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ターフの上のシーグラス  作者: 石見千沙/ナガトヤ
第三部 重賞戦線編
32/53

第16話 マーメイドステークスⅡ(前編)②

 ギターに使うはずだった十万円をぞんざいに鞄に突っこんで、大学時代の馬好きの友人に声をかけ、東京競馬場へ連れていってもらったのが二年前の十月の日曜日、アルテミスステークスというレースの日のことだった。

「GⅠは混みまくるから初心者向けじゃないし、今日はこれから活躍する中学生みたいな若い馬が走るから、チェックしとくと後が楽しみだし!」

 うきうきと語る友人、理香子の言葉を、全部はちゃんと聞いていなかった。あの日の望の目的は、楽しむことでもなければ、儲けることでもなかった。

 賭けるという経験、それだけを目当てに、望は競馬場という場所に足を踏みいれた。

 最初の何レースかは理香子が賭ける手順を眺めるだけで、自分は何も賭けずぼんやりと観戦するだけでやり過ごした。理香子は何度か、百円だけ賭けてみたら、とすすめてきたが、たった百円だけでは意味がないと思いながら、そのときは断った。理香子は、望がギャンブルには興味がないらしいと思ったようで、その後は強いてすすめることはせず、アルテミスステークスの出走馬がパドックに入ってくるころには、レースや競走馬の面白さだけを語ってくれるようになっていた。

 そのレースでただ一頭の芦毛馬だったサンドリヨンは、そのときの望の目には際立って目立って見えた。それも悪い意味で。陽射しを浴びてつやつやと輝く鹿毛や栗毛や青鹿毛の馬たちのあいだにあって、今よりも濃くてまだらな灰色をしていたサンドリヨンの馬体は、やぼったく、薄汚れているようにさえ見えた。それなのに一番人気だというのだ。

「あの馬、ほんとに強いの? なんか煤けた感じだね……」

 望がそう言うと、理香子は、前走強かったんだよ、と説明してくれた。

「派手な追い込みで、二着を何馬身も離してデビュー勝ちしたんだ。お父さんも有名なダービー馬でね。あの馬は出世するよ、注目しとくと面白いよ」

 そこまで聞いたとき、ちょうどサンドリヨンが二人のいるあたりを通りかかった。この馬が……と思いながらまじまじ観察していた望のほうへ、その馬は顔を向けた。目が合った。興味深そうな、こちらを観察するような瞳は黒くつぶらで、吸いこまれそうに澄んでいた。

 それはたった数秒のことだったが、グレーの毛並みの中で輝く黒い瞳は、くっきりと望の心に残り、その馬の印象は一変した。

「……賢そう。かわいいね」

「うん、芦毛ってかわいいの多いんだよ」

「わたし、あの馬に十万賭ける」

 は? と理香子は声を上げた。

 そのあとは彼女の制止をいっさい聞き入れず、望はサンドリヨンの単勝に十万円突っこんだ。いつも飄々としているタイプの理香子が真っ青になっている目の前で、望は生まれて初めて購入した馬券を満足げに眺めていた。

「わたし、賭け事って一度もやったことなかったんだ。一回くらい、でかい賭けに出てみればよかったなって、最近思って」

 そう言って笑う望に対し、理香子は言葉を失うばかりだった。

そのあとはそれまでと同じように二人並んでレース観戦をしたが、常識レベルの声援を送る望の横で、それまで無邪気に勝った負けた、当たった外れたを楽しんでいた理香子が、血相を変えて「差せー!」だの「うわあゴーリー! ゴーリー行けぇ!」だの、絶叫していたのがおかしかった。

結果として、サンドリヨンは勝利した。単勝オッズは二・二倍、ギターを買うはずだった十万円は二十二万円になって返ってきた。

「一番人気だからまだ良かったものの……!」

 レース後、理香子は涙目で苦情を言ってきた。

「こっちが死ぬかと思った! 気が気じゃなかったから! 初めて競馬連れてった友達がこんなことして、わたしのせいで変なはまり方したらどうしようかと思ったわ!」

 望が神妙な面持ちで、ごめん、と言うと、理香子はやっと落ち着いて、何かあったの? と尋ねてくれた。

「のんちゃんらしくない。なんか……やけになってる感じ」

「うん、そうだよ。わたし、やけになってるんだ」

 彼女だって大学時代からの付き合いだから、望が当時組んでいたバンドを解散したことは知っている。その日は翌日が仕事だというのに、二人遅くまで飲み明かして、いろいろなことを聞いてもらった。朝起きるとひどい二日酔いで、会社には体調不良といって有給休暇を取ってやった。

 二日酔いがおさまってすぐ、その日のうちに楽器店にギターを買いに行った。昨日競馬で儲けたお金をそのまま持っていって、最初予定していたものよりも高くて気に入ったギターを即決で購入した。

 あの日、それまで過ごしてきた二十数年ぶんの悪いことをやったような気がする。自暴自棄になって賭け事に手を出した瞬間から、何もかもが再び動き出したのだ。

 まだ再び新しくバンドメンバーを募集したり、人前で曲を披露したりする気にまではなれない。それでも毎日、リハビリのようにギターに触るようになった。演奏することが楽しいと思えるようになった。

 競馬場に連れて行ってくれた理香子とは、学生時代のとき以上に仲良くなり、それまで以上に定期的にやり取りをしたり、飲みに行ったりするようになっている。

 それがどれだけ気持ちを明るくしてくれたか、彼女も知らないだろう。あの出来事でよほど肝を冷やされたらしく、しばらく競馬場に連れて行ってくれることはなかったが、そのうち望が自分一人でも競馬場に通うようになってからは、観念したように一緒に出掛けるようにもなった。

 最初は競馬そのものより、サンドリヨンという馬を見続けたい気持ちからだったが、今では一つの趣味として望の生活になじんでいる。

 その後望は東京で、サンドリヨンが二着、三着に終わったフローラステークス、オークスを見届けて、自ら希望して関西へ転勤した。

 気持ちが前向きになってきたとはいえ、何かが劇的に変わったわけではない。ともすればすぐに停滞しそうな単調な日々の中で、好転のきっかけになったサンドリヨンという馬が骨折のため休養を発表した。それで縁起が悪いような感じがしたこともあって、生活そのものを変える決意をかためたのだ。

 すぐに通らなかった異動希望も、年度が変わってやっと聞き届けられて、望は、今こうして仁川の地に立っている。

 それなのに、自分のあり方を少し変える足がかりをくれた馬が、同じ相手に負け続けるところを見るのは、ただただ悔しかった。


 キクセンレジーナ、サンドリヨンと同期の樫の女王。またもサンドリヨンをねじふせたこの牝馬は、このままヴィクトリアマイルに向かう。

 そして、サンドリヨンは春GⅠへの挑戦を断念することが発表された。マイルは合わないだろうと、エリザベス女王杯を第一目標に、まだしばらく実績を積み重ねることを陣営は選択した。

 次走はマーメイドステークス。次もまた、サンドリヨンを破った馬が立ちはだかる。

 五歳牝馬、ナギノシーグラスが勝った愛知杯を、望は忘れていない。ようやくターフに戻ってきたサンドリヨンの、あの鮮やかな末脚を、あの馬はしぶとくおさえこんでみせた。

 今度こそ、またしても、を吹き飛ばしてほしい。望は強く祈った。似たような落胆を重ねるのは、自分の人生だけでたくさんだ。

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