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ターフの上のシーグラス  作者: 石見千沙/ナガトヤ
第三部 重賞戦線編
36/53

第18話 京都大賞典②

「おとうさん、競馬始まった?」

 十五時きっかり、しのぶが二回の自室から駆け下りてくると、リビングにいた父は読んでいた本から顔を上げた。

「番組は始まったけど、レースはまだまだ」

「何分だっけ」

「えーと……三十五分」

 十月上旬の日曜日、四か月も待ちに待った京都大賞典の日だ。

 夏のあいだ、しのぶはかなり熱心に競馬を観ていた。最初は、京都大賞典までに勉強しておこう、くらいの気持ちだったが、だんだん、本当に引きこまれていく自分がいた。

 夏の日差しの下、サラブレッドというあまりにも美しい生き物の姿はずっと見ていられる。つややかな毛並みと研ぎ澄まされた肉体を光らせ、優雅な足取りで歩くさま、はたまた荒々しく首を振り、後肢を蹴りあげるさまに、しのぶは畏怖めいた思いを抱いた。

 レースも面白いけれど、しのぶはパドックが好きだった。パドック中継は基本的に馬体全体を映すが、ときどき馬の顔をフォーカスすることもある。恐ろしく価値高い芸術品を前にするような気持ちで中継を見ていても、もの言わぬ彼らの澄んだ黒い瞳に、血のかよった感情の色がうごめいているのが目に入ると、ふいに胸をうたれるような感じがする。

 十二頭立てのレース、七枠九番のナギノシーグラスにカメラが向けられるのを、しのぶはうずうずしながら待った。

 ナギノシーグラスの前に、天皇賞馬のヤマオロシは六枠八番、この中では実績が段違いで、当たり前のように一番人気だった。どっしりした黒鹿毛の馬体は迫力満点で、何の問題もないようにしのぶの目には映ったが、横で父があきれたような声を上げた。

「体重五一六キロ……こりゃダイエットしないと……」

「えっ、太ってるの? ムキムキじゃん!」

「前走から二十キロプラス。この馬が勝つときは五〇〇切ってるからな。このレースレベルでも休み明けは難しいかな……」

 そこまで言って、父はテレビを指さした。

「ナギノシーグラスだぞ」

 しのぶはあわてて画面に目を戻した。待ち望んだ姿がそこにあった。

 ここ数ヶ月、青光りするような真っ黒い馬、金色のたてがみをなびかせる馬、目がつぶらで愛嬌があったり顔の模様が派手だったり、案外馬も見分けがつくと知ったなかで、この鹿毛一色の馬体の、なんと特徴のないことだろう。

 それでもその毛並みはつややかに輝いて、厩務員に寄りそい落ち着きはらって歩く姿は、気迫と気品に満ちていた。画面の馬名表示の近くに体重四八六キロの数字、ついさっきまで映っていた牡馬のヤマオロシと三十キロの差があっても、少しも馬格でひけをとるようにも見えない。

「ナギノシーグラスは軽い? 重い?」

「牝馬にしちゃ軽くはないな。太くはなくて背が高い。ステイヤー体型ってやつだ。長い距離を走れる馬は、人間でいうとマラソン選手みたいな体型が必要なんだけど、そんな感じ」

 へえ、としのぶはパドックに目を戻した。画面はすでに他の馬を映している。三枠三番のフェストゥーンも鹿毛の牝馬だが、額から鼻先へ一筋の流星が走っていて、スマートで判別しやすい顔立ちだ。

 ナギノシーグラスは、人間に例えるなら、アイドルや女優というよりモデルかもしれない、としのぶは思った。


 ファンファーレが流れてスターターが旗を振り、馬たちが次々にゲートインしていく様子を、楢崎夫妻はテレビで見ていた。

 アカシは、天皇賞馬のヤマオロシ、今年の春天二着のシュヴァン、オークス馬のフェストゥーンに次いで四番人気だった。アカシに続く五番人気がリングコンダクター、ここ最近は勝ち星から遠ざかっているが、去年の日経新春杯、中日新聞杯の勝ち馬で、騎乗するのがリーディング上位のゴーリーであるあたり、実績のわりに人気が集まっている気がした。

 あとめぼしい馬といえば、六番人気のサンゴクワールドが、もう七歳だが三〇〇〇以上のレースの実績を重ねている正真正銘のステイヤーだ。

「サンゴクワールドって馬、前にアカシに勝ってなかった?」

 頼子が首をかしげて、楢崎は頷いた。

「二月のダイヤモンドステークスだな。連覇だった。三〇〇〇切ったらアカシのほうが得意な気もするし、ここでリベンジしてほしいもんだ」

 あとは七番人気のナギノシーグラス、ずいぶん前に先着された記憶があるが、牝馬限定の重賞しか勝っていないうえ、それも軽斤量の恩恵を受けてのことだと考えると、今のアカシにはたいした相手ではないと感じられた。

『スタートしました』

 先陣を切ったのはサンゴクワールドだった。この馬は必ずしも逃げ馬というわけではないが、スタート直後からだいたいいつも前から三番手以内にいる。一枠一番でこのメンバーであれば逃げるだろうと誰もが予想していたし、ジョッキーも何かの取材で逃げると宣言していた。

 意外だったのは、外からヤマオロシがぐいぐい前に出て、二番手につけたことだ。この馬は中団からの差しで勝つケースが多く、それほど積極策には出ないと思っていた。ヤマオロシに続いたのはその右隣のナギノシーグラスと、真ん中で好スタートを切った五枠六番の芦毛馬シュヴァン、先行勢二頭は天皇賞馬を直後でマークする位置につき、最初のコーナーに向かった。

 スタートで少しもたついたリングコンダクターは最後方から二番手ほど、その前の内ラチ沿いをアカシが走り、フェストゥーンがアカシの外を並走と、有力馬のポジションも落ち着いていっている。

 サンゴクワールドはヤマオロシに二馬身差つけて逃げているが、それ以上飛ばす気配がない。馬群は次第に縦長になっていく。

「後ろ届かないんじゃないか……小久保はどう出るんだ……」

 楢崎がぶつぶつ呟く。

 全馬が二コーナーを回りきり、向こう正面に入ったところで動きを見せたのは、ゴーリーが騎乗するリングコンダクターだった。馬群の外に出し、中団あたりまでじわりと位置を押し上げた。

 先行勢の位置はたいして変わらないなか、ヤマオロシがサンゴクワールドとの差を少しずつ詰めていた。今は逃げ馬とは一馬身差、ヤマオロシに合わせてナギノシーグラスもわずかに前進、シュヴァンはまだ動かず、鞍上が仕掛けどころを探っている様子だ。

 位置関係がほとんど変わらぬまま、馬群は向こう正面を過ぎ、先頭のサンゴクワールドとヤマオロシが三コーナーにさしかかった。

 コーナーを回りながらヤマオロシがサンゴクワールドに並びかけたが、騎手が馬の首を押して詰め寄られた分だけ位置を上げた。

 残り二ハロン、直線に入りながらこの二頭が先頭争いを繰り広げ、続く先行勢のペースも上がっていた。後方勢にも鞭が入りだしているが、前が止まらない。

 すでに前残りの結末がなかば見えていた。追い込み馬のアカシやフェストゥーンも加速を開始してはいるが、先行馬たちの脚もいっこうに鈍る気配がなく、距離が縮まらない。楢崎は頭を抱えた。

「アカシもフェストゥーンも届かんぞ……! 追い込み馬でもゴーリーと一緒に動いとくべきだったんだ……」

 向こう正面で早めに位置を上げたリングコンダクターだけが、序盤に後方待機していた馬たちの中で唯一、直線で五番手まで上がってきていて、先行馬たちに食らいつかんとしている。そこから六番手の馬まで、三馬身ほどの差が空いている。

 ゴーリーの手腕でそこまで押し上げたリングコンダクターでさえ、もはや勝利は不可能だ。ナギノシーグラスとシュヴァンだけでも差せるかどうか。頼子は苦笑し、レース後に消沈しているであろう楢崎のために、コーヒーを淹れてやろうと思って立ち上がった。


 ナギノシーグラスが三番手で最後の直線に入ったところで、しのぶはズボンの膝の部分を握りしめた。

 心臓がばくばくしていた。ナギノシーグラスは最後まで後方馬群に飲みこまれることなく、ヤマオロシとサンゴクワールドに徐々に迫っていた。ヤマオロシだって好きだからそちらが勝っても嬉しいけれど、やっぱり本当は、ナギノシーグラスに勝ってほしかった。

 おまけに、ずっとナギノシーグラスの少し後ろにつけていた芦毛馬シュヴァンがじわじわ追い上げてきている。ナギノシーグラスも抵抗していたが、残り二〇〇メートル地点でついにシュヴァンがクビ差前に出た。

「ああ……!」

 我知らず落胆の声が漏れた。ナギノシーグラスは敗れた。前との距離もそれ以上詰まっていかない。ヤマオロシだけでも! のぞみの願いもむなしく、先頭を見ると、ついにヤマオロシはサンゴクワールドに徐々に遅れをとりはじめている。

 しかも、シュヴァンがさらに加速している。ゴールまで残り五〇メートル。芦毛馬は、すでにサンゴクワールドに一馬身離されたヤマオロシをとらえ、サンゴクワールドに並んだ。

 しぶとく伸び続けた最後の数完歩で、シュヴァンはサンゴクワールドから、アタマ差の勝利をもぎとった。

 三着を死守したヤマオロシから少し離れたところで、ナギノシーグラスもリングコンダクターの追撃を退けようとしていた。せめて、せめて、と祈るしのぶの前で、ナギノシーグラスと水野はリングコンダクターとゴーリーをやっとのことで半馬身差振りきり、四着でゴールした。

「負けた……」

 その場でばたりと倒れこんで悔しがるしのぶに、父はまあまあ、と言った。

「ナギノシーグラスはこのメンバーでがんばったほうだと思うぞ。次のレース、たぶん来月のエリザベス女王杯だと思うけど、これは油断できない馬になったと思うな」

「ほんと?」

「ほんと。次が本番で今回は予選みたいなもんだから、あんまり悲観する内容じゃないと思うぞ。同じ牝馬なら、GⅠ馬のフェストゥーンには勝ったわけだし」

「そっかあ」

 競馬中継番組はスタジオを映していて、出演者たちがレースの感想を言い合う時間を映している。しのぶは誰かがナギノシーグラスについてコメントするのを待ったが、特に取り上げる者はいなくて、少しがっかりした。

 テレビを見ながら、しのぶは、ねえ、おとうさん、と呼びかけた。

「わたし、競馬はそのうち飽きるかもしれないけど、ナギノシーグラスはやっぱり好きだな。馬のことを好きなスポーツ選手って言うのは変?」

 父は笑った。

「変じゃないよ。おとうさんも昔、フロムザサミットってダービー馬がすごく好きだったし、好きなスポーツ選手はって聞かれたらこの馬を答えてた」

「今は?」

「今もその馬が好きだな。競馬に飽きるかもっていうけど、好きな馬ができちまうとやめられなくなること多いぞ。二十歳になってもやめられなかったら、賭けすぎには注意しろよ」

 大丈夫だよ、と笑ってから、しのぶはこう聞いた。

「ちなみに、なんでやめられなくなったの?」

「好きな馬の子どもが走るようになったからだよ」

 例えば、と言って、父はテーブルに放り出していた新聞を手に取り、ある馬名を指さした。

「ヤマオロシは、フロムザサミットの産駒だよ」

 へえ、としのぶは声を上げた。

「……ナギノシーグラスの子どももいつか走るかな」

「間違いなく子どもを世に送り出すよ。無事に引退できればだけど」

 なんせ重賞二勝だからな、という答えに、しのぶは嬉しくなった。

 今、ナギノシーグラスを応援して、その子どももいつか応援できる。それは終わらない夢だ。もしナギノシーグラスがこれ以上勝てなくても、その血を継ぐ馬を応援し続けられるのだ。人間だと、なかなかこうはいかない。

「それは飽きてられないね」

 目を輝かせたしのぶに、父が苦笑する。

「まあ競馬はギャンブルだし、お行儀のいい趣味とは思われないぞ。外で好きなスポーツ選手はって聞かれたら、人間の選手を答えたほうがいいと思うなあ……」

「じゃあ水野騎手で」

「マニアックすぎるって。せめて原騎手にしとけ」

 しのぶは口をとがらせたが、父は、さて! と話題を切り替えた。

「おもしろいのはこれからだ。ナギノシーグラス、GⅠではどこまでやれるかな!」

「もちろん、一着でしょ!」

 しのぶが力を込めて言うと、どうかな、と父はにやりと笑った。


 古馬次走報。京都大賞典四着のナギノシーグラスは、水野騎手でエリザベス女王杯へ――。

過去登場回

しのぶ 第6話 兵庫特別

楢崎夫妻 第7話 睦月賞

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