第17話 マーメイドステークスⅡ(後編)①
ナギノシーグラスの次走が明らかになってから少しして、弥生は祖父にこう尋ねていた。
「じいちゃん、ナギノシーグラスさ、GⅠ勝てると思う?」
「わからんなあ。怪我だの、鼻血だの、そんなのの後にガクッと調子落として、二度と勝てなくなる馬はいくらでもいるからな」
とりあえず、と祖父は腕組みした。
「次の、マーメイドステークスの結果次第だろうなあ。牝馬しかおらんハンデ重賞でこける五歳牝馬が、一番でかいレースでどうにかなる可能性は低いだろ」
そう言われて、細かいルールのほとんどをまだわかっていない弥生も、ナギノシーグラスが次の戦いで好走しなければ、GⅠどころでないらしいということぐらいは理解した。
それは弥生も似たような状況だった。ただ一頭まともに名前を記憶しているその競走馬に、また親近感が増した。
弥生ももう高三、今年のインターハイと国体が、最後の全国出場のチャンスとなる。
弥生の実力でいえば、出場はできるだろう。少なくとも演技だけは、間違いなく。一年上が引退して以降、彩莉とのコンビで県大会一位の座を保っている。
でも、目標は全国大会で勝つことだ。今度こそ個人と団体の部だって出場したい。夏の全国で勝ちたければ、その前の段階で負けることなど考えられない。
インターハイまでに制しなければならない戦いは二つ、団体戦のメンバーを決める部内予選と、国体にもつながる県予選、春季大会だった。
ゴールデンウィーク直前の日曜日、午前中の体育館はなぎなた部が使用していた。
いつになく厳粛な空気、コートが二つ用意されて、審判係の指導者資格とOGがそれぞれ三人ずつ立っている。部員が入れ替わり立ち替わり試合をしていく。通常の稽古ではないが他校生がいる試合というわけでもなく、ネットを隔てた隣半分を使用する女子バスケットボール部の部員たちが、ときおり興味深そうにその様子に目をやる。
インターハイとその県予選に向けた、部内予選が始まっていた。
弥生たち三年生にとっては、最後の部内戦。
「赤、高山選手!」
「はい!」
「白、佃選手!」
「はい!」
選手委員の役割を務める中等部部員が選手名を呼び、二人は礼を交わし、静かに中段に構えた。防具越しに目が合う。
高山弥生と佃彩莉、自他共に、現在この学校の中では一、二の実力だと認識している。今までの部内戦成績からすると、彩莉のほうがわずかにリードしているだろう。
三月の全国選抜大会では、彩莉と直接対峙することはなかったが、個人戦で初めて逆転した。弥生がベスト八、彩莉がベスト十六。優勝したのは同県最強の他校同級生、桜井選手。彼女の強さはますます磨かれ、不動のものになっていくが、それでも、近づいている、という確信は抱いていた。
だから、今日は彩莉に勝つ。
「はじめ!」
審判の構えた旗が空を切り、弥生と彩莉は同時に構え、踏み込んだ。
ホイッスルの鋭い音に応えて上がる五本の旗、赤が一本、白が四本。
六月の春季大会、演技の部の決勝戦は白の勝利に終わった。弥生と彩莉の優勝だった。
時刻はまだ十一時頃、午前はこれで終わらない。仲間たちにかわるがわる袴の背板を叩かれ、控えめにおめでとう、を言われながら、団体戦の準備をすぐに開始した。弥生と彩莉は他の団体戦メンバーである同期の村井、二年の辻村と富岡、補欠の小松原と共に防具をつけ始めた。
先鋒富岡、次鋒村井、中堅佃、副将辻村、大将高山。今回の采配だ。同県内には全部で六校あるが、弥生たちが見据えているのは今回もあの怪物級選手、桜井のチームだった。中堅に大久保、大将に桜井、想定通り、これまでと同じような配置。
大久保は中学から始めている実力者とはいえ、怪物というほどではない。だから彩莉が相手をする。こちらで実力トップの彩莉が高校スタート組を相手にして確実に二本で仕留め、大久保には部内予選三位以下の誰かを守備役に当てる計画もあったが、最終的にこの形で決定した。大久保からも一本は取る。富岡、辻村、村井が、取れるところで取る、というポジションを担うことになる。
そして、大将戦を弥生が引き受ける。回数でいえば、これまでで一番桜井を相手にしてきて、守備力でいえば彩莉よりも優れた弥生が、今回も徹底防戦を想定して臨む。
簡単にいくとは思っていない。高校から始めたあとの三人ももう三年目、一昨年、去年と比べれば格段に上達していて侮れない。彼らはスタートさえ中学から始めているこちらに遅れているものの、日々稽古で相手にしているのは全国トップの桜井、実力も守備力もめきめきと上げてきているだろう。
万が一、副将戦までに誰も一本も取れなかったら、桜井相手といえど、弥生も本数を取りに行く試合をするしかない。
そんな試合をして桜井に勝てたことなど、一度もない。
面を着け終わって、ぶるっと身を震わせた弥生に、彩莉が「インハイ行くよ」と声をかけてきた。
「インハイに出る団体はわたしたちだよ」
弥生は彩莉の袴の背板を、小手をはめた手でぽんとたたいて応じた。
「当然」
最初の試合は弥生のチームと、また別の高校だ。先にやるのいやだな、観察されてしまうな、と思いながら、弥生は桜井のチームが控えているほうをちらりと見た。
防具を隔てて桜井の顔は見えなかったが、あの澄んだ、静けささえまとった瞳で、準備が整いつつあるコートに視線を注いでいるのはわかった。
団体戦は粛々と進み、桜井のチームと当たるまでに弥生たちは二勝、桜井たちも二勝、あっという間に対峙する時は来た。赤が弥生たち、白が桜井たち。
審判の合図にしたがって、チームで一礼、先鋒をコートに残してあとの八人が退く。先鋒の二人が礼を交わし、中段に構える。
「はじめ!」
はじまった。
ファイト、いいとこ、弥生はいつも通り声に出して応援しながら、吐き気も共に胃の腑から追い出そうとした。
大将ポジションに落ち着いてから、もうずいぶん経つ。弥生の前に大将をよく担っていた、先輩の田代との会話が蘇った。
「大将はマイペースがやるのがいいんだ。先鋒次鋒は最初に試合するから、試合の流れをこっちに引きこまなきゃいけなくて、自分からガンガン攻める子がいいけど。大将は、副将までの結果次第とそのときの相手次第でやることが変わるじゃん。攻めるか守るか。だからどんな流れになっても、自分の試合をマイペースにできる子がいいんだよね」
「田代先輩、マイペースですか?」
「マイペースかなあ。帳尻合わせちゃう感じの。……あ、夏休みの宿題とか溜めちゃって、最後の何日かで一気にやって、それでも絶対間に合わせるタイプ。そういうのが大将に向いてる」
そんなことを言われて、笑ってしまったことを覚えている。
「それ、わたしもです」
じゃあやっぱり高山が大将だ。そう言って笑いかえした田代の声を思い出しながら、弥生は少し軽くなった胸を上下させて、深呼吸した。
だが、その後の試合の流れは最悪だった。
富岡、村井が一本も取れないまま、先鋒、次鋒は終了。相手の二人の守りは想定以上に強固で、富岡と村井がいくら激しく攻めても、まともな隙を見せなかった。
中堅の彩莉も同じだった。三人いる審判のうち、一人の審判の旗が上がりかけた場面もあったが、あとの二人が手元で旗を振って一本にならないことを示し、決まらなかった。彩莉はそのまま一本も決められず、いたずらに三分間動き回って戻ってきた。
大久保までが徹底防戦で立ち回ったのは意外だった。序盤は比較的攻めていたのに、彩莉が一本決めそうになったのはそのあいだだけで、それ以降、大久保はもう自分から仕掛けることをやめたのだ。
肩で息をしながら、彩莉は弥生の隣に戻ってきた。もう副将戦、辻村が相手と中段の構えに入っている。
「ごめん」
彩莉が小さくそう言った。弥生は首を横に振って、彩莉の背中をひとつ叩いた。
やることは結局、変わらない。これで辻村が一本も取れなかったらもう、誰が相手だろうが、弥生が取りに行くしかないのだ。
「……攻めるね」
彩莉が、うん、と呟いた。相手の副将ががちがちに守りを固めている様子を見ながら、弥生は心を決めていた。演技はともかく、もともと、試合で緊張することはあまりない。防具を着けてしまえば、外界はどこか遠い場所になる。
辻村が一本も決められないまま二分半が経過したころ、弥生はほとんど開き直っていた。これはもうだめだ。自分が桜井を仕留めるしかない。
残る三十秒間はまるで一瞬のようだった。悄然とコートを退いてきた辻村が、弱々しく弥生の背中をたたいていった。そんなんじゃ気合が入らないじゃない、と心の中で苦笑しながら、弥生は開始戦で桜井と対峙し、桜井と礼を交わし、中段の構えになった。
「……はじめ!」
主審の旗が空を切った瞬間、弥生は八相に構え、メン、スネ、と連打で仕掛けた。軽くいなされる。弥生の引き際に鋭い出ばなメンが伸びてきたが予想の範疇、切っ先で叩き落として、再び間合いを取った。
どう出ればいいのだろう。考えている間に今度は相手が仕掛けてきた。下がるのも受けるのも間に合わないほどのスピードで、弥生は慌てて前に出た。相手が繰り出したスネ打ちは、千段巻きのあたりで弥生の膝近くをとらえた。一本になるのは刃先十五センチ、深打ちは一本にならない。接近状態で柄と柄を合わせて、防具と防具の面が当たりそうな距離でせめぎあう。防具の内側に桜井の目が見えた。静けさと獰猛さが光っていた。猛禽類のようだ。
弾き合うように下がりながら、弥生はスネ打ち、桜井はメン打ちを放った。同時打ち、両者一本にならず。コートの外から仲間たちがナイス! と叫ぶ。悲鳴のように聞こえた。
今まで経験してきた試合が弥生の頭をよぎる。彩莉、大久保、成田先輩。そこからガツガツと攻めてみた。桜井はこちらを冷静に観察している。連打の嵐を仕掛ける中で、それなりにまともに反撃のメンを食らった。危ない、とっさに頭を下げて打突箇所をずらしたが、審判が一人桜井側に旗を上げかけた。視界の端であとの二人が旗を振って今の打突が有効でないことを示す。
そこでいったん間合いを取った。成田に勝ったときのように、現役の桜井を消耗させるのは不可能だとすぐに理解した。下がったときや後ろ側のスネを狙うのも無理、桜井はただ距離をとるだけの下がり方はしないし、いかなるときも体が開ききっていてどこにも隙などない。
であれば、単純明快に、構えからの一本を狙う。
「一本集中!」
彩莉の声援が聞こえた。他校自校、応援に来た家族、あらゆる声が飛びかう中でも、その彩莉の声だけははっきり聞き分けられた。
了解、と心の中で応じながら、再び弥生と桜井は激しく打ち合った。まだ二分も経っていないだろう、引き分けになど持ちこんではいけない、絶対にここで白黒つけてやる。
時間がある、時間がない、どちらともつかない感情の中で、弥生は連打、残心、連打、残心をくり返した。桜井から仕掛けることもあったが、どちらかといえば弥生のほうががむしゃらだった。どちらも肩で息をしていた。
徐々に桜井のリズムが見えてきていた。見えてきていることに、弥生は気がついていなかった。
視線、切っ先、爪先、防具の揺れ、たぶんそのうちのどれか。桜井のリズムのほんのわずかなずれ、コンマ何秒レベルのごくごく微細な前兆を、弥生の中の何かが、あ、来る、と察知した。
思った瞬間、八相に構えていた。相手もほぼ同時に八相の構え、防具の奥の視線がわずかに下を向いていたから、スネ狙いだということ思考の片隅で理解したが、わかったところでもう弥生も動きだしていたから関係ない。相手の変化を本能で受容して思考より早く動いたほんの数瞬分だけ、弥生のメン打ちのほうが早かった、と思う。
「メン!」
「スネ!」
手ごたえを感じつつ、自分が前に出したスネにも小気味よい打突の感触があった。残心しながら、これは同時打ちだと歯がみした。落胆した。だが、視界の端で主審が赤い旗を掲げていて、副審二人がいる側から旗を振る音が聴こえてこないのに気づいて胸が躍った。
目だけ動かして、見える範囲にいるもう一人の副審が白を上げているのが見えて、血の気が引いた。
あと一人は、どっちだ。
主審の合図に従って開始線に戻り、再び切っ先を合わせる。
「メンあり!」
主審が再び挙げたのは赤い旗だった。
決まった。一本。あの桜井相手に。二度、三度、唾を飲んで、弥生は驚愕と動揺を押し殺した。
「はじめ!」
そのとき、生まれて初めて、殺気というものを感じたと思った。
後方から自校チームが口々にナイスと叫び、小手をつけた手で拍手する音声がかすれたように聞こえる。
防具で隔てているのに桜井の目がらんらんと光るように見えて、さして大柄でもない体躯はぐっとふくれ上がって見えた。
背筋がざわつき鳥肌が立った。本物の凶器を持った相手を前にしているような、明確な恐怖に足がすくんだ。
今度は桜井のほうから仕掛けてきた。二分近く動き続けて、少しの疲れも鈍さも感じさせないスピードと無駄のなさで弥生を攻めたてる。
桜井の打ちを必死に柄で受け続け、かわしているうちに、弥生もすぐに気持ちを立て直した。おおげさでなく、殺されてたまるか、ぐらいの思いがわき上がってきていた。
さっきの一本は奇跡なのかもしれない。実力でいえば桜井よりもずっと弱いのは間違いない。
それがなんだ。奇跡、偶然、上等だ、ここは団体戦だ。ただ一本、相手チームより多ければ確固たる勝ちなのだ。
ここからは徹底防戦。絶対に取り返させはしない。
「ラスト一分です!」
ああ、ストップウォッチを持っているのは辻村か。祈るような声が耳を打つ。あと六十秒だと安堵しながらまだ六十秒もあるのかと戦慄し、必死の思いで防ぐ、避ける。
心身共にへとへとになりながら何度目かの残心をしたとき、後足がわずかに滑り、体勢を整えるのが遅れた。
桜井はそれを見逃さなかった。あっと思ったときには襲いかかってきていた。容赦ないスピードで切っ先が飛んでくる。スネに狙いを定めている。