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ターフの上のシーグラス  作者: 石見千沙/ナガトヤ
第三部 重賞戦線編
34/53

第17話 マーメイドステークスⅡ(後編)②

 朝、インターハイ予選に出かけていった孫の弥生はまだ帰らない。今日もたぶん、夕食の時間近くになるだろう。

 時刻は十五時台、テレビでは競馬中継が始まっていた。高山幸彦は、テレビの前であぐらをかき、新聞を広げた。今日のメインは、東はエプソムカップ、西はマーメイドステークスだ。十四頭立てのマーメイドステークスのほうに、好きな馬が出走するから録画しといて、と弥生に頼まれていた。

 息子もその妻も学生時代は文化部で、弥生自身も小学校のときは体育が得意なほうではなかったから、中学、高校と体育会系の部活をやめることなく続けて、全国大会に何度も出場するほどの実力を身につけたのは、いまだに不思議な感じがする。弥生は、なぎなたは体育の成績が案外関係ないと言っていたが、人間の血統は馬の血統以上に不可解だと思った。

 高校生の大会など、一度力関係が決まってしまえばそうそうひっくりかえるものでもないだろうと思っていたが、そうでもないらしい。学年でもずっと二番手に甘んじてきた弥生が、四月、部内予選で優勝したという。同期で一番強かった佃彩莉という子を破って。

「一本勝ちだった。抜けてる瞬間がぱって見えて、考えるより先に打ったメンが入った。引退までに一回くらい部で一番になっときたいってずっと思ってて、今回は気持ちで勝てた感じ。実力自体は、彩莉より強いって感じは全然してないから……」

 あの日、帰ってきた弥生が言ったことだ。

 どうも弥生はそういうところのある選手らしい、と幸彦は、素人ながら自分の孫をそう分析している。全国出場レベルではあってもトップクラスではない、上には上がいるといった実力帯ながら、格上クラスの選手に一本決めたり、勝つところまで行ったり、ときどき実力どおりではない試合をすることがあるタイプ。

 現役中に佃彩莉も勝てたことがなかった、元全国トップクラスの先輩に一本入れた話や、今回の部内予選優勝の話を聞くと、穴馬みたいだな、と思ってしまう。口に出すと、息子あたりに孫を馬に例えるなと怒られそうだから、心の中に留めておくけれど。物事を競馬に例えてしまうのは競馬好きの悪いところだ。

 新聞から顔を上げると、パドック中継の時間となっていた。しばらく待っていると、例の馬が映しだされた。二枠二番ナギノシーグラス、牝五歳、鞍上水野騎手。

 仮にも重賞馬だが、どうにもぱっとしない馬だと思う。牝馬の中では馬格があって、雄大なストライドで走るが、額に小さい星がある以外は鹿毛一色で地味なことこのうえなく、パドックで首を低くするようにして歩く姿を見ると、元気がないのかと思ってしまう。

 前々走の愛知杯で初めて重賞を制覇したものの、前走の中山牝馬ステークスは十着と大敗、レース中に鼻出血を発症していたことが判明していた。そのあたりで今回馬券の取捨に迷っている人間が多いのか、四番人気と微妙なところに落ち着いている。

 一方の一番人気は五枠七番、芦毛のサンドリヨンだ。だいぶ白くなった馬体とつぶらな瞳が愛らしく、二歳三歳から重賞路線で活躍していて、豪華な血統と派手な末脚が人気を集める。クラシックの一つくらい勝ってもおかしくないと思われていたが、体質の弱さで順調にいかなかった。それでも、骨折休養からの復帰後も堅実に走る姿を応援しているファンは多い。

 他にもこのレースには、前走福島牝馬ステークスで好走してきた牝馬重賞の常連や、条件戦を連勝して勢いに乗っている四歳馬などもいるが、今日は息子夫婦が弥生の応援に出かけていることもあって馬券を買っていない幸彦は、ナギノシーグラスとサンドリヨンだけに注目していた。ナギノシーグラスは、弥生が応援しているから、という思い入れがある。サンドリヨンのほうは、ここでうまく勝ち上がることができれば、秋のGⅠ路線に乗り出してくるだろうと期待している。今後の参考になるかもしれないから見ておこうという魂胆だった。

 弥生の大会のほうは、午前中に結果の一部が出ているはずだが、弥生や息子夫婦からの連絡はない。帰ってきてからのお楽しみといったところだろう。幸彦はちょっと気にしていた携帯電話を机の上に放り出した。

 そして、芸能人や引退騎手の予想披露や、何度かのCMを経て、マーメイドステークスの時間はやってきた。GⅠでもないからゲートの中継はあっさりしている。嫌がる馬もなく、全頭おとなしく位置についた。

「スタートしました!」

 ややばらついたスタートだった。右回りのコース、外枠の馬がぐいぐい前に出てハナを奪い、三馬身ほど離して逃げていく。ナギノシーグラスは三番手最内につけていた。前走と似たような位置取り、今回も積極策で行くらしい。

 サンドリヨンの白っぽい馬体は後方から四番目くらいの位置にいる。内に一頭馬を置いて、騎手が手綱をおさえている。二歳三歳時代など最後方にいることも珍しくなかったこの馬にしては、攻めていると思うくらいだ。果たしてあの位置からなら末脚は届くか、スタミナは持つか。

 二コーナーを曲がるまでに逃げ馬と二番手の馬の間がじわりと詰まったが、それ以外は大きな変化もない。逃げ馬はまだペースを守っている。

 そんな中、真っ先に動きを見せたのがナギノシーグラスで、幸彦は少し驚いた。

 三角に向かいながら、水野騎手の手が馬首を押し、じわりと位置を上げる。残り八〇〇メートル、ぐいぐいと馬首を押されながら、ナギノシーグラスは三コーナーに入る直前でもう先頭に立ってしまった。

「早いな……」

 幸彦はうなった。先行馬にしても早仕掛けだと感じる。先頭を譲らないまま四コーナーを回りきり、いよいよ直線へ。残り四〇〇メートル、すでに鞭が入り、ナギノシーグラスも応えてめいっぱい首を前に伸ばし、スパートをかけている。

 三角から直線入り口までに、逃げ馬と先行勢の二、三頭がナギノシーグラスにつられてペースを上げ、馬群の前半分がやや縦長にばらついていた。

 ハナを奪いかえそうとした逃げ馬はすぐに失速した。その後すぐにナギノシーグラスの後ろについていた栗毛馬が急加速して迫ったが、ナギノシーグラスがハナ差リードを許したのはたった一瞬のことで、すぐに差しかえした。その脚はそのまま止まらない。これはたいした根性、たいしたスタミナだと幸彦は舌を巻いた。

 あとはもうゴールを目指すだけ、残り二百メートル、一完歩ごとに着実に栗毛馬を置いていくナギノシーグラスの姿を追っていられたのはわずかな時間だった。大外を白い矢のように飛んできたサンドリヨンに、幸彦はすぐに目を奪われた。

 猛追だった。直線でごちゃついていた七頭、八頭、見る見るうちにごぼう抜きして、たった数秒で一〇〇メートルの距離を詰めてきた。

 どうにか先行勢と中団勢をおさえきったナギノシーグラスの背で、水野騎手が必死に鞭をふるっている。ナギノシーグラスも止まらないがサンドリヨンもついに追いついた。半馬身差、クビ差、アタマ差――。


 あと一秒、どちらかの仕掛けのタイミングが違っていたら。

 あと一ハロン、距離が違っていたら。

 最終的なハナ差という結果は、その程度の差だろう。

 確定にはやや時間を要したが、写真判定に持ちこむほどではなかった。

 かなり早い段階で賭けに出た水野騎手と、それに応えて後続を振りきったナギノシーグラスの勝ちだった。


 家に着くとすぐに夕食の時間だった。食卓についてまず、マーメイドステークスの結果を祖父から教えられて、弥生はやった、と声を上げた。

「あとで録画観よ。あの馬これでGⅠ出られるの?」

「先におまえの話をせんかい」

 祖父にそう言われて、そうだね、と弥生は笑った。

「まず、演技は優勝」

「そりゃ安定だな。たいしたもんだ」

「うん。団体も優勝したよ。うちが全校倒した。わたしが桜井倒したんだ」

 試合を見ていた母が、そうそう、と口をはさむ。

「あの一本決めたとき、向こうからもこっちからも悲鳴が上がったよね。桜井さんがやられるなんて!」

「いや、もうだめかと思ったんだよ。あと一分かな、もうこれ以上は無理だあとは防戦、って死ぬ気で守ってるときに、足滑らせちゃってさ」

 それで、と幸彦が箸を手にしたまま先を急かす。父が笑い、弥生と母は顔を見合わせた。

「跳んだよね」

「跳んだね。外から見てたら大縄跳びかと」

 あのとき弥生は、ほとんど無意識のうちに床を蹴り、スネに飛んできた切っ先を跳び越えて避けたのだ。空振りしたなぎなたを桜井が持ちなおす一瞬の隙に残心して命拾いした。残る数十秒は恥も外聞も捨てて避け続け、受けきった。崖っぷちで桜井をおさえこみ、つかみとった一本勝ちだった。

 でも、と弥生は続けた。

「個人ではやられたね。準決勝でまた桜井と当たったんだけど、もう、こてんぱんにやり返された」

「開始二分以内で二本取られて負けたよね」

「結局、それが実力なんだよね。個人は桜井が優勝で彩莉が二位。わたしは三位。個人はインハイ出場権取られちゃった。二人とも一度は勝てたけど、最後まで追い越せなかったな」

 そこまで話してやっと、弥生は夕食を食べはじめた。

 追い越せなかった、としみじみ言いながらも、弥生の心の中は晴ればれしていた。

 役目は果たしたし、全力を出し尽くした。インハイと、あとは国体、それが最後になる。

 あとはどこまで登りつめられるか。

 全国に出ることではなく、全国で優勝すること。それこそが目標だといくら口で言っても、今までは、その頂が見えてもいない状態だったのだと、弥生はついに理解していた。

 雲も霧も消え去ったような思いだった。引退まで残りわずかな今になって、頂点にたどり着くための歩みに、やっと一歩踏みだせたのだ。

過去の高山弥生登場回

第8話 1000万下Ⅰ

第15話 GⅢ

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