第18話 京都大賞典①
『残り一〇〇メートル抜けたのはリングヴォヤージュ! 四番リングヴォヤージュ! 二番手はマクシミリアン続いて大外からフェストゥーン! 先頭はリングヴォヤージュ、リングヴォヤージュ、先頭でゴールイン!』
画面の向こうは大盛況だ。六月下旬の阪神競馬場、宝塚記念の中継を、小学六年生のしのぶは息をのんで観ていた。
小雨が降り続く天候に馬場状態は重、勝ち馬リングヴォヤージュは栗毛馬で、額からまで太い白斑が延びる派手な顔立ちをしている。顔の白い部分に泥がいくつも跳ねて汚れているが、涼しい目をしてスピードをゆるめ、軽快に歩きだしていた。
「……馬、かっこいいねー……」
詰めていた息と共にそう言うと、横で父が笑った。
「そうだろ」
「で、おとうさんは当てたの?」
そう尋ねると、父はぐっと言葉に詰まった。
「それは聞かないでくれ」
二着のマクシミリアンは前走の大阪杯、三着のフェストゥーンは一昨年のオークス勝ち馬だ。五着に入った天皇賞馬ヤマオロシなど、GⅠ馬が何頭も揃った豪華な宝塚記念だったのだが、勝ったリングヴォヤージュはこれがGⅠ初勝利だった。重賞勝ち鞍やGⅠ連対といった実績はあったが、このメンバーでは、しのぶの父のように本命とまで考えていなかった人間が多数だろう。
ここ二年くらい、しのぶは、気が向いたときに父と一緒に観たり、ちょっと気になる馬が出ているときに応援したりするようになっていた。
ただ、競馬が少し面白いといっても、土曜は塾もあるし、日曜は友達とも遊びたいし、家族で遠出もしたい。そういうわけで毎週楽しみにしているというほどでもなかったが、この春、特に「ちょっと気になる馬」たちが活躍したことで、少し競馬への興味が深まっていた。
ヤマオロシとナギノシーグラス。二年前の兵庫特別で競った二頭。初めてちゃんと観戦したそのレースが予想外に面白くて、競馬に興味を持つきっかけとなったのだ。
ヤマオロシはあの兵庫特別の後、菊花賞に出走し人気薄で三着に食いこみ、四歳になって阪神大賞典で重賞を初めて勝つとその勢いのまま春の天皇賞を制した。その後、その年は京都大賞典、ジャパンカップ、有馬記念に挑戦したが勝ち鞍無し。今年の始動戦となった大阪杯は八着と精彩を欠いたが、叩き二戦目、得意な長距離の天皇賞に出走し、連覇を達成した。
一方のナギノシーグラスはしのぶにとって、最近まで存在感が薄い馬になっていた。テレビで中継するようなレースに毎回出てくるわけでもなく、しばらく忘れていたぐらいだ。ここ半年くらい、競馬番組でときどき姿を見るようになったあたりから、ナギノシーグラスが出ているレースが重賞というものだとわかるようになってきている。そして先々週、マーメイドステークスを制した瞬間を目にすることができた。
二年前、父は、あの二頭を人間でいうと努力型だと例えていた。しのぶも最近は、競馬も才能の大小があること、あの二頭も数多の競走馬の中でここまで勝ち上がっている以上、努力型とだけ言いきることもできないと理解しはじめている。それでも、新馬戦だの二歳三歳重賞だの、そんなときから活躍しもてはやされている馬たちに比べれば、この二頭の競走馬生はコツコツとしたもののように感じられて、どこか親しみやすい。
この宝塚記念もヤマオロシを応援していたから、レースは面白かったけれど、負けたのは残念だった。しのぶは、あーあ、とテレビの前で仰向けになった。
「ヤマオロシ、今度も勝つかと思ったのに」
「おとうさんは、一着はないと思ったな」
「なんで」
「距離が合わないと思ったんだ。馬によって、得意不得意はいろいろあるんだけど、この馬、休み明けと二四〇〇未満のレースはわりとわかりやすく負けてるから」
今年の春初戦の大阪杯八着、そしてこの宝塚記念、五着。それ以外なら馬券圏内を外したことがない。今年も秋の天皇賞は出ないかもな、と父は言う。
六月の間に、ヤマオロシの次走は発表された。父の言うとおり秋の天皇賞ではなかった。京都大賞典、京都右回り二四〇〇メートル。ヤマオロシの得意な舞台だ。
このレースは秋の天皇賞の前哨戦として位置づけられていて、勝ち馬には天皇賞の優先出走権が与えられる。だが、秋初戦にこのレースを選ぶ馬は次走を天皇賞とせず、その次のジャパンカップや、牝馬であればエリザベス女王杯を大目標とするケースが多い。
「ヤマオロシほどの実績馬、前哨戦出なくても秋のGⅠ出られるだろうけどな。へたに好走のリズム崩すよりは、二四〇〇前後のGⅠ実績を確実に手に入れたいのかもな」
「楽しみー。四カ月も空くのは残念だね」
夕食終わり、食器を片づけながらそう父に話しかけていると、普段はあまり口をはさまず、競馬を見る二人を見ているだけの母を苦笑させてしまった。
「やだな~、しのぶが将来ギャンブラーになったら」
「大丈夫だよ、それはないから。だってこれ、スポーツ観戦だし」
しのぶがそう言うと、食卓で携帯電話をいじりだしていた父がどうだか、と笑った。
「まずい遊びを教えてしまったかなあ……」
片付けの手伝いを終えて、二階の自室に戻るとき、背後で両親の会話の続きが聞こえた。
「まあ、ちょっと背伸びしてるだけかもしれないし」
「もうすぐ中学だしなぁ、これから他にも楽しみが……」
しのぶは少しむっとして、そんなことない、と言い返しに戻ろうかと思った。そうしなかったのは、そうかもしれない、と自分でも思ってしまったからだ。
しのぶの学校で、競馬が好きだという同級生なんて他にいない。しのぶは自分を特別なところなどない、普通の子どもだと思っているから、どんな小さなことでも、他の子と違うところ、周りと変わったところがあるのはなんとなく嬉しい。
自分の部屋の机の上に、塾に行き始めたことをきっかけに、今年買い与えられたばかりの携帯電話が置いてある。制限はあるけれど、インターネットも多少は使える。
しのぶは、試しに、といったような気持ちで、ナギノシーグラスの馬名を検索してみた。競馬については父が、来週はあのレースがあるぞ、今週はあの馬が走るぞ、といくらでも教えてくれるから、自分から調べてみたのは初めてだ。
それくらいの関心しかなかったことを、たった今自覚した。
何を調べたいのか自分でもよくわからないまま、一番最初に表示されたURLをタップすると、ナギノシーグラスについて詳しく記されたページが開いた。次走予定のコーナーもすぐに見つかった。
それを目にして、しのぶの胸が躍った。
京都大賞典、と書かれている。ヤマオロシと同じだ。
奇しくも二年前、しのぶに競馬への興味を抱かせた二頭が再戦する。
京都競馬場も二四〇〇メートル以上の距離も実績ある二頭、どちらも重賞馬で、それぞれ、秋に目標とするGⅠがあって。その目標に向けた前哨戦として、両者陣営がこのレースを選ぶのは偶然ではない。だが、まだ競馬のことを詳しく知らないしのぶだからこそ、この再会は、ちょっとした奇跡か何かのように感じられた。
競馬に興味がある、といっても、時間があるときにテレビで競馬を中継していたら観る、くらいの関心だった。四カ月も先のレースをこれほど楽しみに思うのは初めてだ。
宝塚記念から一ヶ月と少し経った八月の初め、楢崎夫妻は東京から札幌競馬場に遠征してきていた。
楢崎が三歳のときから応援しているアカシは、四歳の間二四〇〇メートル前後の条件戦で使われ続けていた。今年の頭の万葉ステークス、ダイヤモンドステークスで立て続けに二着に入ったことから、陣営は長距離レース中心のローテーションで走らせることにしたらしかった。
札幌競馬場、右回り二六〇〇メートル、札幌日経オープン。夏のあいだ、アカシの適鞍といえる距離の重賞はなく、アカシ自身も最後に勝ったレースが一六〇〇万下であることから、休み明けはオープンクラスのここから始動することになったのだ。
休み明けの馬を買うのは好きではないが、あまりにも馬券が当たらないので、楢崎は近ごろ、少し考え方を変えはじめていた。というのは建前で、勝ってほしい馬は休み明けでも、何かと言い訳をしつつ買い目に入れてしまうことを頼子は知っている。
六着に終わった春の天皇賞の後、さして時間を置かず次走が札幌であると決まったときから、楢崎夫妻は今回の北海道旅行を計画していた。それも頼子の主導で。遠出が嫌いではないが自分からなかなか言い出さない夫を、アカシを応援しようという誘い文句で説得して、二泊三日の北海道旅行へ連れ出したのだ。
「おとうさん、今日いっぱい当てて、明日の観光ではおいしいものたくさん買ってね」
「おう、任せとけ」
そんなことを言いながら、楢崎が比較的まじめに予想して買った馬券にもアカシの馬番が入っているし、それとは別に買ったアカシの単勝を、楢崎はしっかり握りしめていた。
「よし! よーし! いい位置だ……!」
向こう正面で、追い込み馬のアカシはスタートから少し下げ、中団より少し後ろの位置、内ラチ沿いに潜んでいる。鞍上は、万葉ステークスからコンビを組む小久保騎手、走り出した馬たちを楢崎が拳を握りしめて見つめ、その楢崎の姿を頼子はにこにこしながら見つめた。
長年連れ添った楢崎という男は相変わらず見栄っ張りな性分で、わざと冷静ぶったり、ぶっきらぼうな態度をしたりところがあるが、その顔を緩ませるのが頼子の楽しみの一つだ。
頼子は競馬に詳しくないが、ここ最近アカシがそれなりに好走していたレースが大きなレースであったことくらいはわかる。次に出る札幌のレースは重賞ではないということを聞いたとき、それでは今度は勝つ可能性があるのではないか、と頼子は思ったのだった。
ここ数年、楢崎が目をつけた二歳馬や三歳馬が順調に勝ち上がることが少なくて、それで競馬自体が面白くなくなることまではないようだったが、自分の見る目のなさを認めがたい様子で悔しそうにしていた。そんななかで、三歳時代を応援していて、条件戦クラスをなかなか脱出できなかったアカシが、五歳になってやっと重賞戦線に乗ってきた。
大器晩成だな! といって調子に乗っている夫を見ると、微笑ましい気持ちになってしまう。
一コーナー、二コーナーを通過した馬たちが観客側、一周目の直線を駆け抜けていく。
三コーナーに向かう馬群を見送りながら、楢崎がこう言った。
「来年も春天を狙うようなら、今度は京都旅行ってのもいいなあ」
あら、と頼子はちょっと目を見開いた。楢崎からこんな提案をしてくるとは珍しい。
「賛成! わたしは競馬抜きでもいいんだけど……」
「競馬無しで遠征する気にはならんなあ……」
「意地悪。どっちにしたって旅行したらいいじゃない」
「どうしても行きたかったら一人で行けばいいだろう」
「そんなこと言って! 一緒に行きたいじゃないの」
頼子がそう言うと、しょうがないな、と口の中でもごもご呟いて、楢崎はコースのほうへ目を向けた。
「ま、ここを勝てるくらいの力があれば、出走はできるとは思うがなあ。というか、アカシを見るなら関東でも見られる。秋はGⅠでもGⅡでも、アカシが出てこられそうな距離の重賞、府中も中山もいくらでもあるぞ」
ああ言えばこう言う。もう、とため息をついた頼子は、ふとあることを思いついた。
「じゃあ、こうしましょ」
そう言いながら、頼子もコースのほうを見た。馬群は二周目の向こう正面に差しかかっている。
「このレースをアカシが勝ったら、来年春の京都旅行は確定。アカシが天皇賞に出ても出なくてもね。どう?」
それには楢崎がしかめっ面で応えて、頼子は噴きだした。このレースももう終盤、そんなタイミングで、アカシの単勝に京都旅行を賭けてみた。なんだかんだといって夫が自分に弱いことを知っているから、そのうち折れるのはわかっているが、さて、どこで頷いてくれるか。
「……わかったよ」
先頭の馬が四コーナーに差しかかったあたりで、楢崎はそう答えた。頼子は、やった、と両手を握りしめた。
「アカシ! がんばって!」
最後の直線を、馬たちが駆け抜けていく。アカシの手ごたえは抜群に良く、コーナーを回りながら大外に持ち出すと一気に追い上げた。
最後には一緒になって声援を上げる楢崎夫妻の視線の先で、アカシは堂々と先頭に立ち、そのままゴール板に飛び込んでいった。
好きな馬で馬券を当てて、楢崎は上機嫌で競馬場を、そして北海道をあとにした。
アカシの次走予定は京都大賞典、小久保とのコンビ継続との報が入ったのは九月に入ってからだった。
他の出走予定馬を調べると、ヤマオロシやフェストゥーンといったGⅠ馬の名前が出てきた。いずれも休み明け実績が悪かったり、勝ち鞍からしばらく遠ざかっていたり、京都大賞典の時点で万全とは言いきれない。これはチャンスがあるぞと、楢崎はひそかににやりとした。