろうと思うと、おかしいような、申し訳ないような気持ちになる。

「今度だって、大丈夫だよ。サンドリヨンは、GⅠ未勝利で終わるような馬じゃないから」

 今回、望がサンドリヨンに対し、特に負けてほしくないと思っているのは、キクセンレジーナとナギノシーグラスだった。

 体質が弱かった三歳時代はオークスで、古馬になってからはヴィクトリアマイル前哨戦の阪神牝馬ステークスで、キクセンレジーナがサンドリヨンの勝利を阻んだ。そうかと思えば、骨折休養から復帰してすぐの愛知杯と、初夏のマーメイドステークスで、未勝利を脱するのに十一戦を要したような晩成牝馬ナギノシーグラスが、二度にわたってサンドリヨンをねじふせた。

 二頭ともサンドリヨンとは別の路線を経てエリザベス女王杯に挑むから、直前の力関係ははっきりしていない。望は、サンドリヨンがこれまで敗れてきた馬たちにリベンジするならここだと思っている。

 理香子もポテトをつまみつつ、サンドリヨンについてこう述べた。

「まあ、他にもお手馬いるようなゴーリーが手放さない馬だしね。本命にしない側としては、怖いなあとは思う」

「負けないから」

「あんたが走るんじゃないけどね」

 軽口をたたきあい、望と理香子はくすくす笑った。その後は残りのハンバーガーやポテトをさっさと平らげて、パドックへ移動しはじめた。

第19話は3つに分けます

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